邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

・やってはならない行程読み

2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件
●やってはならない行程読み「順次読み」
 不弥国から投馬国まで水行二十日、投馬国から水行十日と陸行一月で邪馬台国。
 これが『倭人伝』の行程説明を順次読みする典型例なのだが、まさに、私が滅茶苦茶だと酷評する『梁書』の倭伝とまったく同じ読みである。
 先に提示した『倭人伝』の文章構成分析図を、もう一度みていただきたい。たて線で分割したブロックはそれぞれに説明手順が異なる。これを漫然と続け読みしてはただの棒読みである。
 順次読みでいけば、不弥国までは日程不明のまま、行程・方角・距離の説明だけで来たことになる。『倭人伝』が「帯方郡から邪馬台国までの総距離1万2000余里」と説明した時点で、帯方郡から不弥国までの1万700里を差し引けば、残りが1300里だということは誰にも分る。
 だが、不弥国の南にあるという投馬国までは水行20日、そこから邪馬台国までは水行10日と陸行1月で、今度は方角・行程・日程だけになり、それまで執拗に展開してきた距離説明が欠けたままという理屈になる。しかも、その1300里に、合計で水行30日と陸行1月という日数をかける計算になる。

 さらには、帯方郡から邪馬台国までの総距離1万2000余里は明記してあるが、「帯方郡から邪馬台国までの全行程と全日程はどうしたのか」という疑問が持ち上がる。それこそ水行10日陸行1月にほかならないのだが、この読みでは投馬国から邪馬台国までの日数に消費してしまう。結果として、帯方郡から邪馬台国まで1万2000里もの距離に要する全行程と全日程が不明のままになってしまう。
 皇帝の詔書と金印を携えて、国家規模の思惑がらみの任務を負って派遣された役人たちが、重要な地理調査においてその国の首都(王都)に至る方角・距離・行程手段・所用日数を疎かにしては、「いったい何を調査してきたのか」となる。これに基づいて記録する歴史編纂者としても、かんじんの部分が不明では説明記録の用をなさない。


●順次読みの不条理と問題の摘出
 「不弥国から投馬国まで水行二十日、投馬国から水行十日と陸行一月で邪馬台国」。
 これが『倭人伝』の行程説明を順次読みする典型例なのだが、まさに、私が滅茶苦茶だと酷評する『梁書』倭伝とまったく同じレベルの読みである。
 ここは、遠慮を抜きに辛辣にいわせてもらおう。この「順次読み」と称する読み方は、文章の基本要素たる起承転結を無視した、ただの棒読みである。テンポとリズムと変化をとり入れて起承転結で書かれた文章を、帯方郡から邪馬台国に至るまで漫然と棒読みすること自体、邪馬台国研究の最大の不幸だったといわざるを得ない。
 もう一度図をみていただきたい。横線で分割したブロックはそれぞれに語順が異なる。こうして見たとき、棒読み・順次読みが正しいという人はもはやいないだろう。大変重要なところだから、もう一度『倭人伝』の行程説明文の構成と文法の変化を確認する。

●『倭人伝』の行程説明文の構成と文法の変化


①対海国から伊都国までは「方角・行程・距離・国名」となっており、通しで順次読みできる。
②伊都国から奴国と不弥国へは、それまでの「距離・国名」の順序が逆転して、「国名・距離」になっている。(若干の文法変化がみられる)。
③投馬国と邪馬台国のブロックについては、「方角・国名・行程・距離記載なし」で、明らかに文法が一変している。
 誰しも、起承転結構文の転じた部分だと分かる。この文章構成の変化を前にしたとき、いわゆる順次読みがただの棒読みであることは明白である。ただの棒読みである証拠に、順次読みにはそちこちに不条理が噴出する。
 たとえば、不弥国までは日程不明のまま、行程・方角・距離の説明だけで来たことになる。『倭人伝』が「帯方郡から邪馬台国までの総距離1万2000余里」と説明した時点で、帯方郡から不弥国までの1万700里を差し引けば、残りが1300里だということは誰にも分る。だが、不弥国の南にあるという投馬国までは水行20日、そこから邪馬台国までは水行10日と陸行1月で、今度は方角・行程・日程だけになり、それまで執拗に展開してきた距離説明が不明のままという理屈になる。
 しかも従来のこの種の読みでは、(『倭人伝』に使われている距離数値は魏の公式尺度の約6分の1でしかないのだが)、魏の公式尺度の1300里に、合計で水行30日と陸行1月という途方もない日数をかける計算になる。

 さらには、帯方郡から邪馬台国までの総距離1万2000余里は明記してあるが、「帯方郡から邪馬台国までの全行程と全日程はどうしたのか」という疑問が持ち上がる。それこそ水行10日陸行1月にほかならないのだが、この読みでは投馬国から邪馬台国までの日数に消費してしまう。結果として、帯方郡から邪馬台国まで1万2000里もの距離に要する行程と日程が部分的に不明になってしまう。また、1万2000里のうち水行10日陸行1月で進む距離も不明になる。

・狗邪韓国まで、乍南乍東で7000余里   (日程不明)
・末盧国まで、南へ渡海1000余里ずつ   (日程不明)
・伊都国まで、東南へ陸行500里       (日程不明)
・奴国まで、東南に水陸兼用で100里   (日程不明)
・不弥国まで、東に水陸兼用で100里     (日程不明)
・投馬国まで、南に水行二十日       (距離不明)
・邪馬壹国まで、南に水行十日陸行一月   (距離不明)
 ※「なぜ距離表記が突然日程表記に変ったのか」という疑問が当然生じるのだが、こうした疑問や文法変化の必然性について、古文の文法の面から回答できた人は現在まで一人もいない。

①水行の1000余里は1日航海の表記法で1万余里=水行10日。
②末盧国まで不明だった水行日程が10日であることは自明の理である。
③郡から女王国に至る全距離は1万二千余里だから、残りの距離が2000里であることが判明する。
④同時に、これが陸行一月で進む距離であることが判明する。
 このように、行程説明文を「郡から女王国に至る1万二千余里」で結ぶことで、 邪馬台国に至るまでの「方角・行程手段・日程・距離」が、 最後の最後にすべて出揃うように書いてある。 
「水行十日陸行一月で邪馬台国」……これが、 (正確な距離測定が不可能で、1日航海を1000里単位で表記した海路の1万余里を含む) 合計1万2000余里である。


 皇帝の詔書と金印を携えて、国家規模の思惑がらみの任務を負って派遣された役人たちが、訪問国の首都(王都)に至る方角・行程手段・日程・距離を疎かにしては、「いったい何を調査してきたのか」となる。これに基づいて記録する歴史編纂者としても、かんじんの部分が不明では説明記録の用をなさない。何よりも、東夷諸国の中で倭地に限って王都に至る行程を詳しく書いた意図を満たさないし意味をなさない。
 先にも述べたが、使節団というものは自国の誇りを誇示することも使命の一つとしている。当時の魏の船舶事情をみれば、公孫氏討伐の前に大きな海船を四郡に建造させているし、現実に軍隊を乗せて楽浪・帯方二郡を帰順させている。朝鮮半島沿岸航行と幾つかの渡海を前提に倭国へ向かう使節団は、最新の楼船で帯方郡を出港しているはずであり、先進性と国力を誇示するためにも、自前の船で王都の最寄りの港まで行くのが常道・常識である。
 しかるに、国の威信を背負った最新鋭の船を末盧の港で乗り捨て、不可解にも港から港へ陸行した先の不弥国の港で小規模の倭船を拝借して分乗し、そこから合計30日間の水行と30日間の陸行をして王都へ向かったとは、歴史の現実からまったく遊離している。


●順次読みで進む説の不条理
・帯方郡から不弥国までは終始、距離・方角・行程手段のみで所用日数が不明。
・帯方郡から邪馬台国までの日程が不明。
・末盧国から伊都国、奴国までは東南とあるのを東へ進み、不弥国へ東行とあるのを東へ進む。
・帯方郡から不弥国までの1万700里を差し引いた残りの1300里を、投馬までの水行20日を含む「水行30日」と陸行1月という途方もない日数をかけて邪馬台国に到着する計算になる。
・不弥国~投馬国間の水行20日と、投馬国~邪馬台国間の水行10日陸行1月で進む距離が不明である。
・不弥国から水行30日と陸行30日で邪馬台国という理屈だが、この水行・陸行60日間という長い期間には当然、色んな港湾諸国や内陸諸国に立ち寄っているはずだが、投馬国以外は紹介されていない。
・行程説明から「女王国以北については戸数道里を略載できるが……」へと続け読みする手法でいえば、不弥国から投馬国までの道里も略載されていなければならない。だがこれも略載されていない。


●順次読みで畿内へ向かう場合の不条理
・末盧国以降の方角については、何と書いてあろうが東へ向かうことになる。
・「女王国以北」も「女王国以西」に置き換えることになる。
 ※大阪湾から筑紫までの古代における平均航海日数は10日前後だった。(江戸時代に来訪した朝鮮通信使節団の場合、釜山から大阪湾まで実質20日前後の航海日数)。この事実に照らせば、畿内説のいう「筑紫の不弥国から畿内まで水行30日と陸行30日」は、現実から完全に遊離している。むろん、「どんな理由で・どこに上陸して・どういう道のりをたどったのか」についても、納得のいく具体的説明ができない。


●順次読みで邪馬台国を九州北部に押し込める場合の不条理
・伊都国から邪馬台国まで残りの1500里を筑肥山地の北側に縮小し、その狭い範囲に2万戸の奴国、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国をすべて押し込めることになる。
 ※伊都国から邪馬台国までの距離は1500里で、末盧国~伊都国間(500里)の3倍になるはずなのだが、末盧国~伊都国間の距離と大差のない範囲に5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国を押し込めることになる。
・博多湾から筑肥山地の北側までの狭い範囲を水行20日で投馬国、水行10日と陸行30月で邪馬台国とするには、日程を操作するか非現実的な「迷走」に頼ることになる。

●従来の順次読みによる行程解読は、天子の命令で莫大な費用と多くの日数をかけて遂行された外交使節団の手になる調査公文書が、最もかんじんな部分においてこのような不完全な形態をなしていたというも同然である。


●順次読みの落とし穴
 「不弥国から南に水行20日で投馬国まで、投馬国からさらに南に水行10日と陸行1月も行けば、めざす邪馬台国は九州島からはみ出てしまう」。
 「邪馬台国の所在の解明は、もはや文献解読は不可能である」。
 これらは、「不弥国から南に水行20日で投馬国、投馬国からさらに南に水行10日と陸行1月で邪馬台国」と続け読みをしておいて、その読みを論拠にする手法である。加えて、(何度も指摘してきたように)魏の公定尺度とは異なる尺度で書かれている『倭人伝』の里程に、魏の公定尺度をあてはめて換算している。結果として自縛の穴に墜ちて、次の文章を杓子定規にも棒読みして「投馬国は邪馬台国よりも北にある」とすることになる。

 「女王国よりも北の国々については、その戸数や道理を略記できるが、その他の傍国は遠く隔たっているなどの理由から詳しい情報を得ることができない」。 
 これは、『倭人伝』の文章構成からみれば明らかに「その他の傍国説明」にかかる文章である。もろもろの事情から30ヵ国を隈なく回って把握することができず、国名列挙にとどめざるを得なかったという釈明文の出だしにあたる。文章構成をみると、投馬国と邪馬台国に関する文章からさらに転じており、次元を異にする。どうしても投馬国と邪馬台国の文章にくっつけて棒読みするのであれば、投馬国と同じ文節にある邪馬台国も女王国以北にある理屈になる。
 (『倭人伝』をみると、初訪問・初調査にしては、実際のところ「子供の使い」のようなことをやっている。平たくいえば、邪馬台国に至る経由国しか詳しく紹介していない。これは、客観的にみれば手抜き同然であり怠慢である。ところが、この文章のニュアンスでは、ある種堂々と釈明している。つまり、戦時下の訪問で行動が制限されたことなどから、30ヵ国を隈なく回って把握することができず、「不本意ながらその他の傍国は国名列挙にとどめる」というわけである。こうした事情は使節団を派遣した魏本国でも周知のことだったろう。だからこそ「堂々と釈明」しているわけである)。

 「女王国よりも北の国々については……」という文章は、この釈明文の出だしにあたる。起承転結で「さらに転じた文章」の冒頭にあたり、投馬国と邪馬台国の文節とは次元をまったく異にする。投馬国に関しては道里の略載がないことから「魏の使節たちは投馬国を訪問していない」とする解釈のほうが妥当だろう。
 つまり、帯方郡から末盧国までの水行10日は「櫂つき帆付きの魏の大型楼船にる水行日程」であり、末盧国から投馬国までの水行10日は「里程を知らない倭人」による手漕ぎ倭船での水行日程を聞きとって書いたものと思われる。(必然的に、水行10日といえど魏の大型楼船と手漕ぎ倭船の両者が稼ぐ航行距離には大きな開きが生じることになる)。
 訪問していないのに特筆しているという点では狗奴国も同じで、投馬国と狗奴国は倭国30カ国の中でも別格の大国だったらしい。両者に距離を記載してないのは「行ったことがない・通過したことのない(女王国の南方の)国」だったからとみなされる。


●やってはならない行程読み「放射読み」
 伊都国で「到る」の文字が使用されていることや「郡使の常にとどまる所」とあることなどから、伊都国を基点として、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国と放射的に説明しているとする。この読みの場合も順次読みの変形であり、行程説明の起承転結と語順の違い(文法の変化)についてはほとんど配慮されていない。


●やってはならない行程読み「寸断読み」
 もう一つ。いささか古典的な読法の部類に入るのだが、『倭人伝』のいう邪馬台国に至るまでに要する「水行10日陸行1月」を、「水行なら10日、陸行なら1月」と切断して読む手法がある。文法も文節も明らかに異なる行程説明文を棒読みするかと思えば、こちらは「水行なら10日、陸行なら1月」と寸断するわけである。
 二種類の行程手段を書いたのであれば、 (たとえば)「或水行10日或陸行1月」と書いたはずである。中国の古い記録を確認したところ、多くはないが確かにそういう事例がある。

『山海経』東山経
 南水行五百里、流沙三百里。至于葛山之尾、無草木多砥礪。
 南水行三百里、流沙百里。曰北姑射之山、無草木多石。
 南水行五百里、曰流沙行五百里。有山焉、曰跂踵之山。
 南水行五百里、流沙三百里。至于無皋之山、南望幼海。
 ※水行と流沙(タクラマカン砂漠)陸行の連続行程説明である。
『山海経』北山経
 北水行五百里、流沙三百里、至于□山。
 北山行五百里、水行五百里、至于饒山。
 ※北へ山行と水行の連続行程説明である
 ※ここに登場する「北山行五百里、水行五百里、至于饒山」を、「山行なら五百里、水行なら五百里で饒山に至る」と読む人は皆無だろう。
『山海経』南山経
 西水行四百里、曰流沙、二百里至于□母之山。
 以上はすべて『倭人伝』と同じ書き方で、「異なる行程の継続」を意味する説明である。

 ※『山海経』は中国では玄幻的書き物との評価をされているが、資料として引用した部分はそうした小説的な内容の項目ではなく、地理説明文の数値表記例である。
 ※流沙は中国西北方のタクラマカン砂漠。ここでいう水行は、明らかに(タリム河やホータン河など)砂漠周辺の内陸河川行である。河川距離は陸路距離と平行して把握が可能だから、ある程度正確な距離表示ができる。『山海経』の水行の細かい里程は内陸河川航行だから、ほぼ陸路距離に準じているとみなされる。

『漢書』西域伝/尉頭国
山道不通、西至捐毒千三百一十四里、径道馬行二日。 (西へ1314里で捐毒に至るが、近道を馬で行けば2日)。
 極めて少ない事例だが、異なる方法を使う時はこのように説明つきである。こうした事実を前にしたとき、「水行なら10日、陸行なら1月」という寸断読みは、文法も筆法も度外視した破壊的読みであるといっても過言ではない。




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