Bカールの戴冠
- 800年 a ローマ教皇 のb レオ3世 が、c カール大帝 にd ローマ皇帝 の帝冠を与える。
= 「e 西ローマ帝国 」の復活を宣言する意味を持っていた。 - 背景 f 聖像崇拝問題でビザンツ皇帝と対立していたローマ=カトリック教会が政治的保護者を求めた。
- 歴史的意義 政治上 g 西ヨーロッパ世界を安定させ、ビザンツ帝国に対抗する政治勢力が成立した。
文化上 h 古典古代・キリスト教・ゲルマン人からなるヨーロッパ文化圏が成立した。
宗教上 i ローマ教会がビザンツ皇帝から独立し、西ヨーロッパでの権威を確立した。
解説
ローマ教会側には、聖像禁止令以来のコンスタンティノープル教会(東方教会)との対立があり、かつてのローマ帝国のような保護者が必要であった。フランク王国のカールは、ローマ皇帝即位がビザンツ帝国(正式にはその皇帝はいまだに「ローマ皇帝」と称している)を刺激することを恐れて躊躇したが、西ヨーロッパに覇権を確立するために同意した。ビザンツ帝国は当初は強く反発したが、812年にそれを認めた。
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Cキリスト教世界の分離 11世紀中ごろ、東西教会の分離対立が決定的になる。
- 1054年 ローマ教皇がコンスタンティノープル教会総主教に破門状を送る。
- ローマ=カトリック教会 a ローマ教皇 を首長とする。ギリシア語でb 普遍的 という意味。
- コンスタンティノープル教会 c ビザンツ皇帝 を首長とする(皇帝教皇主義)。=d ギリシア正教会
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- 地中海世界の分裂
e 西ヨーロッパ世界 :宗教面ではローマ=カトリック教会、政治的にはフランク王国が支配する世界。
f 東ヨーロッパ世界 :宗教面のギリシア正教会と政治面でのビザンツ帝国が一体となった世界。
g イスラーム世界 :イベリア半島、イタリア南部、小アジア、北アフリカをイスラーム勢力が支配。
用語リストへカ.分裂するフランク王国
■ポイント フランク王国が分裂し、現在のドイツ、フランス、イタリアの起源となったことを理解する。
Aフランク王国の分裂 フランク王国では、ゲルマン社会の伝統的な固有法である分割相続法が続いていた。
- a カール大帝 の死(814年)の後、次の2段階を経て、三つに分かれる。
- 843年 b ヴェルダン条約 ルートヴィヒ1世の死に伴いフランク王国を三分割。
┌ ルートヴィヒ c 東フランク → d ドイツ の起源。
│
→ ┼ シャルル e 西フランク → f フランス の起源。
│
└ ロタール g 中部フランク → h イタリア の起源。
│
→ ┼ シャルル e 西フランク → f フランス の起源。
│
└ ロタール g 中部フランク → h イタリア の起源。
- 870年 i メルセン条約 ロタールの死後、中部フランクの北部を東西フランクで分割。
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- フランス、ドイツ、イタリアの起源 地図 左b ヴェルダン条約 右i メルセン条約


A 西フランク王国 B 東フランク王国 C 中部フランク D ローマ教皇領
a アーヘン b パリ c ヴェルダン d メルセン e ラヴェンナ f ローマ
Text p.127
B東フランク王国 10世紀初めカロリング朝が断絶後、a ドイツ王国 となる。
- 10世紀中ごろ、ザクセン朝のb オットー1世 の時、強大となる。
955年 c マジャール人 (アジア系ウラル語族)の侵入を撃退(レヒフェルトの戦い)。さらにスラブ人を撃退。
962年 北イタリアを制圧し、ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠をうける。= d オットーの戴冠
=e 神聖ローマ帝国 の起源となる。その後、f ドイツ王 が神聖ローマ皇帝を兼ねることとなる。 - g イタリア政策 =h 神聖ローマ帝国皇帝がアルプスを越え、イタリア(ローマ)への進出をはかる政策。
- 中世のドイツ:i 神聖ローマ皇帝のイタリア政策によってドイツ支配がおろそかになり国内の不統一が続いた。
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C西フランク 10世紀末、カロリング朝の王朝断絶。
- パリ伯a ユーグ=カペー がb カペー朝 を開く。これ以降をフランスと言うことが多い。
- 中世のフランス:c 王権は弱く、その及ぶ範囲はパリの周辺に限られ、各地には大諸侯が分立していた。
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D中部フランク 9世紀末、カロリング朝断絶 → 神聖ローマ帝国の介入、イスラームの侵入で混乱。
- イタリア中部 a ローマ はカトリックのb 教皇庁 の所在地であるが宗教都市という性格に変わった。
- 北イタリア ジェノヴァ、ヴェネツィアなどの都市が成長(後出)。南イタリア イスラーム勢力が侵攻。
- 中世のイタリア:c 中世を通じ、統一されることは無かった。北イタリアに多くの都市国家が成立した。
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用語リストへキ.外部勢力の侵入とヨーロッパ世界
■ポイント ノルマン人の民族移動にともなう、イギリスとロシアの国家形成を理解する。
1.ノルマン人の移動 8~12世紀 第2次民族移動ともいわれる。
Text p.128
Aノルマン人 の移動 インド=ヨーロッパ語系ゲルマン人の一派。
- 原住地はa スカンディナヴィア 半島、b ユトランド 半島の周辺。
8世紀後半からヨーロッパ各地に海上遠征し、交易や海賊行為を行う。c ヴァイキング と言われる。
→ 細長く底の浅い船で川をさかのぼり内陸部にも侵入するようになる。
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Bノルマンディー公国 の成立。
- 10世紀始め、a ロロ に率いられ、北フランスに進出。
911年 フランス王よりノルマンディー公に封じられB ノルマンディー公国 となる。
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C両シチリア王国 の成立。
- 1130年 ノルマンディー公国のノルマン人、a ルッジェーロ に率いられ地中海に進出。
→ イスラーム教徒を破り、南イタリアとシチリア島を支配し、C 両シチリア王国 を建国。
→ 南イタリアには、b ビザンツ文化、イスラーム文化、ノルマン人の文化が共存する こととなる。
解説
1130年にノルマン人のルッジェーロがイスラーム勢力を排除してシチリア島と南イタリア(ナポリ地方)の両地域にまたがる国を建設した。この国を「両シチリア王国」といっているが、当初は単に「シチリア王国」と称していた。1320年にはナポリ王国とシチリア王国と分離し、1442年に再統合された際に正式に「両シチリア王国」と称した。しかし煩雑なので、一般には最初から「両シチリア王国」して説明されることが多い。1860年にイタリア王国に併合されて消滅するが、この地方は古代のローマ文化とその後のイスラーム文化、ノルマン人の文化、神聖ローマ帝国の支配を受けていた時代のドイツ文化などが重層的に混在しており、世界史的に興味深い地域である。
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2.イギリスの国家形成
Aイングランド王国 の成立。a 大ブリテン島 の中・南部を占める地域。
829年 ウェセックス王のb エグバート が、c アングロ=サクソン七王国 を統一。
→ d ノルマン人 の一派、e デーン人 の侵入に悩まされる。(ヴァイキング)
抜群えぐい七王国。
829年 エグバート イングランド 七王国
- 9世紀末 f アルフレッド大王 、ヴァイキングの侵入を撃退。
解説
イギリスという名称には注意を要する。現在の日本でイギリスと言っているのは、「大ブリテンおよび北アイルランド連合王国」のことであるが、ブリテン島は、南東部のイングランドと北部のスコットランド、西部のウェールズに大別される。イングランドはアングロ=サクソン七王国以来、ゲルマン系の国家が形成され、ノルマン朝以降に有力となって、スコットランド、ウェールズを統合していくが、本来はスコットランド・ウェールズはケルト系の別の国家だった。1707年にイングランドを中心に「大ブリテン国」が成立してからが厳密にはイギリス(イングリッシュが転訛した日本語)と言うべきであるが、便宜上、それ以前のイングランドの歴史を述べる際もイギリスが使われている。
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Bデーン朝 の支配。
- 1016年 デーン人のa クヌート王 、イングランドを征服。
→ デンマーク、ノルウェーも支配。北海周辺の海上帝国として繁栄。 - 1042年 イングランドでアングロ=サクソン王朝が復活。
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Cノルマン=コンクェスト 。
- 1066年 a ノルマンディー公ウィリアム が王位継承を主張してイングランドを征服。
=b ヘースティングズの戦い イングランドのハロルド王の軍を破る。
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- c ウィリアム1世 として即位、d ノルマン朝 が成立。

b ヘースティングズの戦い 。左側の騎馬軍がノルマン軍、右側の徒歩部隊がイングランド軍。
Text p.129
3.ロシアの国家形成
Aノヴゴロド国 の建国。
- 9世紀 ノルマン人の一派がa スラブ人 の居住地域への進出が始まる。
- 862年 b リューリク の率いるノルマン人がドニェプル川流域に進出。彼らはc ルーシ と言われる。
→ d ノヴゴロド国 を建国。 = d ロシア国家の起源 とされる。
→ バルト海方面とドニェプル川を通じるルートで、 毛皮 ・蜜蝋・琥珀などの交易に従事。
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Bキエフ公国 への発展。
- 9世紀 リューリクの一族のオレーグがドニェプル川中流のa キエフ を都として建国する。
現在のウクライナ一帯を支配。9世紀末にはノヴゴロド国も併合。 - 10世紀 ノルマン人とスラブ人の同化が進み、封建社会を形成させる。
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- ビザンツ帝国からb ギリシア正教 が伝わり、次第にビザンツ文化の影響が強まる。(後出)
4.その他のノルマン人の活動
A北アメリカ大陸への到達 。
- ノルマン人の一部、a 大西洋 を横断、アイスランドからグリーンランドと北アメリカ大陸に到達した。
=b 最初のヨーロッパ人の北アメリカへの上陸 。→ 定着することなく絶滅したと考えられている。
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B北欧諸国 9~10世紀。
- ノルマン人、原住地に三国を建国。
- a デンマーク : デーン人がユトランド半島に建国。北海沿岸でヴァイキング活動。
11世紀 b クヌート王 がイングランド、スウェーデンなども支配。 - c スウェーデン : スカンディナヴィア半島東部に建国。
- d ノルウェー : スカンディナヴィア半島西部に建国。
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- 北欧諸国がe キリスト教化 すると共に、ノルマン人の移動も終わる。
地図 ノルマン人の移動と建国
A ノルマンディー公国 B 両シチリア王国 C イングランド王国(ノルマン朝)
D ノヴゴロド国 E キエフ公国 F クヌート

A ノルマンディー公国 B 両シチリア王国 C イングランド王国(ノルマン朝)
D ノヴゴロド国 E キエフ公国 F クヌート
用語リストへク.封建社会の成立
■ポイント 近代社会の理解の前提として、中世の基本的な社会制度であった封建制度を理解する。
A封建社会 西ヨーロッパ中世世界に特有な社会。
- 民族移動後の混乱とイスラームの地中海支配による西ヨーロッパ社会の変化
= a 商業と都市が衰退し、農業経済に依存するようになった。
→ 自給自足の農業経済に移行し、貨幣にかわり土地と現物(生産物)の価値が高まる。 - 外敵の侵入:b イスラーム 、c マジャール人 、d ヴァイキング などの侵攻が繰り返される。
→ 有力な土地所有者は生命と財産を守るため武装し、弱者はその保護を受けることとなる。
Text p.130
B封建的主従関係 10世紀 フランク王国分裂後に西ヨーロッパで一般化する。。
- 意味:a 領主間に成立した、土地を仲立ちとする主従関係。
b 領主 = 皇帝、国王、諸侯(大貴族)、騎士(小貴族)・聖職者など農民から租税を徴収する権利を有する。 - 主従関係 =c 有力な大領主が、中小の領主を家臣として保護し、土地を仲介とする政治的な結びつき。
相互の義務:主君は家臣にd 封土(領地) を与えて保護する。(御恩)
家臣は主君に忠誠を誓い、e 軍事的奉仕(軍役) などの義務を負う。(奉公)
→ f 騎士 として主君に仕える。 - 特徴:g 双務的契約 であること。= 互いに義務を負う契約関係であること。関係は重層的である。
- 起源:先行する次の二つの制度が結びついたものと考えられている。
ローマのh 恩貸地制度 :有力者に土地を献じて保護下に入り、改めてその土地を与えられる制度。
ゲルマンのi 従士制度 :貴族や自由民の子弟が他の有力者に忠誠を誓いその従者となる制度。 - 中世の国家 :大領主が自立して地方分権的な権力を持ち、j 国王の権力(王権)は相対的に弱かった。
C荘園制度 農奴制を生産の基盤とした、封建領主の私的な土地領有制度。。
- a 領主 は互いに封建的主従関係を結び、それぞれの領地であるb 荘園 を経営する。
- 荘園の構成 ・領主のc 直営地 = 農民の賦役で耕作する。
・農民のd 保有地 = 農民が耕作し、地代(年貢)を領主に納める。
・農民のe 共同利用地 = 農民が共同使用する牧草地・森林など。 - 荘園の農民をf 農奴 という。= g 移動・職業選択・結婚・相続などの自由の認められない不自由人。
負担:領主直営地のh 賦役(労働地代) と保有地からのi 貢納(生産物地代) からなる。
その他、 結婚税 ・ 死亡税 や教会に対するj 十分の一税 なども負担(後出)。
Text p.131
前身:ローマ帝政末期のk コロヌス や没落したゲルマン人の自由農民の子孫と考えられる。 - 荘園の経済:農業生産、手工業生産も荘園内で行われる自給自足的なl 現物経済 が基本であった。
- m 不輸不入権(インムニテート) :領主は国王の役人の所領への立ち入りと課税を拒否する事を認められた。
→ さらに 領主裁判権 を行使して、領民に対して独立した支配を行う。

伊藤栄著『ヨーロッパの荘園制』近藤出版社 p.41 による
- 荘園の施設(右図)
① 領主館 ② 教会 ③ 鍛冶屋
④ 粉ひき場 ⑤ 農奴 の家
D農業生産力の向上 (後出)
- 封建社会の安定に伴い11世紀頃から農業技術改良進む。
- a 三圃制 が普及する。図はその例。
右図 A 秋耕地(冬畑) B 休耕地
C 春耕地(夏畑) D 共同牧草地
年ごとにABCを回していく。 - b 重量有輪犂 の普及。
右図のように耕地が細長い地条になっている。
農民は各耕地に散在する地条を保有した。
- 封建社会についてまとめ
1.現代の農民と農奴の違い a 移住や職業選択の自由がなく、不自由であった。
2.古代の奴隷と農奴の違い b 保有地を耕し、家族をもち、家畜・生産用具を所有できた。
3.封建社会の位置 c 古代の奴隷制社会から、中世の封建社会を経て、近代の資本主義社会へと移行する。
→ 古代中国のd 周王朝の「封建制度」 との違いに注意する。
解説
荘園(イギリスではマナー、ドイツではグルントヘルシャフト)は段階的に大きく二つの類型に区分できる。一つは古典荘園といわれるもので、ほぼ8,9世紀に現れ、荘園領主が大規模な領主直営地を経営して、主として農民の賦役労働で耕作させる形態である。この場合の農民(農奴)は1週間3日、1年間150日くらいの賦役を強制される。それに対して純粋荘園(地代荘園とも言う)は、12,13世紀に現れ、領主が直営地を放棄して農民に貸与し、賦役労働はなく生産物地代、あるいは貨幣地代を納めさせる形態である。古典荘園から純粋荘園への移行は、三圃制の普及などによる農業生産力の向上によって、農民(農奴)の自立が進んだ結果と考えられる。14世紀には貨幣経済の荘園への浸透が進み、貨幣地代が一般化すると、領主と農民の関係はますます希薄になっていった。 → 第3節 封建社会の衰退
用語リストへケ.教会の権威
■ポイント 精神面だけでなく政治的な権威と権力を持ち、経済的には封建領主であった教会の存在を理解する。
Aローマ=カトリック教会 の権威の確立。
- 聖職者のピラミッド型a 階層制組織 (ヒエラルキア)が形成される。
b ローマ教皇 ※を頂点としc 大司教 →d 司教 →e 司祭 およびf 修道院長 の序列が定まる。
※ローマ教皇庁を構成する枢機卿が選出する(コンクラーベ)。メディチ家などの有力氏族出身者が選ばれた。 - 教会のg 封建領主 化
教会への国王・貴族からの土地の寄進 → 高位聖職者自身がh 荘園 を所有する大領主となる。
→ 農民に対し、i 十分の一税 を課税し、教会法にもとづく独自の裁判権を行使する。
→ 大司教や修道院長など高位聖職者は、諸侯と並ぶ支配階級となる。
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B教会の腐敗・堕落 。
- 皇帝・国王など世俗権力が、俗人を聖職者に任命するなど、介入をするようになる。
→ a 聖職売買 (シモニー)やb 聖職者の妻帯 などの弊害が起こる。 - 教会改革の動き 910年 フランス中東部にc クリュニー修道院 設立される。
▲10世紀末、フランスなどでd 「神の平和」 運動がおこる。
= 貴族(領主)間の戦いや農民に対する暴力、略奪行為を教会の名の下に禁止する決議を行う。
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Bグレゴリウス改革 。
- 11世紀 a クリュニー修道院 を中心に、教会の腐敗堕落に対する粛正運動が始まる。
= b 厳格な戒律、労働と修養を重視し、聖職者の堕落を批判、攻撃した。 - 1073年 ローマ教皇c グレゴリウス7世 (a クリュニー修道院 出身)の改革が推し進められる。
= d 聖職売買・聖職者の妻帯禁止 など、聖職者の規律強化を図る。
▼
Text p.118
D叙任権闘争 11~12世紀初め

i カノッサの屈辱
- a グレゴリウス7世 、それまで世俗の権力である国王(君主)や封建領主(貴族)
に握られていたb 聖職叙任権 を教会に取り戻そうとはかる。
= 意味:c 司教・修道院長などの聖職者を任命する権利のこと。 - 神聖ローマ帝国皇帝d ハインリヒ4世 が反発し、ローマ教皇との対立始まる。
=D 叙任権闘争 :e 聖職者の任命権をめぐる教皇と皇帝の対立。
→ 皇帝が拒否したため、教皇が皇帝をf 破門 する。
→ ドイツ諸侯は、その解除がなければ皇帝を廃位すると決議。 - 1077年 g 「カノッサの屈辱」 :皇帝が雪の中、三日間立ち尽くし教皇に許しを乞う。
→ 皇帝は許されたが、教皇の権力強まる。
解説
ハインリヒ4世はアルプスを越え、トスカナのカノッサ城主マチルダのもとに滞在していたグレゴリウス7世を訪ねたが、面会を拒絶され、3日間素足で雪の中に立って許しを請い、ようやく許された。右上の図は、ハインリヒ4世(下)がカノッサ城主マチルダ(右)とクリュニー修道院長(左)に、教皇との面会の取りなしを懇願しているところ。
この事件はハインリヒ4世がグレゴリウス7世に破門されたところから、教皇権の確立を意味しているとされるが、その後ドイツ諸侯の支持を回復した皇帝ハインリヒ4世は教皇に反撃、1082年にはローマから追い出して自派の教皇を擁立すことに成功しており、教皇と皇帝の闘争はなおも続くこととなる。
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E十字軍運動 と教皇権の確立。
- 11世紀末、a ビザンツ皇帝 の要請を受けたローマ教皇b ウルバヌス2世 が
c 聖地回復 を国王・諸侯に呼びかける。1096年 第1回十字軍派遣。 - 1099年、聖地奪還に成功しイェルサレム王国を樹立。(後出) → ローマ教皇の権威が高まる。
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Fウォルムス協約 1122年 教皇と皇帝の妥協が成立。
= a 神聖ローマ皇帝は、ドイツ以外での教皇の聖職叙任権を認め、教皇の権威が確立した。
解説
ヴォルムス協約は皇帝ハインリヒ5世(4世の子)と教皇カリクストゥス2世との間で締結された。ポイントは次の点である。
・皇帝は、司教などの聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を放棄する。
・そのかわり、教会領を聖職者に授封する権利(授封権)は確保する。
・叙任と授封の順序は、ドイツの場合は国王によって授封されたものに対して、教会が叙任し、その他の地域では教会が叙任したものに対して国王が授封する。
わかりづらい取り決めであるが、要するに皇帝はドイツでは実質的な叙任権は確保したが、その他(当時両者で係争の地であったブルグンドとイタリア)では叙任権を放棄し、授封権だけを確保したと言うことになる。細かい解釈はさておいて、歴史的な意義は、神聖ローマ帝国の皇帝が、オットー1世以来の帝国教会政策を放棄し、聖職叙任権の大部分を失った、ということである。
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G教皇権の全盛期 13世紀 教皇 a インノケンティウス3世 の時代。
- 1209年 イギリス王b ジョン と争い、彼を破門し、封建的臣下とする。(後出)
- 強大な教皇権を示す言葉 = c 教皇は太陽、皇帝は月 と言った。
- 一方で、ローマ教皇権を否定するような宗派はd 異端 として厳しく弾圧された。
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- 13世紀に強大なローマ教皇権の下で、e 十字軍運動 が展開された。
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