てっぺいの、いつも写真でさわでぃーかっぷ

日本とタイと写真が好きなてっぺいの日常を綴った日記のようなものです。

酒との付き合い方考えます。

2011年09月19日 | 独り、戯れ言
昨夜一休さんと飲みに行って、意識飛んだ訳でもなく、最後の店も覚えてるけど
気づいたら新宿でぶっ倒れてた。
眠くて寝たんじゃなくて完全に倒れてた。

気づいたら財布とバックがない。
警察には一応言ってきたけど帰っては来ないと思う。

財布はいい、免許は古いのだし、入ってた金も数千円、財布も古くなってた。
でもバック、その中には先月買ったK5と今月買ったばっかのレンズ、それともう1本。
撮ったばかりの良い写真も・・・・
ほかにももろもろで全部買いなおすと17万位。。。
K5と短焦点は買いなおす。
iphoneがあったのがせめてもの救い・・・

金は稼げば何とかなる、薄給でも無くした物は買いなおせる。
幸いにも命はある。命が無事だけで御の字とする。

30年生きてきて酒での失敗も少なからず。
落ち込んだけど、これを機会に酒との付き合い方を変えます。

断酒は出来ないし、禁酒もできないけど飲む量を減らします。
最後に寝ないように、飲み足りなくても壁を越えないように気をつけたい。
家飲み・誕生日・新年とかのイベントは超えることあるかもしれないけど、
それ以外はそうしたい。
2005年からやってるBlogのタイトルも、
さわやかサワ泥酔日記から変更しました。

最近色々とまずいなと思ってた所だったので流石にこれを契機にします。
酒を減らすと同時に人間の魅力を磨きます。

一年経ち・・・・

2009年10月01日 | 独り、戯れ言
一年経ち・・・昨日付けで一年働いてきたお店をを退職した。

色々なきっかけがあって入社。どんなことがあっても1年はやろうと決めていた。
最初の計画は潰れたけど、この1年とにかく疲れた。

変な人もDQNも良い人も、世の中にはいろいろな人が居るって痛感した。
でも、気の合うお客さんには適当な事ばっかり言って楽しめた。

夜の仕事というのは身体が普通とは逆でいなくてはいけないわけで、
やっぱり夜中には眠くなるし、休みの日には夜寝て朝には起きてしまう。
そうすると次の日辛い。
月5日程度の休みでよく頑張ったと思う。
休みも月曜だから友達ともあまり会えないから一人遊びが基本になる。
おかげで写真には完璧に開眼したけど。。。
月曜は、好きな博物館も殆ど休みだし、行けるところも限られたな~。
週末友達と遊べないのもつらかった。

いままでは色々な企画をしてたけど、
それも全然できなかったので自分が詰まらない人間に思えて仕方なかった。

それでも1年間良い勉強しました。

これからしばらく旅人になるけど、その後の職がかなり不安。
仕事はあるのだろうか・・・

仕事がなければ恋人も作れないしね!

とりあえず、これから色々旅して、遅ればせながらの自分探しをしますよ。
さっそく今夜、京都に向かい大阪で5泊して京都奈良大阪神戸観光、
伊勢神宮を経て2日間名古屋をまわってきます。

早いもので今月で29歳。
30歳になるまでに落ち着けたら、と思います。

しばらく自分を見つめなおします。

rusuk

2009年03月09日 | 独り、戯れ言
โอ้ย เราอยากกลับไปกทมเร็าๆเลย ถ้าเราทิ้งความรับผิดชอบเราจะไปพรุ่งนี้อยู่แล้วอ่ะ
แต่ต้องอดทนนะ ตอนนี้เวลาที่ต้องอดทน
อยู่ที่นี้ก็สนุกนะแต่มะมีความสุขเลย
ความสุกเราก็อยูที่「ไทย」นะ

進退(泰)で悩んでる

2008年04月09日 | 独り、戯れ言
昨日から泊まりでバンセンに行って来た。
海を見ながら考えた、これからの事。

2月くらいは5月に帰ろうと思った。
バーバーの葬儀で日本に帰った時もそう思った。

でも最近では地方に出かけたり、美味しいものを食べたり、PUBに行ったりする度にタイの良さ、好きさを感じる。
だから今では残ろうかな、という気が7割位に増えて来ている。

それというのも、こっちで仲の良い友達がいっぱい出来たからというゆ理由もある。
いつも遊びに行く時に「誰誰と行った」とか書かないのは、いつものメンバーで固まっているから。
遊びに行く時、多くなると10何人にもなる。ある意味タイの酒乱部。
みんなといるとかなり居心地がいいし、色々話し合えたりする。
何より僕がヨッパッピー全開でも受け止めてくれるし、楽しい。音楽も何でもOKだし。
2月の時点ではまだ知りあって長くないから、まだそこまでに達してなかったけど、
今では貴重な友達だなぁって思う。

こっちで7-8万バーツ位で働けば(今は外国人の最低賃金6万B以上での会社が増えてる。僕の昔の勤め先も最低で6万になっていると言われた)連休でさくっと日本に遊びに行ったり出来るなぁとも思うし、貯金も結構出来る。
僕は酒エンゲル計数高いけど、ファッション&飯は安くて美味いORいいのが好きだからさ。
まぁ日本で働いても兄ちゃんみたいに年に2-3回タイに来ることも可能だけどね。

ネット中毒の僕は、安定しない&動画を見るのにストレスの多い今の512キロではネット環境に満足出来ないので、
これも速い所に住めば問題ないし(実家はメチャンコ速い)。

親もチェンマイに家を買うかもしれないので、チェンマイにいる時は土日だけでも会いに行けるし。

でも日本のParty kidz&酒乱部とかタイ好きの皆と遊ぶの楽しいんだよなぁ。
親とも一緒に暮らしたいしなぁ。。。悩むよ、ほんと。
とりあえず人材登録会社に登録して、どういう仕事があるかだけでも見てこようかなぁ。
どうしようかなぁ・・・悩む

葬儀が終わった

2008年02月28日 | 独り、戯れ言
先ほど初七日をすませ、無事に葬儀が一通り終わった。
お葬式には300人位の方が参列に見え、バーバーの人望の厚さが伺えた。
告別式・火葬場・お清めに参加した親族の数およそ60人。
誰が誰だかわからない人が沢山いたが、バーバーという存在で繋がってたんだなと思うと不思議だった。

バーバーの顔はやさしく笑っているかの様だった。
~ちょっと用事があって会いに行くと眠ってるので起こさずにおいた~そんな時の顔で、いまにも起きてきてくれそうだった。

昔バーバーに頼まれてよく水をまいたあの庭に今は花が殆ど無い変わりに、
バーバーの棺は沢山の花で覆われた。
そして骨だけになってしまった。人間って本当に儚いな・・・

バーバーは僕の話をする時はいつも笑顔だったらしい。そして僕の帰国をすごく望んでいた。
正直あのタイミングでタイに行ったのは間違いだったと思う。でも済んでしまった事・・・

これからどんな事があってもバーバーは見守ってくれているだろう。
生きるからにはバーバーが悲しまないように一生懸命生きよう。

ありがとうバーバー。

祖母のやさしい眠り

2008年02月24日 | 独り、戯れ言
今日18時頃からうとうと眠った。
19時前くらいに一度目がさめ20時頃に起きた(タイ時間)

サパンプットに靴を買いに行こうと思い73番のバスに乗った。
バスは信号に幾度となく止まり、街の景色をゆっくりと変え、サイアムを過ぎた。

電話が鳴った。

発信者は不明。外国からの電話の時は番号が出ないので誰だか分らない。
電話を取ると兄だった。

「さっきバーバー亡くなったから」   
祖母が亡くなった知らせだった。

昨日、両親と電話で話した時には祖母には大した変りもなく一日一日を過ごしているという話だった。
それがたった一日で・・・人間の命というものは本当にわからない。

兄も姉も、両親でさえも死に目には会えなかった。
しかし祖母の顔は、まるでいい夢を見ているかのように安らかな顔をしていたようだ。
いつも優しかったあの顔のまま旅立つ事ができたようだ。

目を閉じるといつでもその優しい顔を思い出す事が出来る。

2007年2月23日20時52分、95歳での旅立ち。大往生だった。
一度僕の目が覚めた時間がバーバーの亡くなった時間だったのかもしれない・・・

明日航空券を手配し、葬儀にはどうしても出る。
親からは別に無理しなくていいと言われたけれど、無理とかではなく、
愛してくれた祖母のため、そして自分の心のために・・・

今はまだ実感があまりないけど、葬儀に出て顔を見たら相当泣いてしまうだろう。

祖母

2007年12月31日 | 独り、戯れ言
昨日ネットをしようとネットカフェに入りMIXIを開いた。
すると姉からメッセージが来てた。
「元気そうだね.」そのメールを開くと

祖母がここのところすごく調子が悪くて、
つい何日か前にに往診に来てもらった先生には
「正月は迎えられないでしょう」
と言われたと書いてあった。

しかし、入院した事で点滴や酸素マスクを出来たので
年は越せるかもしれないけど、後数日、ということには変わりないらしい。

という文章が書いてあった。

一応の覚悟を持ってこっちに来たけれど、「その日」がこんなに早く来るとは思ってなかったのでショックで悲しかった。

親に電話すると「まだ本人の意識もしっかりしているし、まだ帰ってこないほうがいい」との事。

お互いに「おそらく最後かも」と思い家を出たのに、その僕が病院に行ったら「なぜ僕がいるのか、死にそうだからか」という念が芽生え、それがショックで亡くなってしまうのが一番怖い。

だから僕はまだここにいる、ここにいて考えることしか出来ない。

恐らく来月日本に少し帰らなくてはならなくなるだろう、というか帰るだろう、とても悲しいことだけど。

そういう訳で心的にあんまりアクティブになれない日々が続くかもしれないです。
新年のイサーン旅行は一応行きますけど。。。

昨日会って話を聞いてくれたなっちゃん夫妻とfukuさん、どうも有難うございました。少し心が軽くなりました。

Back 2 BKK

2007年11月19日 | 独り、戯れ言
2年8か月暮らしたタイから帰国してもうすぐ丸2年が経とうとしている。

タイから帰ってきたのは2005年の12月16日、当初の予定では1年半でタイに帰るつもりだった。

「2007年12月5日、王様の御歳80歳記念を絶対に王宮前広場で過ごす」というのが僕が決めたタイ帰国のリミット。
そのリミットを目前に控えた12月3日の飛行機でタイに戻ります。

2年前にタイから帰って来た大きな理由は、祖母と、家族と過ごした思い出を作る為。
2年間という時間の中で、充分とはいかないまでも素晴らしい時間が過ごせたんじゃないかと思う。

今回はVISAが3か月しか取れなかったので、住居の問題もあるし、
バーツ高・物価高で貯めてたお金が当初の金額より実質目減りしてるなど、色々と不安がある。

それに、

リッキー以外にもジュターという親友ができた。
一緒にいて楽しい友達がいっぱい増えた。
アジディスでのDJがもの凄く楽しかった。
何よりも家族の健康への心配。。。。

だからタイに戻るか、日本に居続けるかを考えた時期もあった。

でもやっぱり2年のリミットを決めてきた以上、やっぱりタイに戻ることにした。
何よりタイが好きだし。

日本で知り合ったタイ好きの皆さん、向こうで遊びましょう。
タイ好きじゃない友達も遊びに来て下さい。案内します。
タイにいるバディー達、友達、一緒に遊びましょう。
2月にのオールスター揃い踏みが楽しみでしょうがないです。
FUKUさん、「最もでたらめで、最も充実していた珠玉の時間」をまた過ごしましょう。

皆さん、これからもよろしくお願いします。

母方祖母のお別れ会

2007年09月04日 | 独り、戯れ言
今日は、先週の金曜(2007年8月31日18時26分)に亡くなった母方祖母のお別れ会に参加した。

色々な事情があり葬式やお通夜等はやらずに内々で火葬とお別れ会のみが行われた。
火葬場に行き、棺の中に横たわる祖母の顔を覗くとどことなく安らかな顔の様に思えた。

棺おけの中に、祖母がまた行きたがってたハワイの本や、歌の本、メモ帳とともに沢山のキレイな花を敷き詰めた。

祖母の顔を何度もさする母が印象的だった。
母の祖母への愛をすごく感じる瞬間だった。

僕は泣かないようにしてたんだけど、棺おけが竃に入っていく時に我慢が出来なくなって泣いた。

焼香に今までの後悔と謝りをこめた。
今まであまり会いに行かなかった事を深く詫びた。

火葬が終わり、骨だけになった姿を見て人間てなんだろうなと、また思った。
火葬に立ち会うのは3度目だけど、毎回同じ事を思う。
さっきまで「姿」として存在していた祖母の姿は、もう骨壷に納めら得た「骨」になってしまっていた。
その「姿」の中に魂があった訳ではないが、これで本当に今を同時に生きる人ではなく、記憶に残り続ける人になったんだな、と思った。
一瞬一瞬時間はながれ、0.1秒前のことすら過去になっていく訳で、
祖母の存在が「過去」の1ページになってしまった瞬間だった。
もう新しい記憶・記録は作れないんだね・・・・

火葬が済み、オペラシティー54階にある「海燕亭」でお別れ会をした。

母が持ってきた、祖母の昔の写真をみると母は祖母に瓜二つだったことがよくわかった。
叔父の持ってきた写真からは、祖母が相当「モガ(モダンガール)」だった事が伺えた。

実際、祖母はとてもモダンで、僕が小学生の頃祖母の家に行くと
「尾崎豊っていいのよ~」って言いながら尾崎豊の卒業なんかを聴いていた。
かつてはJAZZやブルースなどを踊ったり、戦前なのにスキーをしたりする人だったらしい。

僕は祖母の記憶があまりないのだけれど、面白いお婆ちゃんだった事は覚えてる。

母親や叔父さん達が昔話に花を咲かせて、あまり知らなかった祖母の事を色々知れてとても良かった。

僕の「感性」なんかは祖母から来ている部分が多いのかなと思った。

病気のデパートの様な人だったのに、色々な家庭の事情があったにせよあまり会いに行かなくて祖母不幸な孫だったと思う。

苦しみのない天国で好きな音楽を聴いて、またどこか好きな国に旅に旅行しながら暮らして欲しいと思う。


両親の結婚記念年日に考えた

2006年06月26日 | 独り、戯れ言
「だって、あなたは2回死んでるから・・・」



今日は親の結婚記念日という事で(本当に今日だったのかな)、
エスカイヤクラブという所でご飯を食べた。
http://www.daiwa-j.com/ec/esquire.html

2年前、両親は結婚30年を記念して僕の住むバンコクに来てくれた。
あの頃僕は「もてなす心」をまだ持ててなかったので、
あまり多くの時間を過ごす事は出来なかった。

「もてなす心」・・・それは僕がタイに住んでいる時に
1番大切にしていた事だ。

僕の「もてなす心」とは、
‘そこでしか・そのときでしか出来ない事を相手に楽しんでもらう事‘だ。

一緒に行く観光地、夜遊びスポット、ご飯屋さんなんかを
相手の好み・予定にあわせて考えて、
楽しんでもらうのが僕の喜びだった。

両親が来た時は「むこうが携帯の電話を持っているから連絡がくるだろう」と思い、
何時間立っても電話が来ない事を不思議に思ってホテルに確認取ったりすることもせず、気にしなかった。
結局電話番号が違った事に気付いて僕の携帯が鳴ったのは夕方過ぎの事だった。

いつ頃からだったか。兄ちゃんが「そこでしか・そのときでし食えない物を食う」
と言っていたのが自分の中でも消化されて、
「もてなす心」というのが形勢されたようだ。

話は大きくずれたので戻そう。

今夜行ったエスカイヤクラブは入り口でカードを入れないと入れない店だ。
会員制で、従業員の女の子は皆バニーガールというのが特徴。
今まで何度か家族で行ってたのだけど、僕は初めてだった。

生まれて初めてバニーガールたるものを見たけど、
目のやり場に困ります。
何故か胸の谷間にライター挟んでるのも意味深。
とにかく、教育がすごく行き届いている感じがしたよ

ご飯を食べながら、
「僕は生まれたときは体が大きかったのに、何故背が高くないのか」
という話をなんとなくしてみた。

その時に言われた言葉が
「だって、あなたは2回死んでるから・・・」だった。

僕は生まれたときに、体重4120g・身長52cmの巨大児だった。

巨大児だったが故に難産で、生まれた時に酸欠で僕は胎児死亡だったという。
しかし、ひっぱたいてなんとか蘇生させたらしい。

母も酸素マスクを着けての出産だったようだ。

これが1回。

もう1回は1歳頃の時に、風呂場の鍵を開けて・ふたまで開けて溺れたらしい。
親が見つけたときにはうつ伏せで浮いてたという。
体温が35度以下に下がっていたらしい。
正確には死んでないけど、死に近い状態だったようだ。

この話を聞いたのは初めてだったのでとてもショックだった。

「お互いに死ぬ思いで生まれてきたんだから、辛くない人生を送ってほしい」
という母の言葉がとても心に響いて涙が出そうになった。
あと2杯ワインを飲んでいたら確実に泣いていたよ。

今夜は人生について考え、また母に感謝した、とても有意義な夜になった。