deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

112・方式

2019-05-21 08:37:12 | Weblog
 わが校の彫刻科では、基礎をみっちりと仕込まれる。教授陣が最も重きを置くのは、質感、量感というプリミティブな要素だ。奇抜で装飾的な、つまりウケそうな形をつくってみたところで、そんな面白さには意味がない、と一蹴される。重視すべきは「素材の持つ力」、表現すべきは「原始的な強さ」である、というのだ。彼らは、びっくり箱のような現代美術を蔑視し、即興的で芝居がかったポップアートを嫌忌する。そして、メキシコの古代文明の遺跡や、ギリシャのキュクラデスなどという原始人の手慰みのような彫刻を信奉する。まったく、古くさいことこの上ない。それでも、その根幹となる考え方を丹念に植えつけようという姿勢には共感を覚えるし、正しいと思いたい。のちに他の芸術系大学(日本を代表するような)の卒制などを観る機会に、なるほど、愉快だが、チープだ、と感じさせられたものだ。それらは華々しくてかっこいいが、素材に対する思想の血肉が不在で、中身はスカスカに思える。いつの間にか、自分の審美眼も磨かれていたわけだ。とは言え、彼らの作品の方が格下だ、と言っているわけではない。芸術には、いい悪いはなく、好き嫌いがあるのみだ。作品評価の基準はそれぞれに別物なのだし、そもそもこの意見の隔たりは、方向性の違いに過ぎないのだから。次の例で納得してもらえるだろうか。
 「小役人の子が通う美大」とうまいことを言う先輩がいたが、それがわが美大の性質を端的に表している。純朴で真面目な学生が多い、と解釈できようか。逆に言えば、この美大からセンセーショナルな大芸術家は生まれ得ない。デザイン科においても、「カラーチャートをつくる」などという地道な作業を手描きでコツコツとやらされている。そんな頃に、東京のデザイン系に進んだ同級生に会いにいくと、彼らは米軍ハウスに共同で住み、オープンカーを乗りまわし、ポパイやホットドッグプレスを読んでいるにちがいないファッショナブルな出で立ちで、大都会の最新スポットを闊歩している。金沢のデザイン科生がそんなマネをしたら、周囲から冷ややかな目で見られ、袋叩きに遭うはめになる。だからわが同胞は、重く雲のたれ込める田舎のアパートにこもり、パレット上でせっせと「ターコイズ・♯40e0d0」を正確に調合する。そして、企業から「基本のできた子」としてありがたがられるわけだ。一方で、東京のデザイン系を出たわが高校同級生たちは、就職するといきなり大活躍をしてみせ、たちまちひと桁違う給料をもらう。センスにおいて、田舎者と圧差をつけてしまうのだ。彼らは、ポパイやホットドッグプレスを読んでマネていたわけではなく、逆にその半歩を先んじていたのだ。彼らこそが最先端を創造していたわけだ。そんな彼らをマネて、ポパイが刷られるのだ。彼らにとっては、派手な生活っぷりこそが勉強そのものであったと、のちのちになって気づかされる。
 わが美大のバンカラ方式と、大都会のチャラチャラ方式、どちらが正しい、とは一概には言えない。どちらも正解と言えるし、どちらも不正解とも言える。しかし、とにかくわが美大では、地べたを這いずるような基礎の醸成が重要と考えられているのだった。オレもまたリョージ助教授の元で、芸術のなんたるかをみっちりと仕込まれ、ものの本質の捉え方を学ばされ、考え方そのものを叩き込まれる。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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