邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●付記1・邪馬台の証明01

2011-07-28 | 付記1・『倭人伝』始末
 『後漢書』『梁書』『隋書』『太平御覧』など複数の中国歴史書が邪馬臺国と書いているにもかかわらず、私たちがテキストとする12世紀改訂の『紹興本』『紹煕本』の『三国志』倭人伝が、臺に似た壹という文字を使って邪馬壹国と書いている。この両者は、わずかな違いはあるが『咸平本』→『汲古閣本』の流れを踏襲しているとみなされる。  では、なぜ「邪馬壹」と書かれたのだろうか。ここでは邪馬臺国(邪馬台国)で展開して . . . 本文を読む

付記1・邪馬台の証明2

2011-07-28 | 付記1・『倭人伝』始末
●誤字や異同の発生要因  私たちが議論の対象とする文字の違いや異同には明白な理由がある。 ❶「臺と壹」「堆と推と惟」「摩と靡」「譯と驛」「土と上」「與と輿」「支と大」「王と三」「古と右」など、視覚的な錯誤(類似による思い込み)が原因と思われる間違い。 ❷「俾と卑」や「倭と、人へんに妥」など、文字づかいの違いによる異同・異字体である。(文字づかいの違いは人間の個性や感性の . . . 本文を読む

付記1・景初2年の証明01

2010-05-18 | 付記1・『倭人伝』始末
❶景初2年の証明  ここでは、卑弥呼の魏への最初の朝献年を「景初2年(238年)」として展開してきた。私たちが資料とする刊本も景初2年と書いているのだが、「魏志にいう景初3年」としている関連本があることを根拠に、3年とする意見が半ば定説化した感がある。だがそれは、刊本の前後関係の脈絡を比較して見た結果にすぎない。私の考察によれば、「『魏志』にいう3年」そのものに問題がある。それこそが . . . 本文を読む

付記1・景初2年の証明02

2010-05-18 | 付記1・『倭人伝』始末
❷景初2年だった証拠  東夷伝自身が判然とできなかった帯方郡太守の着任を、数々の状況証拠から公孫淵討伐の前だったとした。だが、この問題は原典が曖昧にしているだけに、「景初2年か3年か」を決定する決め手にはならない。そこで今度は、『倭人伝』の記録全体が「2年だった」と証言している直接証拠を提示する。 ◆倭人伝』の魏と倭国の交流経緯をみると、倭国からの第一回の朝献に関してだけ、異例に . . . 本文を読む