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生兵法の果てに:『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』より

2021-03-25 06:13:05 | 心理学
 M・グラッドウェル;濱野大道(訳)『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ~「よく知らない人」について私たちが知っておくべきこと~』光文社(2020/06/16)の紹介です。 ネットにも既に多くの紹介が出ているように、米国でサンドラ・ブランドという黒人女性が軽微な交通違反で逮捕され自殺したという事件から始まり、一見無関係な多くの事例の話から最終章で種明かし(著者の説)がなされます。この一見無関係な事例を貫くのが、人が他人を誤解するメカニズムと言えるでしょう。

 ネットにも既に多くの書評が出ていますが最終章の種明かしは「読んでみてね」としているものが結構多いです。私はあえてネタばれしますが、その理由は次の通り。
 ・推理小説ではなくてノンフィクションであり、著者の一番伝えたいことを広く伝えるのは著者の望みにも一致するだろう。
 ・様々な事例を全て読んだ後に種明かしに至るのが全理解には最善かも知れないが、ちと長過ぎる。私もまだ全事例をよく読んではいない。
 ・結論は結構大事なことで、多くの人が知っておいた方がよいと思う
  (途中の章にも、最終章より大事に思える教訓もあるけれど)

 本記事の最後に目次を載せましたが、「はじめに」にサンドラ・ブランド事件が紹介されます。事のきっかけは車の方向指示器をださなかったために停められたブランドがタバコを吸おうとして消すように求められ、拒否すると車の外に出るように求められ、それも拒否すると、物理的に引っ張り出されようとしたという経過です。ブランドと警官とのやり取りがそのまま記されていますが、警官がヒートアップした理由がさっぱりわかりません。単に人種的偏見を理由にするにしては異様な状況にしか見えませんでした。さらに女性であるブランドによる暴力犯罪の危険を、闘いのプロでもある警官が過度に警戒したり恐れたりする理由は薄いようにしか思えませんでした。もちろん著者の種明かしは、人種的偏見を理由にしたものではありません。

 では一気にネタばれですが、まず日本人には意外な米国の法律状況があります。米国では交通違反の取締が日本での職務質問と類似の役割で使うことができるのです。基本的人権を重んじる民主国家の常として、捜査令状なしでの自宅捜索や合理的な嫌疑なしでの身体検査などは禁止されていますが、車を制止する場合は一気にハードルが下がるのです。たとえ明確な「違反」をしていなくても「軽率」「不当」と警官がみなせば車を止められるのです[*1]。しかもその後、相手が「危険」「武器を隠し持っている」と信じる理由があれば合法的に車を捜索できるのです[*2]
 サンドラ・ブランドとの会話で警官が「合法的な命令だ」と繰り返していたのは、こういう根拠があったのです。

 さて1990年にカンザスシティで犯罪を減らすためのある方法の実験が行われました。犯罪率の高い地区で集中してパトロールを行い、この交通違反を口実にした職務質問を目一杯活用して銃器の捜索を行うというものです。その結果、犯罪率は半減しました。この結果は1991年のニューヨーク・タイムズにも載ったとのことで、その手法は全米の多くの都市に広がりました。

 関連記事が日経サイエンスにも載っています[Ref-1-a,b]。この集中パトロールすべき犯罪率の高い地区を[Ref-1-a]では"ホットスポット"と呼んでいて、そこで「職務質問と軽犯罪の逮捕を精力的に行う」という表現になっています。この記事ではこの方法の副作用(代償)にも触れていて、「職務質問や口実を設けての逮捕は有色人種の若者に対して特に厳しく行われ」たとのことです。ただし皮肉にも、しかし当然ながらだとも思うのですが、「警察の厳しい取り締まりに苦しめられた肌の色の濃い青少年たちが、現在では暴力によって死ぬ率が他の都市に比べて低く、刑務所に入る率も低くなっている」とのことです。

 で、こういう防犯パトロールを行う警官たちはそのための教育と訓練を受けるのですが、それは一言で言えば「疑わしきは逮捕せよ」です。

 ここまで来れば、サンドラ・ブランドを車から引きずり出そうとした警官はこの手の防犯パトロールを行っていたのだろうとの予想はつくでしょう。実際にそうだったらしいのですが、問題は、ブランドが止められた場所は犯罪率の高い"ホットスポット"ではなかったということです。ましてブランドは犯罪多発地区の住人でもありませんでした。つまり警官の所属する警察は、間違った場所にこの手法を使ってしまっていたということだったのです。

 そもそも徹底逮捕戦術を実行するには多数の警官の投入が必要で、狭い都市と言えども全場所でやるのはコストがかかり過ぎます。おまけに、その地区の住人は全て疑っててかかるのですから住民と警察の関係は悪化してしまうリスクがあります。あくまでも"ホットスポット"に絞って行うから効果があるのであり、そのために様々なデータから"ホットスポット"を割り出す研究も進んでいるようです[Ref-1-b]。ところがカンザスシティで効果のあった手法を取り入れる時に、"ホットスポット"に絞るという大事な点を抜かして犯罪率の低い地区でも実行してしまったところが結構出ていた、というのが著者の見立てです。

 では"ホットスポット"の重要性がなぜ置き去りにされたかという理由が第5部「結びつき(カップリング)」のテーマです。カップリングとは、自殺と場所や自殺法の入手容易性との結びつき、犯罪と場所の結びつき、です。これらの結びつきは統計的に明らかなのですが、人にはこういう結びつきを拒絶する傾向がありそうだと著者は考えています。著者の言葉では「結びつきの概念--見知らぬ他人の行動が場所と文脈に密接に関係しているという考え--には、私達の理解を超越したの何かがあようだ」。

 私の理解するところでは、自殺や違法行為のような「伝統的に個人の意思の要因が強い自己責任的行為とみなされている」ような行為と、本人の自由意志以外の要因とのカップリングに抵抗があるということなのでしょう。とはいえ、治安の悪い場所というものの存在を否定する人はいないでしょうし、そこに銃があれば殺人が起きやすくなるのは当たり前にも思えるのですけどね。なんて感覚を持たないストレンジャーもたくさんいるよ、というのもこの本の教訓なのでしょう。

 そしてこの本を貫くテーマは人が他人を誤解するメカニズムの諸々ですから、単にサンドラ・ブランド事件の種明かしだけで話が済むわけではなく、各章が色々と興味深い内容になっています。

 なおサンドラ・ブランド事件の場合は、警官がブランドのことを誤解して「いかにも犯罪者に見える」と思い込んだということでもありました。


----本書目次--------------------
はじめに「車を降りろ!」
第1部 スパイと外交官--ふたつの謎
 第1章 フィデル・カストロの復讐
 第2章 アドルフ・ヒトラーと知り合いになる
第2部 デフォルトで信用する
 第3章 キューバの女王
 第4章 佯狂者 
 第5章 事例研究 シャワー室の少年
第3部 透明性
 第6章 『フレンズ』型の誤謬
 第7章 アマンダ・ノックス事件についての単純で短い説明
 第8章 事例研究 社交クラブのパーティー
第4部 教訓
 第9章 テロリストの心の内は覗けるか
第5部 結びつき(カップリング)
 第10章 シルビア・プラス
 第11章 事例研究 カンザス・シティーの実験
 第12章 サンドラ・ブランドに何が起こったか

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Ref-1-a) 「ニューヨークはいかに犯罪を減らしたか」日経サイエンス(2012/01)
Ref-1-b) 「犯罪予報システム」日経サイエンス(2012/04)

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*1) つまり警官はほとんど思うがままに捜索ができる。こんな抜け道を米国の弁護士なんかは避難しないんだろうか? まあ犯罪事情というものもあるのだろうけれど。
*2) 日本なら、いや英国でもオーストラリアでも韓国でもたぶん中国でも、サンドラのような普通の市民が「武器を隠し持っていると疑った」なんて理由は到底通用しないと思うけれど、そこは銃を持つ権利が認められているアメリカだから。


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