●室町時代(後醍醐天皇)
Disturbance of Nakasendai; Ashikaga Takauji turns against Emperor Godaigo.
勇(いさ)みこの時 仲たがい。
1335年 北条時行 中先代の乱
1335年、北条高時の子時行は鎌倉幕府の再興をはかって挙兵したが、足利尊氏に鎮定された。独断で兵を率いた尊氏は乱の鎮定後も帰京命令を無視。後醍醐天皇との対立は決定的なものとなり、尊氏の弟直義は幽閉されていた護良親王を暗殺。この乱は高時の先代、尊氏の後代に対して中先代の乱とよばれる。
〈2012明大・法:「
B.1335(建武2)年、(c)北条高時の子時行らが反乱をおこして鎌倉を占拠すると、足利尊氏は、その討伐のため関東に下り、その後、新政権に反旗をひるがえした。1336(建武3)年、京都を制圧した尊氏は、後醍醐天皇を幽閉して持明院統の光明天皇を擁立し、幕府再興の方針を明らかにした(d)建武式目を定めた。しかし、後醍醐天皇は、吉野へ脱出し、正統の皇位にあることを主張した。ここに吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)とが対立して争うことになり、以後約60年にわたる全国的な南北朝の動乱がはじまった。
問3.下線部(c)の反乱を何というか。
問4.下線部(d)に関連して、室町幕府の法令も、建武年間以後の追加という意味で建武以来追加とよばれたが、これは[ ア ]が室町幕府のもとでも基本法典としての生命をもっていたことを示している。空欄(ア)に該当する語句を記しなさい。
問5.建武式目には、「遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ、近くは[ イ ]父子の行状を以て、近代の師となす」と書かれており、鎌倉幕府の政治を継承する意志をあらわしている。空欄イに該当する父子のうち、父親の人名を記しなさい。
(答:問3中先代の乱、問4貞永式目、問5北条義時)〉
宮将軍の末路(上) 武士以上の豪傑「大塔宮」、父・後醍醐帝に逮捕された〝絶望〟…「鎌倉」後、「尊氏」との壮絶権力闘争の行方は
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による親政が始まった建武元(1334)年の6月、天皇の皇子で征夷大将軍、大塔宮(おおとうのみや)護良(もりよし)親王が、武士の束ね役となる鎮守府将軍、足利尊氏の屋敷を襲撃しようとする騒動が持ち上がる。親王邸に続々と集まる兵たち。対する屋敷を厳重に守る尊氏側。互いの動きがあわただしくなってくるなど、早くも分裂の危機を迎える。そんな中、天皇は親王を逮捕するという思い切った行動に出る。
宮将軍vs武家の棟梁
6月7日、現在の京都市中京区の高倉御池交差点周辺にあったとされる足利尊氏の屋敷のまわりは立錐(りっすい)の余地がないほどに多くの兵で守られていた。特に、二条大路は尊氏側の兵で埋め尽くされ、渋滞を起こすほどだったという。
規模の違いこそあれ、今の京都御所の位置とほぼ変わらない当時の土御門(つちみかど)御所。親王の邸宅も御所の近くにあったとみられ、親王邸の真南のわりと近いところに尊氏は居を構えていたことになる。
この結果、尊氏の屋敷の北辺にあたる二条大路は、兵を集中せざるを得ない状況だったのだ。
護良親王は三千院に入ったのち天台座主にも就いたが、文武に優れていたらしく、父・後醍醐天皇が倒幕運動を起こすと、これに参加する。
今回の親王の呼びかけに対しては、親王と行動をともにしていた河内の武将、楠木正成の弟、正季(まさすえ)ら有力な武将が応じた。このことから両者の兵力は拮抗(きっこう)していたとみられ、いつ衝突してもおかしくない状態になっていた。
征夷大将軍vs武家の棟梁(とうりょう)という、いずれも総司令官の性格を持つ二大軍事勢力の対立。両者が全面衝突すれば京は再び焼け野原になるのは間違いなく、都の人たちは戦々恐々とするありさまだった。
都を火の海にしてはならない
倒幕の功績で天皇の絶大な信頼を得た尊氏が源頼朝の例にならい征夷大将軍になるとみられていたが、代わりに親王が就任する。
この背景については、尊氏が朝廷と距離を置きたかったという説がある一方、尊氏を警戒して信貴山に籠る親王が京都に戻る条件としてこの官職を要求したためともいわれている。
では、どうして親王はそこまで尊氏を嫌うのか。
まず源氏一族で、武家として最高の家柄を持つ尊氏は政権を必ず裏切るとみていた。
さらに皇太子になりたい親王は、親王の母が亡くなって以後、天皇夫人の座に収まり、わが子・恒良親王を皇太子につけた阿野廉子(やすこ)と敵対関係にあり、尊氏が廉子と手を結ぶことを警戒していたのだという。
このため、天皇が要求を受け入れたことで都に戻った親王だったが、征夷大将軍就任後も腕利きを集めては尊氏を襲わせるなど尊氏の暗殺に執念を燃やす。
これに続き起こった今回の騒動だったが、「都を火の海にしてはならない」と正成が仲裁に入ったことで正季ら有力武将が親王のもとから姿を消し、ここに勝ち目のなくなった親王は兵を引く。
雪の日に
正成の仲裁で騒動は一応の終結をみるも、「政権を混乱させた」として後醍醐天皇は、今回の騒動の種ともなった親王から征夷大将軍の職を剥奪する。
そして10月22日に逮捕劇は起こる。雪の舞う寒い日だったという。
御所で宴(うたげ)を催すということで呼ばれた親王だったが、御所に入ると待っていたのは、名和長年や結城親光を中心とする多数の武士集団だった。
異様な雰囲気に危機を感じ、すぐに反転して逃げようとするも、一瞬にして取り囲まれた親王は「これは何事ぞ!!」と名和らを一喝する。
それでも、ひるむ様子のない名和は「おいっ、宮に縄をおかけしろ」と兵に命令する。武勇でならした宮将軍も襲いかかってくる兵に抵抗を試みるが、「これは帝(みかど)のご命令ですぞ!!」という名和のひと言で、親王の動きがピタリと止まってしまった。
自分より尊氏を選んだことが相当にショックだったのだろう。なすがままに縛られた親王は親王派の反撃もあるため、足利邸に拘束され、鎌倉へ送られることになった。
御所では「足利なら護良をむげには扱わないだろう…」と空を見上げる後醍醐天皇。逮捕時に降り始めた雪は、すでに都を白一色に染め上げていた。
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