砂漠のレインメーカー

夕暮れの 陰の廃墟に 病みを視る
宿す闇こそ 塩の道なり

幻としての中田英寿

2010-06-06 07:00:00 | Football

ワールドカップも近づいてきた。
だから、このエントリも公開しようと思う。
自分が好きだった元Footballerについて。

僕は、中田英寿が好きだった。
スルーパスを狙う中田が。
倒れない中田が。
良いサッカーをしようとする中田が。

革命児としての幻想を、僕は投影していた。

でも彼はイメージとして自分が欲望するものを、実現していたに過ぎないのではないか。

彼は自分の成ろうとする者には、成ろうとした。
自分が欲する自分は実現してきた。
それが実現できなかった時、打ちひしがれた。
良く分かる。
誰だってそうだから。

限界を感じたから、ドルトムントの漆黒の夜空を見つめ
涙を流したのだろう。

でも彼は、結局、共同の何かにコミットメントすることが
出来なかった。
別にFootballのチームのことを言っているのではない。
この世界と、世界を通じた人々と。

だから、彼は旅に出ているのではないか。

企業にはコミットメント出来る。
社外取締りとして。
商業と関わりのある、政府にはコミットメントできる。
政府委員会の委員として。
イメージにはコミットメント出来る。
カンヌ映画祭に出没したり、
アフリカの貧困問題をアピールするテレビには。

でも彼は、中田と僕等と他の誰かの間にある、
何か行き詰る(息詰まる、生き詰まる)
事物-関係を変革することには、コミットメント出来るのだろうか。

彼は、ある歌を歌った。
この「ある歌」を歌うことで、この息詰まる何かを変革する、
いやそこまで行かなくていい、突き詰めて考えることを止めてしまったのではないか。
目上の立場の人間に、「歌え、歌ってくれ」と迫られた時、
それを拒否したり、考え抜いたりすることは結構面倒くさい。

それは、中田にとってインセンティブが働かなかった。
インセンティブ、いやな言葉だな。
意志が働かなかった。


仲間を安易に作らない、媚びない孤高の人間であるイメージは持てた。
そうイメージは。
でも単独者であることは、中田には選択出来なかった。

彼は、きっと自分の持っているイメージと、グッチやヴィトンや
ドルチェ&ガッヴァ-ナ、イヴ・サンローランを捨てることが出来ないだろう。
そして、この世のほとんどの人々が、これが出来ない。
出来る人間は、世界の果てにしかいない。世界の果てに追いやられているのか。

息詰まる何かに、息を吹き込むことは、こんなにも困難なことなのか。
生き詰まる何かに、手を触れることは、こんなにも恐怖を掻き立てるものなのか。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おはようございます♪ (M)
2011-06-08 10:28:24
昨日、寝るときに、ある本を読んでいて、レインメーカーさんの
「この「ある歌」を歌うことで、・・・突き詰めて考えることを止めてしまったのではないか。」
これを思い出したのです。
なるほど、ある歌の強制は「無力化」を増進させる機能があるんですね・・・中田もその一人だったということですか。

わたしの領域に勝手に引き付けて解釈して、納得して眠った次第です(意味不明ですね、ごめんなさい 笑)

どうもありがとうございます!

返信する
Re:おはようございます♪ (レインメーカー)
2011-06-08 10:29:28
Mさん
コメント、ありがとうございます。

きちんとしたご返答を差し上げようと思ったのですが、どうも長くなりそうです。

多弁となるのは、僕の悪い癖です。
べつにエントリを立ち上げるかもしれません。
(しばらく、お待ちください)

取り急ぎ、コメントを頂いたお礼のご連絡まで。

以上/フットチーネ

【6月12日追記】
中田英寿についてですが、逐一言動を追っているわけではないんです。
ですから、中田本人自身にとってはアンフェアかと…
ただ、なにか時代を象徴する姿を、彼のメディアイメージから感じるのです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。