deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

117・囚われの現実

2019-06-11 14:19:28 | Weblog
 旅から戻ってみると、現実が待っていた。彫刻展の運営では、議論は煮詰まり、意欲は生煮えで、委員会(同級生たち)の気持ちがバラバラになっている。ジムショときたら、まるで安宿のまかない部屋だ。コーナーには、ノリ弁のカラ容器と空き缶が山と積み上がっている。議論となれば、当然「酒でも飲みつつ」となるところだが、あきれたことに、この神聖なる場所には酒の持ち込みが禁止となったらしい。いつなんどき、重要人物からの電話が(殊に教授陣からの「激励」が)あるかわからないからだ。テレビもねえ、ラジオもねえ、車もほとんど走ってねえこのあばら屋で、選ばれし勇者たち(オレを含む)は、毎夜ダベり、ゴロゴロと寝転がり、尻の汗疹をポリポリかきかき、電話があれば応対をし、出展希望者からの返信ハガキが届けばちょこちょこと事務作業をし、それ以外の時間は、交わす言葉数も少ないまま、夜がふけるまですね毛を突き合わせて、ボロボロの画集などを開いたり閉じたりして過ごすしかない。たまにメンバーの女子がきては、「タイヘンね」と捨てゼリフを吐いて帰っていく。テメーにとっても他人事ってわけじゃなかろーが。とは言え、はたから見たら、われらの有り様は「かわいそうな囚われびと」そのものだ。この場所は牢獄だ。いや、迷子の子犬たちが集められた檻だ。なにもすることがなく、どこへ向かうべきかもわからない。オトナになった今、顧みれば、もう少し時間を充実させるべき工夫もあったろうが、教授陣の画策に足を突っ込み、抜け出せなくなってしまったこのメンバーの誰もが、とにかくマジメ・・・というか、マヌケなのだった。
 さて、昼間の塑像部屋では、相変わらず裸婦像を制作している。コンクリート造りのわがアトリエは、大部屋の中央でふたつのスペースに仕切られ、オレたち3年以下組と、最上級の4年生組が、それぞれに別の女性をモデルにして立像をつくっている。オレたちの側のモデル台には、世にも美しくしなやかな肢体を持った、そして性格もよろしい「ならさん」という30歳くらいの美女が立っている。彼女はすらりとスレンダーで、手足が長い上に姿勢が素晴らしく、さらにたわわなおちちが「張りつめた」と「こぼれんばかり」のちょうど均衡を保った状態で乳首をかかげていて、まったくほれぼれとさせられる。ならさんは、学生たちが渇望するモデルさんなのだ。学生自身がモデルさんを選ぶことはできないが、まったくこのひとを引き当てるなんて、なんてラッキーなことだろう。
 ところがその一方で、4年生の先輩たちの側には・・・あれは一体なんなんだろう?なぜか、すごいデブのおばはんが立っているのだ。例えて言えば、女相撲の関取・・・だろうか、アンコ型の。その肉感には後ずさりさせられ、年齢を感じさせる肌質には目を覆いたくなる。しかし、まさか、と二度見してみても、先輩たちのモデル台の上には現実に、女のおすもうさんが立っているのだった。彼女は苦心をしていろんなポーズを取っているのだが、どう見ても雲龍型の土俵入りだ。なんと恐るべきハズレくじだろう。その素っ裸を、先輩たちは見て、自分の中に取り込み、作品表現に反映させねばならんのだ。地獄だ。訳を聞くと、公立美大のモデルさんは公務員に準ずる扱いなので、太ろうが、歳を取ろうが、クビにはできないのだという。それにしても、ひとに見られる仕事なんだから、自分の体型くらい管理できないものなのか。確かに、太った人物をつくるというのも彫刻の勉強、と言えなくもないが。しかし、オレは断固として主張したい。
「美しくないものは、つくりたくない!」
 いや、その・・・ちがうのだ、オレは、太ったひとをおとしめているわけではない。つまり、「その体型で堂々とモデルをしようという太い根性は美しいとは言えない」、あるいは「モデルをする以上はその体型であってはならない」と言いたいのだ。しかしその主張は、現実を前に退けられる。なぜなら、前述した通りに、学生はモデルさんの選り好みができないのだ。オレは恐れた。あのモデルさんがこちらに配されることを。そうならないように、毎日神仏に手を合わせた。あんな生き地獄はごめんだ。なむなむ・・・
 幸いにして、その願いは成就した。彼女は、先輩たちの前での仕事を終えると、油絵科の部屋に移っていったのだ。その後の足取りはようとして知れないが、オータや成田たちは、彼女をどう描いたのだろうか?むき身となったあのモデルさんを直視するのは御免だが、ラグビー部の仲間があのモデルさんをどう調理したかについては、ちょっと興味がある。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

116・二面

2019-06-03 10:50:31 | Weblog
 歩いてみて、海岸線とは岬と入江の繰り返しなのだ、と知った。つまり、盛り上がった土地が海へせり出した出っ張りと、波が打ち寄せて陸地を削り取ったへこみが、海沿いの地形をギザギザに構成しているのだ。出っ張りとへこみとは、当然ながら、交互に織り交ぜられている。海岸線を踏破するには、これらの凹と凸とをひとつひとつクリアしていかなければならない。
 冒険を開始したはいいが、さっそくピンチだ。見上げるような断崖の岬が目の前に立ちはだかり、ゆく手を阻んでくる。さらに弱ったことに、ゴロゴロの岩場を進むうちに、徐々に足元のスペースが失われていく。やすやすと歩けていた水準面の岩礁が、岬の先端に向かうにしたがい、波に洗われ、海中に深く沈み込んでいくのだ。海面から顔を出す岩の面積が、進むほどに心細くなる。岩先を転々と飛び移っていくしかない。平らな安全地帯が一向に現れず、片ときも息を抜けない。進めば進むほど(島の地形を海岸線伝いに進んでいるわけだが、岬の部分においては、沖に向かって進んでいるとも言える)、さらに足元は危うくなっていく。グレーのコンバースはびしょ濡れで、ずっしりと重たい。肩下げ式のバッグ(布袋)も結構な重量があり、しかもぶらぶらと不安定だ。そもそも、このまま進むとして、本当に岬の向こう側まで抜けられるのだろうか?これはギャンブルだ。入江の波打ち際では、足元すぐの浅瀬に遊ぶ小さな熱帯魚が見えていて心和んだが、岬の突端付近まできてみると、海中の魚たちの色が退色し、かなり食べ応えのありそうなボリュームになっていて、ゆらりとこちらを見上げる顔にも凄みが感じられる。オレははっきりと、死の恐怖を感じはじめている。足を滑らせたら気持ち悪いナマコを踏んづけてしまう・・・などという次元は、とっくに通り越した。足も届きそうにないこの海に落ちれば、岩間で大ケガを負い、荒波に洗われ、おぼれ、流され、深刻な状況となることは疑いもない。いざとなったら、荷物を捨てて適当な岩にしがみつき、大声で助けを呼ぶしかない。が、周囲に人影は見えない。磯に叩きつける波音で、叫び声も掻き消されてしまうだろう。本物の恐怖に駆られる。きびすを返して、名護の街に戻った方がよさそうだ。
(ソーキそばでもすすって、出直そう・・・)
 ところが、振り向いて、驚愕した。背後までが大変なことになっていたのだ。どうやら満ち潮らしい。海面が上がってきて、歩いてきた岩場が刻一刻と失われつつある。つまり、じわじわと退路までもが断たれていくのだ。戻るにも、すでに手遅れだ。ゆくも地獄、帰るも地獄、とはこのことだ。途方に暮れそうだが、日も暮れそうで、心細いことこの上ない。こうなったら、一刻の猶予もない。直感で、進むしかない。腹をくくった。眼前には断崖が反り立ち、その先には広大な東シナ海がひらいている。気が遠くなりそうなほどのひとりぼっち感だ。崖を手掛かりに、岩礁の穂先を足掛かりにして進み、ついに岬の突端にたどり着いた。崖の向こう側へのターンポイントだ。一歩先に、今にも沈みゆきそうな心細い足場が見える。えいやっ、と飛び移る。すると、いきなりだ。
 ぴかーっ・・・
 まさに、場面のターンオーバーだ。屏風の裏側のような岬のあっちサイドに、まばゆい景色がひらけたのだ。そこには、人工のパラダイスがあった。巨大なホテルがそびえ立ち、その懐にひろがるのは、網膜を焼かんばかりの白砂のビーチだ。そして、小麦色の素肌に色とりどりのビキニ、ぷんと香る日焼けオイルとファンデーションの匂い、パステルカラーのパラソルの下でトロピカルドリンク・・・めくるめく世界だ。
「・・・夢か?」
 地獄を経たその奥に、この世の天国が出現したのだ。オレはいよいよ死に際し、幻を見ているのか?しかし、これは現実だ。ふと足元を見れば、わずか一歩先に白砂のビーチがある。助かった・・・よりも先に、キョトン、だ。荒々しい原初の海が、岬という暗幕ひとつを隔てただけで、こうまで極端な桃源郷に変貌するとは。まるで回転舞台ではないか。
 あっと驚くネガポジの反転をようやく受け入れ、しがみついていた岩肌から手を離した。安堵と言うよりは、およそしらけた気分で。砂浜に足を踏み入れる。おじゃまします、と言うべきだろう。この砂は天然のものなのだろうか?あり得ない。どこからか大量に運び込まれたにちがいない。この場面転換は、あまりにも異様だ。小さな原色布に覆われた格好のよい尻が、みすぼらしい旅人を脇目に闊歩している。多くのサングラスの奥に、こちらに対する怪訝な視線を感じる。突如現れた闖入者の姿は、あまりにも場違いだ。
「ご・・・ごめんなすって・・・」
 ずらりと並ぶビーチチェアの前に手刀を切りつつ、そそくさと浜を横切る。このすばらしき入江をクリアすると、その向こう側にはまた、ナマコとウニの素朴な海の出現だ。ただいま、わが海よ。そして再びコンバースを濡らしにかかる。
 その後は岬を経るごとに、パラダイス、荒海、パラダイス、荒海・・・の繰り返しだった。まるで映画のセットの華やかな表舞台と、ハリボテの舞台裏をのぞき見ているようで、軽い罪悪感を覚える。沖縄には顕著な二面性があることを思い知らされた。考えてみれば、この二面性はこの地独特のものだ。リゾート開発と、環境の荒廃。豊富な観光資源と、戦争の傷跡。恋愛の発熱と、権力への諦念。海の青と、血の赤・・・のん気に浮かれてばかりではない、揺れる沖縄の苦悩を早回しに垣間見る気分だ。
 そんなこんなと考えているうちに、本島南部の那覇に着いた。とりあえず、海岸線は踏破した。達成感はあるが、どこからくる疲れなのか、旅いちばんのぐったり感に襲われる。港の脇で眠るとする。

つづく