邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●冊封体制という用語の誤解

2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報
●冊封体制という用語の誤解
 朝貢外交に関連して誤解されやすいのが冊封(さくほう)という言葉である。誤解したまま、倭国が中国王朝に臣従していたという逆さまの歴史を語る傾向が強いので、誤解をなくすために特にこの件について触れておく。

 1962年に西嶋定生氏が唱えた冊封体制とは、「中国の皇帝とその周辺諸国の君主とが名目的な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序」をいう。
 「名目的な君臣関係」というところにご注目いただきたい。要するに、藩外(天子の支配領域外)の周辺異民族国家が、天子を奉り形式的に臣下の形をとって朝貢外交を展開し、中国を中心として形成する国際秩序をいうわけである。
 古代の中国に冊封という言葉はないが、封冊(ほうさく)という言葉はあった。これは、天子が諸王・諸侯を封じ諸官・諸将を拝する封拝(領土や官位を授ける)の公式宣下文言を書いた書で、冊書(さくしょ)ともいう。現代風にいえば辞令のようなもので、藩内の王侯や諸将・諸官に対して用いられた政治手法の一つである。
 むろん、封冊を用いた封拝行為そのものを「体制」とはいわないし、冊封とか冊封体制という言葉はもともと古代の中国には存在しなかった。これは、現代の日本人学者の造語である。この部分にとくに注意する必要がある。

 この冊封とか冊封体制を安易に誤解したり拡大解釈して、藩外にある倭国の朝貢をとりあげ、「倭国は冊封体制に組み込まれた」とし、そのまま「中国に実質的に臣従していた」とする2段論法が少なくない。そうして、倭国と中国の関係と歴史とを180度違った観点から語ることになる。だが、それらは基本的な所で歴史を見誤っている。

 そもそも、5服・9服の制度をつくった中国王朝自身が、藩外の異民族王に対して「封じる」という表現をしてはいない。現実問題として、倭国王に対して「封ず」という文言が使われた事実は一度もない。せいぜいが「王と為す」「○○を假す」「徐す」「進めて号す」である。
 むろん、定期的な貢献や兵の拠出などの義務を負わされた事実もない。古代における倭国は、50年に一度130年に一度という具合に、倭国側の都合で朝貢外交を展開したにすぎない。何よりの証拠に、歴代の中国王朝が倭国の朝献・朝貢を化外慕礼に位置づけている。
 こうした事実を見れば、藩外の異民族に対して「封」という言葉を用いて「冊封」という表現を使うこと自体が、歴史用語としては間違いであることが分かる。「封」とは、あくまでも皇帝の臣下や功臣・王族などに領地・領民と王侯の位を封(あた)える場合に用いる言葉である。
 中国皇帝が倭国王を封じたわけでもなく形式的に王と承認したことを、「封じる」の封という言葉を使って冊封としたことが、歴史用語としては誤解をまねく一因をなしているようである。


●朝貢義務・貢献義務について
 『三国志』韓伝には、衛満に滅ぼされた朝鮮王の話から続く韓の歴史の一文で、「漢代には楽浪郡の支配下に置かれ、季節のサイクルごとに役所に来て朝貢していた」とある。
 藩内にあって属国関係が存在すれば、このように何らかの朝貢が義務づけられる。それも、倭国のように50年や130年に一度ではなく、季節のサイクルごとや年季ごとにである。
 中国王朝に対して実質的な服属義務や貢献義務が存在したのは、中国自らが制定した九服制度に組み込まれた藩内の諸国である。(東夷諸国でいえば玄菟郡下の高句麗や夫余など周辺異民族の範囲にとどまる)。
 むろん列島の倭国は、皇帝の言葉(『三国志』魏書・武帝紀の注に見える献帝の詔)を借りれば、文字通り「藩甸(はんでん)の外」すなわち藩外にあって、歴代の中国王朝から兵士の拠出や定期的な貢献といった義務を負わされた事実はない。

 また、卑弥呼が朝献したことや、使者の難升米たちが率善中郎将の官位と銀印を頂戴していることをあげて、倭国が魏に臣従していたとする言説もあるが、天子が藩外の異民族に王号や官位を与えるのは、天子政府の外交手法の一環であり実質的な臣従関係はない。現実論として、服属するために好んで遠くから朝献・朝貢する好き者はいないのである。
 さらに、難升米が頂戴した率善中郎将だが、これは禄高が最高で2000石の親衛隊の高官である。だからといって、難升米が魏皇帝の身辺警護で実際に働いたわけでもなく、魏政府から報禄を頂戴したわけでもない。あくまでも外交形式のうえに授けた名誉官位である。

 ※何ごとにも例外もあれば、考え違いをする者もいる。私の原則論に反するような記録が、ただ一例だけ中国の歴史書に登場する。
 『旧唐書』によると、唐太宗は倭国から唐都への道中の遠いことを矜み、歳ごとの貢献を無用とする勅令を出して、倭国を慰撫するために新州刺史の高表仁を使節として貞観5年に倭国に遣わしている。これをみると、まるで歳ごとに朝献・朝貢する義務があったようなみえるが、これは唐太宗のフライングともいえる尊大な発言である。事実彼は、遠い倭国に返礼と慰撫の使節を派遣するなど、藩外国に対する外交儀礼を行使している。
 唐以前のこと。隋の使節が国書を倭国王に引き渡すとき「両度再拝した」と『日本書紀』にあるが、これは四拝の礼といって臣下がとる礼である。江戸時代の朝鮮通信使も四拝の礼を要求されて拒絶し、日朝関係者の間でちょっとした悶着が起きた。このとき、徳川将軍に四拝するのではなく、自国の国書(朝鮮王の親書)に四拝するということで妥協点をみいだしている。
 倭国は隋の使節にさせたように、高表仁にも四拝の礼を要求したのだろう。だが、高表仁はこれを拒絶して朝命(太宗の言葉)を伝えないまま帰国している。このいきさつを書いた『旧唐書』は、さすがに「高表仁に綏遠の才(丸くおさめる才覚)がなかった」と一歩引いた書き方をしている。
 もしも倭国が唐に臣従していたのであれば、使節に四拝の礼を要求すること自体不遜だったろうし、使命を果たさず帰国した高表仁も無事には済まなかったろう。


●『三国志』韓伝の精査
 冊封や冊封体制という言葉を使って、倭国が中国に臣従していたとする史観が拠りどころとするのが、次の『三国志』韓伝の記録だろう。

 「桓帝から霊帝の末のこと、韓ワイの勢力が増して、楽浪郡やこれに属する県の力では制することができず、中国から楽浪郡の南部にきていた開拓移住民の多くが韓国に流入した。献帝の建安年間のこと、遼東郡太守の公孫康は屯有県以南の開拓民が入植していた荒れ地を分割して帯方郡を置き、公孫模や張敞らを遣わしてその地に残っていた開拓移住民たちを結集し、兵をおこして韓ワイを討伐させた。その結果、韓国に流入していた民衆も少しずつ元の地に戻ってくるようになった。これ以後、倭韓は帯方都に属すこととなった」。

 朝鮮半島の倭と倭人の存在についてはのちほど触れるが、これはまさに、公孫康が朝鮮半島に勢力を広げて帯方郡をおいたことを機に、韓と半島の沿岸地帯にあった倭が帯方郡に所属した経緯を述べた記録である。
 この記録を、海を隔てた列島の倭全体が帯方郡の支配下にあったように拡大解釈して、「魏が公孫氏から帯方郡を奪還した時点で三韓も列島の倭国も自動的に魏の支配下におかれた」とする三段論法するわけである。
 つまり、公孫康が帯方郡を置いた時点で倭も服属した。その後も公孫恭・公孫淵と引き続き服属して、さらに、魏が公孫淵から帯方郡を奪還した時点で、韓と倭も自動的に魏に服属したというのである。だが、公孫氏や魏が現実に海を渡って列島を征服した事実はないし、 ここは、倭韓は「韓地の倭」と韓と解釈したほうが話の筋が通る。

 遼東郡は長城の東端に位置し、東夷と北方民族の動向監視と侵入を防ぐ要衝だった。そのために、周王朝期に燕が遼東郡を設置して以来、秦・前漢・後漢と引き継がれ、中原政府が任命した太守が着任してきた。中でも公孫度の立ち居振る舞いは天子のようだったというし、遼東郡太守の身でありながら、勢力を拡大して楽浪郡と玄兎郡を置く。これに味をしめた息子の公孫康は楽浪郡の南部を分割して帯方郡を置いた。孫の公孫淵の代になると魏への恭順姿勢をみせながら遼東を確保しつづけ、呉からの連合密約の誘いを一蹴したかと思うと魏にも逆らい、ついには自立して燕王を自称する。これが司馬懿の出征につながったのだった。

 魏はこれに先がけて、密かに楽浪と帯方の二軍を懐柔して魏に帰属させたが、『三国志』魏書の帝紀から伝にいたる全体を見渡しても、この時に韓が魏に服属した形跡はない。むしろ、次に提示するように「服属していなかった」とする証拠を記録している。
 「公孫淵討伐後の246~7年ごろ、前漢代に韓が楽浪郡に属していたことを理由に、魏は楽浪郡と帯方郡太守に命じて、辰韓12カ国のうち8カ国を分割して楽浪郡に併合しようとした。このことを韓人に伝えた通訳の誤訳で話こじれ、怒った韓民族勢力が決起した」。この鎮圧戦で帯方郡太守の弓遵が戦死している。
 ここで明確な事実が浮き彫りになる。つまり、韓が公孫淵に属していて魏に引き継がれたのであれば、前漢代に韓が楽浪郡に属していたことを口実にすることはない。魏が「支配下におこうとした」ということは、少なくとも支配下におこうとした247年ごろまでは、三韓は魏の支配下になかった論理に帰結する。 

 万歩譲って、「魏が公孫氏から帯方郡を奪還した時点で列島の倭国も自動的に魏の支配下におかれた」 という論法につき合ってみよう
①魏の支配下におかれたとすれば、倭国遠征から討伐・統治にいたる経過が、『魏略』や『三国志』に書かれていたろう。そうした記録はないし、魏との友好関係もオフィシャル記録にみるかぎりでは、景初2年の倭国からのお願いからスタートしている。しかも、化外慕例の朝貢外交である。
②占領や植民地統治には、最低限の軍隊を派遣し、武装解除したあとで駐留させるのが鉄則である。しかし、『倭人伝』のどこを見てもその形跡はない。
③郡使駐在所が倭国支配の出先機関で、権力者の一大率も魏が派遣したとしよう。ところが一大率は、大事なときに何も働いていない。これも倭人だったからである。
④各国管理の官には中国人を配置したはずだが、明らかに倭人の呼称であり、そこには卑しんだ文字が使われている。
⑤倭国大変を知らせる緊急報告も伊都国駐在の中国人が務めるはずだが、これを実行したのもみな倭人だった。
⑥軍事援助で倭国を訪れた張政たちは、倭国王の後継争いにはタッチせず、内紛後に立てられた女王に啓発意図の教示をして帰国している。  

 弥生後期の3世紀半ばに、「半島が風邪をひけば列島がくしゃみをする」という理屈もなかろうと思う。「親魏倭王」の称号が証明する通り、倭国は魏と友好的交流・親交を展開した藩外の独立国家であり、それ以上でもそれ以下でもない。 古代倭国にかかる歴史を語るには、この事実を踏まえることが大切である。

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