邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

付記3・『旧唐書』の「別種」の検証

2010-02-28 | 付記3・文献検証始末
❹『旧唐書』

●『旧唐書』の「別種」について
 倭人国家と唐との交流は、倭国と称していた時代から日本とした時代にわたって長く続いた。そうしたことから『旧唐書』は、倭国と称していた時代と日本と称するようになった時代とを明確に分けて言及している。
 倭国とは古えの倭奴国なり。 京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海中に在り、山島に依って居る。東西五月南北に三月行(の領域を版図とする)。世々中国と通ず。(......以下省略)
 
 ここまでは、先史からの文章伝世を含めて「倭国と称していた時代の情報記録」である。周辺異民族国家やその支配系統の出自・脈絡に対しては関心の高かった中国だから、倭奴国から倭国への脈絡について先史を吟味して触れているが、倭奴国が倭国の前身であるとしている。
・貞観五年(631年)、使を遣わして方物を献ず。
・貞観二十二年(648年)、また新羅に附して(委ねて)表を奉り、以って起居(音信)を通じた。
 これが、倭国と称していた時代の「唐と倭国との通交記録」である。

・長安3年(703年)、その国の大臣朝臣真人来たり方物を貢ず。
 これが、日本国となって最初に登場する遣唐使である。
 703年といえば則天武后の治世晩年にあたる。『唐会要』のいうところを加味して前後関係を総合すると、このあたりが倭国から日本国へ国号が変わった節目のようである。
 『新唐書』は、長安元年の遣唐使・朝臣真人が語ったことをこう書いている。「長安元年(701年)、その王に文武立ち改元して太宝という。 朝臣真人粟田を遣わして方物を貢ず」。701年は、文武天皇が年号を太宝と改めて『太宝律令』が成った年だった。
 問題の『旧唐書』日本国伝の別種の記録をみてみよう。
 日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰:倭国自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭国之地。
 (日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるをもって、故に日本をもって名となす。或いは曰く:倭国自からその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となす。或はいう:日本もと小国、倭国の地を併わすなり)。

 この「日本国は倭国の別種なり」とは、「倭国の別の呼称が日本国である」という意味である。その証拠に、続けて日本という呼称になった経緯を述べている。日本国という呼称は、中国がつけた倭国を倭人の意志で改称したものである。日がのぼる東の辺に在ることから、日本を以って国名にした。これが中国の認識だと断言している。
 「別種」だけを取り上げれば、民族や勢力を別種とした事例もある。だが、ここは国名の変遷経緯を告げる文章中の一行だから、この別種は国号の別種と判断しなければならない。事実、これに続けて今度は日本国の使者がいう日本国号の成り立ちを並べている。
 「あるいはいう、倭の文字が好ましくないから、これを改めて日本とした」。
明らかに倭の文字を嫌って日本に改めたと述べている。
 「あるいはいう、日本はもともと小国で、倭国の地を統合した」。
 はじめから大国だった国などはない。倭国はもともと100余国に分かれていたものが、3世紀には30余国になり、それが日本国として一つになったのだから、国の成り立ちとしてはごくあたり前の話である。

●歴史書の文章構成を尊重したい
 この別種については、「国や支配系統や支配人種の違い」であると解釈がある。それでいて、中国の歴史書が、初登場する日本国の支配系統の素性や国の変遷の歴史を詳しく語っていないのはなぜか。たった二行で触れたというのだろうか。こうした歴史書の構成と記録方法の不条理について説明できないようである。

 ここでいう「不条理」を詳しく説明するとこういうことである。
①「日本国は倭国の別種なり」で、倭国と日本国の支配系統か支配人種が異なることを書いた。
②そうしておいて、「その国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名となす」で、国号の成り立ちを書いた。
③続けて、「あるいは曰く。倭国自ら、その名の雅ならざるを悪み、これを改めて日本と為す」と、同じく倭国が日本国へと改称したいわれを書いた。
④そうしてまた唐突に、倭国と日本国の支配系統か支配人種について触れて、「あるいはいう。日本は舊小国、倭国の地を併わす」と書いた。
 こういうことになる次第である。
 だが実際の文章は、「あるいは曰く。倭国自ら、その名の雅ならざるを悪み、これを改めて日本と為す」に引き続き「あるいはいう」としているのだから、別の国号変更のいわれを書いていると判断すべきである。ところが、「小国だった日本国が倭国を滅ぼして列島を統一した」と書いたことにする。これでは、『旧唐書』がめちゃくちゃな文章を書いたことになってしまう。もっと、歴史書の文章構成を尊重したいものである。

 厳しい検証に入る。中国の歴史書が人種や種族について別種と書いたときはどんな文章になるのかは、文章の前後をみせながらフェアに提示すると分かる。


●人種や出自について「別種」と書いた場合
・『三国志』高句麗伝/東夷舊語以為夫餘別種、言語諸事多與夫餘同、其性氣衣服有異。
  (種族について別種と書いた場合は、言語・習慣・風俗・気質などについて共通点と相違点を説明している)。
・『後漢書』高句麗伝/東夷相傳以為夫餘別種、故言語法則多同、而跪拜一......。
 (種族について別種と書いた場合は、言語・習慣・風俗・気質にいて共通点と相違点を説明している)。

 ........これ以降の忙しい時代の記録はさほど資料にはならないが。
・『魏書』高句麗伝/高句麗者出於夫餘、自言先祖朱蒙。朱蒙.........遂還其母。
 (扶余の出自たるいわれとして、その祖とする朱蒙の逸話を続けている)。
・『周書』高句麗伝/高麗者其先出於夫餘。自言始祖曰朱蒙、河伯女感日影所孕也。
 (扶余の出自たるいわれとして、その祖とする朱蒙の誕生逸話を続けている)。
・『梁書』高句麗伝/高句驪者其先出自東明。東明本北夷□離王之子。.........其後支別為句驪種也。
 (祖先を東明とするいわれとしてその誕生逸話を続けている)。


●『旧唐書』と『新唐書』が種族や出自について「別種」と書いた場合
・『旧唐書』高麗伝/高麗者出自扶餘之別種也。其國都於平壤城、即漢樂浪郡之故地、在京師東五千一百里。
・『新唐書』高麗伝/高麗本扶餘別種也。地東跨海距新羅、南亦跨海距百濟、西北度遼水與 營州接、 北靺鞨。
 提示したような、『三国志』以来の歴史書が書きつないできた別種のいわれを省略しているが、 『旧唐書』は「高麗の出自は扶餘の別種なり」で、ちゃんと「出自」と書いている。これを受けた『新唐書』も、「高麗は本扶餘の別種なり」で、「本」と書いて出自について触れている。
 これが、『旧唐書』と『新唐書』が人種や支配系統に触れるときの言及のし方である。「日本国は倭国の別種なり」とは文章とその前後も含めて、書き方も意味もまったく異なる。


●『唐会要』が国号について「別種」と書いた場合
・「古倭奴国也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。......則天時自言、其国近日所出故號日本国。蓋惡其名不雅而改之」。
 「倭国は古えの倭奴国である。......倭国が則天武后の治世に「日の出ずる所に近い故に日本国と号した」。たぶん、倭の名が美しくないから嫌って改めたのだろう」。
 ここでも、日の出ずる所に近い故に日本国と号したという理由つきで、「倭国が名を日本に改めた」と述べている。ただし、『旧唐書』のいう「倭国がその名が美しくないことを嫌って日本に改めた」を、中国側の推測として 「たぶん倭の名が美しくないから嫌って改めたのだろう」と述べている。日本人が告げたにしろ中国側の推測にしろ、「倭国が名を日本に改めた」と述べている事実は揺るがない。


●『旧唐書』が国号について「別種」と書いた場合
 「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰:倭国自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭国之地」。
 「日本国とは倭国の別種なり」。......あくまでも「倭国」の別種である。それでは「倭国の」は何をさすのかといえば、倭国の呼称である。断じて、倭国の「国種」や「人種」ではない。
 「その国、日の辺に在る故に日本国を以て名と為す」。
 これが中国側の認識で、以下がその他の伝聞になる。
 「あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み日本に改名した」。
 「あるは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併合したという」。
 国号について「別種」と書いた記録だから、3通りの国号のいわれ・成り立ちについて紹介している。

 『旧唐書』と 『新唐書』 の二書が書かれたのは10~11世紀だが、それ以前の遣随使の時代から数十人規模の学問僧や帰化漢人が倭国から留学している。さらには、遣唐使に同行した阿倍仲麻呂が中国に帰化していることなどからも、かなりの正確さで互いの歴史が見えていた時代である。
 そうした中で、連綿と続いた倭国で「日本国を名乗る別種の倭国乗っ取り」「倭国から日本国への王朝交替」といったことは、中国人の誰一人として確認してはいない。そうした一大事変があれば、歴史的脈絡や支配者の出自系統にこそ最も関心が高かった中国の歴史書だから、きちんとした章を立てて言及しているはずである。

最新の画像もっと見る