805(延暦24)年 桓武天皇、藤原緒嗣の議で征夷と造営を停止。
天皇は晩年(805年)、徳政相論により軍事(東北遠征)と造作(造都などの大土木工事)に中止の断を下した。
覇を好むとぞ 緒嗣指揮。
805年 徳政相論 造作 藤原緒嗣 軍事 式家
延暦24年(805年)、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。
In 805, the expedition was cancelled by Emperor Kanmu, who accepted FUJIWARA no Otsugu's argument
that military expeditions and the construction work for the new capital were placing an intolerable burden
on the people (Great Political Debate).
徳政論争(805)は、東北地方での蝦夷討伐軍事と平安京造営などの造作という桓武天皇時代の二大政策をめぐる論争。二大政策の継続を主張する菅野真道に対し、藤原緒嗣(藤原百川の子、式家)は「天下の民が苦しむ元凶は軍事と造作」と主張。桓武天皇は緒嗣の議を採用、ついに二大事業を打ち切ることにした。桓武天皇は翌年亡くなる。
〈2018立命館大・全(文系)2月3日
(h)下線部⑤徳政相論について、二大政策の継続を強く主張した人物は誰か。もっとも適切な人名を答えよ。
(答:h菅野真道)
長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した。(「徳政論争」)、桓武天皇は翌年に崩御した。
Mamichi who was old, had served the emperor for years, and had been exceptionally promoted from a
rank of low-ranked scholar made the best effort to object to Otsugu considering the emperor's intention, however, the emperor finally accepted Otsugu's assertion, announced the discontinuation of the
subjugation of Ezo and the construction of Heiankyo which should be the lifework of the emperor ('Tokusei
Dispute') and died in the next year.
〈2018関西学院大・文2/3
問2.次の文a・bの文を読み、正誤を正せ。
a.桓武天皇の子である早良親王は、藤原緒嗣暗殺事件の首謀者とされ、みずから絶食して死亡した。そのため死後は怨霊として恐れられた。
b.政治的敗者を慰める行事としての御霊会は、やがて疫神を祀る祭礼としての性格を強めた。いまでも京都の祇園祭にはそれらの名残がみられる。
(答:a×藤原緒嗣→藤原種継、b〇)
〈2017早大・教育
問6 下線部c桓武天皇について述べた文として、正しいものはどれか。
ア 藤原種継が暗殺されたことから、長岡京に遷都した。
イ 徳政相論において、菅野真道の意見を採用した。
ウ 『延喜式』を編纂させた。
エ 父は光仁天皇、母は渡来系氏族出身の高野新笠である。
オ 空海に教王護国寺を与えた。
(答:エ〇 ※ア×長岡京→平安京、イ×菅野真道→藤原緒嗣、ウ×醍醐天皇の命により、オ×嵯峨天皇により)
〈2017近畿大・全1/29
問5.下線部(e)桓武天皇の「軍事と造作」についての文として誤りを含んでいるものはどれか。次の①~④のうち一つをマークせよ。
① 軍事とは蝦夷との戦争、造作とは都の造営のことである。
② 長岡京に遷都してから10年後に、平安京への遷都がおこなわれた。
③ 征夷大将軍として坂上田村麻呂が派遣され、伊治呰麻呂を降伏させた。
④ 藤原緒嗣と菅野真道による徳政論争を経て、両事業の停止が決定された。
(答:③× ※伊治呰麻呂→阿弖流為)
780(宝亀11)年 陸奥の蝦夷伊治呰麻呂、反して多賀城を焼く(宝亀の乱)。
納屋を焼いたが これは痣。
780年 多賀城消失 光仁天皇 伊治呰麻呂
780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降蝦夷征討といわれる果てしない戦いへと突入する。
In 780, KOREHARI no Azamaro killed KI no Hirozumi, the Mutsu no Azechi (Inspector of Mutsu), and burnt
down Taga-jo Castle, spurring endless war thereafter known as Ezo Seito ("The Ezo Conquest").
〈2016立命館大・全学部2/4
問e 下線部4渡来系氏族を含め有能な官吏の登用を進めてに関連して、渡来系氏族の出身で桓武天皇に登用され、平安京の造営と征夷事業の継続をめぐり、藤原緒嗣と徳政論争を展開した人物は誰か。もっとも適当な人名を答えよ。
(答:菅野真道)
菅野真道:百済系渡来氏族で、百済第14代の王である貴須王(近仇首王)の子孫
〈2016早大・法
造都と共に推し進められたのが、晩年の桓武は、蝦夷征討と平安京造営の二大政策の是非に関する論争である徳政相論を裁定し、[ B ]の意見を入れて二大政策を打ち切った。
(答:藤原緒嗣)
〈2015慶大・法
次の本文を読み、空欄[1516]~[1718]に入る最も適切な語句を語群より選べ。本文および設問の文中にある空欄[X]、[Y]および[Z]は、問題作成上あえて伏せ字にしたものである。引用した史料の原文は、適宜改めてある。
在任中、[X]は、律令制の緩みを正すために、官僚機構の再編成や社会的実情に見合った制度の合理化、民衆の負担軽減に資する政策を行った。しかし、蝦夷征討と平安京造営を二大事業として推し進めたために、結果として国家財政は窮乏し、民衆は疲弊した。政治のあり方を見直すために、[X]は信任が厚い[1516]と[1718]を呼んで議論させた。このときの様子は次の史料に見ることができる。この史料では、空欄[ア]に当たる人物が[1516]であり、空欄[イ]に当たる人物が[1718]である。
(延暦24年12月)壬寅、……時に[ア]議して云う。方今天下の苦む所は、軍事と造作となり。此の両事を停むれば百姓安んぜむ。[イ]異議を確執し、聴くことを肯んぜず。帝、[ア]の議を善しとす。即ち停廃に従う。有識之を聞きて、感歎せざる莫し。 (『[Z]』)
これにより征夷と造都はいったん打ち切られることとなるが、律令国家の支配力拡大に腐心した[X]の治績は、「文華を好まずして、遠く威徳を照す。宸極に登りてより、心を政治に励し、内には興作を事とし、外には夷秋を攘つ。当年の費と雖も、後世頼とす」(『[Z]』大同元年4月庚子条)と評された。」
(答:1516藤原緒嗣、1718菅野真道、なおX桓武天皇、Y藤原種継、Z日本後紀)〉
〈2014日本女子大・人間社会
問1 下線部1軍事と造作のため、国家財政は窮乏し、農民の疲弊が進んだ。下線部1にあてはまる組み合わせとして最も適当なものを、下記のa~eの中から一つ選べ。
a 薬子の変と平城京造営
b 藤原広嗣の乱と国分寺建立
c 隼人征肘と遣唐使船の建造
d 伊治呰麻呂の乱と大仏造立
e 蝦夷征討と平安京造営
(答:e)
〈2013早大・文化構想
[Ⅰ]「805年には、勅によって、藤原緒嗣と菅野真道との間で天下の徳政をめぐる相論がおこなわれ、その結果、b軍事と造作が中止された。」
問2 下線bに関する説明として正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 軍事とは対隼人戦争のことである。
イ 造作とは長岡京造営のことである。
ウ 軍事とは対新羅戦争のことである。
エ 造作とは平安京造営のことである。
オ 軍事と造作とは、架空の課題として設定されたものである。」
(答:エ)
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