邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

付記3・『宋書』倭国伝の検証

2010-05-18 | 付記3・文献検証始末
❸『宋書』倭国伝

『宋書』倭国伝から倭王・武の上表文
 「封国は偏遠にして藩の外に作える。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉して寧處に遑あらず。東の毛人を征すること五十五国、西の衆夷を服わすこと六十六国、渡って海北を平げること九十五国。王道は融泰にして土を廓き畿を遐かにす。累葉、朝宗して歲を愆えず。臣は下愚と雖も忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆り率い、天の極みに帰崇せんと道遥か、百済に装いを治えて船を舫いだ。而して句麗は無道にも見吞せんと欲して図り、邊隸を掠抄し虔劉を已めず。每に稽滞を致し、以って良風を失い、路を進まんと曰く雖も或は通じ或はしからず。臣の亡考・済は寇讎が天路を壅塞するを実に忿り、控弦百万が義の聲に感激し、方に大挙せんと欲するも奄に父兄を喪い、垂成の功も一簣に獲らしめず。居しく諒闇に在って兵甲を動かせず、これ以って偃息して未だ捷たず。今に至り甲兵を練り兵を治え、父兄の志を申さんと欲す。義士虎賁の文武が功を效すに、白刃が前で交わるもまた顧らざる所。若し帝場ーの覆載を以て此の強敵を摧かば、克く方難を靖んじて前功を替えるは無し」。
 自ら窃かに、開府儀同三司を假し、其の余も咸くを假授し、以って忠節を勧めん。詔して武を使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。

・口語翻訳分
 「封国(倭国)は、帝都から遠く離れ藩外に国を作(かま)えている。私の父祖代々、自ら鎧兜に身を通して山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはなかった。そうして、東に毛人を制圧すること55国。西は衆夷を服従させること66国。渡って海北を平定すること95国。王の行なうべき道は寛大で平和で、土地を廓き京畿の四方を見遥かせるまでにした。そうする中で、累々と葉を重ねるように代々中国に朝貢を欠かすことはなく、歳や春夏時節を違えることもなかった。
 高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪と殺戮をしてやまない。このような状況の中で、中国に向かう朝献の船も航路を失ってたびたび滞る始末で、道を進もうとしても通じたり通じなかったりした。
 私の亡父・済は、群れなす仇敵が帝都に通じる道をふさぐのを実に怒った。弓兵100万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしたが、にわかに父兄に死なれ、成就間近かの武勲も今ひと息のところで失敗に終わった。国中が喪中にあっては甲兵を動かせず、そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができない。
 甲兵を鍛え兵団を整えたいま、父兄の志しを申し述べたいと思う。私は決して賢くはないが、かたじけなくも先人の事業を引き継ぎ、正道を実行するために兵士を従えて道遥か、百済の港に船団を泊めて戦の装いを整えた。率いる義士・勇士の力が戦の功績をもたらすためには、たとえ目前で白刃が交わされようとも顧みないところである。もしも、帝の徳によってこの強敵を滅ぼすことができれば、周辺の様ざまな政治問題をうまくおさめて、代々続けた忠功を替えることはない」。
 帝自ら、「開府儀同三司の官位を与え、他の爵号もすべて与えることで、倭王に変わらず忠節に励むよう勧めよう」との意思で、詔して、武に使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事安東大将軍倭王の爵号を与えた。
 
 理路整然とした名文である。宋の行政府が与えた爵号の中で、武が自称したとする7ヵ国名の中から百済だけが削除されているが、この時期すでに、宋が百済を独立国家として批准していたからである。当時は新羅になっていた秦韓と、同じく百済になっていた慕韓の国名を加えた真意は不明である、ただ、朝鮮半島南部に触手を伸ばしてくる高句麗に対抗すべく、誇大な爵号を必要とした事情は文脈からも察しがつく。
 周王朝下の春秋時代。それまでは地上にひとりだったはずの王号を、楚の熊通が、周室を無視して勝手に名乗った。その発端も、武とまったく同様の要求が無視されたのが原因だった。近隣諸侯との序列優位の証しのためや、旗頭名義として現実に見られた要求行為である。    


●上表文中にいう国について
 五王の時代は5世紀の421年~478年で、すでに大和に統一政権があった時代である。ところが「倭国は藩外にあって(朝貢・朝献の義務はないにもかかわらず)累葉の代々朝宗してきた」と述べている。ここでよくよく考える必要があるのは、五王の50年間ほどを累葉の代々とはいわないし、宋朝が存続した420年~479年間の宋朝への朝宗を累葉の代々とはいわないことである。「葉を重ねるごとく歴代にわたって」とは、大ぎょうにいえば倭国王家の歴代を意味する。必然的・状況的に、以下の「業績」は五王の時代以前のものが含まれている。
 一見して分かるのだが、武の上表文は、国際トップ外交に必要な程度の虚勢(誇張)が含まれている。したがって、ここでいう国とは部族単位の集落・集団や城市を含んでいると思われる。毛人国が55国あった事実はないことで分かり通り、決してみなが国ではない。
①東は毛人を征すること55国 (紀伊半島の山脈一つ隔てた大和の隣りが毛人の国では、絶対に大和に都建設はできないしやらない。3世紀末には関東に前方後円墳が登場することでもわかるが、大和に都を置く以前に毛人は関東以北に駆逐されている)。
②西は衆夷を服わすこと66国 (九州の服わぬ熊襲・熊鷹・土蜘蛛・隼人を含む諸部族を含む九州統一を含む話である)。
③渡って海北を平げること95国 (ここでいう国は、4世紀末以降の朝鮮半島進出における城市などを含むとみられる。百済の建国は346年、新羅の建国は356年。五王の時代(421年~478年)に95国を平らげた事実はない。彼らの半島への武力介入は百済支援の対高句麗戦だった)。


●武が要求したもの 
 それでは、倭王・武はほんとうは何を主張しようとしたのだろうか。
 「父祖の代からの宿敵である高句麗を討つために、帝の大きな裁量で討伐名義の肩書きが欲しい」と述べている。その肩書きが将軍の爵号である。将軍とは、天子がじきじきに任命する軍事指揮官の称号である。この点では『史記』を著わした司馬遷も、天子が乱立して繁雑だった春秋・戦国時代にも厳格に使い分けており、諸侯の軍事指揮官に将軍の称号は用いていない。せいぜいが上将か大将である。つまり天子から将軍の肩書きを得た者は、建て前では天子下にある諸国に号令をかけて、武器類や兵の拠出・連合軍の結成など、様ざまな軍事協力を求めることができる。これが天子を頂点とした時代の作法であり、常識的な手順だった。武はこれを利用したかったのである。
 もう一つ、建前では中国王朝の郡県下に属してきた歴史が長い高句麗と戦うにあたって、宋朝に「ことわり」を入れる(仁義を通す)意図があったとも考えられる。
           

●将軍と幕府
 中国でいう将軍とは、戦争や反抗勢力の討伐に臨んで、天子から預かった軍隊を臨時に指揮する人のことである。中には、将軍職に格別の才能を発揮した軍師もいたが、多くの場合は天子政府の実力者が兼務した。そんな兼務人物には、将軍としての肩書きが追加されるのだが、主に出征する方面や任務内容に合わせた呼称が用いられた。武の「六国諸軍事安東大将軍」とは、「(表記された)6ヵ国の諸軍事を統率して、京都の東方を安泰にする大将軍」という意味だろう。この、「6ヵ国の諸軍事を任かされた」という部分こそ、武が求めんとした肩書きである。実のところこの上表書は、武と倭国主脳の国際感覚と交渉技量のほどを測って余りあるものがある。


●『宋書』倭国伝の読みに関する提言
 この上表文の私の読みが、従来のものしは違う点にお気づきになったことと思う。従来は、次のように「自ら窃かに開府儀同三司を假し、その余のもみな假授し、もって忠節を勧める」という読みで、ここまでが武の上表文言とされている。
 「………自ら窃かに開府儀同三司を假し、その余のもみな假授し、もって忠節を勧める」。
 詔して、武を使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事安東大将軍、倭王に除す」。

 だが、天子を頂点とした厳格な階級制度と上表書に使われている用語の面から、従来の読みは次のような不条理を孕んでいる。

◆「窃かに」の真意:『後漢書』班超伝で、班超が兵力増強を皇帝に上疏した文言にこうある。
「臣が窃かに見るに、先帝は西域を開かんと欲し、故に北方の匈奴を撃ち………」。
「臣が窃かに見るに」は、先帝の思惑を「自分なりに慮れば」というほどの意味で、「窃かに」は内面的な意識動作にかかる表現とみなされる。

◆用語使用の不条理:文中の開府儀同三司とは、独自の公府(幕府)を開く権限と、三公と同等の儀礼を受ける資格を意味する。この開府儀同三司は大将軍に許された資格権限であり、原則的には大将軍と同義語だともいえる。この三公と同等の高位の官位を授ける権限こそ天子だけのものである。まさか、本場の天子に対して本場の天子政府の高官に匹敵する資格権限を、「藩外国」の王たる武が「自ら窃かに開府儀同三司を假す」などと発言をすることはない。天子を頂点とした王朝の制度に詳しい人ならば、これを見ただけで武の文言ではないと判断がつくことである。したがって、これ以上くどく説明する必要はないとは思うのだが、念のため、その他の状況証拠を列挙する。

※開府とは
 (大辞林):役所を設け属官を置くこと。中国漢代、三公(大司徒・大司馬・大司空)に許され、漢末より将軍にも許された。
 (漢和辞書):役所をつくり、部下を置く。三公や将軍に許された制度。
※開府義同三司とは
 漢代に初めて置かれた。開府とは高級官吏が開設する府署のこと。三司とは三公(時代によって呼称が異なる)を指す。儀同三司とは三公と同格の儀礼を受ける資格。
※大将軍とは
 古代中国における各将軍の最上位者を意味する官職。三国時代以降は、その権力は徐々に弱められることとなり、名誉職としての色合いが強まっていった。
 開府が三公(三司)に許された資格であり、漢末からは同じ資格が将軍(大将軍)にも許されたとは、三公と将軍に付随した資格であることを意味する。ただし、宋書が開府義同三司の授受を頻繁に書いているところから判断すると、将軍・大将軍と開府儀同三司とをセットにはしていなかったものと思われる。


●キーワードは将軍号(名誉称号)
 宋書をみると、光禄大夫や車騎将軍といった事務方高官(この場合は開府儀同三司の資格がある三公クラスの高官の名誉称号)、将軍、大将軍に開府儀同三司を与えたことを再三にわたって書いている。(それでも、天子以外の人間が誰かに開府儀同三司を与えたという事例はない)。将軍号と開府儀同三司の大安売りである。とくに、事務方高官に与えた大将軍や将軍は、実務を伴わない名誉称号でいわゆる「将軍号」とみなされる。

◆用語使用の不条理:假・假授は、(ごく稀な例外を除けば)拝封と同じく天子専用の用語である。武の上表文には極めて難解な古語が多用されており、文章的に見ても筆の立つ中国人の手になるものと思われる。その中国人文書家のことだから、まさか本国の天子に対して天子用語の假(与える)・假授(授与)を武の上表文に使うことはない。

◆非現実的シーン:従来の読みでいけば、「自ら窃かに開府儀同三司を假し」は、島国の倭国内で勝手に自分で自分に開府儀同三司を假すのに、「窃かに」やったことになる。これは極めて非現実的な解釈である。歴史の事実からして、勝手に勝手な肩書きを自称することはあるが、勝手に自称した肩書きを中原王朝に承認してもらおうとした事例を私は知らない。そもそも、中原王朝に反抗する者や従わない者、あるいは、中原王朝が認めない場合に「勝手に自称する」のである。

◆文章の不条理:同じく従来の読みでいけば、「その余のもみな假授し」が、「何を」「誰に」假授するのかが不明である。「もって忠節を勧める」が、「誰に対する忠節」を「誰に勧める」のかが不明である。万歩譲って、武が臣下の者に将軍職を与えることを意味していると解釈した場合、忠節を「勧める」ではなく「命ずる」だろう。こんな具合で、まるで文章にならない読みをすることになる。

◆システムの常識:天子から大将軍の爵号を与えられた者はいわゆる旗頭で、諸国(この場合は武の肩書きに表記された朝鮮半島諸国)に号令をかけて軍事協力を求めることができる。武は高句麗討伐のために、それが可能となる大将軍の爵号が欲しかったのである。(事実、倭の五王の中で大将軍の爵号を与えられたのは武だけである)。

◆開府儀同三司の不可思議:武が自称した肩書きが彼の求める肩書きである。だが中国側にとってみれば、承認するまではただの「自称」に過ぎない。武が自称した肩書きの中に開府儀同三司はない。順帝が与えた肩書きの中にも開府儀同三司はない。それでは、件の開府儀同三司とは何で、いったい誰が述べた文言なのか。これが武の文言だとすれば、自称した肩書きにも開府儀同三司が書かれていなければならない。また、順帝の文言だとした場合、武の要求に反して宋政府は開府儀同三司を与えなかったことになる。

 以上のことから、「自ら窃かに開府儀同三司を假し、その余のもみな假授し、もって忠節を勧める」という一文は、順帝が武の要求を容れる意志を文章にしたものと理解しなければならない。すなわち「開府儀同三司を与え…」は、順帝が武を大将軍に徐する意思を表明した言い回し文言とみなされる。
 これに基づいて、問題の部分を以下のように読み分けることを提言する。
  「……帝徳によってこの強敵を滅ぼすことができれば、周辺の様ざまな軍政問題をうまくおさめて、代々続けた忠功を替えることはない」。(ここまでが武の上表文言である)。   
  「(順帝)自ら、[開府儀同三司(大将軍の爵号)を与え、他の称号もすべて与えることで、倭王に変わらず忠節に励むよう勧めよう]と窃めて(考えて)、詔して使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事安東大将軍、倭王の爵号を与えた」。

 


❹『旧唐書』

●『旧唐書』の「別種」について
 倭人国家と唐との交流は、倭国と称していた時代から日本とした時代にわたって長く続いた。そうしたことから『旧唐書』は、倭国と称していた時代と日本と称するようになった時代とを明確に分けて言及している。
 倭国とは古えの倭奴国なり。 京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海中に在り、山島に依って居る。東西五月南北に三月行(の領域を版図とする)。世々中国と通ず。(......以下省略)
 
 ここまでは、先史からの文章伝世を含めて「倭国と称していた時代の情報記録」である。周辺異民族国家やその支配系統の出自・脈絡に対しては関心の高かった中国だから、倭奴国から倭国への脈絡について先史を吟味して触れているが、倭奴国が倭国の前身であるとしている。
・貞観五年(631年)、使を遣わして方物を献ず。
・貞観二十二年(648年)、また新羅に附して(委ねて)表を奉り、以って起居(音信)を通じた。
 これが、倭国と称していた時代の「唐と倭国との通交記録」である。

・長安3年(703年)、その国の大臣朝臣真人来たり方物を貢ず。
 これが、日本国となって最初に登場する遣唐使である。
 703年といえば則天武后の治世晩年にあたる。『唐会要』のいうところを加味して前後関係を総合すると、このあたりが倭国から日本国へ国号が変わった節目のようである。
 『新唐書』は、長安元年の遣唐使・朝臣真人が語ったことをこう書いている。「長安元年(701年)、その王に文武立ち改元して太宝という。 朝臣真人粟田を遣わして方物を貢ず」。701年は、文武天皇が年号を太宝と改めて『太宝律令』が成った年だった。
 問題の『旧唐書』日本国伝の別種の記録をみてみよう。
 日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰:倭国自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭国之地。
 (日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるをもって、故に日本をもって名となす。或いは曰く:倭国自からその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となす。或はいう:日本もと小国、倭国の地を併わすなり)。

 この「日本国は倭国の別種なり」とは、「倭国の別の呼称が日本国である」という意味である。その証拠に、続けて日本という呼称になった経緯を述べている。日本国という呼称は、中国がつけた倭国を倭人の意志で改称したものである。日がのぼる東の辺に在ることから、日本を以って国名にした。これが中国の認識だと断言している。
 「別種」だけを取り上げれば、民族や勢力を別種とした事例もある。だが、ここは国名の変遷経緯を告げる文章中の一行だから、この別種は国号の別種と判断しなければならない。事実、これに続けて今度は日本国の使者がいう日本国号の成り立ちを並べている。
 「あるいはいう、倭の文字が好ましくないから、これを改めて日本とした」。
明らかに倭の文字を嫌って日本に改めたと述べている。
 「あるいはいう、日本はもともと小国で、倭国の地を統合した」。
 はじめから大国だった国などはない。倭国はもともと100余国に分かれていたものが、3世紀には30余国になり、それが日本国として一つになったのだから、国の成り立ちとしてはごくあたり前の話である。

●歴史書の文章構成を尊重したい
 この別種については、「国や支配系統や支配人種の違い」であると解釈がある。それでいて、中国の歴史書が、初登場する日本国の支配系統の素性や国の変遷の歴史を詳しく語っていないのはなぜか。たった二行で触れたというのだろうか。こうした歴史書の構成と記録方法の不条理について説明できないようである。

 ここでいう「不条理」を詳しく説明するとこういうことである。
①「日本国は倭国の別種なり」で、倭国と日本国の支配系統か支配人種が異なることを書いた。
②そうしておいて、「その国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名となす」で、国号の成り立ちを書いた。
③続けて、「あるいは曰く。倭国自ら、その名の雅ならざるを悪み、これを改めて日本と為す」と、同じく倭国が日本国へと改称したいわれを書いた。
④そうしてまた唐突に、倭国と日本国の支配系統か支配人種について触れて、「あるいはいう。日本は舊小国、倭国の地を併わす」と書いた。
 こういうことになる次第である。
 だが実際の文章は、「あるいは曰く。倭国自ら、その名の雅ならざるを悪み、これを改めて日本と為す」に引き続き「あるいはいう」としているのだから、別の国号変更のいわれを書いていると判断すべきである。ところが、「小国だった日本国が倭国を滅ぼして列島を統一した」と書いたことにする。これでは、『旧唐書』がめちゃくちゃな文章を書いたことになってしまう。もっと、歴史書の文章構成を尊重したいものである。

 厳しい検証に入る。中国の歴史書が人種や種族について別種と書いたときはどんな文章になるのかは、文章の前後をみせながらフェアに提示すると分かる。


●人種や出自について「別種」と書いた場合
・『三国志』高句麗伝/東夷舊語以為夫餘別種、言語諸事多與夫餘同、其性氣衣服有異。
  (種族について別種と書いた場合は、言語・習慣・風俗・気質などについて共通点と相違点を説明している)。
・『後漢書』高句麗伝/東夷相傳以為夫餘別種、故言語法則多同、而跪拜一......。
 (種族について別種と書いた場合は、言語・習慣・風俗・気質にいて共通点と相違点を説明している)。

 ........これ以降の忙しい時代の記録はさほど資料にはならないが。
・『魏書』高句麗伝/高句麗者出於夫餘、自言先祖朱蒙。朱蒙.........遂還其母。
 (扶余の出自たるいわれとして、その祖とする朱蒙の逸話を続けている)。
・『周書』高句麗伝/高麗者其先出於夫餘。自言始祖曰朱蒙、河伯女感日影所孕也。
 (扶余の出自たるいわれとして、その祖とする朱蒙の誕生逸話を続けている)。
・『梁書』高句麗伝/高句驪者其先出自東明。東明本北夷□離王之子。.........其後支別為句驪種也。
 (祖先を東明とするいわれとしてその誕生逸話を続けている)。


●『旧唐書』と『新唐書』が種族や出自について「別種」と書いた場合
・『旧唐書』高麗伝/高麗者出自扶餘之別種也。其國都於平壤城、即漢樂浪郡之故地、在京師東五千一百里。
・『新唐書』高麗伝/高麗本扶餘別種也。地東跨海距新羅、南亦跨海距百濟、西北度遼水與 營州接、 北靺鞨。
 提示したような、『三国志』以来の歴史書が書きつないできた別種のいわれを省略しているが、 『旧唐書』は「高麗の出自は扶餘の別種なり」で、ちゃんと「出自」と書いている。これを受けた『新唐書』も、「高麗は本扶餘の別種なり」で、「本」と書いて出自について触れている。
 これが、『旧唐書』と『新唐書』が人種や支配系統に触れるときの言及のし方である。「日本国は倭国の別種なり」とは文章とその前後も含めて、書き方も意味もまったく異なる。


●『唐会要』が国号について「別種」と書いた場合
・「古倭奴国也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。......則天時自言、其国近日所出故號日本国。蓋惡其名不雅而改之」。
 「倭国は古えの倭奴国である。......倭国が則天武后の治世に「日の出ずる所に近い故に日本国と号した」。たぶん、倭の名が美しくないから嫌って改めたのだろう」。
 ここでも、日の出ずる所に近い故に日本国と号したという理由つきで、「倭国が名を日本に改めた」と述べている。ただし、『旧唐書』のいう「倭国がその名が美しくないことを嫌って日本に改めた」を、中国側の推測として 「たぶん倭の名が美しくないから嫌って改めたのだろう」と述べている。日本人が告げたにしろ中国側の推測にしろ、「倭国が名を日本に改めた」と述べている事実は揺るがない。


●『旧唐書』が国号について「別種」と書いた場合
 「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰:倭国自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭国之地」。
 「日本国とは倭国の別種なり」。......あくまでも「倭国」の別種である。それでは「倭国の」は何をさすのかといえば、倭国の呼称である。断じて、倭国の「国種」や「人種」ではない。
 「その国、日の辺に在る故に日本国を以て名と為す」。
 これが中国側の認識で、以下がその他の伝聞になる。
 「あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み日本に改名した」。
 「あるは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併合したという」。
 国号について「別種」と書いた記録だから、3通りの国号のいわれ・成り立ちについて紹介している。

 『旧唐書』と 『新唐書』 の二書が書かれたのは10~11世紀だが、それ以前の遣随使の時代から数十人規模の学問僧や帰化漢人が倭国から留学している。さらには、遣唐使に同行した阿倍仲麻呂が中国に帰化していることなどからも、かなりの正確さで互いの歴史が見えていた時代である。
 そうした中で、連綿と続いた倭国で「日本国を名乗る別種の倭国乗っ取り」「倭国から日本国への王朝交替」といったことは、中国人の誰一人として確認してはいない。そうした一大事変があれば、歴史的脈絡や支配者の出自系統にこそ最も関心が高かった中国の歴史書だから、きちんとした章を立てて言及しているはずである。

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