ワールドカップも近づいてきた。
だから、このエントリも公開しようと思う。
自分が好きだった元Footballerについて。
僕は、中田英寿が好きだった。
スルーパスを狙う中田が。
倒れない中田が。
良いサッカーをしようとする中田が。
革命児としての幻想を、僕は投影していた。
でも彼はイメージとして自分が欲望するものを、実現していたに過ぎないのではないか。
彼は自分の成ろうとする者には、成ろうとした。
自分が欲する自分は実現してきた。
それが実現できなかった時、打ちひしがれた。
良く分かる。
誰だってそうだから。
限界を感じたから、ドルトムントの漆黒の夜空を見つめ
涙を流したのだろう。
でも彼は、結局、共同の何かにコミットメントすることが
出来なかった。
別にFootballのチームのことを言っているのではない。
この世界と、世界を通じた人々と。
だから、彼は旅に出ているのではないか。
企業にはコミットメント出来る。
社外取締りとして。
商業と関わりのある、政府にはコミットメントできる。
政府委員会の委員として。
イメージにはコミットメント出来る。
カンヌ映画祭に出没したり、
アフリカの貧困問題をアピールするテレビには。
でも彼は、中田と僕等と他の誰かの間にある、
何か行き詰る(息詰まる、生き詰まる)
事物-関係を変革することには、コミットメント出来るのだろうか。
彼は、ある歌を歌った。
この「ある歌」を歌うことで、この息詰まる何かを変革する、
いやそこまで行かなくていい、突き詰めて考えることを止めてしまったのではないか。
目上の立場の人間に、「歌え、歌ってくれ」と迫られた時、
それを拒否したり、考え抜いたりすることは結構面倒くさい。
それは、中田にとってインセンティブが働かなかった。
インセンティブ、いやな言葉だな。
意志が働かなかった。
仲間を安易に作らない、媚びない孤高の人間であるイメージは持てた。
そうイメージは。
でも単独者であることは、中田には選択出来なかった。
彼は、きっと自分の持っているイメージと、グッチやヴィトンや
ドルチェ&ガッヴァ-ナ、イヴ・サンローランを捨てることが出来ないだろう。
そして、この世のほとんどの人々が、これが出来ない。
出来る人間は、世界の果てにしかいない。世界の果てに追いやられているのか。
息詰まる何かに、息を吹き込むことは、こんなにも困難なことなのか。
生き詰まる何かに、手を触れることは、こんなにも恐怖を掻き立てるものなのか。
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「この「ある歌」を歌うことで、・・・突き詰めて考えることを止めてしまったのではないか。」
これを思い出したのです。
なるほど、ある歌の強制は「無力化」を増進させる機能があるんですね・・・中田もその一人だったということですか。
わたしの領域に勝手に引き付けて解釈して、納得して眠った次第です(意味不明ですね、ごめんなさい 笑)
どうもありがとうございます!
コメント、ありがとうございます。
きちんとしたご返答を差し上げようと思ったのですが、どうも長くなりそうです。
多弁となるのは、僕の悪い癖です。
べつにエントリを立ち上げるかもしれません。
(しばらく、お待ちください)
取り急ぎ、コメントを頂いたお礼のご連絡まで。
以上/フットチーネ
【6月12日追記】
中田英寿についてですが、逐一言動を追っているわけではないんです。
ですから、中田本人自身にとってはアンフェアかと…
ただ、なにか時代を象徴する姿を、彼のメディアイメージから感じるのです。