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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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東京都小金井市 江戸東京たてもの園⑤看板建築 武居三省堂 花市生花店 子宝湯

2025年01月24日 09時35分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

 

右から、花市生花店、武居三省堂、店蔵型休憩棟。 

花市(はないち)生花店。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、千代田区神田淡路町一丁目。

昭和初期に建てられた〈看板建築〉の花屋。建物前面の銅板にレリーフが施され、花屋らしくデザインされている。店内は昭和30年代の様子を再現している。

武居三省堂(たけいさんしょうどう)。(文具店)。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、千代田区神田須田町一丁目。

明治初期に創業した文具店。当初は書道用品の卸をしていたが、後に小売店に変わった。

建物は関東大震災後に建てられた〈看板建築〉で前面がタイル貼りになっていて屋根の形にも特徴がある。(修理工事中)

店蔵型休憩棟。移築建物ではなく、2階は飲食店が営業している。

大和屋(やまとや)本店。(乾物屋)。

建築年代は、1928年(昭和3)。旧所在地は、港区白金台四丁目。

港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建ての商店。3階の軒下を庇の下の腕木とその上の桁が特徴の出桁(だしげた)造りにする一方、間口に対して背が非常に高く、看板建築のようなプロポーションのユニークな建物である。戦前の乾物屋の様子を再現している。

左から川野商店と小寺醤油店。

川野商店。(和傘問屋)。

建築年代は、1926年(大正15)。旧所在地は、江戸川区南小岩八丁目。

傘づくりが盛んであった江戸川区小岩に建てられた和傘問屋。庇の下の腕木とその上の桁が特徴の出桁(だしげた)造りの建物。内部は1930年(昭和5)頃の和傘問屋の店先の様子を再現している。

小寺醤油店。

建築年代は、1933年(昭和8)。旧所在地は、港区白金五丁目。

大正期から、現在の港区白金で営業していた商店。味噌や醤油、酒類を売っていた出桁造りの建物

万徳(まんとく)旅館。

建築年代は、江戸時代末期~明治時代初期。旧所在地は、青梅市西分町。

青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館。建物は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年(昭和25)頃の様子を復元している。

右から仕立屋、子宝湯、鍵屋。

仕立屋。

建築年代は、1879年(明治12)。旧所在地は、文京区向丘一丁目。

明治前期に現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町家。 内部は大正期の仕立屋の仕事場を再現している。

子宝湯(こだからゆ)。

建築年代は、1929年(昭和4)。旧所在地は、足立区千住元町。

東京の銭湯を代表する宮造りの建物で、神社仏閣を思わせる大型の唐破風や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の折上格天井など贅をつくした造りとなっている。

鍵屋(かぎや)。(居酒屋)。

建築年代は、1856年(安政3)。旧所在地は、台東区下谷二丁目。

台東区下谷の言問通りにあった庶民的な居酒屋。震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1856年(安政3)に建てられたと伝えられている。

建物と店内は1970年(昭和45)頃の姿に復元している。

13時20分ごろに江戸東京たてもの園を出て、宿に向かった。翌日は、目黒区青葉台の菅刈公園、西郷山公園、新宿中村屋などを訪れた。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園④看板建築 村上精華堂 丸二商店 植村邸


東京都小金井市 江戸東京たてもの園④看板建築 村上精華堂 丸二商店 植村邸

2025年01月23日 09時01分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

高橋是清邸があるセンターゾーンから看板建築が多い東ゾーンへ向かった。

万世橋(まんせいばし)交番。

建築年代は、明治後期(推定)。旧所在地は、千代田区神田須田町一丁目。

デザインや建築様式から明治時代のものと思われる。

正式名称は須田町派出所。神田の万世橋のたもとにあり、レンガ造のため移築の時にはトレーラーでまるごと運んだ。

上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部。

建築年は、1925年(大正14)。旧所在地は、台東区東上野5丁目。

望楼は三脚四層式外廊型で、旧所在地では約23.6mの高さがあった。1970年(昭和45)まで使用された。

都電7500形。7514号。

1962年製造、1978年廃車。所属営業所は、青山営業所→柳島営業所→荒川営業所。

渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌である。交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1963年(昭和38)から順次廃止された。

天明家(農家)(てんみょうけ)。

建築年代は、江戸時代後期。旧所在地は、大田区鵜の木一丁目。

江戸時代、鵜(う)ノ木村(現在の大田区内)で重職を勤めた旧家である。正面に千鳥破風(ちどりはふ)をもつ主屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえる。

看板建築とは、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない中小規模クラスの商店によって関東大震災後に数多く建設された洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居である。

そのほとんどは木造で建物の前面に衝立を置いたような看板を兼ねた外壁を持ち、その壁面があたかもキャンバスであるかのように自由な造形がなされている。

看板建築という名称は、東京建築探偵団として近代建築のフィールドワークを行っていた当時学生の藤森照信と堀勇良が、震災復興期に建てられた東京下町の商店建築に看板建築と命名し、1975年の日本建築学会大会で発表したもので、1980年代後半に一般的になった。

看板建築以前の東京の店舗併用住宅である町屋には、切妻屋根の平入2階建で1階上部に軒を大きく前面に張り出した「出桁造」と、それを防火のために土で包んだ「塗屋造」、「蔵造」の3種類があった。大正モダンといわれる時代にあっても、日本橋大通りですら蔵造が70%を越えており、下町の商店街はほぼすべてが町屋で形成されていた。

しかし、こうした伝統形式の街並みは1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失した。震災後、焼け野原にはバラックの商店街が形成された。土地区画整理事業が行われた1928年(昭和3年)から、本格的な店舗が建てられることになり、大通りでは鉄筋コンクリート造のアール・デコ調の商店が建てられたが、その周辺部には看板建築が立ち並んだ

戦後。東京下町の街並みを形成していた看板建築は、バブル時代の地上げを経て数が激減し、今では点在するほどしか残っていない。

看板建築の前面は軒の出ない垂直な壁面になっているが、これは1919年(大正8年)に制定された市街地建築物法において、建物は敷地の境界線から突出してはならないとされたためである。

また市街地建築物法では、準防火という考え方から木造建築の外壁をモルタル、金属板、タイルといった不燃性の材質で覆うことを義務づけていた。建材としては高価な銅板張りが多いのは、当時世界的に銅の価格が安かったことによる。

看板建築には3階建が多いが、その多くの3階部分はマンサード屋根の屋根裏部屋になっている。これは、階数制限のあった市街地建築物法において屋根裏部屋は階数に含まれなかったためである。建築検査で許認可を与える権限をもっていた警視庁の役人が、確認申請で3階建の図面を却下する際にマンサード屋根にするよう指導していたことで広まった。

植村邸と大和屋本店の裏側。

採光や通風は道路に面した前面かもしくは裏路地に面した裏面からとられる。裏路地のない敷地の場合は敷地いっぱいに建てられることはなく、裏側に三尺ほどの空き地をとりそこから外光と通風を得ている。

1階の間取りは、通りに面した表側半分を店にして裏半分を住まいにしており、江戸以来の商店の作りを踏襲している。入り口から土間、上がり框の先に畳敷きの部屋、帳場までが店で、その先に居間(茶の間)、台所、風呂、便所、勝手口と生活空間が続く。2階は1階より造りのいい和室が造られ、道路に面した方には床の間つきの座敷が構えられる。このように看板建築の内部は出桁造や蔵造と変わらない間取りになっていた。

看板建築のデザインを具体的に見ると、洋風建築のデザイン要素を持ってきたり、当時流行していたアール・デコ的なデザインや表現派的なデザインを味付けに使ったりしているが、本格的なものではなく断片的ででたらめなものだった。

そうした中、看板建築特有のデザインとして、銅板張りの看板建築に見られる江戸小紋がある。江戸小紋は衣服や食器といった日用品に使われてきた身近な紋様であり、窓の型や軒のカーブといった図的な部位ではなくそれを浮き立たせる地的な面に用いられている。

戦後の看板建築は震災後のものに比べると、過剰な表現は見られなくなりあっさり仕上げられている。わずかな装飾すらしばらくすると施されなくなった。こうした変化は、当時流行していた装飾を否定するモダニズム建築をデザインに取り入れたためである。

村上精華堂。(化粧品屋)。

建築年代は、1928年(昭和3)。旧所在地は、台東区池之端二丁目。

台東区池之端の不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていた。

正面に人造石洗い出しでイオニア式の柱を表現するなど、当時としてはモダンな造りとなっている。

植村邸。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、中央区新富二丁目。

建物の前面を銅板で覆った姿は、〈看板建築〉の特徴をよくあらわしている。

外観は、全体的に洋風にまとまっているが、2階部分は和風のつくりとなっている。

丸二(まるに)商店。(荒物屋)。

建築年代は、昭和初期。旧所在地は、千代田区神田神保町三丁目。

昭和初期に建てられた荒物屋である。小さい銅板片を巧みに組み合わせて江戸小紋の模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴である。

店内は昭和10年代の様子を再現している。裏手には長屋も移築し、路地の様子も再現している。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園③高橋是清邸  会水庵  西川家別邸 伊達家の門


東京都小金井市 江戸東京たてもの園③高橋是清邸  会水庵  西川家別邸 伊達家の門

2025年01月22日 08時54分59秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

西ゾーンから高橋是清邸(C3)を中心とするセンターゾーンへ向かった。

高橋是清邸。

建築年代は、1902年(明治35)。旧所在地は、港区赤坂七丁目。

明治から昭和のはじめにかけて国政を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。

赤坂の旧高橋邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにあって、丹波篠山藩青山家の中屋敷跡に建てられ、敷地は約2000坪、現在公園に隣接しているカナダ大使館も往時は高橋邸の一部であった。

昭和13年(1938年)邸宅は東京市に寄贈され、母屋は多磨霊園に移築。休憩所「仁翁閣」となり戦災を免れた。だが老朽化で昭和51年(1976年)公開中止となり、昭和58年(1983年)に一部修繕された。

総栂(つが)普請で、食堂の床は寄木張りになっている。和風邸宅に窓ガラスを使った初期の事例である。

2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の2・26事件の現場になった。

2階寝室から眺める復元された庭園。

2階寝室。床の間。

2階寝室。

2階寝室から書斎の間。

2階書斎の間。

高橋是清(1854~1936)は、幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功した。11年日銀総裁に昇任した。

1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。21年11月原敬暗殺のあとを受け,第20代総理大臣。ワシントン体制と国内の戦後不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,内閣改造に失敗し,22年6月辞職27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任。

満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立すると蔵相として入閣,大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり悪性インフレを警戒して緊縮財政・軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨みを買い,二・二六事件で襲撃を受け暗殺された。

叛乱当日は中橋基明中尉および中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。

1階仏間前室。

庭園は、赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部を復元したもので、組井筒を水源にした流れと、 雪見型灯籠などを含む景観を再現している。

高橋是清は本所押上から赤坂へと移り住み、1902年(明治35)にこの家が完成してから、1936年(昭和11)の2・26事件で暗殺されるまでの30年あまりをこの家で過ごした。

多忙な日々のなかで、是清はこの家に帰り、家族との団らんや夕食をなによりの楽しみにし、晩年は孫を連れて庭を散歩する姿が見かけられたという。夕食後は風呂を浴び、二階の寝室と書斎でラジオを聴いたり読書をしたりして過ごしていた。

高橋是清邸の主屋と食堂。西川家別邸。

西川家別邸から眺める高橋是清邸主屋と食堂。

会水庵(かいすいあん)。

建築年代は、大正期頃。旧所在地は、杉並区西荻北五丁目。

宗徧(そうへん)流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室である。

1957年(昭和32)、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築した。

西川家別邸。

建築年代は、1922年(大正11)。旧所在地は、昭島市中神町二丁目。

北多摩屈指の製糸会社西川製糸を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てた邸宅である。

多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、 よく吟味された部材が使われている。

伊達家の門。

建築年代は、大正期。旧所在地は、港区白金二丁目。

伊達侯爵家(旧宇和島藩伊達家)が大正時代に東京に建てた屋敷の表門である。起り屋根(むくりやね)の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしている。

総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の家紋が木彫りで施されている。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園②デ・ラランデ邸 常盤台写真場 三井八郎右衞門邸 旧自証院霊屋


東京都小金井市 江戸東京たてもの園②デ・ラランデ邸 常盤台写真場 三井八郎右衞門邸 旧自証院霊屋

2025年01月21日 09時07分43秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

 

デ・ラランデ邸。

建築年代は、1910年(明治43)ころ。旧所在地は新宿区信濃町。

この住宅は、元は平屋建ての洋館で、明治時代の気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる木造瓦葺き寄棟屋根・下見板張りの洋館だった。北尾の逝去後、1910年(明治43年)頃にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの住居となったデ・ラランデによって木造3階建てに大規模増築され、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されたと見られている。

1914年(大正3年)にデ・ラランデが死去した後、何度か居住者が変わり、1956年(昭和31年)から、カルピス株式会社の創業者三島海雲の住居となった。三島海雲の死後は三島食品工業株式会社の事務所として1999年(平成11年)まで使用された。同年、東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園で復元工事が進められ、2013年4月20日に公開された。

建物は大規模増築が行われた頃、室内は残された古写真を基にデ・ラランデ居住時(大正期)を想定した復元がなされた。邸内にはカフェ「武蔵野茶房」が出店している

この建物は1910年頃、デ・ラランデが自宅兼事務所として建てたと考えられてきたが、建物を解体した際の調査によって、当初は平屋建の建物であり、後に2・3階部分が増築されたことが判明した。

ドイツ在住でデ・ラランデの足跡を調査してきた広瀬毅彦は、土地所有者だった北尾次郎の子孫宅で発見した明治時代の写真等から、北尾次郎が1892年(明治25年)に自ら設計して平屋建ての洋館を建てていたことを確認した。また、土地台帳等の調査から、土地は北尾次郎の死後も(昭和期まで)北尾家が所有していたことが判明した。広瀬は、デ・ラランデは借家人だった可能性が強いと推定し、デ・ラランデが増築部分を設計した根拠は見当たらないとした。

江戸東京たてもの園は、当時の「建築画報」(1912年7月)がデ・ラランデの設計作品として紹介していることや、解体した部材(2階部分)に「ゲーラランデー」という墨書があったことなどを根拠に増築部分はデ・ラランデの設計と推定している。

ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872年~ 1914年)は、ドイツ出身の建築家で、日本で設計事務所を開き、重文・トーマス邸(風見鶏の館)(1904年築、神戸市)、旧ロシア領事館 (函館市)をはじめとする作品を残した。日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたとされる

1894年シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリンで働いたのち、1901年から2年間上海、天津で仕事をした。ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903年に横浜へ渡った同年、ゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継いだ。デ・ラランデは横浜だけでなく東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をした。ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られる。

設計した建物は、オリエンタルホテル(神戸市中央区海岸通、 1907年築)、デ・ラランデ自邸(横浜・根岸、1905年築)、三井銀行大阪支店(大阪市中央区北浜、 1914年築)、朝鮮ホテル旧館(京城・現ソウル、 1916年築)、高田商会 ( 1914年築)、朝鮮総督府 ( デ・ラランデが基本設計。1926年築)。など多数あるが、ほとんど現存しない。

2階寝室。

3階への階段部。

綱島家(農家)。

建築年代は、江戸時代中期。旧所在地は世田谷区岡本三丁目。

多摩川をのぞむ崖線上にあった広間型の間取りを持つ茅葺きの民家である。広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、オシイタという古い形式の板などから、建物の歴史が感じられる。-

常盤台写真場(ときわだいしゃしんじょう)。

建築年代は、1937年(昭和12)。旧所在地は板橋区常盤台一丁目。

健康住宅地として開発された郊外住宅地・常盤台に建てられた写真館である。照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、 2階写場の大きな窓には北側から間接光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれている。

三井八郎右衞門邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は主屋が1952年(昭和27)、土蔵が1874年(明治7)。旧所在地は港区西麻布三丁目。

港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた邸宅である。客間と食堂部分は、1897年(明治30)頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものである。また、蔵は1874年(明治7)の建築当初の土蔵として復元された。

2025年3月下旬まで修繕工事中。

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)。東京都指定有形文化財。

建築年代は、1652年(慶安5)。旧所在地は、新宿区市ヶ谷富久町。

尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋で、幕府大棟梁甲良宗賀による華やかな霊廟建築である。

自証院(1620年代頃 ~1640年)は、三代将軍徳川家光の側室で、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。通称はお振の方。母は祖心尼の娘・おたあ、父は蒲生家家臣岡重政の子岡吉右衛門。また、吉右衛門の母(振の祖母)は石田三成の娘で、振は三成の曾孫にあたる。祖心尼は伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘で前田利長の養女となり、義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた。

岡重政は蒲生秀行の信任が篤く、秀行の死後も藩主忠郷が幼少のため藩政を取り仕切っていた。しかし会津地震後、藩財政・領国の疲弊を顧みず大規模な寺社復興を行う忠郷の母・振姫(秀行の正室、徳川家康の三女で徳川秀忠の妹)と藩政をめぐり対立、振姫が家康に訴えたため駿府に召喚され、切腹処分となった。

重政の死後、息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣だった祖心尼の夫・町野幸和に保護され、幸和、祖心尼夫妻の娘おたあと結婚した。2人の間に生まれたのがお振である。やがて祖心尼は、親類にあたる春日局の引き立てで大奥に老女として仕えるようになり、振は春日局の養女として大奥に入り、寛永13年(1636年)、家光の手がついて初めての側室となる。これは、家光が男色を好み女性を近づけないため、跡継ぎが生まれないことを懸念した春日局と祖心尼が、振を男装させて近づけたといわれている。

お振の方は寛永14年(1637年)閏3月5日、家光にとって初めての子である長女・千代姫を産む。その後体調を崩し、3年後の寛永17年(1640年)に死去した。榎町の法常寺に葬られた後、慶安5年(1652年)富久町の自證院に建てられた霊廟に改葬された。

 


東京都小金井市 江戸東京たてもの園①田園調布の家 前川國男邸 小出邸

2025年01月20日 09時14分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。入口のビジターセンター。東京都小金井市。都立小金井公園内。

ビジターセンター・旧光華殿(きゅうこうかでん)は、1940年(昭和15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿である。

1941年(昭和16)に小金井大緑地(現在の小金井公園)に移築され、光華殿と命名された。 江戸東京たてもの園の開園にあたり、ビジターセンターとして改修された。

2025年1月5日(日)。

 

江戸東京たてもの園は、1993年開園時から一度見学しようと思っていたが後回しになっていたが、新年の飾りつけ風景などがあるこの時季を選択した。東京サブウェイ72時間フリー乗車券を利用して荻窪まで行き、JR中央線に乗り換えて東小金井駅で下車。運賃180円。東小金井駅北口のCoCoバス(小金井市コミュニティバス)乗り場から、北東部循環系統バス6分で「たてもの園入口」下車。運賃身障者半額90円(IC払い)。徒歩10分で江戸東京たてもの園に着いた。

10時過ぎに入園し、13時15分ごろ園を出た。

高橋是清邸は226事件で高橋是清が暗殺された現場が移築されたものである。関東大震災後の復興後に流行した商業建築である藤森照信命名の「看板建築」が多数移築されている。前川國男や堀口捨巳という近代建築を代表する建築家が設計した家屋は貴重である。

江戸東京たてもの園は、失われてゆく江戸・東京の歴史的な建物を移築保存し展示する目的で東京都小金井市の都立小金井公園内に設置された野外博物館。東京都墨田区横網にある東京都江戸東京博物館の分館である。

小金井公園には古代住居や江戸時代の農家を移築・展示する「武蔵野郷土館」があった。1954年の小金井公園開園時に、井の頭恩賜公園にあった「武蔵野博物館」を移転し開館したもので、光華殿(現・江戸東京たてもの園ビジターセンター)、鍵屋、吉野家住宅などは当時からの施設である。1991年(平成3年)に閉館した。

1993年(平成5年)3月、江戸東京博物館の開館に合わせ、武蔵野郷土館を拡充する形で「江戸東京たてもの園」として復元建造物12棟で開園した。高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。

園内は3つのゾーンに分けられ、西ゾーンは武蔵野の農家と山の手の住宅、センターゾーンは格式ある歴史的建造物が並び、東ゾーンは下町の町並みが再現されている。

ビジターセンターの新春風景。

まず、西ゾーンW7の「田園調布の家」から見学していった。

田園調布の家(大川邸)。

建築年代は1925年(大正14)。旧所在地は大田区田園調布四丁目。

田園調布は、渋沢栄一が設立した「田園都市株式会社」が開発した郊外住宅地の一つで、1923年19月から分譲が開始された。この住宅は1925年(大正14)に建てられた。下見板張りの外壁とテラスにパーゴラが設けられている。岡田信一郎の事務所にいた三井道男による設計。

居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されており、当時としては珍しく全室が洋間となっている。この住宅は家族の団欒や住みやすさ、あるいは主婦の家事のための空間を重視する大正期の生活改善の理想をよく表している。

この家の特徴は、玄関を入るとすぐに居間があることで、この居間を中心に、書斎、食堂、寝室がある。

寝室から食堂。

食堂。このテーブルは大正14年の創建当時から使われていたもの。

各部屋とも二面採光になっていて、台所も広く明るい。

前川國男邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は1942年(昭和17)。旧所在地は品川区上大崎三丁目。

日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として建てられた住宅である。

戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工している。 外観は切妻屋根の和風、内部は吹抜けの居間を中心に書斎・寝室を配した シンプルな間取りになっている。

戦時の建築統制下で建築面積は小さく抑えつつも、大屋根の中央に吹き抜けの居間とロフト風の2階を配している。

空間構成などにモダニズムの理念を反映、前川の活動の出発点ともいえる作品になっている。コルビュジエやレーモンドの元で学び、独立後、程なく手がけた自邸には、その後の前川の活動につながる意欲的なデザインが散りばめられている。また、現存するモダニズムの木造住宅としても貴重である。

前川國男は大学卒業直後の昭和3(1928)年に渡仏し、モダニズムの巨匠、ル・コルビュジエのアトリエで約2年間、働いた。帰国後はA.レーモンド建築設計事務所に入所、昭和10年に自身の事務所を設立している。自邸の設計担当は所員の崎谷小三郎で、昭和17年竣工。時は第二次世界大戦のただ中であった。

外観を印象付けるのは、破風板が軒先に近づくほど幅広になる切妻屋根と南面中央の棟持柱風の丸柱である。これらについては崎谷が、伊勢神宮からインスピレーションを受けたと語っている。モダニズム特有のフラットルーフを採用しなかった背景には、坂倉準三が設計した木造・幻配屋根の飯箸邸の影響がうかがえる。

玄関を入り、大扉を抜けると高さ4.5mの吹き抜けが広がる。当時は延床面積を100㎡以下とする制限があったため、「高さ」が得られる建物中央を吹き抜けにして大空間を造った。南面は妻側だが窓に庇を設けず、軒の出を長くすることで雨仕舞をし、日差しを制御。大開口を確保して全面をガラス窓としている。

ロフト状の2階は約8畳相当の広さ。飾り棚の鏡板は持ち上げて外す「けんどん式」で、2階から物を出し入れした。

左奥の台所へ続く入口とサービス用小窓。アーチ型扉を開けていても台所は直に見えない。

小出邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は、1925年(大正14)。旧所在地は、文京区西片二丁目。

日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己(1895−1984)が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計し、小出収とその妻・琴の隠居所として建設された木造2階建の住宅で、日本的モダニズム建築の萌芽がみられる貴重な作品として評価されている。

当時オランダで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっている。

四角錐のような大屋根と水平な軒を持つ屋根の造形や応接間の色彩が目を引く

当時のオランダの造形運動であるデ・ステイルの影響がこの「小出邸」にも見られ、画家モンドリアンのように、抽象的な幾何学形態と空間による芸術表現を実現しようとしたといえる。

堀口捨巳は、建築における芸術的側面や美意識の重要性を問いかけ、生涯にわたりそれを追求した近代日本を代表する建築家の一人である。日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。日本庭園の研究家としても知られ、日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえた。

教授職を務めた明治大学では、同大工学部内に建築学科を創設したことでも知られる。

堀口捨己は、佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を1920年(大正9)に結成した。

1923年(大正12)夏、堀口は新たな建築知識を求め欧州へ出発した。翌年の春に帰国した堀口は、オランダで生まれた建築家団体である「アムステルダム派」による建築を高く評価し、オランダ建築に関する書籍を執筆・出版するなど、日本にはじめてオランダの近代建築を紹介した。

帰国後の1924年(大正13)9月、堀口に小出邸の設計依頼が舞い込んだ。そして翌年の1925年(大正14)6月に彼のはじめての住宅作品である「小出邸」が完成した。この住宅はオランダの造形運動の影響を受けつつも、在来の工法で和風との融合が図られている。

小出邸竣工後、堀口は1926年(大正15)に紫烟荘、1927年(昭和2)に双鐘居、その3年後に吉川邸と3件の住宅を完成させている。

玄関ポーチ。

この住宅最大のみどころはこの応接間である。

2階の納戸と1階へ下る階段。

文京区千駄木 文京区立森鷗外記念館