邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

付記1・景初2年の証明01

2010-05-18 | 付記1・『倭人伝』始末
❶景初2年の証明  ここでは、卑弥呼の魏への最初の朝献年を「景初2年(238年)」として展開してきた。私たちが資料とする刊本も景初2年と書いているのだが、「魏志にいう景初3年」としている関連本があることを根拠に、3年とする意見が半ば定説化した感がある。だがそれは、刊本の前後関係の脈絡を比較して見た結果にすぎない。私の考察によれば、「『魏志』にいう3年」そのものに問題がある。それこそが . . . 本文を読む

付記1・景初2年の証明02

2010-05-18 | 付記1・『倭人伝』始末
❷景初2年だった証拠  東夷伝自身が判然とできなかった帯方郡太守の着任を、数々の状況証拠から公孫淵討伐の前だったとした。だが、この問題は原典が曖昧にしているだけに、「景初2年か3年か」を決定する決め手にはならない。そこで今度は、『倭人伝』の記録全体が「2年だった」と証言している直接証拠を提示する。 ◆倭人伝』の魏と倭国の交流経緯をみると、倭国からの第一回の朝献に関してだけ、異例に . . . 本文を読む

●付記2・神獣鏡の実相

2010-05-18 | 付記2・考古事情始末
❶神獣鏡の実相 ●鏡の製造は「夏至の日」に着手した  中国人研究者の任晏東氏から得た情報によれば、もともと中国では、鏡の製造は夏至の日に着手したのだという。これは、鏡に限らず刀剣などの金属器をつくるに際して、夏至の日が太陽から火を採る最適と考えられていたことによるらしい。  仮に景初3年銘文入りの鏡は、卑弥呼に贈るために、魏の尚方(官製工房)で製作されたとしよう。官製工房が鏡づくり . . . 本文を読む

付記2・卑弥呼の墓と金印の実相

2010-05-18 | 付記2・考古事情始末
❷卑弥呼の墓の実相 ●墓域は王都の郊外につくられる  中国では霊を祀る廟を宮城内に造った例はあるが、王都内に墓をつくった実例はない。古代の日本列島においても同様である。そもそも中国の祭祀儀礼では、廟祭祀を吉礼とし、墳墓祭祀を凶礼とした。したがって墓域は王都の郊外に設けたものである。  『三国志』魏書に、文帝のこういう言葉がある。  「礼で墓祭をやらないのは、生者と死者が穢(けが)し . . . 本文を読む

付記2・纏向遺跡の実相

2010-05-18 | 付記2・考古事情始末
❸纏向遺跡の実相  私は創作神話は考察に採用しないほうだが、唐戸・鍵と纏向を包含する外山の地に、天の磐舟で降り立ったニギハヤヒこそ、九州倭人による先遣開拓を象徴する存在ではないかとみている。  天の鳥舟でこの地にやってきた神武は、ニギハヤヒと自分が同じ神の子であることを確認する。その後、ニギハヤヒは外山の地を無血開城する。この逸話を読むと、ニギハヤヒの祖先に先遣開拓を命じたのが神武 . . . 本文を読む

●付記3・『後漢書』倭伝の検証

2010-05-18 | 付記3・文献検証始末
 『後漢書』以降に書かれた(倭国との使節外交や文書外交をしていない王朝の)歴史書の伝の末尾を飾る倭伝・倭国伝は、ほとんどが先史を頼りに書かれている。膨大な歴史書編纂にあたっては、伝の末尾まですべてを編纂責任者が手がけるわけではなく、弟子やスタッフに分担を振り分けることなるのだが、編纂を任された担当者の能力によって誤読・誤字・意味違いが頻発している。  こういう「たとえ」が分かりやすいだろう。極限ま . . . 本文を読む

付記3・『梁書』諸夷伝の検証

2010-05-18 | 付記3・文献検証始末
❷『梁書』諸夷伝  『梁書』諸夷伝・倭の条をもほとんど『倭人伝』からの写しである。『後漢書』倭伝同様「『三国志』にいう」といった断わりを入れていないから、3世紀当時の倭国が梁代にもそのまま存在したかのようでさえある。しかも、滅茶苦茶といえるほどに誤字・脱字・錯誤が目立つ。伝の末尾につけ足し的に置かれた倭の条を任されて、先史だけを頼りに書いたであろう編纂スタッフのデキの悪さもまた、他 . . . 本文を読む

付記3・『宋書』倭国伝の検証

2010-05-18 | 付記3・文献検証始末
❸『宋書』倭国伝 『宋書』倭国伝から倭王・武の上表文  「封国は偏遠にして藩の外に作える。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉して寧處に遑あらず。東の毛人を征すること五十五国、西の衆夷を服わすこと六十六国、渡って海北を平げること九十五国。王道は融泰にして土を廓き畿を遐かにす。累葉、朝宗して歲を愆えず。臣は下愚と雖も忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆り率い、 . . . 本文を読む