邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●朝鮮半島の倭と日本列島の倭

2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報
 中国歴史書のいうところによると、朝鮮半島南部の沿岸部と島嶼部一帯には、紀元前のかなり早期から倭人が住みついていようである。3世紀に現地調査した記録による『三国志』韓伝によれば、倭人は辰韓で産出する鉄を韓人やワイ人に混じって採掘していたという。また、朝鮮半島の倭人居住地帯に近いところでは、辰韓人の男女は倭人と同じ文身をしており、馬韓人にも文身をする者がいたという。
 ※『倭人の来た道』でも触れているが、これらの倭人については、九州から半島へ進出した倭人と、長江河口から九州を目指して海へ乗り出した中で、五島列島をすり抜けて朝鮮半島に漂着した人たちが混じっていたことを想定する。両者は半島に渡った時期もルートも違うが、文身をする習俗と長江流域民族の言語は共通する。同族と分かることから、比較的簡単に融合したものと思われる。

 実は、朝鮮半島南部域は、縄文晩期から「倭人」の影響が及んでいたことが判明している。それを証明することになったのが、中国浙南の石棚墓群である。

●浙南の石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)
 1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年~紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。 

 紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。
 浙南の石棚墓は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の九州北部に出現している。唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、縄文時代晩期末(弥生時代前期)~弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。(wikpedia)

 中国側の資料にみるかぎり、遼東半島から吉林省南部地域の石棚墓は、箕子朝鮮の墓制と関係があると見ているようである。箕子は、紀元前1100年ごろ、殷の紂王の暴政を見限り、5000名の遺民を連れて朝鮮に移住して箕子朝鮮を興した。のちに、周の武王は箕子をそのまま朝鮮の地に封じた。紀元前2世紀に衛満によって箕子朝鮮は滅ぼされた。衛満は燕からの亡命者で箕子の末裔の箕準に仕えていたのだが、漢の恵帝のときに箕準を滅ぼして王となった。(衛氏朝鮮は紀元前190年代~紀元前108年)。この地域のものは高くそびえるテーブル状をしていることから、北方から陸伝いで伝来したものと思われる。
 考えさせられるのは、九州北部と朝鮮半島南部に展開する碁盤式支石墓である。浙江省温州地市といえば、出身者には海外で活躍する華僑が多い土地柄である。しかも、『倭人伝』が倭人の文身のルーツではないかとした会稽・東冶(江南地域)の真ん中ほどにあたる。この碁盤式支石墓のルーツが浙江省温州地一帯にあるとすれば、長江流域や河口部の民族だけではなく、さらに南方の大陸沿岸部の海人たちもやってきていたことになる。それほどに多様な民族が、日本列島に早くからやってきていたということだろう。
 これまで支石墓は朝鮮半島南の影響が強いとされてきたが、九州北部の碁盤式支石墓が朝鮮半島南部に展開し始める紀元前500年よりも遡るとすれば、支石墓の渡来も朝鮮半島より日本の方が早かったことになる。
 そうなると、稲作や「半島倭人」の流れと同じようにこの支石墓もまた、温州人たちが九州を経由地として朝鮮半島にもたらした場合と、稀に五島列島をすり抜けて朝鮮半島へ到着した場合とが考えられる朝鮮半島が、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、秦・漢などなど、支配勢力が目まぐるしく入れ替わる中で、半島南部の倭人は常にその棲息領域を保っていたようである。


 ともあれ、『三国志』韓伝の 記録から、朝鮮半島に倭人の居住する「倭」と呼ばれた領域があったことから確認していこう。
 「韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す」。
 「東西は海が韓の地の境界となり、南は倭と接している」というのだから、南は海が韓の境界になっているのではなく、倭の尽きたところが海になる。つまり、「南は倭と接す」という表現でもって、半島の南部に倭があったことを告げている。

 世の中は広いもので、「南は倭と接すは対馬と接すという意味である」という意見もある
 この点については現実問題で容易に説明がつく。 魏の調査官たちは半島から海を渡って日本列島の倭国に来ている。したがって、彼らが報告書を書いた時点では「半島の南も海をもって限りとなす」という明確な現実を知っていた。もちろん、1000余里も海を隔てた対馬をして「倭と接す」とは書かない。
 どうしても朝鮮半島と対馬(倭)が接していると書きたければ、地理的に1000余里もある海峡を挟んで位置する関係なのだから、「南も海をもって限りとなし、その南は倭と接す」と書かれていなければならない。そうするのが地理学的調査記録としても妥当だといえる。  
 仮に「韓の南は対馬と接す」という意味で書いているとすれば、朝鮮半島南沿岸の東西約270kmに及ぶ領域が、小さな対馬と接すると書いたことになる。ところが現実は、馬韓の南は対馬の約3倍もある州胡(済洲島)とも接している。だが韓伝は「南は州胡と接す」とは書いておらず、「州胡という島が馬韓の西にある」と書いている。州胡だけではなく、西は山東半島とも接しているのだが、「西は山東と接す」とは書かず「東西は海をもって限りをなす」としている。
 つまり、韓伝がその冒頭で「東西は海をもって限りとなす」と書いた視野には、山東半島や州胡は入ってはいない。同じく南も対馬までは視野を広げておらず、あくまでも半島内の地理に限定した視野で書いている。
 海に面したところで版図が途切れるとの認識で書いたのは、東沃沮伝、ユウ婁伝の「大海に濱(ひん)す」と濊伝の「東は大海を窮(きわ)む」で、表現を変えつつ海に面していると書いている。



●辰韓伝の「倭に近い」という記録  
 馬韓伝に続く辰韓伝には、「辰韓は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人はみな従にこれ取る。倭に近いところの男女は(倭人と同じように)文身する」とある。辰韓人は、そもそも楽浪郡から流入した漢人系によって構成されている。 言語・婚姻制・葬制・風習・体格的形質に至るまで違いがある。どれを取り上げても、倭人との民族的な違いは明白である。
 それでいて、「倭に近いところの男女は、倭と同じように文身する」というのだから、距離的・空間的に近接しているエリアの、共通の習俗に触れていると判断しなければならない。すなわち辰韓伝のいう「倭に近い」は、辰韓の一部と倭人居住区の近接関係を述べていることが分かる。
 (辰韓の鉄を入手する倭人がいたというが、列島から日帰りで取りに行くことはできないから、半島での活動基盤となる倭人の居住区があったことは明白である)。
 また馬韓伝でも、「馬韓人にも時々文身する者がいる」という。これらもまさに、馬韓と辰韓の南部に倭人の水人文化が浸透していたことを物語る。こうしたことは、たまに倭人が海を超えてやってくるだけでは浸透しない。半島に倭人が定着して、互いに混住していたからこそ倭人の習俗が浸透したのである。しかも、現地の韓族に浸透するほどの影響力があったことを示唆している。半島南部にはやはり、九州から渡った倭人と、長江河口から九州をめざして朝鮮半島に漂着した倭人が混じっていたようである。『三国志』東夷伝をみても、半島南部の韓人が航海に長けていた形跡がないことからも、縄文から弥生時代にかけてみられる半島との往来は、こうした水人たちが担っていたものと私はみている。


※半島南部の韓人は基本的に海洋民ではなかったことと、黒潮の支流になる対馬海流の流れが速いこともあって、韓人が積極的に海船で出かけた様子はない。そうしたことから、九州からもたらされた物や文化が多かったろうことも無視できない。また、朝鮮半島からの物や文化のほとんどは、倭人と呼ばれた水人の手で運ばれたものと思われる。縄文から弥生時代にかけて日本列島にもたらされた稲作を含む大陸文化の多くは、これまで考えられてきた朝鮮半島経由ではなく、図で示した通り長江河口からの直接渡来だったと私は考えている。


●決定的な証言
 さらに、弁辰伝が決定的な証言をしている。
 「その(弁辰の)涜盧国は倭と界を接す」。
 ご覧の通り「界(境界)を接す」といっている。これも、距離的・空間的に近接してることを証言している。これを、弁辰の涜盧国と対馬が海を隔てて境界を接していると解釈するようでは、文献研究以前の問題だろう。同じ東夷伝の中で、陸続きの位置関係説明はどう説明しているかをみてみよう。これは誰しも境界を接している意味だとわかる。
 「夫余は長城の北にあり、玄菟を去る(離れる)こと1000里、南は高句麗と、東はユウ婁と 、西は鮮卑と接す」。
 「高句麗は遼東の東1000里にあり、南は朝鮮、ワイ貊と、東は沃沮と、 北は夫余と接す」。
 一方、領域の境が海に面している場合や、領域の境が大海に接している場合は、東夷伝もきちんと書いている。
 「東沃沮は高句麗・蓋馬大山の東にあり、大海に濱して居る。北はユウ婁、夫余と、南はワイ貊と接す」。
 「ユウ婁は夫餘東北1000余里にあり、大海に濱す。南は北沃沮と接し、その北の極まる所を知らず」。
 「ワイは南を辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は大海を窮む」。
 
 「大海に濱す」は大海の水ぎわで、「大海に接す」と同じ意味。「東は大海を窮む」も大海の水ぎわで、「大海に接す」と同じ意味になる。韓の場合は「南は海をもって限りとす」 「南は大海の窮み」「南は大海に濱す」と書いていないのだが、こうした比較の点からも、韓人領域の南の境界には海ではなく倭があったことが分かる。
 

●半島の倭の重大機能
 朝鮮半島において、南を海をもって限りとする領域(南部の沿岸域と島嶼地帯)は、倭人の定着した倭だった。半島南沿岸部の韓人領域と広大な海との間には、島嶼部を含めたベルト状に展開した倭があったのである。
 その半島の倭人拠点の存在を、倭国経営者の立場から考えてみよう。
 半島の倭は、防衛・安全保証・通交・交易の拠点として、進出基盤として情報基地として、そして、知的労働力・肉体労働力誘致の実行窓口として、出入り管理と規制で大きな任務を果たしていた。とくに、武器・武人・武装集団などの渡海には神経を注ぐ必要がある。恐らくは、小規模ながら紀元前からの設置以来、その機能と役割りは、壱岐や博多湾岸とは違った意味で重要だったはずで、「列島倭国の進歩と繁栄は朝鮮半島の倭が握っていた」といっても過言ではない。  
 
 古くからの楽浪郡との交易の事実や倭奴国の外交で見た通り、倭国の外交と通交の対象は一貫して先進の中原王朝だったことが分かる。だが、通り道となる朝鮮半島との関係が円滑かつ友好的に運ばないと中国との通交も不可能になる。
 通交とひと口にいっても、敵対する半島勢力がいては中国との通交は不可能になる。通り道をうまく使うには、半島勢力と友好的共存策を維持しなければならない。 半島の倭は、そのためにも多大な動きを必要とする。中原への通路となる半島南部から半島西側に至る諸国と倭国とが敵対的だった歴史はないが、まさにそうした歴史こそが倭国のとった戦略の一端を証明している。半島の倭の存在そのものが、倭国の政治・経済・軍事的戦略の一環だったのである。

 時代は異なるが、通交と交流には半島に出先拠点が必要だったことを示す実例がある。
 江戸時代、徳川幕府の最初の外交課題は朝鮮との国交回復にあった。また、地形的に作物を育てる環境に不向きで穀物の自給ができない対馬は、朝鮮との交易ができないと死活問題につながる。
 3世紀に、対馬は自前の産物だけでは食料が充分ではないので、船を使って南北と交易していたというが、江戸時代になっても半島との交易なしでは存続が困難だった。
 そんな、朝鮮貿易を命綱とする対馬藩のギリギリの交渉努力が実って、日朝国交回復にこぎつけた。だが、秀吉の侵略の記憶が残る朝鮮側は、日本の使者を釜山より奥には入れなかった。 そこで対馬藩は、半島における通交拠点として交渉窓口として、朝鮮王朝の許可を得て、釜山に長崎出島の25倍といわれる10万坪の倭館を経営した。 日本からの使者はこの倭館を使用し、倭館には通交と貿易のために大勢の対馬藩士が常駐していた。この釜山の倭館設置の事実は、半島との通行・交流・交易には、どうしても半島に拠点が必要だったことを物語る。
 
 半島の倭は、倭国の進歩と繁栄の鍵を握っていた。防衛戦略・安全保証・通交・交易の拠点として進出基盤として、人・もの・情報・技術の出入り管理窓口として、さまざまな目的と機能を果たしてきた。これが根を張って半島南部に倭人文化を展開することになり、のちには、倭国と敵対的接触を続けた高句麗・広開土王碑文が証言する通り、半島進出の出先基地として機能することになるのである。

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