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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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東京都目黒区 菅刈公園①重文の西洋館・西郷従道邸旧地

2025年01月25日 09時13分32秒 | 東京都

菅刈公園。明治天皇行幸碑。目黒区青葉台2丁目。

2025年1月6日(月)。

本日は年末年始の東京旅行の最終日である。月曜日は博物館・美術館はほぼ休館なので、名古屋に帰る時間に充当すればいいのだが、11月と12月の2度疲労のため行きそびれた見学地が西郷山公園と隣接する菅刈(すげかり)公園であり、年中無休なので見学することにした。

菅刈公園には明治村に移築された重文の西洋館・西郷従道邸が建っていた。西郷従道(じゅうどう)は西郷隆盛の弟で、明治時代の軍人で政治家であった。

本日はJR都区内フリー乗車券を購入した。東京サブウェイ72時間フリー乗車券は、本日の10時まで有効である。そこで、赤羽から新橋に行き、8時20分ごろ「ゆりかもめ」に乗車し、8時50分ごろ豊洲に着いた。レインボーブリッジを渡り終えるまでは、学校休みの児童や外人観光客が多く最前列の席に座れなかった。豊洲からは、有楽町線に乗り有楽町で降りて地下鉄の旅は終了した。

JR有楽町駅から山手線で渋谷に向かった。渋谷駅から代官山方面へ歩いたが、やはり途中で何度も道に迷い、グーグルマップで確認しながら進んだ。南平台の南側を西南に向かった。1971年頃、南平台にあったビートルズシネクラブの本部へ行こうとして結局分からなかったことを思い出した。往復通った鉢山町交番で道を尋ねたが、帰路や高低差を考えると、鉢山町交差点から西方向へ行き、南へ下ったほうが楽に行ける。往路はバス通りから渥美俊一記念館の前を通って、西郷山公園の東南端の入口に着いた。

高台の麓だが、西洋館が建てられていたのは、隣の菅刈公園なので、西に進むと、西郷山公園の西南入口を出た。

西郷山公園は、西郷従道邸の北東部分の丘陵地で、西郷従道の邸宅跡を目黒区立の公園として整備され、1981年に開園した。

菅刈公園の部分には、邸宅や庭園があり、その跡地に2001年に開園した。

南側を西に進むと、菅刈公園があり、その入口に明治天皇行幸碑があった。

事前の調べではこの程度だったが、トイレを借りようと、奥にある建物に入ると、受付に女性がいたので、西洋館はどこに建っていたのか尋ねると、展示室があるので見て行って下さいと言われた。この建物は、西洋館と一緒に建てられていた和館(書院)の跡地に建てられたという。和館の前には池泉庭園が整備されていた。

生垣内奥が西洋館跡、右奥が書院跡地に建てられた建物。

西郷従道邸は、江戸時代には豊後岡藩(現・大分県竹田市)藩主中川家の目黒抱屋敷(かかえやしき=別邸)だった場所で、池には三田用水から水を引いて滝や池のある回遊式の大名庭園を築いていた。

2万坪に及ぶ中川家目黒抱屋敷は、明治6年に下野した西郷隆盛の静養のために、弟の西郷従道(明治7年、陸軍中将)が、明治7年に台湾出兵の際の恩賜金をもとに購入した。その後,近 隣農民か ら農地や山林 の買上 げを請われ,西 郷家 の所有地 は最 大14万 坪 にまで広がった。

西郷従道が この地所 を手 に入れた 当時の本園の様子 は,「 山 あ り泉あ り。池 あり。林樹 あ り其 の他水 田,園 圃あ り四隣閑寂風 趣頗 る佳好。」 とあ り,従 道 がこのよ うな風情の土地 柄 を気 に入 って いた ことが伺 える。 西郷家の目黒 の邸宅 は,西 南戦 争 にお ける隆盛の死 によ って当初 の 目的には供 され なかったが,明 治33(1900)年 まで は別 邸 と して,そ して 明 治34(1901)年 か ら昭 和16(1941)年 までは西郷家の本邸 と して使用 されて いた。

そのなかに明治13年、フランス人建築家ジュール ・レスカスと 棟梁・鈴木孝太郎 の手により、日本初となる木造2階建て、耐震仕様の洋館が建築された。

西洋館は、広々とした芝生や、大王松(だいおうまつ)・ヒマラヤ杉・落羽松(らくうしょう)などが茂る樹林に囲まれ、清浄な池に面していた。

建具類はほとんどフランス直輸入の品を使用した。また、屋根は垂木(たるき)を省いたり、金属板を葺くなどの軽量化が図られた。さらに、建物の四隅には通し柱を配置、壁の中にはれんがを積み建物の浮き上がりを防ぐなど、当時では、他に類例の見られない耐震設計がなされていた。

西郷従道が海軍大臣時代の明治22年には、明治天皇の行幸、皇后・皇太后の行啓なども行なわれたため、書院造の和館を建設し、鹿児島から西郷隆盛に仕えた永田熊吉を呼び寄せ、庭にも大幅に手を入れている。

邸内には、西郷従道が養蚕技術の改良を進めていたため養蚕所、農園・果樹園、トマトソースの製造所(缶詰加工場)もあり、明治天皇も養蚕所を見学している。

西郷従道の死後、明治36年からは、次男で貴族院議員の西郷従徳(じゅうとく)が昭和16年に渋谷に移転するまで、本邸として使用され、昭和18年に国鉄に売却された。

その後、空襲で和館が焼失、残された西洋館は国鉄の職員宿舎、プロ野球国鉄スワローズの合宿所などに使われていたが、その洋館も1963年、愛知県犬山市の「博物館明治村」に移された

園内には、復原庭園のほか、芝生広場、子どもの遊び場、庭園の脇に展示室・和室・庭園展望室をそなえた和館を設置している。

東京都目黒区・旧西郷従道邸庭園に関する造園生活史的研究

J-Stage 鹿野陽子 著 · 1998

明治35(1902)年 に刊 行 された 「西郷従道』には,「 邸 は渋谷 より目黒に連 りて仲 々廣 けれ ども,其 七 分通 りまでは麦,桑,野菜畑 に して(中 略)惟 だ渋谷停車場 よ り同邸 に通ず る路傍 に,楓樹 を植 えたるのみ,邸 内 には水車,米 掲 き小屋,養 蚕室等あ り,庭 には七面鳥,鶏 等を飼育 し,牛 を畜ひて其乳を搾 り,純 然た る農家 の生活 に して,華 族 の別邸 とは ドー(ママ)して も思 はれず,」 とあ り,こ の記述 か ら目黒 の地所の全体的 な印象 は,き わ あて田園的 であ ったといえる。

明治期 の庭園 の状況 は,明 治30(1897)年 の 「日本園 藝會 雑誌』第83号 に 「庭 園拝観記」 と して記録が残 され ている。

中央 にはジュンサイ等が繁茂する大 きな池があ り,庭 の北部 は丘 状 を呈 してい る。池 中 には 「亭」 が配 された島 と小島,そ の間に銅製の鶴像が点在す る半島が ある。 和館 の座敷 は,人 像銅製噴水や雪見灯篭,小 島 と相対 し,こ れ らの奥手 には三段 の滝,そ の西 の沢上部 に四段 の滝組が築造 されて いる。庭園東部 には,温 室 と芝生 の広場 があり,こ れ らを回遊 して丘 を上 ると本園 の最 も高 い台地状 の部分 に設 け られ た茅葺 きの茶亭 に至 る。

茶庭 には正 治元年(鎌 倉 時代)と 刻印 され た灯篭 が据 え られて いる。 茶庭 の北に本 園の水 源に当る箇所が あ り,「 目黒不 動 の滝 の如 き」高 さ一丈に及 ぶ大 爆布に出会 う…。

邸宅の正門か ら馬車 廻 しまでは,西 洋風 の並木道 が設 け られ,従道が欧州か ら持ち帰 った西洋美人像 な どが配置 されてお り,和館の座敷正面の人像銅 製噴水や温室 とあわせて これ らによ る庭 園構成 は,明 治期の欧化思潮 のあり様 が庭 園 とい う三次元の空間 に表 出 した もので あるといえ,和 洋の要 素を折衷 した庭園であ ったことが伺 える。

また,洋 館 のバル コニーか ら望む眺め は,精 緻 な技巧 を凝 らしたいわ ゆる庭園 的な景観で はな く,水 草の生 い茂 るおお らかな自然風 の池 を主 としたもので ある ことは,江 戸期 の描写 にみ られる この池泉 の風情 を継承 して いるといえる。 これ は,欧米 の農園経営 などに影響 を受けた従道 の,一 種 自然主義的 な景観 に対す る好 みが反映 した ものであ った とも推察 されよ う。

明治36(1903)年 の生誕 よ り昭和元(1926)年 まで祖母 らと本邸宅 に生活 した従道 の孫,従 吾 は後年,「 …邸 は 目黒 川 に近 い低地 にあ り,直 ぐ裏 は水 田であ った。広大 な庭園 を有 し渋谷の方向は台地 で森 林におおわれていたので邸か らみ ると山にように見え,朝 夕二階の窓か ら見た景色 は素晴 らしいもの であ った。」 と懐か しみ,ま た,庭 園 に関 しては,「 頗 る広大で,池 あ り滝 あ り広 い芝生があ り,少 し高い ところに,祖 父従道を祭 った祠が あった。

三島由起夫著の 「豊饒の海の一』春の雪(ママ)の最 初 の と ころに書かれてい る松枝侯爵の庭 の描写 は,わ れわれの目黒の庭 にそっくりであ る。 この洋館のそばに大 きな池があ り,鯉,鮒,は や,めだか等 が沢山 いて私共は,よ く魚取 りを して遊 んだ。 また,林には,ひ よ どり,か けす,野 鴨 がいて鳥打 ちもよ く行 った。」 と追想 している。

しか し本 園はまた,特 に明治期 において当主,従 道 の政 治的,社会 的地位 によ り華やかな社交 の舞台 と して も利用 され ていた。

その最 も顕著 な事例 は,明 治22(1889)年5月24日 に行 われ た明治天皇 の行幸 な らびに皇太后及 びの行啓 である。

行幸当 日,園 内には万国旗が飾 され,相 撲 の土俵 と舞台 が仮設され,出 島 には海軍軍楽隊を配す る等 の演 出が行われた。 明治天皇 は新築の和館で午餐 の後,洋 館二階 に設 け られた玉座か ら相撲や象 の曲芸,薩 摩踊 り等 を見物 して いる。 また,こ の日の来賓は,有栖川宮殿下を は じあ三條内大臣,伊 藤枢密院議長,黒 田総理大臣等200余 名に及ぶ盛儀であ った。

行幸の三 日後 にあたる5月27日 の英照皇太后,皇 后(後 の照憲皇太后)の 行啓 には,有 栖川宮,北 白川宮両妃殿下をは じめ諸閣僚夫人 らが集い,目 黒邸 や西那須野 の農場で研究 された養 蚕技術や生産品等の展覧や,松 旭斎天一 の奇術,花 柳寿輔連な らび に藤間勘太郎連 の手踊 り等の余興 が披露 された。

 

目黒 か ら渋谷 にか けての西郷 家の地所は,一 部を現在の菅刈小学校 の用地 と して寄贈する等,逐 次部分 的に手放 されて い ったが,昭 和15(1940)年 頃 まで は,庭 園 は,和 館 の座 敷か ら見渡せ る範 囲だけで も約6,500坪 あ り,山 林な どを含 めると5万 坪 が残 っていた。 しか し,第 二次世界大戦直前の昭和15(1940)年,従徳が,約3.000坪 の敷地 と約2,000坪 の宅地 を残 して所有 地 を箱根土地分譲会社に売却 した ことによって,本 園 は大幅に縮小 され た。 なお,こ の時売却 された地 所は,「 西郷 山文化村分譲地」と して宅地分譲 され た。現在 も,目 黒区青葉台二 丁目一帯 は,通称 「西郷 山」 と呼ばれ,東 京 ・山の手 の住宅地 を代表 する存在であ る。 この呼称 は,西 郷家 が この地 に綴 って きた生活 の歴 史が,少なか らず地域の歴史 として共有 されて醸成 した ことを示唆 してい ると考え られ,「 西郷」あ るい は 「西郷 山」 とい う名 が,場 所性の象徴 と して継承 されてい ることを示す ものであ る。

第二次世 界大 戦中,池 泉 は宅地造成 の残土等 によ って埋 め立てられ平坦部 の殆 どが耕地 とな り,輻 重兵学校 の軍馬用 の防空壕が掘 られ る等,戦 時下 とい う社会情勢 によ り本 園は,国 の文化財 として史蹟 に指定 されていたに もかかわ らず,荒 廃 してい った。 なお,洋 館 は焼 け残 った ものの,明 治天 皇 の行 幸 を機につ くられ た和館 は,昭 和20(1945)年5月 の空襲 によ って惜しくも焼失 した。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園⑤看板建築 武居三省堂 花市生花店 子宝湯


東京都小金井市 江戸東京たてもの園⑤看板建築 武居三省堂 花市生花店 子宝湯

2025年01月24日 09時35分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

 

右から、花市生花店、武居三省堂、店蔵型休憩棟。 

花市(はないち)生花店。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、千代田区神田淡路町一丁目。

昭和初期に建てられた〈看板建築〉の花屋。建物前面の銅板にレリーフが施され、花屋らしくデザインされている。店内は昭和30年代の様子を再現している。

武居三省堂(たけいさんしょうどう)。(文具店)。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、千代田区神田須田町一丁目。

明治初期に創業した文具店。当初は書道用品の卸をしていたが、後に小売店に変わった。

建物は関東大震災後に建てられた〈看板建築〉で前面がタイル貼りになっていて屋根の形にも特徴がある。(修理工事中)

店蔵型休憩棟。移築建物ではなく、2階は飲食店が営業している。

大和屋(やまとや)本店。(乾物屋)。

建築年代は、1928年(昭和3)。旧所在地は、港区白金台四丁目。

港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建ての商店。3階の軒下を庇の下の腕木とその上の桁が特徴の出桁(だしげた)造りにする一方、間口に対して背が非常に高く、看板建築のようなプロポーションのユニークな建物である。戦前の乾物屋の様子を再現している。

左から川野商店と小寺醤油店。

川野商店。(和傘問屋)。

建築年代は、1926年(大正15)。旧所在地は、江戸川区南小岩八丁目。

傘づくりが盛んであった江戸川区小岩に建てられた和傘問屋。庇の下の腕木とその上の桁が特徴の出桁(だしげた)造りの建物。内部は1930年(昭和5)頃の和傘問屋の店先の様子を再現している。

小寺醤油店。

建築年代は、1933年(昭和8)。旧所在地は、港区白金五丁目。

大正期から、現在の港区白金で営業していた商店。味噌や醤油、酒類を売っていた出桁造りの建物

万徳(まんとく)旅館。

建築年代は、江戸時代末期~明治時代初期。旧所在地は、青梅市西分町。

青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館。建物は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年(昭和25)頃の様子を復元している。

右から仕立屋、子宝湯、鍵屋。

仕立屋。

建築年代は、1879年(明治12)。旧所在地は、文京区向丘一丁目。

明治前期に現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町家。 内部は大正期の仕立屋の仕事場を再現している。

子宝湯(こだからゆ)。

建築年代は、1929年(昭和4)。旧所在地は、足立区千住元町。

東京の銭湯を代表する宮造りの建物で、神社仏閣を思わせる大型の唐破風や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の折上格天井など贅をつくした造りとなっている。

鍵屋(かぎや)。(居酒屋)。

建築年代は、1856年(安政3)。旧所在地は、台東区下谷二丁目。

台東区下谷の言問通りにあった庶民的な居酒屋。震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1856年(安政3)に建てられたと伝えられている。

建物と店内は1970年(昭和45)頃の姿に復元している。

13時20分ごろに江戸東京たてもの園を出て、宿に向かった。翌日は、目黒区青葉台の菅刈公園、西郷山公園、新宿中村屋などを訪れた。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園④看板建築 村上精華堂 丸二商店 植村邸


東京都小金井市 江戸東京たてもの園④看板建築 村上精華堂 丸二商店 植村邸

2025年01月23日 09時01分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

高橋是清邸があるセンターゾーンから看板建築が多い東ゾーンへ向かった。

万世橋(まんせいばし)交番。

建築年代は、明治後期(推定)。旧所在地は、千代田区神田須田町一丁目。

デザインや建築様式から明治時代のものと思われる。

正式名称は須田町派出所。神田の万世橋のたもとにあり、レンガ造のため移築の時にはトレーラーでまるごと運んだ。

上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部。

建築年は、1925年(大正14)。旧所在地は、台東区東上野5丁目。

望楼は三脚四層式外廊型で、旧所在地では約23.6mの高さがあった。1970年(昭和45)まで使用された。

都電7500形。7514号。

1962年製造、1978年廃車。所属営業所は、青山営業所→柳島営業所→荒川営業所。

渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌である。交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1963年(昭和38)から順次廃止された。

天明家(農家)(てんみょうけ)。

建築年代は、江戸時代後期。旧所在地は、大田区鵜の木一丁目。

江戸時代、鵜(う)ノ木村(現在の大田区内)で重職を勤めた旧家である。正面に千鳥破風(ちどりはふ)をもつ主屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえる。

看板建築とは、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない中小規模クラスの商店によって関東大震災後に数多く建設された洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居である。

そのほとんどは木造で建物の前面に衝立を置いたような看板を兼ねた外壁を持ち、その壁面があたかもキャンバスであるかのように自由な造形がなされている。

看板建築という名称は、東京建築探偵団として近代建築のフィールドワークを行っていた当時学生の藤森照信と堀勇良が、震災復興期に建てられた東京下町の商店建築に看板建築と命名し、1975年の日本建築学会大会で発表したもので、1980年代後半に一般的になった。

看板建築以前の東京の店舗併用住宅である町屋には、切妻屋根の平入2階建で1階上部に軒を大きく前面に張り出した「出桁造」と、それを防火のために土で包んだ「塗屋造」、「蔵造」の3種類があった。大正モダンといわれる時代にあっても、日本橋大通りですら蔵造が70%を越えており、下町の商店街はほぼすべてが町屋で形成されていた。

しかし、こうした伝統形式の街並みは1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失した。震災後、焼け野原にはバラックの商店街が形成された。土地区画整理事業が行われた1928年(昭和3年)から、本格的な店舗が建てられることになり、大通りでは鉄筋コンクリート造のアール・デコ調の商店が建てられたが、その周辺部には看板建築が立ち並んだ

戦後。東京下町の街並みを形成していた看板建築は、バブル時代の地上げを経て数が激減し、今では点在するほどしか残っていない。

看板建築の前面は軒の出ない垂直な壁面になっているが、これは1919年(大正8年)に制定された市街地建築物法において、建物は敷地の境界線から突出してはならないとされたためである。

また市街地建築物法では、準防火という考え方から木造建築の外壁をモルタル、金属板、タイルといった不燃性の材質で覆うことを義務づけていた。建材としては高価な銅板張りが多いのは、当時世界的に銅の価格が安かったことによる。

看板建築には3階建が多いが、その多くの3階部分はマンサード屋根の屋根裏部屋になっている。これは、階数制限のあった市街地建築物法において屋根裏部屋は階数に含まれなかったためである。建築検査で許認可を与える権限をもっていた警視庁の役人が、確認申請で3階建の図面を却下する際にマンサード屋根にするよう指導していたことで広まった。

植村邸と大和屋本店の裏側。

採光や通風は道路に面した前面かもしくは裏路地に面した裏面からとられる。裏路地のない敷地の場合は敷地いっぱいに建てられることはなく、裏側に三尺ほどの空き地をとりそこから外光と通風を得ている。

1階の間取りは、通りに面した表側半分を店にして裏半分を住まいにしており、江戸以来の商店の作りを踏襲している。入り口から土間、上がり框の先に畳敷きの部屋、帳場までが店で、その先に居間(茶の間)、台所、風呂、便所、勝手口と生活空間が続く。2階は1階より造りのいい和室が造られ、道路に面した方には床の間つきの座敷が構えられる。このように看板建築の内部は出桁造や蔵造と変わらない間取りになっていた。

看板建築のデザインを具体的に見ると、洋風建築のデザイン要素を持ってきたり、当時流行していたアール・デコ的なデザインや表現派的なデザインを味付けに使ったりしているが、本格的なものではなく断片的ででたらめなものだった。

そうした中、看板建築特有のデザインとして、銅板張りの看板建築に見られる江戸小紋がある。江戸小紋は衣服や食器といった日用品に使われてきた身近な紋様であり、窓の型や軒のカーブといった図的な部位ではなくそれを浮き立たせる地的な面に用いられている。

戦後の看板建築は震災後のものに比べると、過剰な表現は見られなくなりあっさり仕上げられている。わずかな装飾すらしばらくすると施されなくなった。こうした変化は、当時流行していた装飾を否定するモダニズム建築をデザインに取り入れたためである。

村上精華堂。(化粧品屋)。

建築年代は、1928年(昭和3)。旧所在地は、台東区池之端二丁目。

台東区池之端の不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていた。

正面に人造石洗い出しでイオニア式の柱を表現するなど、当時としてはモダンな造りとなっている。

植村邸。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、中央区新富二丁目。

建物の前面を銅板で覆った姿は、〈看板建築〉の特徴をよくあらわしている。

外観は、全体的に洋風にまとまっているが、2階部分は和風のつくりとなっている。

丸二(まるに)商店。(荒物屋)。

建築年代は、昭和初期。旧所在地は、千代田区神田神保町三丁目。

昭和初期に建てられた荒物屋である。小さい銅板片を巧みに組み合わせて江戸小紋の模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴である。

店内は昭和10年代の様子を再現している。裏手には長屋も移築し、路地の様子も再現している。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園③高橋是清邸  会水庵  西川家別邸 伊達家の門


東京都小金井市 江戸東京たてもの園③高橋是清邸  会水庵  西川家別邸 伊達家の門

2025年01月22日 08時54分59秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

西ゾーンから高橋是清邸(C3)を中心とするセンターゾーンへ向かった。

高橋是清邸。

建築年代は、1902年(明治35)。旧所在地は、港区赤坂七丁目。

明治から昭和のはじめにかけて国政を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。

赤坂の旧高橋邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにあって、丹波篠山藩青山家の中屋敷跡に建てられ、敷地は約2000坪、現在公園に隣接しているカナダ大使館も往時は高橋邸の一部であった。

昭和13年(1938年)邸宅は東京市に寄贈され、母屋は多磨霊園に移築。休憩所「仁翁閣」となり戦災を免れた。だが老朽化で昭和51年(1976年)公開中止となり、昭和58年(1983年)に一部修繕された。

総栂(つが)普請で、食堂の床は寄木張りになっている。和風邸宅に窓ガラスを使った初期の事例である。

2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の2・26事件の現場になった。

2階寝室から眺める復元された庭園。

2階寝室。床の間。

2階寝室。

2階寝室から書斎の間。

2階書斎の間。

高橋是清(1854~1936)は、幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功した。11年日銀総裁に昇任した。

1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。21年11月原敬暗殺のあとを受け,第20代総理大臣。ワシントン体制と国内の戦後不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,内閣改造に失敗し,22年6月辞職27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任。

満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立すると蔵相として入閣,大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり悪性インフレを警戒して緊縮財政・軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨みを買い,二・二六事件で襲撃を受け暗殺された。

叛乱当日は中橋基明中尉および中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。

1階仏間前室。

庭園は、赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部を復元したもので、組井筒を水源にした流れと、 雪見型灯籠などを含む景観を再現している。

高橋是清は本所押上から赤坂へと移り住み、1902年(明治35)にこの家が完成してから、1936年(昭和11)の2・26事件で暗殺されるまでの30年あまりをこの家で過ごした。

多忙な日々のなかで、是清はこの家に帰り、家族との団らんや夕食をなによりの楽しみにし、晩年は孫を連れて庭を散歩する姿が見かけられたという。夕食後は風呂を浴び、二階の寝室と書斎でラジオを聴いたり読書をしたりして過ごしていた。

高橋是清邸の主屋と食堂。西川家別邸。

西川家別邸から眺める高橋是清邸主屋と食堂。

会水庵(かいすいあん)。

建築年代は、大正期頃。旧所在地は、杉並区西荻北五丁目。

宗徧(そうへん)流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室である。

1957年(昭和32)、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築した。

西川家別邸。

建築年代は、1922年(大正11)。旧所在地は、昭島市中神町二丁目。

北多摩屈指の製糸会社西川製糸を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てた邸宅である。

多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、 よく吟味された部材が使われている。

伊達家の門。

建築年代は、大正期。旧所在地は、港区白金二丁目。

伊達侯爵家(旧宇和島藩伊達家)が大正時代に東京に建てた屋敷の表門である。起り屋根(むくりやね)の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしている。

総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の家紋が木彫りで施されている。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園②デ・ラランデ邸 常盤台写真場 三井八郎右衞門邸 旧自証院霊屋


東京都小金井市 江戸東京たてもの園②デ・ラランデ邸 常盤台写真場 三井八郎右衞門邸 旧自証院霊屋

2025年01月21日 09時07分43秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

 

デ・ラランデ邸。

建築年代は、1910年(明治43)ころ。旧所在地は新宿区信濃町。

この住宅は、元は平屋建ての洋館で、明治時代の気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる木造瓦葺き寄棟屋根・下見板張りの洋館だった。北尾の逝去後、1910年(明治43年)頃にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの住居となったデ・ラランデによって木造3階建てに大規模増築され、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されたと見られている。

1914年(大正3年)にデ・ラランデが死去した後、何度か居住者が変わり、1956年(昭和31年)から、カルピス株式会社の創業者三島海雲の住居となった。三島海雲の死後は三島食品工業株式会社の事務所として1999年(平成11年)まで使用された。同年、東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園で復元工事が進められ、2013年4月20日に公開された。

建物は大規模増築が行われた頃、室内は残された古写真を基にデ・ラランデ居住時(大正期)を想定した復元がなされた。邸内にはカフェ「武蔵野茶房」が出店している

この建物は1910年頃、デ・ラランデが自宅兼事務所として建てたと考えられてきたが、建物を解体した際の調査によって、当初は平屋建の建物であり、後に2・3階部分が増築されたことが判明した。

ドイツ在住でデ・ラランデの足跡を調査してきた広瀬毅彦は、土地所有者だった北尾次郎の子孫宅で発見した明治時代の写真等から、北尾次郎が1892年(明治25年)に自ら設計して平屋建ての洋館を建てていたことを確認した。また、土地台帳等の調査から、土地は北尾次郎の死後も(昭和期まで)北尾家が所有していたことが判明した。広瀬は、デ・ラランデは借家人だった可能性が強いと推定し、デ・ラランデが増築部分を設計した根拠は見当たらないとした。

江戸東京たてもの園は、当時の「建築画報」(1912年7月)がデ・ラランデの設計作品として紹介していることや、解体した部材(2階部分)に「ゲーラランデー」という墨書があったことなどを根拠に増築部分はデ・ラランデの設計と推定している。

ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872年~ 1914年)は、ドイツ出身の建築家で、日本で設計事務所を開き、重文・トーマス邸(風見鶏の館)(1904年築、神戸市)、旧ロシア領事館 (函館市)をはじめとする作品を残した。日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたとされる

1894年シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリンで働いたのち、1901年から2年間上海、天津で仕事をした。ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903年に横浜へ渡った同年、ゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継いだ。デ・ラランデは横浜だけでなく東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をした。ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られる。

設計した建物は、オリエンタルホテル(神戸市中央区海岸通、 1907年築)、デ・ラランデ自邸(横浜・根岸、1905年築)、三井銀行大阪支店(大阪市中央区北浜、 1914年築)、朝鮮ホテル旧館(京城・現ソウル、 1916年築)、高田商会 ( 1914年築)、朝鮮総督府 ( デ・ラランデが基本設計。1926年築)。など多数あるが、ほとんど現存しない。

2階寝室。

3階への階段部。

綱島家(農家)。

建築年代は、江戸時代中期。旧所在地は世田谷区岡本三丁目。

多摩川をのぞむ崖線上にあった広間型の間取りを持つ茅葺きの民家である。広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、オシイタという古い形式の板などから、建物の歴史が感じられる。-

常盤台写真場(ときわだいしゃしんじょう)。

建築年代は、1937年(昭和12)。旧所在地は板橋区常盤台一丁目。

健康住宅地として開発された郊外住宅地・常盤台に建てられた写真館である。照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、 2階写場の大きな窓には北側から間接光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれている。

三井八郎右衞門邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は主屋が1952年(昭和27)、土蔵が1874年(明治7)。旧所在地は港区西麻布三丁目。

港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた邸宅である。客間と食堂部分は、1897年(明治30)頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものである。また、蔵は1874年(明治7)の建築当初の土蔵として復元された。

2025年3月下旬まで修繕工事中。

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)。東京都指定有形文化財。

建築年代は、1652年(慶安5)。旧所在地は、新宿区市ヶ谷富久町。

尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋で、幕府大棟梁甲良宗賀による華やかな霊廟建築である。

自証院(1620年代頃 ~1640年)は、三代将軍徳川家光の側室で、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。通称はお振の方。母は祖心尼の娘・おたあ、父は蒲生家家臣岡重政の子岡吉右衛門。また、吉右衛門の母(振の祖母)は石田三成の娘で、振は三成の曾孫にあたる。祖心尼は伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘で前田利長の養女となり、義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた。

岡重政は蒲生秀行の信任が篤く、秀行の死後も藩主忠郷が幼少のため藩政を取り仕切っていた。しかし会津地震後、藩財政・領国の疲弊を顧みず大規模な寺社復興を行う忠郷の母・振姫(秀行の正室、徳川家康の三女で徳川秀忠の妹)と藩政をめぐり対立、振姫が家康に訴えたため駿府に召喚され、切腹処分となった。

重政の死後、息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣だった祖心尼の夫・町野幸和に保護され、幸和、祖心尼夫妻の娘おたあと結婚した。2人の間に生まれたのがお振である。やがて祖心尼は、親類にあたる春日局の引き立てで大奥に老女として仕えるようになり、振は春日局の養女として大奥に入り、寛永13年(1636年)、家光の手がついて初めての側室となる。これは、家光が男色を好み女性を近づけないため、跡継ぎが生まれないことを懸念した春日局と祖心尼が、振を男装させて近づけたといわれている。

お振の方は寛永14年(1637年)閏3月5日、家光にとって初めての子である長女・千代姫を産む。その後体調を崩し、3年後の寛永17年(1640年)に死去した。榎町の法常寺に葬られた後、慶安5年(1652年)富久町の自證院に建てられた霊廟に改葬された。