
▲煬帝
●古墳時代
Ono no Imoko is appointed leader of the second embassy to Sui China.
群(む)れ成し妹子 行くよ隋。
607年 小野妹子 煬帝 遣隋使
倭の五王時代以降、大和政権は中国との交渉を行わなかったが、東アジアの情勢が大きく変化したのにともない、隋と国交をひらくことになった。607年、聖徳太子は小野妹子を遣隋使として中国に派遣。隋の煬帝はこれに対し、翌年、国使裴世清をつかわした。隋との交渉では、倭の五王時代とは異なり、中国の王朝に対して対等の立場を主張しようとする態度が認められる。
つぎの史料を読み、問1~7に正確な漢字で答えなさい。
A.大業三年、其の王、(a)多利思比孤、(b)使を遣はして朝貢す。(中略)其の国書に曰く、「日出づる処の天予、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と。(c)帝、之を覧て悦ばず。(後略)(原漢文)
問1.下線部(a)の多利思比孤とは、この史料から判断して誰と考えられますか。
問2.下線部(b)の朝貢に対する答礼使として派遣されたのは誰ですか。
問4下線部(c)の帝とは誰ですか。
[解答]
問1.推古天皇
問2.裴世清
問4.煬帝
解説 裴世清は608年に来日した。
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