仙台ドクタークラブ(2004~2008)

仙台市医師会野球部ホームページ
(広報部編集)
2004~2008年の活動の記録

2008年 対山形市医師会戦 

2008-07-14 | 2008年 対山形市医師会戦 
ドクタークラブ便り   対山形市医師会戦      
 
とき  平成20年7月13日(日) 
ところ  山形県山辺町民野球場 
天候  晴れ    気温 33℃

「これからご案内する山辺町は、人口1万6千人、山形市の西方に位置する田んぼと山に囲まれた町です。この町の特産は、日本でもここでしか作れない織画と呼ばれる高級絨毯で、50cm四方が48万円もします。皇居や迎賓館、各国大使館、バチカン宮殿などにも納入されているそうです。」

マイクを持っているのはバスガイド嬢ではなく、阿部精太郎である。艶っぽいとも鶯の声とも言いかねるが、監督業に余裕が出たせいか、最近は予習してガイドの仕事もこなすのである。

先週は米沢、今日は山形。2週連続の遠征試合である。今日は33℃あるが、米沢戦が36℃だったので涼しく感じる・・・ということはない。やっぱり暑い!

ド・クが米沢市医師会に19-6の4回コールドで大勝したことは山形市医師会の知るところとなっている。一方山形は去る6月22日に米沢と対戦、20-4でやはり4回コールド勝ちを収めた。初回に一挙14点を奪ったという。

ド・クは米沢から19点取ったが、山形は20点取った。故に山形チームは「今年こそ勝てる」と踏んだ。「今年こそ」とは、山形は平成8年を最後に、12年間も仙台に勝っていないからである。12年あれば生まれた子供は6年生になり、医学部なら2回卒業できる。平成9年以降は仙台の5勝0敗(6回の雨天中止)で、総得点は仙台66、山形23と、仙台が得点力で圧倒している。しかし米沢からの情報では、山形は若い投手を補強して12年ぶりの勝利を目論んでいるという。

11時、プレーボール。山形の先発は菊地正邦、67歳。東北大学第2内科出身、松井邦昭の4年先輩である。(あとで聞いたら山形東高校の出身で、板垣、宮地の大先輩でもあった。)2年前に新調したシアトル・マリナーズ風のユニフォームが夏の太陽に眩しい。菊地の投球は実に老獪。球速こそないものの、低めの変化球を内外角に出し入れし、1回を3者凡退に仕留めた。ド・クが初回無得点というのも久しぶりである。

ド・クの先発は浅沼(達)。打者の視界から一旦消える魔球を投げる。球速はないので目が慣れると打たれるが、打たれても打たれても不思議と負けないのである。野村監督なら言うだろう・・・「達つぁん、神の子、不思議な子」。今日の主審はストライクゾーンを上から斜めに落ちて行く魔球の軌道が気に召さないようで、ことごとくボールと判定される。初回に4四球で走者を貯めたところで3安打を打たれ、4点を献上した。意気上がる山形。ベンチから、よ~し今日はもらった、の声が上がる。山形はこの調子で毎回ビッグイニングになると思った。ところがド・クの監督阿部は、これで勝った、とほくそ笑んでいた。

前夜、阿部は考えた・・・山形は12年も勝っていない。普通にやったら、ド・クは勢いで勝つだろう。ただ勝ったのでは芸がない。最後は勝たねばならないが、少し試合を面白くしてみよう。先の試合で山形は米沢に4点取られている。ド・クの攻撃力を考えればそれ以上は取れる。とすると、浅沼(達)を先発させて4点まではハンデとして目を瞑ろう。あとは逆転して後藤、安藤の完封リレーで逃げ切れる。試合は最高に盛り上がるし、表彰式では、「監督(俺)のシナリオ通りになりましたな」と言われるだろう。1点差なら最高だ。ふっふっふ。ただ安藤は肩が痛いと言っているから1回か2回だ。よし、設計図はできた・・・(筆者の想像が入ってます、かなり。)

試合に戻る。2回表、ド・クは松井が四球で出ると、宮地のテキサスリーガーズヒットで2死1、2塁とし、主将佐藤(韶)が見事センター前に弾き返してまず1点を返した。

阿部は2回裏から設計図通り、新人左腕・後藤をマウンドに送る。後藤は期待に応え、2回から4回までを散発3安打、2三振、無失点に抑える快投を見せた。今日は伸びのあるクロスファイアーと外に落ちるスクリューボールが冴えわたった。

3回表、山形は新人の高速投手佐々木真太郎(30歳)を登板させて逃げ切りを図る。県立中央病院から招集した秘密兵器である。ド・クとは初対決であるが、どっこいド・クは初物に強い。さらに速い球なら八戸戦で散々見ている。

打順良く、1番から始まったド・クは、菊地(徹)の内野安打と綿谷の死球で走者を貯め、安藤、松井、後藤、佐藤(韶)の4連打で予定通り5-4と逆転した。4回にも1点を追加したド・クは、5回裏、満を持して安藤を抑えに送り、そのまま逃げ切った。(1回裏の攻撃に時間がかかったため、時間切れで5回コールドゲームとなった。)勝利打点は佐藤(韶)に付いた。佐藤は今季17打数7安打、打率0.412、打点8とした。還暦を過ぎたが爺爺佐藤とはとても呼べない大活躍である。

一昨年、120キロ超の剛球でド・クを驚かせた山形の巨漢・松尾幸城はレフトの守備についていた。投手はやめたそうである。打撃に徹した今年は巨体を生かし、ワンバウンドでスタンドインするエンタイトル・ツーベースを放った。セカンドベース上で高笑いしているが、当時の記録にはこうある。
・・・松尾は産婦人科の二代目で、芭蕉とは無関係である。3回表、2番綿谷から始まったド・ク打線は巨漢の剛球を軽々と打ち返した。この回2塁打5本、単打5本の計10安打を浴びせ、打者14人で大量9点を挙げたのである。右に左に打撃練習のように飛んだ10本の安打は、全て音も涼やかなクリーンヒットであった。松尾も、これほど圧倒的に打たれたことは記憶になくむしろ清々しい、と述懐したほどである。「哀しさや耳にしみいる球の音」・・・
周囲は話題にすることを憚っても、投手生命を失くしたあの試合である。本人は忘れることはできまい。

   語られぬ記録に濡らす袂(たもと)かな
  
今季のド・クはこれで6勝1敗。総得点62、総失点28。チーム打率は0.356(160打数57安打)と快調に走っている。

 

      1 2 3 4 5   計
ド・ク    0 1 4 1 0   6
山形    4 0 0 0 0   4

懇親会は14時半からホテルキャッスルで行われた。山形市医師会長・徳永正靭が「今日こそは勝てると思ったが、結局は阿部監督のシナリオにしてやられました」と開会の辞を述べた。山形の根本元監督は、「年々仙台との差は縮まっているのだが、なかなかそのしっぽが捕まらない」と嘆いた。

2週連続で勝利監督賞を手にした阿部は、「仙台と山形の実力の差は紙一重でした。いつも集合時刻にぎりぎりでやってくる浅沼(達)が今日は誰よりも先に来ていたので、今日はやってくれると思っていたが、まあ、ぎりぎりでやってくれました」述べた。歯でも痛そうな顔をしていたのは、湧きあがってくる笑いをこらえていたせいである。

MVPは安藤、優秀投手賞に後藤が選出された。また山形の捕手で4番の小松芳之に最多安打賞、菊地正邦に敢闘賞が贈呈された。また特別賞として魔球の浅沼(達)に「貢献賞」(=山形に貢献したで賞=来年も頼んだぞ賞)が贈られた。思いがけない賞を手にした浅沼は、感想を求められて「わんわん」と尻尾を振った。

 昭和29年に始まった仙台・山形の対戦は今回で、仙台の28勝11敗1分、雨天中止18回となった。1回裏の4点で山形は12年ぶりの勝利を確信したが、それはスミ4となり、またしても流星光底長蛇を逸したのである。山形市医師会副会長・大内清則は「来年は腕まくりをして仙台に乗り込みます」と力強く閉会の宣言をした。目が赤いのは窓から差し込む夕陽のためだったろうか。

ナインはホテルを出立した後、山形駅で土産を買った。米沢の街道沿いには来年のNHK大河ドラマ「天地人」の旗が翻っていたが、同じ県内であるのに山形駅には「天」の字もない。1987年に放映された「独眼竜政宗」で、山形城主最上義光(よしあき)が甥の政宗に陰険な策謀を巡らす悪役として描かれた。以来、山形では大河ドラマの人気がないのだという。

バスは県庁前を通り、山形蔵王インターに向かう。途中、寺町方面に専称寺の大伽藍が見えた。専称寺は最上義光の娘、駒姫の菩提寺である(わが家の寺はその隣だが、小さいので見えない)。山形の中学生は郷土史の時間に駒姫の悲劇を教わることになっている。

・・・天正18年(1590年)、九戸討伐の帰途山形に立ち寄った羽柴秀次は、駒姫の美貌に目を停め、側室に申し受けたいと要請した。義光は要求を拒否できなかった。5年後、秀次は秀吉の命により高野山で切腹させられ、駒姫も三条河原で処刑された。義光の必死の助命嘆願を受けて、秀吉は「鎌倉で尼にするように」と早馬を刑場に送ったが、あと一町の差で馬は間に合わなかった。駒姫、享年15。遺体はその場で穴に投げ込まれ、さらに「畜生塚」と刻まれた碑が置かれた。娘の死を聞いた母も14日後に死去。自害だとされる。義光の憤激と悲嘆は甚しく、以後義光は反豊臣急先鋒となる。慶長3年、秀吉が死去すると、上杉景勝は徳川家康と対立。家康が大軍を率いて景勝討伐に出陣すると、好機とみた石田三成が挙兵。家康が西へ反転、関ヶ原に向かうや、景勝は会津から出兵。東軍に与した政宗や義光らと交戦する。兵力に勝る上杉軍は狐越え街道から山形城下に迫るも、西軍敗北の報を知り急遽兵を引いた。

西軍敗北の結果、景勝直轄の所領120万石は尽く没収され、米沢30万石藩主として減移封された。上杉家は景勝一代において、信越の大大名から出羽半国の一大名へと没落したのである。義光は上杉家と戦った戦功で、24万石から57万石に加増されたが、孫、義俊の代に世継ぎ争いから改易処分となる。その後次々と城主が代わり、末期には5万石まで減り、山形城は次第に荒廃して行った。政宗は関ヶ原の戦いで家康についた恩賞として62万石に加増された。伊達騒動があったものの江戸時代を通じて62万石の大藩として繁栄した・・・

時は400年下り、南奥羽の覇権を争った三藩の末裔達が、今は野球を通じて親交を深めている。上杉、最上、伊達の盛衰を想っているうちにバスは神室岳と雁戸山の峡に分け入った。窓からはもう緑しか見えない。

       あやし小児科医院 宮地辰雄