邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●良く使われる用語

2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報
 『倭人伝』はむろん、これを収録した『三国志』は、古代中国の王朝制度下にあって、中国の知識人を読者対象として書かれた歴史書である。『倭人伝』の記録内容をよく理解するためには、中国王朝の儀礼・制度などをを知ることが不可欠になる。とくに文脈や行間のいうところ(書かないで告げている意味)を読むためにも非常に重要なことなので、これらについて簡単に解説する。


●中原
 中国の文明の中心。転じて天下中央の地。古代王朝が栄えた黄河中流域の平原地帯をいう。


●天子・王朝
 天命(天帝の意思)によって選ばれ、天下(地上のすべて) を治める人物のことをいう。いわば神格化された絶対的神聖な存在である。これが、時代によって「皇・帝・王・皇帝」などと呼ばれた。その原点は、傑出した有徳の人物(聖人君子)が民衆指導に務めたことにはじまる。天子の座は、次なる有徳の人物に譲る形で継承される。これが禅譲である。なお、天子を戴き、百官を配した中央集権的国家体制を王朝という。


●朝見・朝献・朝貢
 朝見は、天子(皇帝)に接見すること。朝献は、天子に接見して貢ぎ物を奉ること。朝貢とは、王朝政府の管轄官庁に貢ぎ物を差し出すことをいう。
 朝貢外交とは、藩外(藩甸の外=天子の支配領域外)にある周辺の異民族諸国が天子に貢ぎ物をおくり、天子政府と友好的交流・交易などを行なうこと。言葉の意味を直訳するとスケールの小さなシチュエーションになるが、中国の王朝政府を相手とした国際間外交の手づるが朝献・朝貢と考えて差し支えない。


●上奏と上表
 天子に接見して、直接言葉で申し述べるのが上奏で、天子に文書で申し述べるのが上表。天子にあてた文書を上表書という。


●詔(みことのり)
 詔とは皇帝じきじきの言葉で、政治上の公式発言であり絶対性を伴う言葉である。「詔をくだす(制詔する)」とは、皇帝の意志や命令をくだすことで、それを文書にしたのが詔書である。『倭人伝』本文でも「制詔」とあるが、ただの返信や音信の手紙とは性格が根本的に異なる。


●詔書の性格と機能について(『後漢書』光武紀注)
 皇帝の下す書に四つあり。
 一は策書といい、二は制書といい、三は詔書といい、四は誡敕という。
①策書は、皇帝を称し、もって諸侯王に命ず。
②制書は帝者の制度の命。
③詔書は詔告なり。
④誡敕は刺史・太守に敕すをいう。(誡敕は戒めや命令)。
 この説明対象あくまでも藩内の諸侯王や官吏に向けた場合だが、皇帝の下す4種類の書がすべて何かを命じる性格のものであることが分かる。その中でも「詔書は詔告なり」とあるが、皇帝の意志や決定事項を公式に告げるのが詔告である。藩外の国王(周辺異民族王)などを対象とした場合に「命じる」はなかろうから、この場合は「皇帝の意志を告げる文書」と解釈したい。


●詔書の重みについて
 私は、BSテレビ局で放映される中国製作の時代劇をよく鑑賞する。とくに、その時代の人びとの生活ぶりや、服装・武器・武具・戦い方などのほかに、王朝儀礼や・制度のあり方などに関心をもって見るようにしている。これまでに『孫子の兵法』『孔子伝』などがあったが、平成24年の春から『三国志』というテレビ映画が始まった。
 その中で、呂布の居城に献帝が差し向けた特使2名が、緊急の詔勅をたずさえてやってくるシーンがあった。呂布はすぐさま、自らがいた上座を特使に譲って北面して床に平伏する。入れ替わりに呂布がいた上座に立った特使は、おもむろに詔勅をひろげ、呂布に「徐州牧を拝し、曹操軍に加わる旨の命令」を読み上げた。
 このように、皇帝の詔書というものは、その場に皇帝がいるのも同然の重みがあって、読み聞かされる者はカエルのように地に這いつくばって拝聴したものである。
※このシーンは藩内の臣下に対する詔勅・詔書の授受であって、藩外の倭王に対する授受シーンはこの通りではなかったものと思われる。参考になるのは『隋書』で、詔書ではなく国書の授受シーンが登場する。
 そこでは、皇子、諸王、諸臣ことごとくが着飾って居並ぶ中で、使節代表の裴世清は持参した進物を朝廷会見の場に置き、大切に持参した国書をもって四拝(臣下がとる礼)して立つ。 その書を 阿倍臣が進み出て受け、これを大伴囓の連が迎え出て承け、天皇の前の机の上に置いてこれを奏じて退く。


●詔書の文面について
 天子・皇帝は建て前では聖人君子であり、神格化された存在である。したがって、(わが国の天皇の発言がそうであったように)公式には人間臭い言葉を使わない。「天子話法」とでもいうべき独特の話法で、柔らかい言い回しがされる。


●詔書の扱いについて
 王朝政府では、門下省で詔勅の中身の吟味と出納を担当した。天子の詔といえど政治に関わる詔などは、(幼帝の場合なども含めて)こうした官庁組織が「政府見解」のようなものを作成したようである。一方、中書省が詔勅の記録と伝達を担当した。呂布に差し向けられた特使のように、国内の諸将・諸官に頻繁に発せられる詔書の伝達は、この中書省の役人が担っていたようである。


●五服の概要と諸義務
 中国における朝見・朝貢の始まりは古い。中国では、歴代天子の子孫や現天子の親近血族、功臣・高官などに国土を封じて個々の領土とした。これが封建(封えて建てさせる)である。
 夏王朝の祖・禹が、五帝の一人・舜の下で身を粉にして広範囲におよぶ開拓・治水事業を終えたあと、天子の居城の外周500里四方ごとに(土地の等級や天子の徳育強化の波及範囲ごとに)5段階に分け、居城から近い順に甸服、侯服、綏服、要服、荒服とした。これらの土地を封えられた者には、それぞれに服属義務と貢献(朝献・朝貢)の義務が負わされた。これが五服制度で、朝献・朝貢の始まりとみなされるのだが、いわば年貢制度のようなものである。

①甸服:天子のために耕作に務めて服わせる。
 天子の居城の周囲100里までは、根元から穂先まで束ねた稲を納める。200里までは、藁の部分で半分に切った稲の穂先を納める。300里までは、藁を取り去った穂先を納め、労役にも服する。400里までは籾のままの米を納める。500里までは籾をとった脱穀米を納める。
②侯服:公家・大名・諸侯の領地として服わせる。
 甸服との境界から100里までは天子直属の公家の領地、200里までは小諸侯の領地、300里から500里までを諸侯の領地とする。
③綏服:天子の文武をもって服わせる。
 侯服との境界から300里までは文教施行地域、その外の200里は武力統制地域とする。
④要服:一般的で平易な法をもって服わせる。
 綏服の境界から300里は、平易な法と道徳を守る地域とし、その外側の200里には罪人を放ってこの地に置き、天子の刑法を適用する。
⑤荒服:これより外周は天子の徳の及ばない蛮地とする。
 要服との境界から300里は、法も秩序もない野蛮人の居住領域。その外側の200里は、空漠として住居も定まらない地域。(『史記』夏本紀)

 この五服が周代になると、1000里四方の王畿を中心として、その外周を500里ごとに侯服・甸服・男服・采服・衛服・蛮服・夷服・鎮服・藩服の九つの区域に分けて九服と呼ぶようになる。五服・九服にある者は、定期的な貢献のほかに、新たに天子が即位したり年が改まったりした節目節目にもやらないと、服わぬ者として討伐や懲罰の対象になる。


●朝貢外交とその本質
 中国には化外慕礼(かがいぼれい)という言葉がある。これは、五服・九服の外にいる異民族が、天子や王朝を慕って朝貢することをいう。化外を翻訳すれば、藩外すなわち「天子の徳育強化の及ぶ領域の外」という意味である。
 貢献義務のない藩外の周辺民族の朝献・朝貢が多いことは、天子への敬慕が強いこと意味することから、体面と尊厳にこだわる朝廷としては誇らしいことだった。 必然的に、藩外の異民族の朝貢外交を歴代の王朝が歓迎し、朝貢国の貢ぎ物に対して数倍の返礼を与えた。
 一方の周辺民族諸国からみれば、朝献・朝貢は中原との国際交流の手段である。先進の中国との交流・交易、情報・知識・技術の入手、安全保証。さらには中国の権威を背景として、周辺諸国や国内的に優位な立場を築くなどの政治的意図があった。朝貢することで中国との貿易が可能となり、朝貢国に莫大な利益を生むこともあった。


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