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韓国労働運動情報

民主労総はじめとした韓国労働運動関連記事の翻訳

『熊たちの434日』 1部

2009年09月12日 19時45分37秒 | ニューコア・イーランド闘争
『熊たちの434日/終わらないニューコア労働者の闘い』

1部 「まじめな労働者」から「真の労働者」に

 会社が戦争を宣布した

 2007年4月11日、会社の組織再編通知が届いた。4月現在、該当階の部署に所属するレジ職を「支店別サービスチームおよびサービス部を新設し、所属を変更」するというのだ。配置転換を強制的に行うとの通報だった。
 2007年5月9日、ニューコア江南キムスクラブの売店で1人デモが始まった。
 「私は働き続けたい!」
 「撤回!アウトソーシング、反対!一方的契約解除」
 ピンクのハート形のゼッケンを着け、制服を着たニューコア労組の新入組合員であり、非正規職だった。
 しかし当時、彼女の勤労契約書には契約期間がなかった。正規職と異ならない契約内容と見るべきだった。
 そんな彼女の勤労契約書を、会社はこっそり改ざんし、契約解除を通報した。おとなしく引き下がることのできなかった彼女は1人デモを始めた。労働組合活動をしたこともなく、労働者の権利をどこかで学んだのでもなかった。 体にしみこんでいる労働者の自尊心であり、人間の自尊心であり、会社に対する怒りだった。
 問題が大きくなるや、会社は彼女を元の勤務地に復帰させた。
 しかし彼女も、他の非正規職が大量解雇されたときに一緒に現場を追われた。
 そして2007年6月4日、ニューコア江南キムスクラブの売り場は修羅場となった。2006年11月に国会を通過した非正規職法を遵守すると言って会社が非正規職の契約を解除し、請負会社の職員をレジに入れたのだ。
 労働組合は江南キムスクラブでレジを体で守った。夜明けまで。レジは組合員たちの仕事場であり、労働者の未来であり、生存だったから。よそでももらえる80万ウォンの仕事ではなく、10年勤務した職場だったから。
 その日の戦争は、6月いっぱい、ニューコアの各売り場で繰り広げられた。レジを物理的に奪われ、また奪い返す闘いが続き、日がたつにつれ疲労がたまり、負傷者が出た。何か決定的な契機をつくらなければ終わらない状況だった。

 なぜ非正規職とともに闘おうとしたのか

 そのとき労働組合が、全国の売り場にいる350名の非正規職を見捨てたなら、こんな戦争を毎日やっていなかったもしれない。350名のうち、会社の方針どおり請負会社に移ると言った人もおり、会社を辞めると言った人もおり、組合が差し出す手を拒否するケースもあった。多くの事業場でのように、残念ではあるが、力のない労組に何ができるのか、と避けて通ることもできた。
 しかしニューコア労働組合はそうしなかった。非正規職を説得し、労働組合に加入してもらい、闘うべきだと主張した。非正規職に闘おうと言うためには、労働組合が責任をとるという決意が必要だった。
 はたして労働組合にそんなことができるのか、何のためにそうすべきなのか、そうしたからといって非正規職が一緒にやってくれるのか、この闘いは勝てるのか…。執行部は考えに考えた。論議し討論し、労組が全てを賭けなければならないと判断した。多くの幹部たちが、中央委員会を通して非正規職の組織化を決定した。
 こうして非正規職たちと共にぎりぎりの闘いが始まった。契約期間が残っているのに出て行けという会社に対し、一発、目に物言わせてやりたい、タダじゃ引けない、という最低限の欲求から始まった。請負会社に行けば賃金が下がり、雇用が不安定になるという現実的な問題もあったが、面談もろくにせず、ただただ追い出そうとする資本に対する怒りだった。

 ところで、正規職だけの組合だったニューコア労働組合が、非正規職と一緒に闘おうと考えた理由は何か。
 これまで、非正規職がまず闘いを決意し、正規職の同志たちと共に闘おうとしたとき、積極的にともに闘う正規職よりも、闘争を回避する正規職労組を多く見てきた。非正規職が資本と闘っているとき、非正規職をもっと苦しめる正規職労組の方が周りには多かった。非正規職労組の要求を聞き入れようとする会社側を、逆に脅迫する正規職労組もあった。韓国通信契約職の闘いがそうであり、コスコム非正規職の闘いでもそうであり、現代重工業社内下請け労働者、GM大宇下請け労働者の闘いでも、こうした姿は例外ではなかった。
 こうした条件にあって、ニューコア労働組合が非正規職の組織化と正規職の再組織化を通して、やろうとしたことは何か。
 会社は、労働組合が非正規職を組織しようと努力しているとき、「労組が君らに気を遣ってくれたことがあったか。君らを利用しているのだ」と言った。「社会的に正当な闘いだ」という支持を取りつけるために利用しているのだ、正規職が自分たちの闘いに非正規職を巻き込もうとしているのだ、というのだ。
 会社の言うことが事実でないことは、434日の闘いが示している。ニューコア労組の2007~2008年の闘いは、正規職の要求と非正規職の要求が分離されなかった構造調整阻止闘争だった。

 労働者は一つではない

 「労働者はひとつだ」という言葉はそのとおりだ。賃金をもらわなければ生活できない存在が労働者だ。労働者は性別も違い、宗教も違い、好みも異なり、幾千もの違いがあるが、自分の労働力で食べてゆくという点が同じであり、その一点で「ひとつ」になれる存在だ。また、「ひとつ」にならなければ生きてゆけない存在でもある。団結してこそ、わずかだが条件を変化させることができる。だから労働者は強くなることができるのだ。
 労働組合は、全てを変化させられる組織ではないが、変化の可能性を示し、階級的団結をめざす端緒をつくってくれる組織だ。
 それでも、労働組合を拒否する労働者がおり、労働者であることを頭で拒否する労働者もいる。われわれが毎日見るテレビを通して、保守新聞を通して、労働者でありながら資本家の考え方をしている場合がそうだ。
 小学校―中学校―高等学校の教育課程を経る中で、「勉強ができないとあの人のようになる」という事例が非正規職労働者だ。労働の権利ではなく、経済発展の義務が優先されることを学んできた。労資協調は良いことであり、労働組合がストをやることを否定的なものとして認識させてきた。「友達と仲良くしなければならない」という耳慣れた親の言葉は、友達が社会で自分の競争相手になる構造においては不可能だ。
 だから今の現実においては、自分が労働者であることを頭の中から消し去り、労働者がひとつであることを拒否することが「雇用の生命延長」の条件だ。
 正規職は、非正規職が自分と違う存在だと思えば心も安まり、自分の代りにまず整理解雇されてもいい、能力のない人だと考えれば自分の位置を維持できる。
 非正規職は、自らを仕方がないものとして受け入れれば、ストレスを感じずに職場生活を送ることができる。失業率が高い中で、働けるだけでもありがたいと思えばやっていける。
 こうして、非正規職に同情しながらも、無意識に非正規職に辛く当たるもう一人の労働者が生まれる。そして、資本に対する不満や怒りよりも、正規職に不満を持つ非正規職の心が生まれる。さらには、直接雇用の非正規職が、間接雇用の請負労働者や派遣労働者を、自分よりも劣った存在と考え、正規職から受けた傷から敢えて目をそらす。
 こうした心がめぐりめぐって労働者はずたずたに引き裂かれる。彼らを引き裂いた資本の存在は彼らの中にあり、全てがつながっているのに、食い食われる関係の中では抜け落ちる。

 労働者をひとつにする

 それでも希望は、「労働者はひとつであり、ひとつでなければならない」という考えを実践する人々がいなくならないということだ。非正規職問題に積極的な労働組合があり、現場組織が先頭に立って活動している例もある。
 民主労総は組織指針を通して労働者を一つにすることをめざした。労働組合の規約を改正して非正規職を組合員として受け入れ、団体協約に非正規職に関する条項を設け、新規採用は正規職とするよう努力し、正規職と非正規職の差別を減らし、なくそうとした。上級団体の指針と方針を、多くの労働組合が履行しようと努力した。
 けれども、法律を作り改正する社会的闘争戦線が崩壊し、「非正規職法」がつくられてからは、それぞれの職場でその要求を勝ち取るための努力をするにしても、単組の力の限界に帰着する。
 また、指針を履行することが結果として評価されるだけで、その指針に込められた意味が事業の過程で発揮されたかについての検討は行われない。
 そんな事業は、形式的な条件は変えられるかもしれないが、組合員の心を変えることはできない。非正規職を正規職と同一の労働者として受け入れ、非正規職という存在自体をなくしてゆく闘いを決意するまでには至らなかった。
 ニューコア労働組合も、2001年の団体協約更新に向けた交渉を行う際、非正規職に関する条項について争点や検討があった。その年の団体協約では、10ヶ月以上勤務するパートタイマーについて、本人が希望する場合、会社の採用手続きに依拠して正規職として採用するという内容で合意した。
 その後、団体協約に依拠して一部の非正規職が2003年、2004年に正規職化された。
 しかし依然として刀の柄は会社が握っていた。

 正規職だけで売り場は止まらないという現実を知っているから

 2004年、ニューコア労働組合は週5日制獲得闘争を行った。
 週5日制適用に向けた団体協約更新において労働組合の核心要求は「完全な週5日制実現」「非正規職への同一適用」だった。
 正規職は15日間の全面ストを展開した。その15日間に組合員が感じたことは、非正規職を早く組織して一緒に闘わなければならないということだった。
 労働者は真面目だという。ストをしながらも会社のことを心配した。それは別な言葉で言えば、労働者が依然として会社と自分を同一視しているということだ。会社が不渡りを出し、法定管理まで受けた経験があるため、なおさらそういう気持ちが強かったかもしれない。
 そういう労働者が、ストを一回一回経験しながら、会社と自分を少しずつ引き離していった。真面目な労働者から、真の労働者になりつつあるのだ。
 会社は、ストが始まるや人員が足りなくなり、残った労働者に延長勤務、休暇使用禁止を指示し、次長級まで出てきて直接に営業したりした。それでも仕事の疲労度が増したため、売り場別に営業時間を短くするなどして対応した。
 組合員は、会社がすぐに降参するだろうと思った。
 「世の中の主人公である私たちがいなければ会社は回らないではないか」
 しかし売り場は、世の中の主人公である労働者のうちの「非正規職」が、しかたなく働いていたのだ。
 労働組合は、非正規職に会うために売り場に入り、ストの正当性を訴え、休暇を使用したり不当な延長勤務を拒否する権利があることを伝えた。労働組合の運動会に非正規職の一部が参加したりもした。
 15日目に終結した週5日制獲得ストで、労働組合は直接雇用の非正規職に対する週5日制同一適用を勝ち取った。
 そして労働組合は翌2005年に「非正規特別委員会」を設置した。直接雇用非正規職の組織化に対する具体的検討を開始した。

 不法派遣労働者も見え始めた

 正規職だけでなく、非正規職がもうひとつの主体であることを知らしめた闘いを経て、不法派遣労働者が見えてきた。請負だ。
 現行の非正規職法によれば、派遣労働者として2年使用し、ふたたび契約職として2年使用することもできる。仕事はそのままで、その仕事をする人間もそのままだが、ある時は派遣労働者に、ある時は契約職へと名称が変わる。その次には請負契約書を結び、契約職や派遣労働者として働いていた人たちを特定業者の所属に変更させ、引き続き働かせればよい。「偽装請負」が「不法派遣」だ。

 不法派遣闘争 ゴーgo?

 その不法派遣がニューコアで発見された。「アルバイト」という名で働いてきた請負会社の職員たちだった。その人たちは、売り場でカートの回収や整理、商品運搬を主に担当し、売り場担当と同じ業務をしたり補助する業務も担っていた。ホームエバーとモダンハウスで働く部署長とレジ職はニューコア所属だが、直接販売と営業、物流を担当するアルバイトは2001アウトレットの所属だ。
 売り場を調査してみると、少数だが組合員と一緒に働く不法派遣と見られる労働者がいた。
 どこから組織事業をすべきか、非正規職が自ら主体となるためにはどういうことが必要か、どういう事業を媒介にすべきか、流通産業における非正規問題の深刻性を克服するためにはどうすべきか、論議し討論することになった。

 会社は対策講じ、委託研究

 会社は2005年、特定労務法人に依頼し、「請負職診断および管理方法についての研究委託報告書」を出した。報告書は請負の条件を明示している。人事労務管理の独立性、事業経営上の独立性だ。
 総合的に判断すると、混在勤務および直接的業務指示などにより偽装請負と判断される可能性が非常に高い。
 報告書が提案している代案は、問題が具体的な点については是正措置をし、偽装請負と判断されないようにせよというものだ。

 事業計画立て、実践し壁なくす

 労働組合は2006年一年間の事業計画を立て、非正規職事業を行った。
 当時労働組合が売り場を点検した結果、直接雇用の契約職は335名程度で、委託は男性922名、女性410名程度、正規職は1190名だった。直接雇用の非正規職を主な対象とし、労働組合に加入させることを模索することにした。
 しかし依然として現場には正規職と非正規職の摩擦があった。大部分の正規職が非正規職を指示する立場にあった。仕事が大変なときは正規職は比較的容易に休めるが、非正規職は気を遣いながら休まなければならない。
 闘いをとおしてひとつになるために重要なことは、共感をつくることだった。お互い気を遣い、愛情を持てるようにし、お互い理解できるようにすることだった。感情の交流なしには、ひとつになることは難しかった。
 週5日制闘争をとおして非正規職の組織化に対する正規職の認識は広がったが、まだ正規職の立場から見た「非正規職組織化」の必要性だった。非正規職が労働組合と非公式に面談するということもあったが、自ら立ち上がって解決するという観点よりも、正規職労働組合が何かすべきではという期待感以上のものではなかった。

 2006年、労働組合はもう一度闘った。人員運営の合意事項を会社側が守らなかったため、会社側に労使協議会の場に出てくることを要求したが、会社側は無視した。労働組合は終末に1日ずつ闘争を展開した。会社側はこれを不法ストと規定し、978名の組合員を懲戒に付すと通報し、労働組合幹部22名を業務妨害で刑事告訴した。
 続く賃上げ・団体協約更新交渉の場で労組は「レジ業務は正規職業務を原則とする」「パートタイマーついて、本人が希望する場合、正規職として採用する」へと条項を変更しようと提起し、会社側は、非正規職採用制限条項をなくそうと言った。
 正規職だけの2006年闘争であり、全組合員が懲戒対象になった厳しい闘いだった。それは目に見えない恐れを残した。
 そうした条件のもとで、2007年闘争を前に労働組合は非正規職の組織化に関する論議の場を設けた。
 非正規職が正規職に信頼を持てないのと同じように、正規職が非正規職を信頼できるような経験がなかった。信じなければならないという「べき論」ではなく、信じられる根拠が必要だった。
 団体協約によって正規職に転換した彼女たちが、その後労働組合に示した態度は、非正規職と正規職がひとつだと考える上で障害になった。正規職になった一部の組合員が会社に忠誠を誓った。
 お互いを信じるためには共通の経験が不足した状況だった。
 この状況を突破するために労働組合が選択したのは、「労働者はひとつだ」ということをわれわれがまず実践しなければならないということだった。

 非正規職、その存在自体に対する認識

 長い時間をかけてニューコア労働組合は、闘いをとおして気づき、実践しながら進み、具体的に模索しながら考えは深まった。確信とまではいかなくても、全ての労働者が生きるためには非正規職闘争を共に闘わなければならないという考えは持つようになった。人員確保の問題は、常に非正規職問題と接していた。業務の正規職化は、正規職労働者が闘った非正規職闘争だった。

 非正規職闘争の目標は何か。「非正規職撤廃! 正規職化実現!」が非正規職闘争の目標か。
 「非正規職も人間だ。人間らしく生きよう」は非正規職闘争の現場で最も一般的に叫ばれるスローガンだ。
 人間らしく生きるということは、正規職になるということと同じではない。新自由主義社会において、資本主義が自らの危機を克服するために極度にあがく世の中で、安全な労働者がどこにいる。
 大企業、大工場、公務員部門の労働者に対し、一部では「貴族労働者」だと呼ぶ。
 1987年、頭髪の自由のため、食事の質を改善するため、賃上げのため、労組を認めさせるため、会社が雇用したヤクザのナイフに身を裂かれながらも闘った彼らに対し、今は、他の労働者を踏みつけにし、自分の利益だけを追い求め、別の階層を作りだした存在だと非難している。
 「貴族労働者」と非正規職労働者との間に違いがあるのは確かだが、もっと大きな問題は、労働者間の違いではなく、資本と労働者との間の違いだ。「貴族労働者」に対する非難は、労働者よりももっと多くの利潤を得ている資本に対する非難を眠り込ませている。
 政界に金をばらまき、不法に会社の金を横領し、株ゲームをし、グループ間で便宜を図り合い、労働者の権利に対しては「社会混乱を助長するアカ」という旧態依然たる扇動、「強引に自らの権利のみを掲げる利己的集団」という誤った扇動をしている資本家に対する非難と闘争がまずなければならない。自分たちに対抗する労働者の連帯を阻もうとする資本の目的こそ、「貴族労働者」イデオロギーを作りだした理由ではないのか。
 
 「貴族労働者」と呼ばれる彼らの暮らしも不安定だ。
 年間労働時間2000時間を超える国は、OECD会員国の中で長時間労働1位の韓国と2位のギリシャ以外にない。2007年、現代自動車の工場で働く労働者の平均労働時間は2528時間だった。韓国労働者の年間労働時間は2357時間。「貴族労働者」たちは韓国労働者の平均労働時間よりも長く働く。
 年俸4千万ウォンの労働者だというが、彼らは闘って賃上げを勝ち取り、自らの労働力を削って食べながら働いている。昼夜2交代の深夜労働と長時間労働をとおして、命と賃金を引き替えにしている。夜間労働は寿命を13年短縮させるという研究結果があるが、そういう労働をしている労働者の命の値段にしては少ないのではないか。
 2008年1月基準で現代自動車の工場で昼夜2交代をしている労働者の平均勤続年数は17.1年であり、組合員の84.9%が筋骨格系の障害にさいなまれている。2007年の労災は451件で、過労などで死亡する組合員は年平均8名にもなる。
現代グループの経営者、資本家たちはどうか。
 チョンモング会長の株式資産は05年の3位から08年には1位になった(84.4%増)。チョン会長は、会社の金693億ウォンを横領し、1034億ウォンの裏金を作って使用し、2100ウォンの損失を会社に負わせて2008年6月に実刑を宣告されたが、3ヶ月もたたずに「8・15特赦」で赦免・復権された。
 金がなければ罪があり、金があれば罪がない世の中。そういう資本からしてみれば、貴族労働者であれ、中小企業の労働者であれ、非正規職労働者であれ、みな彼らが支配すべき対象である「労働者」に過ぎない。
 だから「非正規職闘争」というのは、非正規職の労働条件を改善することだけを言うのではなく、非正規職を正規職化することだけに限られるわけではない。非正規職を作りだしたこの社会を作り直すことこそ真の「非正規職闘争」だ。この闘いをとおして共同で残さなければならないのは「労働者の階級性」だ。
 非正規職は、単純に2008年にイミョンバク政府が経済政策を誤ったからとか、韓国経済が生き残るための一時的な措置などではない。非正規職という存在は、この社会が経済・政治・イデオロギー的な側面で間違った方向に進んでいる資本主義の現実を克服するものとして打ち出された、資本のための核心的な方針だ。

 資本主義、それ自体の問題

 非正規職法によって非正規職が増えたのは明らかだが、より重要なことは、今の非正規職法は労働者の雇用形態全般を変えてしまうものだという点だ。今ある期間制労働者をもっと長く使い、請負労働者や派遣労働者に変えることも資本が望むことだろうが、正規職を含めた全ての労働者を、期間制に、請負に、派遣に変えるこそ、非正規職法をつくった資本の大目的だ。非正規職の雇用条件や賃金、福祉をちょっと手直ししてやるから、非正規職は存在せざるを得ないということを認めろということだ。だからご丁寧に「差別是正」という言葉も入っている。
 非正規職が存在するのはやむを得ないと考えてしまったら、非正規職の処遇改善に関心が向かうほかない。資本の利潤獲得を当然のものとして認めてしまったら、結局労働者に対する最少費用という考え方を認めざるを得なくなる。そうなってしまったら、「労働者と資本」の対立性はなくなり、「労働と労働」内部の違いに目が行ってしまうのだ。
 非正規法が狙う対象は正規職だ。正規職を非正規職にするために地ならし作業をしているに過ぎない。

 この間、非正規職内でも階層化が進められている。直接雇用労働者―間接雇用労働者、男性―女性、国内労働者―移住労働者…。そして正規職―非正規職につながる。
 こうした労働者内での階層化は、労働者の団結を弱める要因となり、非正規職問題の解決は一層遠のく。
 だからこそ、非正規職を作りだした原因が何かを突き止め、解決しなければならない。非正規職問題のゴールは「正規職化」ではなく、構造調整を粉砕し、資本主義を変えることであり、自由主義反対闘争の主体をつくることである。

 今、非正規悪法は通過したが、われわれはこれを認めないという考えから出発しなければならない。
 正規職と非正規職の共同闘争をつくらなければならない。労働内部の差別をつくりだす資本に対し、ともに闘うために努力くしなければならない。
 正規職に注がれる非難の矛先をかわそうと、正規職の賃上げを自制して非正規職の福祉を充実させることを提案するのはやめよう。非難の矛先をさえぎる盾など必要ないということではなく、この戦争を終わらせるためには、盾の一つや二つで矛先を防いでいるだけではだめだということだ。
 大企業労働者が、連帯という名で基金を出し、その基金で非正規職を援助するようなことはやめよう。正規職の賃金を減らして非正規職の雇用を維持し、大企業労働者の基金で非正規職の条件を変えることは、非正規職問題の原因を見えなくしてしまう。
 果てしなき利潤を追求し、労働者を、人ではなく費用としてのみ扱う資本とこの世の中に向かって闘いを挑まなければならない。それこそが非正規職問題を解決する道であり、資本主義の問題を克服する道だ。

『熊たちの434日/終わらないニューコア労働者の闘い』はじめに

2009年09月09日 18時30分25秒 | ニューコア・イーランド闘争
『熊たちの434日/終わらないニューコア労働者の闘い』

クォンミジョン編著
2008年11月11日
図書出版メーデー

クォンミジョン
民主労総京畿道本部副本部長を歴任
現在、金属労組組合員として非正規職、変革的運動に取り組む


はじめに

 本を書かなければと考え、企画書を書き、周辺の人たちに必要なことを依頼した。

 この本を書かねばと思ったのは、400日を超えて頑張っているニューコア労働組合の同志たちの闘いの持つ意味が充分に明らかになっていないと思ったからだ。

 会社が不渡りを出してから作られた労働組合だった。
 主なき会社として裁判所が管理するときも闘いを放棄しなかった彼/彼女たちだった。イーランドグループに買収される時、3者合意を引き出し、その後、買収合併に苦しむ労組がたずねてきて、参考にした労組だった。
 不渡りを出した会社、裁判所の統制、新たな会社に立ち向かった労働者たちだった。
 えげつないと噂される資本であるイーランドグループに対し、自信があった彼らだったが、一年一年、闘争は必ずしも容易ではなかった。
 それでも1200名の組合員は、自分たちの労働組合を信じ、共に闘った。労働組合は、民主労組の原則を守るため苦悩し闘った。
 正規職を維持するだけでなく、非正規職を構造的に減らし、なくすために計画を立て、努力すべきことを認めた。そしてその闘争を正規職―非正規職が共に担うことができなければ、双方共に生き残ることはできないことを知った。容易な闘いではないことはわかっていたが、取りかかっていった。
 会社から追い出されないために賃金体系の変更を認め、自分の雇用を守るために自分の隣を非正規職で埋める――そいういうことはしないという考え方だった。
 非正規職闘争の象徴と言われた「ニューコア労組の闘争」には、主体として正規職がいたということが重要だ。さらに、正規職労働組合が意識的に決意し準備してつくった闘いだということが重要だ。
 そしてそれは、非正規職のための代理闘争ではなく、正規職の懸案問題と非正規職の問題が結びつけられた「構造調整阻止」の闘いだった。

 よく、正規職が非正規職を盾にしている現実をなくさなければならないと言う。そうした現実は、正規職労働者が非正規職の苦痛、困難さ、現実、会社の意図を知らないから起るのではないと考える。
 非正規職に対する正規職の態度は、一方では資本と政府が意識的に要求する「非正規職は存在せざるを得ない存在」ということを無意識に受け入れている側面がある。だから、非正規職で雇用を調整するのはかわいそうだが、仕方のないことだと考えている。
 そしてもう一方では、正規職も非正規職のように、資本が必要とするとき、いつでも切られる「死の隊列」にいるということをよく知っている。構造調整という死の隊列から抜け出せないのなら、死の順番だけでも変えたいのだ。だから資本が掲げる死の順番において、自分の番を先送りすることを望むのだ。
 こうした現実があるから、非正規職の闘いは正規職が共に担わなければならない。
 それをニューコア労働者はやった。構造調整阻止を掲げて正規職―非正規職が共に立ち上がった。しかたのない存在としての非正規職ではなく、自らの権利をつかみとるために闘うべき義務を持つ非正規職として。
 死の行列に合流する正規職ではなく、死の行列を拒否し、そこから飛び出すべき正規職として。

 ところで、ニューコア―イーランド闘争が闘われる間、ニューコア労働者の構造調整阻止という要求も、主体として正規職と非正規職が共に担う闘争だという意味も、きちんと語られなかった。
 月給80万ウォンの非正規職が、その雇用を守るために壮絶に闘う闘争としてのみ語られた。
 ともすると、非正規職に対する人間としての、胸の痛む、同情心が誘発される闘いとしてのみ映し出されかねなかった。
 私が本を書かなければと思った理由の一つがこれだ。
 ニューコア労働者の闘いは、正規職と非正規職がともに闘った構造調整阻止闘争だということだ。

 2006年11月、非正規職法が制定され、一方では、改悪されてから、多くの変化があった。大部分の企業は様子をうかがい、どうするのがよいかを考えていた。社会的に既に、非正規職は正しいものではないという雰囲気があったからだ。そうした状況でつくられた非正規職法は、社会的認識を変えるための政府の努力(?)が生んだ結果でもあった。
 その中で、直接雇用していた非正規職を、雇用条件はそのままに契約書の期間についての前提だけを変えるやり方で「正規職と同様の、永遠な非正規職」に転換し、社会的称賛を受ける企業もあった。もっと悪い奴に比べれば、相対的にましな会社だという背筋の凍る声も聞かれた。
 だが、多くの事業場は、非正規職法をうまく活用せよという経総〔韓国経営者総協会〕の指針どおり、直接雇用していた非正規職を追い出したり、必要に応じて契約職―派遣職―請負職に変えて使いたがった。非社会的な方法で非正規職を都合のいいようにとっかえひっかえ使っていた企業に対し、政府が「非正規職保護法」という名で合法性を保障してやったからだ。
 そうした多くの企業のうち、真っ先に大々的に乗り出したのがイーランドグループだった。

 「法を守らなければならない。心は痛むが、悪法であっても守らねばならず、われわれは非正規職を切らなければならない」というのがニューコア側担当者の言葉だった。

 こうしてニューコア―イーランド闘争に火がついた。
 もし非正規職法がそのときつくられていなかったら、ニューコア労働者が闘うことはなかっただろうか。
 量販店に勤める多くの非正規職は、自らの位置に満足し、その後も黙々と働き続けていただろうか。
 そうした面で、非正規職法はニューコア―イーランド闘争のきっかけとなったに過ぎず、非正規職闘争の根本的な理由ではなかった。
 ニューコアだけでなく他の企業でも、もし2006年11月末につくられた非正規職法がなければ、非正規職闘争が今後もなかったと言い切れるか。
 非正規職法が、これまで闘われ、今後も闘われる非正規闘争の根本的原因ではないというのが私の考えだ。
 であるならば、非正規職はなぜ労組に参加し、労組を結成し、闘いに立ち上がるのか。なぜ多くの労働者が非正規職撤廃を叫び、闘い、連帯するのか。
 「彼/彼女らが追い出される根本的な理由は何か」を明らかにしたいというのが、この本を書く二つ目の理由だ。
 
 二つの理由をもって、ニューコア労働者の闘いが始まった地点を記録したかった。

 ところが、本を書き始めた頃、ニューコア労組の闘いに決着がついたという知らせを聞いた。交渉が続けられているので、合意の可能性がある状況だったが、結論として出された合意内容は、満足できるものではなかった。
 そのときから、正直言って、この本を書くべきか悩んだ。
 企画書を回しておきながら、一時期文章が書けなかった。

 ニューコア労働者の闘いは、非正規職闘争の象徴だと言われたが、どのような意味で象徴なのかをはっきりさせなくてはならないと考えた。ニューコア労働者の闘いが持つ意味が、闘争結果によって損なわれてはならないと考えた。
 労資間の対立と闘争において、最終結果は力の大きさで決まる。
 その力は、労働者と資本家をめぐる社会的雰囲気や当事者たちの意志、条件によって異なるだろう。闘争の過程や闘争戦術に対する評価、そこから闘争結果に対する評価まで導き出すことは必要だが、そうした評価ができなかいからといって、闘いの意味を明らかにすることも必要ないとは思わない。ただ、明らかにできるのは、半分の内容だけだという限界はある。
 だから、ニューコア労働者の闘いに対する評価は必要だが、当初この本を書こうとした私の考えとは少しずれてしまうので、別の機会に書くべきだというのが、考え抜いた末の私の結論だ。

 この本は、ニューコア労働者がなぜ闘いを始めようと決心するに至ったのか、周辺の条件はいかなるものだったか、非正規闘争の原初的理由は何であるかを中心に書くという当初の考えどおりに書いた。

 最後に、この本をとおしてニューコア労働者の闘いの意味を再確認するのは、闘いの結果を覆い隠そうとするものではないことを前提としてはっきりさせたい。闘争の結果と切り離して、闘争の準備と意味を明らかにしたいということだ。闘争の結果を生んだ多くの原因と条件は、別途明らかにする場が必要だと考える。
 また、そうした過程は、誰よりもニューコア労働組合が自ら始めるべきだと思う。それが、この長い社会的闘いを始めたニューコア労働組合の闘いが決着する過程であろう。

 希望の種をまきながら希望の実を摘むことができなかった闘いも、それ自体として意味を持つ。
 この本を読む全ての皆さんに、勝てなかった闘いも、それ自体に意味があるということをわかっていただければと思う。
 今後、他の多くの職場で、正規職と非正規職が共同の要求を掲げて共に闘う姿を目にすることができるよう期待する。

2008年10月
クォンミジョン