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空想化学小説(Chemistry Fiction)『再昇華チオチモリンの吸時性』

2019-09-30 06:37:21 | 架空世界
 星新一賞(2015/05/04)で紹介した『「恐怖の谷」から「恍惚の峰」へ ~ その政策的応用』は学術論文スタイルのSFでした。また探偵小説を探せ: (2017/05/06)のRef-4でも論文スタイルのSFをいくつか紹介しました[*1]。しかし、これらよりも早く発表された学術論文スタイルのSF作品がありました。化学博士でもあるアイザック・アシモフの『再昇華チオチモリンの吸時性(The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline)[Ref-1]です。これはチオチモリン(Thiotimoline)という幽鬼化合物、いや有機化合物に関する論文であり、まさに空想化学小説です。

 雑誌に掲載されたのは1948年02月、アシモフ28歳にして05月20日には博士論文の口頭試験を控えていたのでした。なおSF作家としてのデビューは1939年19歳の時です[*2]。

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 近年になって、有機分子の構造とその物理的化学的性質との相関関係から、有機反応のメカニズムについて多くの洞察がもたらされた。一九三〇年代に発展した共鳴とメソメリーの仮説は、その顕著な例である。
---------引用終り-----------

 おお、1948年というのは量子化学が広まった時期だったのですね。

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 水のような極性溶媒内の有機化合物が、親水基--たとえば水酸基(-OH)、アミノ基(-NH2)またはスルポ基(-SO3H)--の炭化水素核の存在によって溶解度を高められることは古くから知られている。
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 ここまでは実際の観察事実です。

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与えられた二つの化合物の物理的性質--とくにその物質の下位区分段階--が等しい場合、そこに存在する親水基の数が多いほど溶解時間--溶媒一ミリリットル中の物質一グラム当たりの所要秒数で表わす--は減少する。
---------引用終り-----------

 えっ!? 溶ける量である溶解度が、いつのまに溶解速度の話になったの? 「溶け易い」という言葉には「たくさん溶ける」という意味と「速く溶ける」という意味があります。「たくさん溶ける」物質は「速く溶ける」ことが多いし、逆に「速く溶ける」物質は「たくさん溶ける」ことが多いのは確かなのですが、常にそうだとは限りません。化学の言葉では、たくさん溶けるかどうかは化学平衡の問題であり、速く溶けるかどうかは反応速度の問題です。親水基の数が多いほど平衡定数が変化して溶けやすくなることはよく知られた法則ですが、溶解速度はそうはいきません。そもそも同じ物質でさえ溶解速度は試料の形などにもよることは、氷砂糖と角砂糖を比べてみれば明らかでしょう。
 なんてことはもちろんアシモフは先刻ご承知のはず。ここはすでに現実世界からSF世界への境界に入り込む準備なのでした。

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ファインシュライバーとフラヴレックは、この間題の研究で、親水基が多いほど溶解時間はゼロに近づくと主張した。
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 溶解時間をゼロに近づけたければ、粉末にする方がいいよ。料理をした人なら知ってるよ。

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この分析が完全に正しいといえないのは、チオチモリンという化合物が--一グラム/ミリリットルの比率にして--マイナス一・一二秒で水に溶解することが発見されたからである。
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 出た! 強烈なストレートパンチ。読者は一気に架空世界へと撃ち飛ばされてしまいます。てことで、後は架空の実験報告が続くのですが、それは読んでのお楽しみ。

 おわかりの通りチオチモリンは「まだ水が加えられないうちに溶解する」のですが、水を加える、または水に加えるのを人が行うとすると未来に加えるかどうかという意志の強さとかためらいとかに影響を受けます。そこで機械的に水との混合を行って測定を行う吸時計( endochronometer)という装置が作られましたが、これがなかなかよくできていて、この部分はハードSFです。参考文献に『決定論と自由意志~』や『イニシアチブと決断~』などというものが並んでいるのもニヤリとさせられます。

 さて昇華精製できるような小さな分子であれば、機器分析の普及した1980年代以降なら分子構造などすぐに突き止められるでしょうが、1948年ではまだそのような技術は発展しておらず、「すくなくとも十四個の親水基(OH)[*3]、二個のアミノ基(NH2)、一個のスルホ基(SO3H)を含んでいる」としかわかっていませんでした。

 またウィキペディアの記事にある過去と未来に四次元的に拡張した原子結合手(chemical bonds projects into the future and into the past)のことは、この論文の時点ではまだ仮説提出も記されていません。この仮説は本論文の続報と思われる「チオチモリンの驚くべき特性(The Micropsychiatric Applications of Thiotimoline(初出1952))」で提案されています。『アシモフの科学エッセイ(7) たった一兆(Only a Trillion (1957))[Ref-2]には、この2つの論文が続けて掲載されています。この本はタイトル通りノンフィクションの科学エッセイを集めたものですが、最後にフィクションを持ってきているという形になっています。

 またチオチモリンはその特性から宇宙航行に応用されるようになるのですが、その時代の話は「チオチモリン、星へ行く(Thiotimoline to the Stars(初出1959))[Ref-3]」と「チオチモリンと宇宙時代(Thiotimoline and the Space Age(初出1973))[Ref-4]」に書かれています。

 さて十四個の水酸基(OH)[*3]を持ち強い親水性(hydrophilicity)が予想される化合物となると、化学を学んだ者ならおや?と思う点があります。そんな化合物がどうして昇華精製ができるの? 水酸基は水と結合しやすいだけではなく互い同士も強く結合します。これは水素結合と呼ばれ、普通の分子間の引力よりも強い力です。ですから水酸基の多い分子化合物は融点や沸点が高くなります。水やグリコールがその代表例です。要するに同じ分子同士の結合力が強すぎてバラバラの気体にはなりにくいのです。水くらいだと非常に分子量が小さいので昇華できるのですが。

 なあんてことはもちろんアシモフならば先刻ご承知のはず。こんな話は化学を学んだ者以外にはマニアック過ぎるとして書かなかったのでしょう。多数の水酸基を持ちながら昇華性を持つというからには・・・、チオチモリン分子の水酸基は分子内水素結合[Ref-5]を形成しているに違いありません。


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Ref-1) 浅倉久志(訳)。『母なる地球―アシモフ初期作品集〈3〉(ハヤカワ文庫SF)』(1996/08)に収録。
Ref-2) 山高昭(訳)『アシモフの科学エッセイ(7) たった一兆』早川書房(1985)
Ref-3) 山高昭(訳)『木星買います(ハヤカワ文庫 SF (596))』早川書房(1985/01) に収録。
Ref-4) SFマガジン1982年2月に収録。
Ref-5) ネット上の日本語サイトにはまとまった情報はないので、大学レベルの有機化学本の索引から調べるのが速くて正確な情報源だろう。


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*1) エドガー・アラン・ポー『詐欺-精密科学としての考察(Diddling Considered as One of the Exact Sciences)』を"随筆"や"評論"や"論文"の体裁のフィクションと評した際の例として挙げたもの。
*2) ウィキペディアの記事など参照
*3) ウィキペディア英語版では「 at least fourteen hydroxy groups, two amino groups, and one sulfonic acid group」。明らかに親水基は水酸基の誤訳である。

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