deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

114・ヒッチハイカー

2019-05-23 09:33:32 | Weblog
 トラックの運転は孤独だ。そうした修練の時間を過ごす運ちゃんたちは、見てくれは粗野でも、心根はやさしい。やさしいが、説教くさい。ヒッチハイクの学生を拾うという行為は、純粋な博愛から発生していると思いたいが、彼らが話し相手に飢えている、という事実も同時にあろうかと思う。あるいは、眠気覚ましのオモチャが欲しいのかもしれない。とりあえず、拾われた者には、そのニーズに応える義理が生じる。乗せてくれる運ちゃんとの会話は、ヒッチハイカーにとっては務めであり、ご恩返しなのだ。それに、せっかくの機会だ。積極的に語らい、見聞をひろめたいというものだ。
 乗せてくれる運ちゃんは、例外なく饒舌だ。そして意外なことに、誰もが思慮深い。いろんなトラックの、ゴミが散乱する助手席に乗り込んで、ずいぶんと多くのことを学ぶことができた。地平線のはるか向こうにまでつながる一本道をひとりきりで走り抜く彼らは、まるで哲学者のように人生観を語ってくれる。その長い走行距離が、瞑想の時間のように彼らを心の内へと向かわせるのだろうか。ひとりひとりが、孤独の中でたっぷりと練り上げた意見を持っている。それでいて寛容で、ユーモアがあって、快活で、心配りがゆき届いていて・・・これまで考えていた運ちゃんのイメージ(どちらかといえばネガティブな)を改めなければならない。この旅では、旅先よりもむしろ移動中に、素晴らしい出会いを経験できた。この旅路は、最終的に日本を半周するほどのものになるのだが、結局のところ目的地は「トラックの助手席」だったのではないか、と思えるほどだ。その席で、オレは確実に大人にしてもらった。
 さて、行き先を決めていないヒッチハイカーは、トラックを乗り継ぎ乗り継ぎ、西へ向かううちに九州に入り、さらに南下するうちに、鹿児島へと行き着いてしまった。西鹿児島駅のあたりで最後のトラックから降ろされ、街をぶらぶらと散策していると、港に大きなフェリーが停泊している。見ると、「沖縄本島行き」ではないか。日本の半分を横切ったついでに、最果てまで征服してみるのも一興だ。沖縄本島までは、二十五時間の海上行だという。勢いで飛び乗ってみる。南の島なんて生まれてはじめてなので、ウキウキする。
 抜ける晴天、穏やかな凪。浮かれ気分でデッキに寝そべり、むき出しの日光を浴びる。数日間に渡る千キロ超えの陸路で、からだ中の関節と筋肉がゴリゴリに固まっている。トラックのせまい助手席に長い背中をたたみ込んで過ごし、布団のある宿にも泊まっていない。夕暮れ時に拾った車で夜通し走り、気温が上がる日中に公園のイスや芝生で眠るという、キャンプですらない野宿の旅なのだ。ひとの目を気にしての、肩身のせまいホームレス暮らしだった。それに比べて、こののびのびと心をひらく南海の潮風の下での、心地いい眠りときたら。
 フェリーは広大かつ頑丈で、まるで小島のようだ。長周期のリズムで、ゆったりと揺れている。360度にひろがる水平線は、視線を吸い込んでいく。その光景は、気が遠くなりそうなほど壮大だ。何時間見ていても飽きるということがない。丸く遠ざかる海の果てを見つつ、自分が住むこの星を見ているのだ。それを考えると、この巨大なフェリーですら、波間にちょんと浮かぶ木の葉のようなものだ。なんだか途方もない着眼ではないか。そんなデッキ上もいいが、艦内の大広間もなかなかの雰囲気を醸している。ここは乗船客の雑魚寝場なのだが、陽気な三線の音が響いている。興の乗った巷の名人による生演奏だ。それに合わせて、島んちゅたちが好き勝手にカチャーシーを踊っている。彼らは、もーあしびーという、月夜に浜で踊り明かす美しい文化を持っているのだ。あれの簡易版というわけだ。実におおらかな風景だ。
 行き先の本島が近づくにつれて、海上に小島が現れはじめる。フェリーはそれらの点と点を結び、義理堅くめぐる。小さな港に接岸する度に人々の乗降がある。三月末のこの時期は、南の島々でもひとの出入りが激しいようだ。どこの島でも、観光客のみなさま、めんそーれー、をやっている。そして島んちゅ同士で、いってらっしゃい、おかえりなさい、さらには、さようなら、元気で・・・いろいろな出会いと別れがある。岸壁は、どこの島もひとでいっぱいだ。いや、少ない人々が総出で、といった感じだ。そこには、いろいろな表情がひしめき合っている。はじける笑顔、切ない泣き顔、叫び声、無言・・・再会の破顔一笑、頰ゆるむ安堵もあれば、別れの痛切、胸締めつけられる哀訴もある。
 島の学校を離任する先生だろうか。島の風景を眺めるオレの横で、デッキから岸壁に向かって大声を張り上げている男がいる。彼の手の平には、紙テープの束がしっかと握られている。フェリーの船尾から流れるそれは、空で花火のように盛大に開き、南風にたなびいている。しかしいったんひろがったそれは、もう一度意思を取り戻して港へと向かう。そのテープの一本一本の先は、鼻を垂らした大勢の泣きべそたちの手の中におさまっている。幼い子らは、めいめいにテープの片方の端を・・・絆に似たものを握りしめ、声の限りに叫んでいる。男もまた、応えている。その残酷なような、幸福なような、深いもののこめられた光景に、こちらもほろりとくる。
 フェリーは小さすぎる港を離れ、舳先は波を切って進み、速度は距離をつくり、海に大きな隔たりがひらいていく。歓声は耳に届かなくなり、男の声は枯れた。テープは張り詰めてちぎれ、春の潮風に散ってしまった。小さな泣きべその並んだ島影が、遠くに消えていく。ヒッチハイクの旅人はひとり、ぼんやりとそれを見つめる。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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