邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●倭国の実像

2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報
 歴史探求に求められる条件の一つは、歴史に対して畏敬の念をもち、歴史と、その時代を生きた人びとを正当に評価することである。数多の古代史論の中には、3世紀の倭国は原始社会に毛が生えた程度のクニの集合体というかと思えば、その中枢機能は2世紀から畿内にあって瀬戸内海も九州諸国も遠隔支配していたという具合に、論旨に併せてまちまちである。巷間の邪馬台国論争を観測すると、個々が抱く時代観や倭国像のバラつきが議論の根本的な食い違いの主因となっているようである。卑弥呼を論じるにも邪馬台国を論じるにも、まずはその時代の成熟度と倭人の知のレベルと、国家体制と規模の実態を把握することが先決であることを痛感する。ということで、倭人国家の実像を正視していく。


●1世紀半ばの倭奴国
 西暦57年の正月に、倭人国家の倭奴国が後漢朝に朝賀(新年の祝賀)の使者を派遣する。
 西暦25年に光武帝が即位して後漢朝が興きるのだが、その30年以上ものちに祝賀表敬をするとは、倭人も相当のんびりしていたと思われるかも知れない。だが、これはむしろ倭人の「凄さ」を物語っている。
 後漢朝の実質的な中国統一は西暦56年とみられている。西暦25年に光武帝が即位して以来、その後も光武帝は抵抗勢力の鎮圧に明け暮れ、国内統一の体裁が整うのは36年。周辺民族との外交面で一段落したのが54年。 56年正月に、東海、沛、楚、済南、淮南、趙など、中国国内の諸王が朝賀する。この年の4月、内外の安定を確保して王朝としての体裁を整えたあと、東方を巡行して泰山で封禅の儀をとり行なう。その後、 国内においてさまざまな祭祀を行なって統一を全国に宣布した。後漢朝が名実ともに王朝の体裁を整えたのが56年である。光武帝の後半生はほとんど統一事業に追われている。その翌57年の正月に、倭奴国が使者を派遣するわけである。
 弥生時代まっただ中の倭人が、朝献の作法や相手先の国内事情にも通じていて、間をあけず朝賀に出向いた知力・情報力・行動力は驚嘆に値する。このことは実に、倭奴国の先進性と、最新の国際情勢をリアルタイムに把握する情報収集力を備えていたことを物語る。さらには、しかるべき交通手段と交通ルートを掌握していたことをも示唆する。紀元1世紀半ばの日本列島ではすでに、国家を知り尽くし、政治手法も、戦い方も、すべて知り尽くした人たちが倭奴国を経営していたようなのである。

 ※このとき、光武帝は踊りあがって喜んだに違いない。それまでは伝説か風聞にすぎなかった大海の中に住む倭人が、実質的な王朝樹立初年にはるばると朝賀したのである。化外慕礼としても喜ばしいことである。倭奴国が当時の倭地における強豪国ではあったにしろ、倭地の一国に過ぎない国に金印を賜ったことが、そのことを如実に物語っている。
 ※金印の印文にある漢委奴国王の読みについては、『後漢書』をはじめ『隋書』や『旧唐書』も国名を「倭奴国(わなこく)」とみなしている。
 ※略字の略し方は書き手によってまちまちで、紹熈版『倭人伝』の影印をみると、見開き2ページ単位で刷られたセンター部分にある「魏志」という丁合い符合に、「魏志」のほかに「鬼志」「委志」という略字が使われている。要するに、略字を使う場合にも扁(へん)を生かすか「つくり」を生かすかが、徹底していなかったようなのである。また、(偶然なのだろうが)倭も委も魏も中国語発音は「wei」である。こうしたことからみても、漢委奴国王の「委」は倭の人扁を省略して「つくり」の委を生かした略字とみなす。必然的に、委奴(いな)とか委奴(いと)とは読まない。
 ※漢委奴国王の頭にある「漢」については、中国の羅福頤主編の『秦漢魏晋南北朝官印徴存』検索表が、頭に「漢」の文字をつけた印の実例を網羅している。それらはみな、周辺異民族に与えた印の印文なのだが、「漢委~」という印の実例はない。一例をあげれば、漢匈奴帰義親漢君、漢匈奴悪適尸逐王、漢帰義鮮卑王などである。このことから、漢委奴国王の頭にある「漢」も「漢の」と読むべきと判断して、「漢の倭奴国王」と読む。むろん、漢委(漢が委ねた)という読みは成立しない。
 ※後漢朝のほかに王朝名を冠した印の実例としては魏がある。一例をあげれば、魏烏丸率善邑長、魏烏丸率善仟長などである。


●2世紀初頭の倭国
 そうして半世紀後、2世紀初頭の西暦107年に倭国王帥升が後漢朝に朝献する。この年は、オシメをつけた幼い殤帝が崩御して13歳の安帝が即位した年だった。彼以来7~80年間は男王たちが倭国を治める時代が続いた。2世紀末(何代めかの男王の死後)に内紛が起きて、倭国王が不在のまま長く紛争状態が続いた。ここで、互いに後継候補を擁立して敵対していた勢力が、合議のうえで卑弥呼を女王に共立して倭国はまとまる。このことから、「倭国の乱」といわれる紛争が、王位継承争いだったものと推察できる。
 ※その卑弥呼の死後もまた、同じように後継争いの内紛が発生する。2世紀末と3世紀半ばの2度にわたって、倭国王というたった一つの王座を争って大きな紛争が発生している。この事実が物語るところは、少なくとも(資料で倭国王として確認できる)帥升以来、倭国王の座は一つだったということである。つまり倭国は、2世紀初頭から一人の王を頂点として、国家(一定の領地・領民を治める統治機構を有する政治的共同体)としてのまとまりを見せていたことになる。
 ※卑弥呼が女王として共立された時、それまで100余国あったと思われる倭国は30ヵ国ほどに整理統合されている。ちょうど同じ頃、吉野ヶ里には中国の三国時代の城郭づくりが登場する。こうした事実を見ると、さらに新しい政治・軍事思想とか新しい政治体制が介在していることは揺るぎない事実である。
 紀元前後の時期に原初的な国家構造を見せた弥生の列島は、西暦57年の倭奴国から107年の倭国へと脈絡しながら、国家としてさらに成熟へ向かう。


●3世紀の倭国の実態
 やがて3世紀末になると、九州や大和に限らず、東海・関東に至る広範囲に前方後方墳や前方後円墳が登場しはじめる。このことは、時代と倭国の国家体制が想像以上に成熟していたことを物語る。交易・交流・資源確保などの目的で、はるばる朝鮮半島や中国へ出かけていた倭人のことだから、列島各地にはもっと盛んに進出・開拓・定着していたとみなければならない。
 卑弥呼の時代は、そうした初期段階にあって不安定な情勢だったこともあって、魏からきた中国人には細かく明かさなかったようだが、文献と考古資料のいうところから卑弥呼の時代をみれば、すでに東海・関東に至るまで地ならしが進んでいたことになる。
 倭人国家が1世紀半ばに中国王朝へ朝献の使者を派遣したということは、この時期にはすでに、王朝体制・王朝政治というものを相応の水準で模倣していたと考えなければならない。それから200年を経た卑弥呼時代の倭国が、まさか「飾りもののシャーマンを女王にまつりあげるレベルだった」と、本気で考える人はいないだろう。


●『倭人伝』の証言
 卑弥呼が女王としてあった倭国の国家としての成熟度とその実態を測る手がかりが東夷伝序文と『倭人伝』にある。
 「人民は租賦(租税)を納めていた」.........。この事実だけで、3世紀の中国人が目撃した倭国は、国邑(各地の豪族の領地)を二重構造的に包み込んだ、統一国家の雛形的体制ができていたことがわかる。しかも、客観的な視点で見聞調査した中国人が、「倭国は、人民にとって臣服するに値する国家だった」という。専制的な支配者が強圧的に君臨したのとは違っていたようで、これは凄いことである。
 武力支配の時代とはいえ、国家と人民はギブ・アンド・テイクの関係にある。人民から租税をとるに値する国家として、経営側は何をなされなければならないかを考えてみよう。
・防衛体制の確立:人民の生命・財産と日常の生活権を守ることが、国家を形成する政治共同体がなすべき最大の責務となる。
・総合インフラ:治水土木工事(開拓開墾と水利の確保)がなされていた。
・統治体制:人民(あるいは屯田開墾集団)をとり仕切ると統治力が機能していた。労働力の確保と配分、道具の割り当て、労働者の食い扶持の確保と手配がなされていた。
・管理体制:農地・土地の所有形態と所有区分の明確化がなされていた。租税・兵力・国力の基盤となる国勢(人口・資源・産業)の把握と、末端管理体制が確立されていた。

●その他『倭人伝』が目撃した倭国の実情
・警察権と法制:罪状の程度に応じた厳しい刑罰があった。
・訴訟:盗窃せず、訴訟ごとは少ない。(民事訴訟も存在したようである)。
・軍政:各国に防衛・管理・行政の官吏がいた。
・流通:各国に市場があった。それぞれの市場には大倭という中堅役人がいて交易を管理していた。
・外交事情:中国との朝貢外交のほかに三韓諸国(朝鮮半島諸国)とも交流していた。
・警備体制:武器を所持した兵士が24時間不寝警備をしていた。

●東夷諸国の人口比較
①夫余:8万戸 ②高句麗: 3万戸  ③東沃沮:5000戸 ④ユウ婁:不明 ⑤濊:2万戸⑥韓:馬韓:合計で10万余戸、辰韓と弁韓:。合計4~5万戸
⑦倭国:対海国(対馬国):1000余戸、一大国(一支国):3000余家、末盧国(松浦国):4000余戸、伊都国:1000余戸、奴国:2万余戸、不弥国:1000余家、投馬国:5万余戸、邪馬壹国(邪馬臺国):7万余戸。(このほか記載のない21ヵ国と狗奴国、さらには他の倭種の国が含まれる)。

 3世紀に魏の調査団が目撃した馬韓は、「50余国あるが統一王はおらず各国は長帥が統治している。その統治機構は未発達で十分にいきわたっておらず、地方に行けば犯罪者かの集団のようだ」という。高句麗は「風俗は淫らで好んで略奪を働く」という。
 これらに比べて倭国は、「淫らではなく盗窃せず争訟が少ない」うえに、略奪者たちが突然襲ってくる心配もなかったようで、平和で人民のモラルも東夷諸国のトップである。そうしたこともあって、この時代の倭国にはすでに、東アジアの各方面からかなりの数の移民が押し寄せていたらしい。おかけで当時の倭国は、東夷諸国の中でも有数の人口過密地域である。これに、その他の国々と狗奴国の人口を加えると、倭国の総人口はさらに多くなる。
 ※現代においても借り住まいの人々がいるように、古代においても皆がみな住居を所有していたわけではない。むろん、環濠集落は身分の高い者とその家人たちが住まう高級住宅地であり、庶民は出入りすらかなわなかったろう。ましてや高床式住居となると、ごく限られた人間しか住まうことができなかった。環濠集落は環濠集落に住まう人間だけでは存続できない。その外には生産のための領地が展開し、そこには多くの労働庶民が住んでいる。彼らの住居は必ずしも竪穴式住居とは限らない。極論すれば「竹柱に草屋根・むしろ壁」という住居でもあれば良いほうだったろう。これらの住居は痕跡を残さない。こうした状況があるのだから、ある時点で判明している縦穴式住居跡の数で弥生の人口を割り出したところで、それはさほどの役には立たない。私は、弥生の倭国は従来の人口計算を凌駕する多くの人口をかかえていたものとみている。(縦穴式住居をもった環濠集落跡は現在も新たに出現している)。
 

 次に、倭国支配層が歴代にわたって中原王朝の文化・文物、制度、儀礼に倣ってきた事実をいくつか確認する。

●役人構成にみる倭国の成熟度
 日本の古代において、統一的な国家体制が成立するのは律令制の時代といわれている。そうした体制もいきなり誕生するわけではなく、体験と実験を積み重ねる長い助走期間があって集大成されるものである。2~3世紀から続いた長い助走期間の中で、5世紀には倭国の組織体制が出来あがっていたことを示唆する証拠がある。
 熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀の所有者ムリテは「典曹人」という官名だった。典曹という官名は中国に倣ったらしく、『後漢書』志・太尉の項に「典曹文書」というのが登場する。加えて、「曹」のつく役職が細かく細分化されている。
・西曹は府史の記録を主とする。・東曹は二千石のの遷除及び軍吏を主とする。
・戸曹は民戸、祠祀、農桑を主とする。・奏曹は議事の奏上を主とする。
・辞曹は訟事の辞を主とする。・法曹は郵駅・科程事を主とする。
・尉曹は卒徒転運事を主とする。・賊曹は盜賊事を主とする。
・決曹は罪法事を主とする。・兵曹は兵事を主とする。
・金曹は貨幣、塩、鉄事を主とする。・倉曹は倉穀事を主とする。
 また『三国志』蜀書・呂乂伝には、明らかに官名らしい「典曹都尉」というのが見える。典曹とは文字・文書記録に携わる役人のことである。こうしてみると、ムリテが仕えた5世紀の倭国政府では、中国に倣った官吏体制が敷かれていたことが分かる。これは同時に、倭国政府の成熟度を知る重要な材料である。
 稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文には「杖刀人」という官名がある。杖刀人は王の身辺警護にあたる親衛隊のことで、典曹とは文字・文書記録に携わる役人のことである。つまり、5世紀の後半には、宮内廷の警護をする官から文書にかかわる専門の官吏に至まで配されていたことがわかる。このことから、倭国政府の組織体制と役人構成が5世紀には出来あがっていたことが推察される。


●北斗七星、3本足カラス、ヒキガエル、四神
 中国天子の正装(祭服)には、袞(こん)という礼服に冕(べん)という玉すだれのついた冠をかぶり、二重底の沓をはく。冕旒(べんりゅう=玉すだれの数)は、天子は12旒、諸侯は9旒、大夫が7旒~5旒と決まっている。そもそもは、始皇帝が皇帝と臣下に関する正装儀礼をまとめて、これが漢の時代に完成したものだといわれている。こうした礼服を総称して袞竜衣(こんりょうい)、袞冕(こんべん)の服などという。
 日本でも天皇の正装には袞冕の服が使用されてきた。古来の資料に基づいて描かれたという聖武天皇の肖像画をみると、赤地の服の両袖に竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につけ、頭には冕を被っている。袞竜衣の左肩には日輪の中に3本足のカラス、右肩には月輪の中にウサギとヒキガエル。両袖には龍が金糸で配されている。
 称徳天皇や孝明天皇の袞竜衣も残っている。さらには、 明治天皇の即位礼に使用された袞竜衣もまったく同じである。明治天皇の即位式図屏風にも、日輪の中に3本足のカラスを描いた日像幢(のぼり)と、月輪の中にカエルを描いた月像幢が見える。由緒ある神社では、祭礼の際には現在でもこの日像幢と月像幢を飾るところがある。


※上は孝明天皇の袞竜衣 Wikimedia Public Domain
※左下劉備の肖像画、右下は孫権の肖像画。両肩の丸紋ははっきりとは見えないが、三足烏とヒキガエルがあしらってあると思われる。


●『日本書紀』の証言
 『日本書紀』によると、天皇の即位にあたって皇位継承・王権神授の証しとしての印璽(いんじ)や璽を授受したり、天皇が将軍を任命する時に印綬や鉞(えつ=まさかり)を授けたりしている。位階に応じた印綬を授けるのも、軍事指揮権に併せて鉞を授けるのも中国のシステム制度そのものである。鉞については、『日本書紀』継体天皇紀に次のような記録がある。

 継体天皇が、謀反を起こした筑紫の君・磐井の討伐を物部麁鹿火に命じるとき、鉞を手にとって麁鹿火に授けていった。
 「長門以東は朕が制す。筑紫以西は汝が制し、賞罰も専行して煩頻に奏すなかれ」。
 (長門より東は私が制する。筑紫より西はお前が制し、賞罰も独断で行ない、私にいちいち諮問しなくてもよい)。
●鉞に付随する特別機能
①賞罰の「賞」 とは、軍功者の報奨・昇進。
 この一文によれば、天皇の許可なくこれを独断で行なう専断権を授けたことを意味する。
②賞罰の「罰」とは、命令に従わない者・軍規違反者を処罰すること。
 その権限の印しが鉞(まさかり)である。鉞を授けたことは部下の生殺与奪の権限と、全軍に対する絶対的命令権を授けたことを意味する。一旦戦うことを命じられた者が生き残る道は、戦って勝つしかないわけである。
③「長門以東は朕が制す、筑紫以西は汝が制し」は、戦地となる筑紫以西に関する全権を委譲すること。「制する」は「統制する」という意味で、制圧や統治するという意味ではない。
④「煩頻に奏すなかれ」は、「私に相談したり許可を得ることなく独断でやってよい」という意味。
 戦場にあっては、「将軍は天子の命令をも退ける」というほどの極限状況にある。九州の戦地から大和にいる天皇のところへ、いちいち指示や許可を仰ぐ暇などないわけで、これは至極当然の措置である。

 この一連の文言の意図するところは、物部麁鹿火に心おきなく軍務(磐井の討伐)を遂行させるための方策である。こうした権限授与も中国の軍事システムに倣ったものである。(この事実を知らないと、「継体天皇と物部麁鹿火で列島を二分して支配した」「九州に磐井王朝と大和に継体王朝があった」などという、史実に反逆するかのような風説を鵜呑みにし兼ねない)。
 


※殷代の銅鉞(写真提供:考古用語辞典)

 鉞の授受のほかにも、土の下から出る馬型埴輪は、申し合わせたかのように中国式の鞍と鐙をつけている。(これらは中国の騎馬文化であって騎馬民族は裸馬に鐙なしで乗った)。むろん、武器を代表する刀も中国渡りの直刀ばかりである。(後述するが、岸壁に横穴を穿った横穴墓や高塚式墳墓(円墳・方墳)のルーツも、古墳に装飾画を施す様式も幾何学的装飾文様のルーツもみな中国にある)。
 このように、日本列島に国家というものが誕生して以来、古代王家・王国の人びとは一貫して、中原王朝の国家体勢とその文物文化・精神文化に倣ってきたのである。その倭人は「黥面する・文身する・お歯黒をする・文字をもたない」非漢民族である。(明治時代始めまでは皇族・貴族もお歯黒をしていた)。いまだに、渡来人による倭国征服政権を標榜する向きもあるようだが、仮にも、弥生以降の倭国政権が渡来人によるものだとすれば、それは長江流域から渡来した(時代によって)三苗・南蛮・荊蛮・百越・南越など呼ばれた非漢民族であると断言できる。


●『三国志』東夷伝の予言
 実は、3世紀前半に倭国と倭人に関する目撃証言を書いた『三国志』東夷伝が、驚くべき証言と予言を書き残している。
 「これらは夷狄の邦といえど、俎豆(そとう)の象(かたち)が存在する。中国に礼が失われたとき、四夷にそれを求めることもあるをなお信ず。それゆえ、これらの国々の特徴や相違点などを順を追って列挙し、従来の史書に欠けていた部分を補おうとするものである」。(ちくま学芸文庫『正史三国志』)
 
 ここでいう俎豆の象とは、天子が天地神をまつる祭祀儀礼様式を指す。すなわち、3世紀に訪れた中国人たちが見た倭国には、天地神を祀る儀礼様式とこれに基づく統治体制で経営されていたことを告げている。
 古代における祭祀は政治でもある。つまり、倭国支配層は国家経営の手法上、中国天子の天地神を祀る儀礼様式と、これに付随する事物を信仰対象としてきたのである。大和における中央集権的統一国家体制も、ある時期に突然生まれたわけではない。右上がり傾斜の緩やかな時代の成熟過程の中にあって、3世紀にはその雛形(中国王朝に倣った中央集権的統一国家体制基盤)がすでに見えているのである。実に驚くべき証言である。 

 遥か5000年ほど前に中国で生まれた聖人君子(聖天子)を頂点とした制度の、その理想的原型と祭祀儀礼とを、21世紀の現在まで残しているのは世界中を探してもわが日本しかない。まさに、「中国に礼が失われたとき四夷にそれを求めることがあるかも知れない」といった東夷伝序文の予言通りとなっている。



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