邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●狗奴国と投馬国

2011-07-28 | ●邪馬台国始末
●狗奴国と投馬国
 九州には3つの特徴的な盆地がある。それが、日田、人吉、都城である。ともに、大河川の上流部に位置している。大河川上流部の盆地は優良地で、勢力の強い豪族や王族に与えられる。したがって、この3つの盆地が有力国として『倭人伝』に書かれている可能性は非常に高いものがある。
 面白いことに、海と河川と盆地の関係構造も非常によく似ている。たとえば人吉盆地は、球磨川の上流部にあって河口部に八代という港湾都市を抱えており、一帯には最古級の古墳群がある。都城もまた大淀川河口部に宮崎市という港湾都市が控えて、周囲にはやはり古い古墳群がある。両者とも墓域を主要河川の下流域から河口部に設けたものとみえて、盆地内にさしたる大古墳がないことでも共通している。また、「今出ている時点」でいえば、日田のダンワラ遺跡からは金銀錯嵌鉄鏡が出土しているし、人吉の才園遺跡からは鍍金鏡(画文帯神獣鏡)が出土している。両者とも別格の鏡といって良いだろう。
 (大古墳のあるところが勢力の中心地と考えがちだが、墓域は郊外につくられるものである。大河川上流部に位置する盆地の勢力は、大河川の下流域から河口域までを支配・管理しなければ海へ出る手段がなくなる。私は、大淀川下流域の古墳群は投馬国から続いて都城と諸県郡を領有した豪族の墓域とみる。一方、狗奴国は古墳時代には存在していなかったはずだから、球磨川河口部の古墳は、狗奴国のあと人吉盆地を与えられた豪族の墓だろうとみている)。


●狗奴国
 私の知るかぎりにおいては、多くの人が熊襲のモデルに狗奴国をあげる。だが、熊襲は大和朝廷成立後の服わぬ地方部族として書かれており、時代がまったく異なる。安易なゴロ併せに走るのは禁物である。
 それでは、狗奴国の実態はどうだったろうか。私は先に、「対島、大率、大倭、持衰」など倭人が使ったと思われる名称の存在に着目して、倭人はある程度は漢字名称を使っていたのではないかという推論を述べた。狗奴国という呼称についても、倭人が舊奴国(旧奴国)で「くなこく」と発音していたものを、中国人が狗奴国と書いた可能性をみる。
 そこで仮に、狗奴国が舊奴国(旧奴国)だったとしよう。
 まず、1世紀初めごろから力を増してきた倭奴国が、2世紀初頭に帥升によって倭国を統一する。その7~80年後に、最後の男王が死んだところで後継者争い(倭国の大乱)が勃発。長年の抗争の末に、もともと100余国あったという九州倭国は、女王・卑弥呼を頂点とした30カ国ほどに整理されてと収束したようである。
 この時、旧奴国(古豪倭奴国から続いた)勢力は奴のつく9ヵ国に分断された。倭奴国から続く遺臣が多かった中心勢力は人吉盆地を与えられた。ここは、奈良盆地に匹敵するほどのポテンシャルを持った土地で、客観的にも有力者が領有し本拠地としたことは容易に推察できる。そうして彼らは、本来の本拠地だった「隈」にちなんでこの地をクマ(球磨)と呼んだ。
 そこから2~30年ほど経って起きた女王国と狗奴国の抗争は、卑弥呼を擁した新・倭国連合対、倭奴国時代から続く遺臣たちが卑弥弓呼を擁した旧奴国という、新旧勢力抗争の決着戦だったとも考えられるのである。その結果として、魏の郡支援を受けて新たな武器・戦法を手にした女王国側が勝ることとなり、狗奴国勢力は女王国勢力の軍門にくだったと見るべきなのかも知れない。

●卑弥呼と卑弥弓呼の関係
 『倭人伝』のいう卑弥呼と、狗奴国の男王・卑弥弓呼の「素より和せず」は、二人の素が同じだったことを匂わせている節がある。というのも、「もともと・以前から」という時間的継続の意味で「もと」をいう場合、『倭人伝』は「旧」と「本」という文字を使用している。「素より和せず」の「素」は、もっと根源的な出自や血縁をいうニュアンスを感じさせるからである。
 また、「○○ひこ」「○○ひめ」が有力者の子女への命名パターンの一つだったところからみても、二人が血縁関係にあった可能性は非常に高い。これは「同族」よりもさらに近い姉弟の争いである。私が「二人は姉弟の関係ではないか」と発表したのは平成2年だったが、その可能性は誰しも感じていながら、あえて口にしないだけなのかも知れない。要するに「そこ」は、多くの邪馬台国論者にとってアンタッチャブルの世界のようなのである


●投馬国
 宮崎県で最も豊かだったのは、都城盆地を含む諸県郡から鹿児島の肝属郡にまたがる地域で、九州東側では数少ない平地エリアを有し、九州では飛び地的に弥生の人口密集地でもある。前方後円墳の分布や有史以降の文献をみても、この地が政治的にも重要だった節がある。とくに都城盆地は、宮崎側と鹿児島側を陸路で結ぶ要衝でもある。投馬国の本拠地候補としては文句なしのナンバーワンである。
 先に、西都市の都万と八女市の妻を「とうま」に比定する事例に触れたが、それならば都城市にも豊満という古い地名が残っている。これは地元では詰まって「とみ」と発音するそうである。
 大きく蛇行した大淀川を遡って到着した都城市……。ここが投馬国の中核都市であり、宮崎県側と隼人国・鹿児島県側との陸路の要衝として重要な役目を担っていたはずである。
 ※古来、一人の世継ぎが王と決まれば、他の継承権を持つ者は、継承の色気がないことを示さないと立場が危うくなるし、ややもすれば命さえも危うくなる。新たに王となった者の近親血族は、多くの場合は領地を与えられて、王に恭順の姿勢を見せながら生きながらえることになる。中国では、近親血族や功臣(ほかには前王朝の関係者)などが、それぞれに領地を与えられて諸王・諸侯となる場合がほとんどである。むろん、その国力をもって国家のために貢献しなければならない。こうしたことはいずこも同じで、人吉盆地は狗奴国、都城盆地は投馬国、ともに王族に与えられた国で、 倭国の有力国として南端の隼人に対するクサビを兼ねて置かれたものと私はみている。

●九州南端の隼人に備えて置かれた投馬国と狗奴国
 卑弥呼が女王に立てられた時30カ国に整理して収束した時点では、狗奴国は、服わぬ九州最南端の隼人勢力に対する防壁を兼ねて置かれた国ではなかったかと私はみている。
 九州山地東側の隼人勢力に対する防壁は都城を本拠とする投馬国。西側の防壁は人吉盆地を本拠とする狗奴国。弱小国では隼人に対する防壁は務まらないから、相応の国力をもった国だったろうことは容易に推察できる。事実、投馬国は5万の人口を有していたというし、狗奴国も、女王国側と単独で戦争をするほどの国力を持っていたのは事実である。


❸幾つかの矛盾
 土地の歴史、土地の呼称、その地勢と立地環境、防衛体制構想などを盛り込んで、ピンポイントで邪馬台国と思しき場所を比定した。だが、私の考察も完璧ではないから、幾つかの矛盾や疑問が残る。そうした点を正直に開示するとともに、可能な限り補っておきたい。

●方角の矛盾
 私が進んできた末盧国から伊都国・奴国の東南の方角が、唐津湾からの厳密な東南の方角からは少しずれている。これについて少しだけ弁明させていただく。
①8方向方角表記に生じる「あそび
 『倭人伝』の方角表示は、道案内などで私たちが普通に使う方角と同じで、東西南北の水平垂直4方角と、これに対する45度の4方角を合わせた8方角になる。たとえば東南は、東と南が形成する90度角度の中間の方角にあたる。360度方角を45度区切りの8方角でいう場合、東と東南、あるいは東南と南とで形成する中間(22・5度)の方角を何というべきか。人によっては東というだろうし、別の人は東南ともいうだろう。8方角でいう前提でいえば、この場合はどちらも間違いではない。360度方角を8つの方角で説明する場合、こうした「あそび」ともいえる方角のずれが宿命的に伴う。『倭人伝』は南南東や東南東というさらに細かい方角表現を使っていないから、8方角表現にはやや「あそび」があることを念頭に置く必要がある。



※図の黄色い矢印で示した角度が「東南」と表記され兼ねない「あそび」の幅である。

②誤差が出る場合の誤差の度合い
 当時の倭国の国々や都市は、地勢や地形や立地関係に合わせて出来ていたわけで、互いが東、東南、南の幾何学的な関係で配置されていたわけではない。すべての方角がこの8方向にきっちり該当したわけではないから、ややアバウトになるのはやむを得ない。換言すれば、8方角説明そものが誤差が出ることを前提とした方角説明なのである。その場合の最大誤差の度合いが、45度の2分の1にあたる22・5度である。これが、ここでいう誤差が出る場合の最大数値である。
 とはいうものの、必ずしも誤差があったとはいわないし、約20度ずつ次から次に誤差が出るといった積算詭弁を述べているわけでもない。要は、アバウトさを承知で書かれた方角表記をとりあげて、柔軟性のない解釈をするべきではないといいたいのである。

③投馬国までの日程の矛盾
 私は、帯方郡から投馬国までの行程と日数を水行20日と読んだ。その内訳は、帯方郡から末盧国(この場合は唐津)まで水行10日で、末盧国(もしくは博多)から九州島東回り航路をとって大淀川をさかのぼり、投馬国の本拠地(都城)までが水行10日である。
 ところが、帯方郡から末盧国までの水行距離と、末盧国から投馬国までの水行距離とでは後者のほうが短い。この違いは、ある意味で当然である。



 魏の人間が投馬国へ行ったとは思われないから、末盧国(博多)から投馬国までの水行日程は倭人からの聞き取りによる日程と思われる。必然的に、魏の大型帆船による帯方郡から末盧国までの水行と、和船手漕ぎによる(黒潮逆流)水行には速度の違いが出る。
 中国では時すでに大型の楼船が登場して久しい。国家交流使節というものは、自国の誇りと虚栄とを背負ってくるもので、最新鋭の帆つき櫂(かい)つきの楼船でやってきているはずである。仮にあなたが使節船の艦長だったとして、はじめての航海ルートを行くに臨んでは、その海に詳しい水先案内人を起用されるだろう。それなしで無謀な航海をすれば後悔することになる。そうした当事者の立場で臨場感をもって臨めば、大小の島が点在する朝鮮半島沿岸を、縫うように航海できたことにも納得がいくものと思う。
 つまり、大型帆船による航行と手漕ぎ倭船による航行(および河川遡上)とでは、前者が進む距離は後者の2倍ではすまない。そうした違いが、両者が10日間で進んだ距離の違いに現れているものと私はみている。




※写真上は現在の大淀川河口付近 ※写真下は大淀川中流付近(写真提供 : 島田 直樹)
緩やかな流れが都城まで続いている。投馬国の本拠地たる都城まで、帯方郡から唐津または博多を経て水行だけで20日という行程仮説の正しさを川が証明してくれる。

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