邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

4・海路距離表記の実態

2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件
●海路距離表記の実態

 帯方郡から狗邪韓国までの朝鮮半島沿岸部の海路7000余里を、魏の公式尺度でいえば3000km強になる。 狗邪韓国・対馬間、対馬・壱岐間、壱岐・唐津間の渡海距離はそれぞれ1000里とあるが、魏の公式尺度でいえば432kmになる。海路距離はいずれも途方もない数値だが、従来は、この途方もない数値を「誇大表記」「いい加減」という逃げの詭弁でやり過ごしてきた。 
 中国では王莽の地皇年間に、楽浪郡が大きな船を回して辰韓から1000人の捕虜を奪還し、1万5000人の賠償捕虜を獲得して帰還している。 魏代よりも遥か以前に、大型船による朝鮮半島沿岸航行のキャリアはあるし、朝鮮半島沿岸距離は把握している。しかるに東夷伝の場合は、表記したような途方もない海路距離数値が、訂正もされずに校閲をパスしている。これはどういうことだろうか。

 海路距離は正確な測定が不可能である。測定が不可能なものを距離数値では記録しようがない。
 また、航行速度は状況によって馬のような速度の場合もあれば亀のような速度の場合もあるから、あくまでも一概にはいえない。何しろ、1日に1000里を駆けるたとえで「千里馬」、1日に1000里を航海するたとえで「千里船」という言葉が生まれたほどなのである。そうしたことから、舟士たちの間には海上航海距離を「一日航海千里」「一航海千里」とする符牒のようなものがあって、ほとんどの事例がそうであるように1000里単位か日数単位で表記するに至っている。(極めて稀な例として、目視可能な短距離を300里、400里と書いているが、圧倒的大多数は1000里単位か日数単位表記である)。
 船行・海行・水行と書かれた記録を拾ってみよう。

●海路の日数表記と1000里単位表記
『漢書』 地理志
 自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月。
 有都元国、又船行可四月。
 有邑盧没国、又船行可二十余日。
『魏略』西戎伝
 従安息界安谷城乗船、直截海西、遇風利二月到、風遅或一歲、無風或三歲
 (風利に恵まれれば2月で至る。風遅ければあるいは1年、風なければあるいは3年)
 水行半歲、風疾時一月到
 (水行半年、風疾る時1月で到る)
 西南又渡一河、乗船一日乃過。
 西南又渡一河、一日乃過。
 復直南行経之烏遅散城、渡一河、乘船一日乃過。
 周迴続海、凡当渡大海六日乃到其国。
『晋書』陶璜伝
 又南郡去州海行千有余里 (1000里単位)
 又廣州南岸、周旋六千余里 (1000里単位)
 自東莱出石経、襲和龍、海行四百余里 ( 100里単位)
『隋書』流求国伝
 流求国、居海島之中、当建安郡東、水行五日而至
 赤土国、在南海中、水行百余日而達所都
 百済……其南海行三月、有□牟羅国
『南斉書』林邑伝
 南夷林邑国、在交州南、海行三千里
『旧唐書』
 自安南府南海行三千余里至林邑 (1000里単位)
 墮婆登国、在林邑南海行二月
 自交州船行四十日乃至
『新唐書』
 自州正東海行二日至高華□、又二日至□□□、又一日至流求国
 廣州東南海行二百里至屯門山 (100里単位)
 乃帆風西行二日至九州石、又南二日至象石、又西南三日行至占不勞山
 直交州南、海行三千里 (1000里単位)
 自交州海行四十日乃至
 東南有拘□蜜、海行一月至。南距婆利行十日至。東距不述、行五日至。西北距文單、行六日至。
 投和、在真□南、自廣州西南海行百日乃至
 ※(□は表記不可文字。日数表記と1000里単位表記の事実確認の項につき、本論に差し支えないと判断して表記不可のまま提示)。

 中国人にも不器用な考え方の人間はいたとみえて、実際に千里船をつくって実験したという記録が『南斉書』祖沖之伝にある。
 南斉の科学者・祖沖之は、1日に1000里進むという船をつくって、新亭江に浮かべて実験をした。その結果は1日に100余里しか進まなかったというのである。ここでいう新亭江がどこかは定かではないが、その名からみておそらく河川か入り江だろう。海路でいうアバウトな千里を、河川に船を浮かべて試したのだとすれば、航行速度も航行距離も比較にはならなかったろう。
 また、河川距離は陸地に沿って計測できる。ある程度は正確に把握できるから、極めて現実的な数値が出たというところか。千里船とはいっても、実際に船が1日に1000里進むというのではない。早いことの「たとえ」にすぎないのである。
 つまり海路距離の場合は、日数で表記するか千里単位で表記するしか方法がなかった。『倭人伝』の場合は、1日航海分を1000里単位で表記している。魏の公式尺度でいえば1000里は432kmにもなる。ところが実際には、釜山から対馬、対馬から壱岐、壱岐から松浦半島(唐津)間は、それぞれ100kmにも満たない上に、それぞれの距離もまちまちである。この海路距離を、実際の距離とは無関係に一律1000余里としていることが、「1日航海分を1000里単位で表記」の事実を告げている。


●海路距離表記が陸路距離とは無関係である証拠
 韓伝のいう方4000余里を正方形に近い版図に想定すれば、東西4000余里と南北4000余里の二辺の合計は8000余里になる。すでにこの時点で、『倭人伝』のいう(帯方郡の港があったと思われる仁川あたりから狗邪韓国に比定される釜山あたりまでの)沿岸水行7000余里とは合わない。仁川から釜山までの沿岸航行距離のほうが長いのに、陸路距離の8000余里より短い7000余里となっていて、両者は単純比較で距離が合わない。これが現実である。このように、「水行7000余里」という表記が、陸路距離とはまったく無縁の基準で表記されていることが分る。(私のいう陸路距離尺度も海路距離表記も、巷間の一部に漂う短里説とは、論拠も導き出し方も基本的に異なる)。



※三韓の方4000余里は、帯方郡治候補地のソウルよりも南方に収まる。仁川から釜山までの海路距離(青線で描いた想定航路)は、方4000余里の2辺合計8000余里よりも長いのだが、これを7000余里と記録している。

 くり返そう。海路距離は正確な測定が不可能である。測定が不可能なものを距離数値では記録しようがない。では古代中国人たちはどうしたか。正確に距離測定ができない海路について、中国正史は次のような表記法をとっている。
①航海日数単位(日月年)または1000里単位(千里・万里)で表記する。
②1航海を1日単位で表記する方法と、1日分の航海距離を1000里と表記する方法がある。

 たとえば、水行3000里とあれば3日航行で、逆に水行3日とあれば3000里航行を意味する。 誤解のないよう申し添えるが、ここでいう「1日航海1000里」「水行1日1000里」は、千里馬、千里船と、何かと大ぎょうにいう中国人の「表記法」であって、実際に1日に1000里航海したというのではない。実際の距離とはまったく無関係なアバウト表記法である。
 ※水平線しか見えない大海原を行くのに、1日でどれだけの距離を進んだのかは測りようがない。測りようがないのだからアバウトな距離数値で表記するしかない。そのアバウトな数値こそ、数多の正史が1000里単位で表記していることから、1日航海1000里、1航海1000里という表記法を採ったものとみなされる。すなわち裏を返せば、1000里単位表記は1日航海・1航海単位を意味する。
 (目測可能な2~300里の近距離を例外とすれば、海路の里数表記例は1000里が最小単位である。1日あたり500里表記とか、1日あたり3000里表記が基準だった可能性はない。また、そうした数値では割り切れない里数表記が現実に存在する)。
 ※そのことを、距離が異なる釜山~対馬・対馬~壱岐・壱岐~唐津間のそれぞれの海路距離を、現実とはかけ離れた1000里という途方もない数値で表記していることが物語っている。
 対馬暖流は、対馬海峡の西水道(韓国側)と東水道(日本側)から入り込み、周期的に変化せず川のようにほぼ一定の速さで流れている。西水道で最も速い流れは時速6・0kmになる。こんな海流の途中で停泊しながら2~3日かけて渡海したと考える人は皆無だろう。要するに、距離も航海時間も異なる海峡をそれぞれ1日航海・1航海で渡海しているのだが、これを一律1000里で表記しているのである。

 かくして『倭人伝』は、帯方郡から狗邪韓国までの海路の7000余里と、狗邪韓国から末盧国にいたる海路3000余里の合計1万余里を、邪馬台国に至る総距離に組み込むことになる。それがすなわち、「帯方郡から女王国までの総距離は1万2000余里」である。
 だが、ここでいう1万里は1日航海を1000里単位で表記した数値であり、実際の距離とはかけ離れている。あくまでも「表記方法」である。そこで『倭人伝』担当者は、1000里単位で表記してきた1万余里を日数表記に置き換えて、「水行十日」とすることになる。
 
 先に私は、水行十日陸行一月は帯方郡から邪馬台国までの全行程と通算日数であると述べたが、その中の水行日数(海路日数)の十日が、帯方郡から唐津あたりまでの所用日数であり、これがすなわち『倭人伝』のいう1万余里である。
 白村江の戦いのとき倭国側が百済に5000の軍を派兵したときの所用日数が、畿内から2週間だったという話を聞いたことがある。また、16世紀に日本へやってきた朝鮮通信使節団の海路日程は、風待ちや天候待の日数を除いて実際に要した海路航海日数は、行きも帰りも20日程度だった。こうしたことに鑑みれば、帯方郡から唐津湾あたりまでの海路日数の10日は現実的な数値である。
 以上のことを踏まえて、『倭人伝』のいう日程と行程と里程の関係をまとめる。

◆帯方郡から邪馬台国に至る総距離は1万2000余里である。
◆この内の1万余里は、1日航海1000里単位の水行十日分を置き換えたものである。
◆1万2000余里の踏破に要する行程と日数が「水行十日と陸行一月」である。
◆水行十日を経て九州に上陸したあと、残る邪馬台国までは陸行2000里である。

  むろんこの読法だけが、帯方郡から女王の都に至る「方角・日程・行程手段・距離」のうち、一つとして欠落することのない読みとなる。


 ※昭和50年のこと。角川文庫の月刊『野生時代』の創刊にあわせて、古代船を復元して朝鮮海峡を渡るという計画が実行された。野生号と名づけられたこの船は、宮崎県西都原遺跡から出土した舟形埴輪をモデルに造られたもので、下関商船大学の学生がクルーとなって実験航海した。
 西都原遺跡から出土した舟形埴輪は、平底のぼってりとしたつくりで、外洋航海用ではなく河川や湖に浮かべた祭祀用飾り舶の風情がある。そもそも外洋で使えるわけがない船を、専門の海人ではなく学生アルバイトに漕がせたという。要するに野生号は、考古学的実験ではなく「月刊誌の宣伝イベント」だったのである。巷間では、時としてこのイベントの結果を真に受けて、古代船の航海スピードや1日の航行距離を割り出す材料にする例をみかける。 

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