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岩手県平泉町 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター①柳之御所遺跡

2024年01月09日 13時07分27秒 | 岩手県

岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター。平泉町平泉字伽羅楽。

2023年6月15日(木)。

観自在王院跡を見学後、駐車した平泉町立平泉文化遺産センターへ10時30分ごろ戻り、見学した。撮影禁止なので展示内容の記憶はない。道の駅・柳之御所遺跡史跡公園に隣接する2021年11月開館の岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターに12時前に移動して見学した。奥州藤原氏の政庁跡とされる柳之御所遺跡の発掘調査の成果を主に展示紹介するとともに、世界遺産としての平泉を紹介するガイダンス施設である。

「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の顕著な普遍的価値

 平泉は、12世紀日本の中央政権の支配領域と本州北部、さらにはその北方の地域との活発な交易活動を基盤としつつ、本州北部の境界領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点である。それは、精神的支柱を成した寺院や政治・行政上の中核を成した居館などから成り、宗教を主軸とする独特の支配の形態として生み出された。

 特に、仏堂・浄土庭園をはじめとする一群の構成資産は、6~12世紀に中国大陸から日本列島の最東端へと伝わる過程で日本に固有の自然崇拝思想とも融合しつつ独特の性質を持つものへと展開を遂げた仏教、その中でも特に末法の世が近づくにつれて興隆した阿弥陀如来の極楽浄土信仰を中心とする浄土思想に基づき、現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である。

 それらは、浄土思想を含む仏教の伝来・普及に伴い、寺院における建築・庭園の発展に重要な影響を与えた価値観の交流を示し、地上に現存するもののみならず地下に遺存する考古学的遺跡も含め、建築・庭園の分野における人類の歴史の重要な段階を示す傑出した類型でもある。

 さらに、そのような建築・庭園を創造する源泉となり、現世と来世に基づく死生観を育んだ浄土思想は、今日における平泉の宗教儀礼や民俗芸能にも確実に継承されている。

柳之御所遺跡は、奥州藤原氏の住居・政務の場であった居館の考古学的遺跡であり『吾妻鏡』に記す「平泉館」の跡とされている。居館は 11 世紀末期~12 世紀初頭に造営が開始され、12 世紀末期に奥州藤原氏が滅亡するとともに焼失した。

それは、為政者としての奥州藤原氏が仏教に基づく理想世界の実現を目指し、平泉の造営を進める上での重要な起点となっただけではなく、初代清衡が造営した中尊寺金色堂、三代秀衡が造営した無量光院など、仏国土(浄土)を空間的に表現する建築・庭園とも空間上の緊密な位置関係を持っていた。

柳之御所遺跡は、平泉中心部の東側を流れる北上川と西側の猫間が淵の低地に挟まれた標高22~30mの段丘の縁辺部に立地する。北西から南東の方向に細長い区画を成し、最大長約750m、最大幅約220m、総面積約11万㎡である。これまでに実施された計70回に及ぶ発掘調査により、奥州藤原氏四代の居館に関する豊富な情報が明らかとなった。

遺跡は、堀で囲まれた遺跡全体の約3分の2に相当する東南の区域と、堀の外側に展開する北西の区域に分かれる。

堀で囲まれた東南の区域では、道路状遺構・塀跡・掘立柱建物跡・竪穴建物跡・園池跡・井戸跡などの遺構が発見された。堀跡は幅約10m、深さ約2.5mで、全長が約500mにも及ぶ。東と南の堀では、道路状遺構に連続する橋脚跡が確認された。堀で囲まれた区域の内部には塀で囲まれた区画があり、区画内の北半部には建物群が、南半部には園池が、それぞれ設けられていた。

建物は掘立柱構造で、寺院で発見されている建物跡が礎石建の構造であるのと対照的である。園池の北側の区域には比較的規模の大きな建物が密に分布し、区画の中でも中心的な部分を成す。四面に庇を伴う大型建物の周辺には中小規模の建物が分布し、整然とした規格性が見られる。また、総柱で構成される建物は高床倉庫と推定され、平泉館の焼亡時に倉のみが焼け残り、その内部に犀角、象牙の笛、水牛角、紺瑠璃の笏などの舶載品が唐木製の厨子に納められていたと記す『吾妻鏡』の記述との関連性がうかがえる。

堀に囲まれた区域の外側に当たる北西の区域では、西の中尊寺金色堂の方向に向かって伸びる幅約7mの道路の跡が発見されており、「金色堂の正面方向に平泉館がある」とする『吾妻鏡』の記述とも合致する。道路を挟んだ両側の地域には、方形の区画が並んで展開していることが確認されており、堀に囲まれた区域とも密接に関連する一族の屋敷地跡と推定されている。

奥州藤原氏の政庁のうち三代秀衡の頃の「平泉館」の復元ジオラマにより、奥州藤原氏の政庁・居館として、建物や広場、池などが造られていた当時の姿を再現している。

岩手県平泉町 世界遺産・観自在王院跡


岩手県平泉町 世界遺産・観自在王院跡

2024年01月08日 11時39分59秒 | 岩手県

観自在王院跡。世界遺産。特別史跡。国名勝。岩手県平泉町平泉志羅山。

2023年6月15日(木)。

世界遺産・金鶏山下山後、南近くにある世界遺産・観自在王院跡へ徒歩で向かい、北の阿弥陀堂から反時計回りに南の池を一周した。

観自在王院は、奥州藤原氏の政権中枢として12世紀に繁栄を誇った平泉の浄土伽藍である。庭園は、大小の阿弥陀堂の南側に設けられた園池を中心として、背後の金鶏山とも一体的に阿弥陀如来の極楽浄土の表現を意図して造られた浄土庭園であり、数少ない平安時代の庭園遺構として高く評価されている。

12世紀半ばに奥州藤原氏第二代基衡の妻が自らの居所を寺としたのが最初で、その後変転を経て、元亀4年(1573)の一揆に伴って発生した火災により大阿弥陀堂及び小阿弥陀堂などの堂宇が完全に焼失したとされている。園池の北側では大阿弥陀堂及び小阿弥陀堂の痕跡を示す礎石が発見されたほか、園池の南側では棟門跡が発見された。

北上市立博物館

観自在王院

観自在王院東西約160×南北約260mの南北に延びる寺域は幅約30mの南北道路を介して西側の毛越寺に接し、敷地の北に寄せて大阿弥陀堂・小阿弥陀堂などの主要建築群が建ち並び、南半部に広大な池が展開する。

「舞鶴が池」と呼称される園池は、東西100m、南北約100mの規模を持ち、中央やや東寄りにに東西約30m、南北約12mの中島が盛土により造成されていた。さらに、毛越寺の庭園の「大泉が池」とは異なり、比較的簡素な意匠・構造の園池であったことも判明した。

「舞鶴が池」の平面形状は、「池は鶴か亀の形に掘るべし」と記す『作庭記』の記述と一致する。また、池の水際の白浜の形状、景石の配置、西岸中央部付近の伝うように水が落ちる滝石組の構造も『作庭記』の記述に一致している。

池の水は毛越寺境内の北東隅に位置する弁天池を水源とし、南北道路を横断して観自在王院の敷地内に引かれた後、緩やかに蛇行する遣水を経て池へと導かれる。特に、遣水が池に流れ込む位置には大きな石を伏せるようにして組み、雄大な滝の景を構成している。簡素ではあるが動的な水の姿を表した流れの部分と、広々と静止する池の水面、そして両者の接点に躍動感のある滝の姿を表現したものである。

池の外周は草止めの護岸のところどころに礫をあしらい、大小の景石を配して随所に見どころのある汀の景を造る。

昭和48年から53年度に庭園跡を含む敷地全体の修復・整備工事が行われ、旧観自在王院庭園として現在見る庭園の景観が再現された。

 平泉には、観自在王院のほかに毛越寺、無量光院など顕著な価値を有する浄土伽藍の遺跡が存在する毛越寺は第二代基衡が造営した薬師如来を本尊とする伽藍で、金堂・庭園(橋・中島)・背後の塔山がそれぞれ南北に並ぶのに対し、無量光院は第三代秀衡が造営した阿弥陀如来を本尊とする浄土伽藍で、阿弥陀堂、庭園(橋・中島・拝所)、背後の金鶏山が東西方向の軸線上に明確に並ぶ配置構成を採る。

毛越寺は鎮護国家を祈願して造営された伽藍であり、無量光院は当初から西方極楽浄土を象徴して造営された伽藍であったが、観自在王院は途中で住宅を喜捨して伽藍に改めたという造営の経緯が影響したためか、西方極楽浄土を象徴する伽藍でありながら、伽藍の軸線が東西方向ではなく南北方向に定められている。

また、観自在王院の庭園は、毛越寺の庭園と比較すると池の護岸など庭園の意匠・構造が全般的に簡素だという点においても特徴がある。毛越寺庭園の遣水は全体を礫及び景石で覆うのに対し、観自在王院の遣水は優美に湾曲する意匠ではあるが、ごくわずかの石材のみを用いたほとんど素掘りに近い構造を成す。

以上のように、旧観自在王院庭園は平泉に造営された浄土伽藍の庭園の中でも独特の意匠と構造をもち、それらの系譜上の位置付けのみならず、日本庭園史上における学術的価値も極めて高い。庭園全体の地割及び景観構成のみならず、遣水・滝石組・汀線等の細部の意匠・構造においても芸術上、観賞上の価値は高い。

現在、18世紀初頭に建てられた現存の阿弥陀堂では、毎年春に毛越寺僧侶らによって基衡の妻の葬列を再現した法事が行われている。

現阿弥陀堂から東南の池方向。

現阿弥陀堂から西南の池方向。滝石組、毛越寺。

池の西部。

中島、奥に阿弥陀堂。

鐘楼跡付近の汀。

観自在王院跡を見学後、駐車した町立平泉文化遺産センターへ戻り、見学した。

岩手県平泉町 世界遺産・金鶏山


岩手県平泉町 世界遺産・金鶏山

2024年01月07日 12時08分09秒 | 岩手県

世界遺産・金鶏山。岩手県平泉町平泉花立。

2023年6月15日(木)。

世界遺産・無量光院を見学後、世界遺産・金鶏山・観自在王院跡を見学するため、金鶏山の麓にある町立平泉文化遺産センターの駐車場へ向かい、広い駐車場に駐車した。金鶏山登山口までは徒歩約5分強、登山口から急坂約15分で山頂に着く。

金鶏山は、平安時代末期に栄えた奥州藤原氏の拠点、平泉にある独立した小高い山であり、平泉のどこからでも望めるその山容は景観上も重要な位置を占めている。

江戸時代、平泉を訪れた俳人・松尾芭蕉は、1702年に刊行された紀行文『奥の細道』の中に「秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」という言葉も記して平泉の栄華を偲んでいる。

平泉には藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡が造営した中尊寺、毛越寺、無量光院及び政庁「平泉館」と推定される柳之御所遺跡などの施設が点在しており、金鶏山はその中央西側に位置する。標高は98.6m、山裾との比高約60mで、なだらかで整った円錐形の山容をみせる。

東裾には、広く造成された平坦面に12世紀前半の翼廊を備えた礎石建物が確認されている花立廃寺跡があり、南裾には毛越寺の子院千手院がある。

奥州藤原氏が平泉の平和を守るために山頂に雄雌一対の黄金の鶏を埋めたという江戸時代からの伝承があり、それを掘り出そうとして、昭和5年(1930)に頂上付近が濫掘されたさいに経塚に伴う銅製経筒や陶器の壺・甕などが掘り出された。

その際の記録と出土品の写真が残されており、東京国立博物館と千手院には、銅製経筒1点、陶器の壺・甕・鉢計8点、平瓦1点、刀子・鉄鏃残片多数などが保管されている。

記録によれば、経筒を納めた穴には玉石や木炭が敷き詰められていたという。陶器には渥美産の壺と片口鉢が各1点、常滑産の三筋壺1点、甕5点がある。確認される銅製経筒と経容器と推定される陶器の壺から見て、経塚は数基は営まれていたと考えられる。陶器はいずれも12世紀代の藤原氏の時代のもので、多くは12世紀半ばから末葉の、三代秀衡期のものが多いが、渥美産の袈裟襷文壺は形態・文様・押印の特徴などから前半代にさかのぼる優品であり、二代基衡期あるいは初代清衡期の末頃に比定される。これらは時期や遺物の内容から見て、藤原氏と密接に関係した経塚と推定される。

 

一方、金鶏山は平泉の中にあって目立つ山容であり、特別の意味合いを有していたと考えられる。基衡が造営した毛越寺境内の東辺は、金鶏山の山頂から真南に位置し、同時に幅30mの南北道路の西端に当たる。この道路に直交する東西道路は毛越寺の南辺に面し、近年の発掘調査により東に延びて平泉の基幹道路となることが確認されている。これにより、金鶏山は毛越寺の寺域及び基幹道路を設定する際の基準点となったことが知られる。

さらに、秀衡が造営した無量光院は、宇治の平等院鳳凰堂を模した阿弥陀堂であるが、東面する本堂とその正面にある中島の中軸線を西に延長すると金鶏山の山頂に達する。中島から本堂を望むとその背景に金鶏山が横たわり、春秋の彼岸頃にはその頂にまさに夕日が没し、西方に極楽浄土を想念する日想観を試みる場でもあったと考えられる。また、居館である平泉館(柳之御所遺跡)の造営に当たっては、金鶏山との位置関係が重要な意味を持ったことが知られる。

このように、金鶏山は平泉の中にあって、藤原氏と密接に関係したと考えられる経塚が営まれるとともに、毛越寺や基幹道路など平泉の都市計画上の基準点として利用され、かつ無量光院と一体的に宗教世界を構成するなど、平泉において特別な歴史的意義を有している。

登山口

登山口すぐ上には源義経妻子の墓がある。

山頂直下の階段。

山頂の経塚。

山頂からの展望はない。

下山後、南近くにある観自在王院跡へ向かうと、ホテル武蔵坊の山側に弁慶の足湯舟があった。

岩手県平泉町 世界遺産 特別史跡・無量光院跡


岩手県平泉町 世界遺産 特別史跡・無量光院跡

2024年01月06日 15時27分47秒 | 岩手県

特別史跡・無量光院跡。岩手県平泉町平泉花立。

2023年6月15日(木)。

道の駅「平泉」で起床。平泉には1990年代後半に百名山の途次に老母と訪れたことがあり、月見坂を上って中尊寺金色堂、物見台から東北本線の貨物列車を見下ろしたのち、毛越寺を見学した。当時、柳之御所遺跡は発掘調査中だった。

今回は、金色堂と毛越寺には行かないことにした。道の駅「平泉」の道路向い側には岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターがあるが、開館は9時からなので、後回しにして、無量光院跡、金鶏山、観自在王院跡、町立平泉文化遺産センター、県立平泉世界文化遺産ガイダンスセンターの順に見学した。本日は断続的に雨だったので、柳之御所遺跡は見学しなかった。その後、南西へ進み、世界遺産候補の達谷窟・骨寺村荘園遺跡および一関市立博物館を見て、午後遅くなり、雨も激しくなったので、一関城跡と猊鼻渓は行かずに、本日を旅行最後の日として帰宅の途に就き、日没頃に宮城県大崎市の道の駅に着いた。

町立平泉文化遺産センターは撮影禁止だったので、何を見たのか記憶はない。県立平泉世界文化遺産ガイダンスセンターは最新の発掘成果による各構成資産の概要を紹介している。

柳之御所遺跡中心部からの眺望。

特別史跡・無量光院跡は、平泉中心部の東側に位置する。奥州藤原氏三代秀衡12世紀後半に建立した寺院の跡である。その西方には金鶏山が位置し、東に接して柳之御所遺跡が存在する。

世界遺産委員会は、無量光院を完成形とする平泉の浄土庭園について「池泉・樹林・金鶏山山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより実体化した理想郷の光景」として、高く評価している。

平安時代末期に奥州一帯(現在の東北地方)に勢力を振るった奥州藤原氏は、初代清衡が中尊寺、二代基衡が毛越寺を造営した。そして三代秀衡が建立したのが無量光院である。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、『吾妻鏡』にも無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと記載されている。

『吾妻鏡』文治5年9月17日(1189年10月28日)条によれば、無量光院は京都府宇治市の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した。新御堂とは毛越寺の新院の意味である。

本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、発掘調査の成果及び金鶏山との位置関係からは、宇治平等院よりもさらに発展した仏堂・庭園の伽藍配置であったことが判明している。

境内の規模は、鉄道と県道によって3分割されている関係で分かりにくいが、無量光院の区画は南北約320m、東西約230mの長方形を成し、西・北・東に土塁が巡ることが明らかとなった。西側の土塁は高さ約5m、長さ約250mに及ぶ長大なもので、外側には堀を伴うことが判明している。

内部には東西約150m、南北約160mの梵字が池と呼ばれる浅い園池があり、その北西隅部から導き入れられた水は北東隅部から排水されていたことが判明した。

園池の中央北寄りの位置には、大中小三つの島(中島、東島、北小島)が設けられている。西側に位置する一番大きい中島には左右対称形の翼廊を伴う仏堂(本堂、阿弥陀堂)が東面して建てられていた。仏堂は宇治の平等院と同規模であったが、翼廊のうち南北の部分が平等院よりも1間長く、仏堂の背後に尾廊を伴わないことが判明している。また、仏堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。

北小島は中島の北側と橋で結ばれており、中島との位置関係は宇治の平等院と類似している。

東に位置する東島には汀線の景石が残されているほか、3棟の礎石建物が建てられていたことも判明した。それらの建物は、東から楽屋・拝所・舞台の機能を持つ建物と推定されている。

中島北東の池北岸において、南東に延びる岬(半島)状の張り出しと、北西に広がる入江が平成24・25年の調査で確認されるなど、池の形状が平等院に似ていることが発掘調査で明らかになってきた。一方で島と岬、入江には(毛越寺庭園のような)玉石が葺かれているが、大半の池護岸には石が葺かれていない。また、池の水深が40㎝と非常に浅いことも確認されており、無量光院跡の庭園遺構の特徴とも言える。

無量光院は周囲を土塁・堀が囲むなどの独自の構造を持ち、宇治の平等院では池の東岸に仮設されていた拝所が池中の小さな島の上に常設されるなど、仏堂正面の視覚的効果を意識した施設の配置構成が見られる。また、出土遺物には、金銅製透彫瓔珞やかわらけなどがある。

無量光院跡の2つの中島に設けられた建物群は、背後に位置する金鶏山の山頂と東西の中軸線を揃えており、東側から西の仏堂を望むと、年に2度、4月と8月に仏堂背後に位置する金鶏山の山頂付近に日輪が沈む。このことは、無量光院が現世における西方極楽浄土の観想を目的として造られたものであることを示している。そこには、柳之御所遺跡から無量光院の仏堂・園池を経て背後の金鶏山に至るまで、居住・政務の場である居館、極楽浄土を実体化した伽藍、極楽浄土の方位を象徴する小独立丘が東西に並んで位置する独特の空間構成が見られる。

このように、西方に金鶏山が背後に控え、園池に浮かぶ大小2つの中島に翼廊付の仏堂と拝所舞台をそれぞれ設けた無量光院跡の空間構成は、浄土庭園の最高に発展した形態として貴重である。

12世紀以後の無量光院の経過に関する記録は一切残っていないが、発掘調査の結果、13世紀中頃に焼失したものと推定されている。

世界遺産登録をうけて、史跡の発掘調査および周辺の整備などが行われ、一帯の景観保全が進められている。

南東隅部から東島、中島、金鶏山。

このあと、東岸を北に進み、北小島から中島の基壇跡まで歩いた。

東南の土塁。

東島、中島、金鶏山。

岬と入江、北小島、西の土塁。

東の土塁。

北小島の橋、導水路、西の土塁。

北小島から中島方向。

中島の基壇前。瓦敷き。

中島の基壇から東島方向。

鎌倉・永福寺。

このあと、金鶏山、観自在王院跡を見学するため町立平泉文化遺産センターの駐車場へ向かった。

岩手県奥州市 国史跡・角塚古墳 国史跡・長者ヶ原廃寺跡 衣川柵跡(並木屋敷)


岩手県奥州市 国史跡・角塚古墳 国史跡・長者ヶ原廃寺跡 衣川柵跡(並木屋敷)

2024年01月05日 17時52分00秒 | 岩手県

国史跡・角塚古墳。岩手県奥州市胆沢南都田字塚田。

2023年6月14日(水)。

奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)を見学後、西進して国史跡・角塚古墳へ向かった。道路西方向北側に駐車場がある。

角塚(つのづか)古墳岩手県では唯一の前方後円墳であり、日本の最北端に位置する前方後円墳である。北上川中流域、北上盆地のやや南寄り、西から合流する支流胆沢川の形成した胆沢扇状地の、標高約76mの低位段丘上に位置する。埋葬施設は明らかとなっていないが、出土埴輪等により5世紀末から6世紀初の築造と推定される。

古墳は、前方部を南に向けた前方後円墳である。現在残る墳丘は大きく壊されたもので、原型をとどめた箇所は少ない。後円部は2段築成で、後世に大きな一本杉が植えられている。墳丘の全長約45m、後円部の径約30m、高さ約4.5mを測り、前方部は前端幅約20m、くびれ部幅約13m、高さ約1.5mと復原され、前方部が短く狭い特色ある形態をとっている。

周濠は後円部周辺が幅約10m、前方部で約3mと狭くなり、全体が馬蹄形状を呈している。墳丘上には葺石、埴輪が認められ、前方部には各種の形象埴輪のあったことが知られている。形象埴輪の中には、動物、人物、家形埴輪等が含まれている。後円部からは墳丘に近い周濠全体からは円筒埴輪が出土している。これら埴輪の製作時期は5世紀後半と見られる。

岩手県域にあっては本古墳1基(1代のみ)を除くと他はすべて末期古墳で、本古墳以南にあっては宮城県北部の大崎地方(約70㎞南)まで前方後円墳等の存在が認められないため、その特異性が注目されている。角塚古墳の北西2㎞では、角塚古墳と同時期の大集落跡の中半入遺跡が発見され、角塚古墳造営に関わった人々の住居跡とされる。その出土物からは宮城県域や久慈地域など広域の交流が見られる。

角塚古墳の北東700mの場所から古墳時代中期後葉~後期前葉頃の円墳4基と墳丘をもたない、土壙墓12基が発見されており、角塚古墳以降の複数の地域有力者の共同墓地であった可能性が推測されている。

周辺の拠点的遺跡と考えられる中半入遺跡、石田Ⅰ・Ⅱ遺跡では、古墳文化と続縄文文化の遺物が共伴しており、5世紀頃には、奥州市周辺が南北交易の場であったことを示している。

国史跡・長者ヶ原廃寺跡。岩手県奥州市衣川田中西。

長者ヶ原(ちょうじゃがはら)廃寺跡は、平安時代の寺院跡で、中尊寺から北に約1キロの距離に位置し、西から南へ流れる衣川の東岸、北から南にゆるく傾斜する段丘上に立地する。10 世紀末には造営され、12 世紀までに廃絶したとみられる。藤原秀衡の御用商人金売吉次の屋敷跡と伝承されてきたが、昭和33年の発掘調査の結果、一辺およそ 100mの方形に区画された築地塀跡の内側に、本堂跡、塔跡と推定される西建物跡、南門跡の3つの礎石建物跡が配されており、寺院様式の壮大な建造物群跡であることが確認された。

3棟の建物は、ロ字形に巡る築地塀に囲まれており、中央よりやや北側にあるのが本堂、そのすぐ西側には西建物、本堂のまっすぐ南に南門がある。遺跡の年代は、平成 16 年度の調査で出土した土器から、10 世紀末には造営されたことが明らかとなっている。

伽藍配置においては、本堂と南門の中軸線を南に延長すると、中尊寺が鎮座する関山の最高点に到達し、中尊寺造営以前の関山と何らかの関係があると推定される。

2つの建物の標高差は1mあり、本堂から正面を望むときに南門が視界を遮らないように工夫されている。

また、本堂の東に建物はなく、本堂から東に目をやると束稲山が姿を見せている。西建物が本堂の西側に建てられたのは、束稲山への眺望を確保するためだった可能性もある。

また、現在のところ講堂や僧坊などの施設が全く見つかっていない。加えて本堂跡の孫庇や築地塀内などに、礼拝の空間が広くとられている点が特徴的であるとして、僧を育成したり修行したりする寺ではなく、儀式や礼拝のみを執り行う仏教儀礼(法会)に特化した寺だったとされる。

このように長者ヶ原廃寺跡は、藤原清衡が平泉に中尊寺を建立する以前から衣川に仏教文化が華開いていたことを伝えるとともに、平泉文化がどのように形成されていくのかを明らかにする上で欠くことのできない重要な遺跡である。

建立者は、奥州藤原氏の母方の祖先である安倍氏と考えられている。当時、長者ヶ原廃寺跡の周辺には安倍一族の屋敷が軒を連ね、藤原清衡の叔父には僧侶がいたという記録が残されている。また、当時の築地塀は格式の高い寺院や役所しか造ることは許されなかったことや、造営するのに多くの労働力が必要とされることから、相当な権威と権力があったからも安倍氏と推測される。

発掘調査で焼けた土が多く見つかり、礎石に熱を受けた跡があることから、前九年合戦(1051~1062年)で安倍氏が源頼義・義家父子に滅ぼされたと同時に失われたものと推定されている。

荒廃後も、築地塀が廻っている様が衣川のランドマークになっていたように、三代秀衡の時代に平泉を訪れた西行法師も、長い間の念願だった旧跡を目にすることができたとして、その感慨を和歌に詠んでいる。また、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝も、この遺跡の礎石を一目見ようと足を運んでいるが、繁茂する草に覆われて見ることが叶わなかったということが『吾妻鏡』に記録されている。

このように、寺として機能しなくなった後も、廃寺として文化人・武士の崇拝を集めていたようで、初代清衡が中尊寺の大長寿院を、平泉の中心部から相互に視認できる関山丘陵の南側ではなく、衣川地区を臨む北側に建立したのは、長者ヶ原廃寺跡を意識した上での占地だったと推測される。

長者ヶ原廃寺跡の礎石は束稲山で採石されたことが調査で確認されている。

2012年、白鳥舘遺跡(奥州市)、柳之御所遺跡、達谷窟(平泉町)、骨寺村荘園遺跡(一関市)と共に再び世界遺産暫定リストに記載された。

入口から史跡方向。

本堂跡(SB01 礎石建物跡)

 築地塀跡内の中央に位置する。礎石は 34 基確認されている。規模は5×5間(16.8×16.8m)、軸方向はN-6°-Eである。形状は、三間四面で南面に孫庇が付く形態が想定されている。

一部の礎石の下には根石が設置されており、設置の際の掘方は確認されていない。基壇は、盛り土で構築されており、遺存する最大の規模は東西 19m、南北 19.6m、高さは最大で 30 ㎝である。基壇外装は、南辺と東辺で石列が確認されている。石列には偏平な楕円形の円礫が用いられ、長軸方向に立位で設置している。基壇との境には裏込めの土が入れられ固定されている。

 付属施設として基壇南辺中央礎石fⅲ、fⅳの南には柱穴状ピットが確認されており、階段跡と考えられている。軒の出は、雨落溝が検出していないことから不明である。

西建物跡(SB02 礎石建物跡)

 築地塀内の北西に位置する。礎石は 13 基確認されており、原位置を保つ礎石が6基、原位置から動いていると思われる礎石が7基確認されている。推定される規模は、3×3間(7.65×7.65m)、形状は桁行3間・梁行3間の側柱建物と考えられている。軸方向はN-6°-Eである。

基壇は約 10×10mの規模で、構築土で旧表土上に水平面を作り礎石を設置し、礎石上面まで積み上げていたものと考えられている。基壇西側には外装と考えられる石列を確認している。軒の出は、雨落溝が検出されていないことから不明である。 なお、基壇の高さは、本堂跡と比べると 40 ㎝ほど高い。

南門跡(SB03 礎石建物跡)

 築地塀南辺の中央に位置する。礎石は 10 基確認されている。規模は梁行3間、桁行2間(7.2×4.5m)で、形状は側柱建物と考えられている。長軸方向はN-96°-Eである。東西に築地塀が取り付くことを確認している。基壇は、上面に原地性焼土と炭化物、焼土塊が確認できた層を構築土としている。規模は不明である。軒の出は、雨落溝が検出されていないことから不明である。

北奥側から衣川方向。

配置構成。 長者ケ原廃寺跡の建物と築地塀の配置については、以下のことが読み取れる。

①本堂跡(SB01 礎石建物)・南門跡(SB03 礎石建物)と築地塀跡SF01 開口部を一直線に、かつその中軸線を南に延長すると関山丘陵の最高点に達するように配している。

②本堂跡(SB01 礎石建物)と南門跡(SB03 礎石建物)の距離と、本堂跡(SB01 礎石建物)と北門の距離が2:1となっている。

③築地塀跡SF02 開口部は、本堂跡(SB01 礎石建物)の真東となっている。

④築地塀跡SF04 開口部は、築地塀跡SF04 の中央に位置する。

 以上のことから、南に位置する関山丘陵の位置と、本堂跡(SB01 礎石建物跡)の前面に広めの空間を設けることが特に意識されていると考えられる。

寺院としての特徴

中心堂舎のSB01 礎石建物跡は当時の陸奥国では最大級の建物であり、かつ築地塀が用いられている。

 10 世紀後半から 11 世紀前半の北上盆地では、北上市国見山廃寺跡、大竹廃寺跡、一関市泥田廃寺跡など、礎石建物による仏堂が出現する。なかでも国見山廃寺跡は、この時期に多重塔を含めた9棟の礎石建物からなる大規模な伽藍として整備され、盆地内の中心寺院になったとされる。大竹廃寺跡と泥田廃寺跡は、長者ケ原廃寺跡本堂跡と同様の三間四面庇の礎石建物であるが、長者ケ原廃寺跡は、本堂跡に孫庇が付き、付属建物と築地塀を備える点から、国見山廃寺跡に継ぐ規模の寺院であり、当時、北上盆地を掌握していた安倍氏によって、奥六郡南端の境界地に置かれた寺院であったとの推定がなされている。

 長者ケ原廃寺跡は、中軸線が関山丘陵の山頂に向かって設計されていることから、当時の関山と関係することが想定される。10 世紀後半の関山には「衣の関」が設置されていたとされ、中尊寺境内中心部では、広範囲を囲繞する 10 世紀ごろの大溝跡も発見されている。長者ケ原廃寺跡は、「衣の関」と同時期に存在していることから、「衣の関」と関わり奥六郡南端に設置された寺院である可能性がある。

 

長者ケ原廃寺跡の現状

 史跡地のうち、築地塀跡の内部は、99%が公有地化され現在は草地となっている。築地塀跡の外側については、ほぼ個人所有地で、1軒の宅地があるほかは水田として耕作がなされている。周辺には、見学者用トイレや駐車場、史跡案内所を設置している。

 公有地である築地塀跡の内部は、本堂跡と西建物跡の礎石が地上に残されているが、水田当時の畦畔が残ったままであり、見学や除草管理の妨げとなっている。また、南門跡と南の築地塀跡は、農道の下に埋まっており、見学することができない状況である。

衣川柵跡。並木屋敷。岩手県奥州市衣川区並木前。

安倍氏が本據を構えた際の政庁と伝えられ、安倍氏滅亡後は清原氏の居館となり、桜並木に囲まれていたため並木屋敷の名称があるが後世においては衣川柵とも称されるようになった。

奥州藤原氏の初代藤原清衡の祖父にあたる安倍頼時(安倍忠良の子)はここを本拠とし、前九年の役で安倍貞任が源義家に屈して撤退するまでの18年間安倍氏の政庁が置かれていた。その後、安倍氏に代わって奥六郡を支配した清原家の政庁や居館も、ここに置かれた。柵が設けられたのは清原氏による支配が始まったのちのことである。ただし、現在は案内板があるだけで、遺構を見ることはできない。

衣川地域

延暦 21 年(802)には坂上田村麻呂によって北上川と胆沢川の合流点に胆沢城(国史跡)が造営され、鎮守府の機能も付加され、10 世紀後半ごろまで陸奥北部を支配する拠点となっていく。胆沢城造営後、現在の奥州市域には関東地方などからの移民が配されたことが記録に見えるが、それを反映するように、この時期になると市内全域で集落数が増加し、その状況は 10 世紀末まで続く。

そのなかで 10 世紀末ごろには衣川の北岸に長者ケ原廃寺跡が造営され、11 世紀末ごろには北上川に面した白鳥舘遺跡が利用され始める。両遺跡ともに 11 世紀に安倍氏、清原氏がこの地域に台頭したことを示しており、奥州藤原氏が平泉に成立する背景を考えるうえで欠くことができない遺跡である。

 11 世紀末~12 世紀初頭には、藤原清衡が江刺郡の豊田館から平泉に進出、平泉は文治5年(1189)の奥州合戦で源頼朝により滅ぼされるまでの約 100 年間にわたり繁栄を極めた。奥州市のうち平泉と境を接する前沢地域や衣川地域には、川湊として平泉を支えた白鳥舘遺跡や、大量のかわらけを伴う儀礼が行われた接待館遺跡など、都市平泉の一部をなす遺跡が所在している。

衣川の地名が最初に現れるのは延暦8年(789)の征夷において、征夷軍が衣川を渡り軍営として衣川営を置いたとある。衣川営から進軍した征夷軍は、巣伏村で蝦夷軍に惨敗していることから、衣川は蝦夷の勢力範囲のまさに南限であった。

  10 世紀後半ごろからは、衣川、衣の関が歌枕として多くの歌に詠まれ、衣の関は『枕草子』にも関のひとつとして記されている。衣の関は中尊寺が所在する関山にあったとされるものの、実態はよくわかっていない。しかしながら、中尊寺境内の金色堂北東部では 100m以上の範囲を囲繞するとみられる 10 世紀ごろの溝跡が確認されており、12 世紀の中尊寺造営以前になんらかの施設が存在したことは明らかである。

長者ケ原廃寺跡は、まさにこの時期に衣川の北岸に造営される。寺院の中軸線は関山の山頂を基準にしており、関山を意識して造営されていたことは疑いない。長者ケ原廃寺跡の廃絶時期は決め手がないが、遺構の改修がほとんど認められないことから、その存続期間は短く、中尊寺が建立される頃には廃絶していた可能性が高い。

永承6年(1051)には、前九年合戦が始まる。前九年合戦の顛末を記した『陸奥話記』には、安倍氏が衣川の外に出たことが合戦発端の一因であったこと、また衣川(河)関は、難攻不落の要地であったものの、源氏・清原氏軍の奇襲により陥落、源氏・清原氏軍は翌日には白鳥村へと進み、次々と柵を破り入り北へ進軍したと記される。この記述から、衣川(河)関は奥六郡南限の要衝地であり、境界とみなされていたことがわかる。事実、安倍氏は衣川(河)関が落ちて以降、敗退を重ね、関の陥落の 11 日後には厨川柵で滅亡してしまう。前九年合戦は、まさに衣川(河)関をめぐる攻防であったともいえよう。

 

このあと、道の駅「平泉」へ向かった。

岩手県奥州市 奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)国立天文台水沢VLBI観測所