権容睦と『民主労総衝撃報告書』
〔寄稿〕ヤンギュホン前全労協委員長
メディア忠清/2009年04月03日9時56分
87年労働者大闘争の突破口を切り開いたウルサン労働者闘争の象徴にはいつもクォンヨンモク(権容睦)がいた。ウルサン闘争は全国に拡大し、労働者大闘争の波を起こし、その成果を集めて、韓国労総とは異なる民主労組運動の中央組織である「全労協」が建設された。以後、全労協、業種、グループ協議会の決議を集め民主労総が建設された。その後10年を越えたある日、民主労総初代事務総長だったクォンヨンモクが他界したというニュースに続き、彼が書いたという『民主労総衝撃報告書』の出版記念会のニュースが流れてきた。
その本は、事実を歪曲している側面もあるが、民主労総という組織の位置と性格を考えれば衝撃を与えるに不足ではなかった。「腐敗百貨店民主労総」や「ストライキ共和国」、「暴力団より怖い労組の闘争方式」等が本の前半部分に該当する。続いて個別の労働組合について批判しながら新自由主義、非正規職撤廃、賃上げ等が「魔法の杖でも解決できない政治的要求」だと規定する。彼は、賃上げ要求案は「どうすれば安く良い製品を作ることができるか」や「どうすれば良い製品をたくさん売ることができるのか」、そして「果実分配」(どういう意味かよくわからないが…)にならなければならないと言う。
彼はそれにとどまらず、さらにいくつか指摘する。「労組専従についての問題提起」と「非正規職を無視する民主労総」に対する忠告、そしてつたない語り口で「労働運動の理念」にも触れる。結論的には「民主労総の不正問題は断片的な現象にすぎない」と言い、より深刻なことは「民主労総が国家の利益と国民経済にためになっていないこと」と批判の最後を飾る。
このように構成された彼の文章を読みながら私がいだいた最初の感情は、ある種の怒りよりも深い悲しみであり、2番目には「クォンヨンモクが書いた文章ではない」という考えだった。3番目には、この本の脈絡全般が軍部独裁の路線である「全体主義路線」にもとづいており、徹底した国家観に基礎を置いた文章だという感をぬぐえない。
クォンヨンモクは、民主労総建設の過程で、筆者とはとても近い距離で労働運動の展望を討論し方向についての苦労を共にしてきた。民主労総は闘争で建設されなければならないし労働解放の展望がなければならないと語気強く言っていたクォンヨンモクの姿が頭をかすめた。また、どうしてこんな文章がこともあろうに「クォンヨンモク」という名で発行されたのかについて考えた。近頃の運動の現実のせいかもしれないという考えに至ると、悲しみが押し寄せた。
彼が書いた文章を彼が書いたものではないと言うことはクォンヨンモクに対する最大の侮辱になるかもしれない。それでもその考えを振り払うことができない根拠は、まず言語自体がクォンヨンモクのものではないということだ。民主労総は準備委の時期から略称を「民主労総」と確定し、クォンヨンモクが民主労総に関わっていた時期には「民労総」と略すことは内部のタブーでもあった。ところが、この本で彼は徹底して「民労総」と表現している。それだけではなく彼はこの本全般で「労働者」という表現を使用せず、必ず「勤労者」と表現しており、民主労総の組織体系内に存在する「全解闘」(自身も一時期、全解闘に携わった)を「全労闘」傘下と規定してしまっている。また、民主労総の組織体系をだれよりも良く知っているはずの当事者が、「全教組」と「民主労総」を異なる組織と理解しているという点等々が、彼の文章ではないという判断の根拠だ。私は、クォンヨンモクは民主労総についてそれほど無知ではなかったと考える。
最初、彼が「ストライキ共和国」、「暴力団より怖い労組の闘争方式」と問題提起した部分は、当事者の懺悔録と思いながら読んだ。しかし、彼の文全体に、彼が以前実践し主張していた「不法ストライキ」や、民主労組運動史に長く名をとどめている「ゴリアテ闘争」についての反省の文句は一言も見られない。本当にクォンヨンモクが批判をするのであれば、自身の負うべき責任を放棄することはできないだろう。自身が80~90年代を貫いて扇動してきた労働者階級の闘争の必要性について、2万名が参加した95年メーデー大会で「悪法を破る決意」の先頭に立っていた行為について、一言くらい弁明をしてもよさそうなものではないか。
「徹底した法厳守」こそ正しい闘争方法だというなら、今も「悪法は破って、つぶさなければならない」という確信で闘っている労働者に対して、どんな責任も負う姿勢がなくてはならないのではないか。本当に自分の文章の中で、今の時点で自分の主張が正しいと判断するならば、誤った道を突き進んでいるその同志たちを救出(?)するためにも、努力する姿勢を示さねばならないのでないか。そのような努力のほうが、本を出すことよりも優先されなければならないのではないか。そうしてこそ自分が投げかける非難の正当性が認められるのではなかろうか。
非正規労働者の問題がそれほど自分の胸に無念として迫るなら、利潤を倍加させるために労働者を包摂と排除で分割し対立させ、ひたすら搾取の対象としてのみ労働者を見る資本に対して、最低限ひと言でも言わなければならないのではないのか。
労組専従者を、食べて遊ぶだけの特権層と規定するのなら、ニューライトに所属する新労働連合の専従は労働階級の利害のために何をどのようにがんばっており、彼らに支給される少なからざる資源の出所はどこなのか?
この短文を書きながら始終残念な気持ちをぬぐえないのは、問題提起に対する反応を期待することができないからだ。すでに故人となった彼は、霊魂という実体を借りずには答えることができないだろうし、私は霊魂の存在を信じないのだからなおさらだ。
「民主労総衝撃報告書」についてあれこれ文句をつけるのは、この本で提起された民主労総の腐敗と不正を少しでも弁明するとか合理化するためではない。そんな考えは毛頭ない。民主労総の精神が損なわれ、現れている官僚主義はもちろん、民主、自主、階級、闘争性と変革志向をも喪失している民主労総の現在の姿い対し、私もまた、ためらうことなく批判せざるをえない。その批判に対しては私自身も自由ではないから、反省を根拠として批判をするしかない。
しかし、不正と不道徳を契機に路線と理念の問題までひっくるめて非難するこの本から発見したことは、伝統的な資本家階級の幼稚さだけだ。この本には、労働者階級がぶつかっている矛盾についての苦悩は一言も見出せない。ここにこの本の発行の目的が読み取れる。
通常提起される幹部の資質と道徳性には明確に問題がある。にもかかわらず同じ現象がくりかえされる理由は、一言でいって資本の鎖に対して黙して語らずであったという事実だ。
労働者階級を分割、統治するために資本はたえず不正の罠と落とし穴を掘っている。その落とし穴は今もいたる所にしかけられているだろう。にもかかわらずその罠にひっかかる幹部に対しては、厳格な懲戒措置で新たな緊張をつくらなければならず、資本の卑劣な鎖を断ち切ることこそ構造的矛盾に対抗する過程であり、資本主義が続く限り、これと類似した不正の落とし穴は続くという事実を忘れてはならない。
労働者階級闘争が情勢に影響を与え、民主労組運動の精神が燦然と光を放つ時期に民主労組陣営から「不正」という言葉の聞くことは難しい。闘争性と階級性、そして変革志向についての緊張感が緩んだ隙に、常軌を逸した資本主義は「不正」と類似した落とし穴を常に掘ってくるだろう。階級的団結を崩すための有効なやり方として味をしめたのだから。
資本家階級がしかけた罠と落とし穴を無力化させる根本的な方法は、民主労組運動の精神を正しく復元し実践することにあると考える。
「理念のない組織は内容のない形式だからだ」
〔寄稿〕ヤンギュホン前全労協委員長
メディア忠清/2009年04月03日9時56分
87年労働者大闘争の突破口を切り開いたウルサン労働者闘争の象徴にはいつもクォンヨンモク(権容睦)がいた。ウルサン闘争は全国に拡大し、労働者大闘争の波を起こし、その成果を集めて、韓国労総とは異なる民主労組運動の中央組織である「全労協」が建設された。以後、全労協、業種、グループ協議会の決議を集め民主労総が建設された。その後10年を越えたある日、民主労総初代事務総長だったクォンヨンモクが他界したというニュースに続き、彼が書いたという『民主労総衝撃報告書』の出版記念会のニュースが流れてきた。
その本は、事実を歪曲している側面もあるが、民主労総という組織の位置と性格を考えれば衝撃を与えるに不足ではなかった。「腐敗百貨店民主労総」や「ストライキ共和国」、「暴力団より怖い労組の闘争方式」等が本の前半部分に該当する。続いて個別の労働組合について批判しながら新自由主義、非正規職撤廃、賃上げ等が「魔法の杖でも解決できない政治的要求」だと規定する。彼は、賃上げ要求案は「どうすれば安く良い製品を作ることができるか」や「どうすれば良い製品をたくさん売ることができるのか」、そして「果実分配」(どういう意味かよくわからないが…)にならなければならないと言う。
彼はそれにとどまらず、さらにいくつか指摘する。「労組専従についての問題提起」と「非正規職を無視する民主労総」に対する忠告、そしてつたない語り口で「労働運動の理念」にも触れる。結論的には「民主労総の不正問題は断片的な現象にすぎない」と言い、より深刻なことは「民主労総が国家の利益と国民経済にためになっていないこと」と批判の最後を飾る。
このように構成された彼の文章を読みながら私がいだいた最初の感情は、ある種の怒りよりも深い悲しみであり、2番目には「クォンヨンモクが書いた文章ではない」という考えだった。3番目には、この本の脈絡全般が軍部独裁の路線である「全体主義路線」にもとづいており、徹底した国家観に基礎を置いた文章だという感をぬぐえない。
クォンヨンモクは、民主労総建設の過程で、筆者とはとても近い距離で労働運動の展望を討論し方向についての苦労を共にしてきた。民主労総は闘争で建設されなければならないし労働解放の展望がなければならないと語気強く言っていたクォンヨンモクの姿が頭をかすめた。また、どうしてこんな文章がこともあろうに「クォンヨンモク」という名で発行されたのかについて考えた。近頃の運動の現実のせいかもしれないという考えに至ると、悲しみが押し寄せた。
彼が書いた文章を彼が書いたものではないと言うことはクォンヨンモクに対する最大の侮辱になるかもしれない。それでもその考えを振り払うことができない根拠は、まず言語自体がクォンヨンモクのものではないということだ。民主労総は準備委の時期から略称を「民主労総」と確定し、クォンヨンモクが民主労総に関わっていた時期には「民労総」と略すことは内部のタブーでもあった。ところが、この本で彼は徹底して「民労総」と表現している。それだけではなく彼はこの本全般で「労働者」という表現を使用せず、必ず「勤労者」と表現しており、民主労総の組織体系内に存在する「全解闘」(自身も一時期、全解闘に携わった)を「全労闘」傘下と規定してしまっている。また、民主労総の組織体系をだれよりも良く知っているはずの当事者が、「全教組」と「民主労総」を異なる組織と理解しているという点等々が、彼の文章ではないという判断の根拠だ。私は、クォンヨンモクは民主労総についてそれほど無知ではなかったと考える。
最初、彼が「ストライキ共和国」、「暴力団より怖い労組の闘争方式」と問題提起した部分は、当事者の懺悔録と思いながら読んだ。しかし、彼の文全体に、彼が以前実践し主張していた「不法ストライキ」や、民主労組運動史に長く名をとどめている「ゴリアテ闘争」についての反省の文句は一言も見られない。本当にクォンヨンモクが批判をするのであれば、自身の負うべき責任を放棄することはできないだろう。自身が80~90年代を貫いて扇動してきた労働者階級の闘争の必要性について、2万名が参加した95年メーデー大会で「悪法を破る決意」の先頭に立っていた行為について、一言くらい弁明をしてもよさそうなものではないか。
「徹底した法厳守」こそ正しい闘争方法だというなら、今も「悪法は破って、つぶさなければならない」という確信で闘っている労働者に対して、どんな責任も負う姿勢がなくてはならないのではないか。本当に自分の文章の中で、今の時点で自分の主張が正しいと判断するならば、誤った道を突き進んでいるその同志たちを救出(?)するためにも、努力する姿勢を示さねばならないのでないか。そのような努力のほうが、本を出すことよりも優先されなければならないのではないか。そうしてこそ自分が投げかける非難の正当性が認められるのではなかろうか。
非正規労働者の問題がそれほど自分の胸に無念として迫るなら、利潤を倍加させるために労働者を包摂と排除で分割し対立させ、ひたすら搾取の対象としてのみ労働者を見る資本に対して、最低限ひと言でも言わなければならないのではないのか。
労組専従者を、食べて遊ぶだけの特権層と規定するのなら、ニューライトに所属する新労働連合の専従は労働階級の利害のために何をどのようにがんばっており、彼らに支給される少なからざる資源の出所はどこなのか?
この短文を書きながら始終残念な気持ちをぬぐえないのは、問題提起に対する反応を期待することができないからだ。すでに故人となった彼は、霊魂という実体を借りずには答えることができないだろうし、私は霊魂の存在を信じないのだからなおさらだ。
「民主労総衝撃報告書」についてあれこれ文句をつけるのは、この本で提起された民主労総の腐敗と不正を少しでも弁明するとか合理化するためではない。そんな考えは毛頭ない。民主労総の精神が損なわれ、現れている官僚主義はもちろん、民主、自主、階級、闘争性と変革志向をも喪失している民主労総の現在の姿い対し、私もまた、ためらうことなく批判せざるをえない。その批判に対しては私自身も自由ではないから、反省を根拠として批判をするしかない。
しかし、不正と不道徳を契機に路線と理念の問題までひっくるめて非難するこの本から発見したことは、伝統的な資本家階級の幼稚さだけだ。この本には、労働者階級がぶつかっている矛盾についての苦悩は一言も見出せない。ここにこの本の発行の目的が読み取れる。
通常提起される幹部の資質と道徳性には明確に問題がある。にもかかわらず同じ現象がくりかえされる理由は、一言でいって資本の鎖に対して黙して語らずであったという事実だ。
労働者階級を分割、統治するために資本はたえず不正の罠と落とし穴を掘っている。その落とし穴は今もいたる所にしかけられているだろう。にもかかわらずその罠にひっかかる幹部に対しては、厳格な懲戒措置で新たな緊張をつくらなければならず、資本の卑劣な鎖を断ち切ることこそ構造的矛盾に対抗する過程であり、資本主義が続く限り、これと類似した不正の落とし穴は続くという事実を忘れてはならない。
労働者階級闘争が情勢に影響を与え、民主労組運動の精神が燦然と光を放つ時期に民主労組陣営から「不正」という言葉の聞くことは難しい。闘争性と階級性、そして変革志向についての緊張感が緩んだ隙に、常軌を逸した資本主義は「不正」と類似した落とし穴を常に掘ってくるだろう。階級的団結を崩すための有効なやり方として味をしめたのだから。
資本家階級がしかけた罠と落とし穴を無力化させる根本的な方法は、民主労組運動の精神を正しく復元し実践することにあると考える。
「理念のない組織は内容のない形式だからだ」