T本さんの作品を批評した。と言っても、僕は批評というのがよく分からないから気になる点を指摘した。それは主に文体だ。
  僕が思うに、彼女の作品の致命的な欠点は、脚本的描写を自然と用いてしまうところにある。作品内容以前に、何故あの文体を用いるのかが不思議だ。多分、それは脚本を書いていきた癖なのだろうが、現状はその癖が足を引っ張っているように見える。脚本から小説にすることが彼女の課題となるだろう。徹底するにしても、たまに「だった」が用いられている点も尚更気になった。
  またこれはT本さんに限らないが、異性を描くのは難しいものだ。特に女性は男性を描くことが多いのかは知らないが、男性が女性を描くよりも難しそうに見える。それは女性と男性の社会の差のせいで、男性社会的女性は格好良く見えるし、女性社会的男性は同性愛者に見える。同性愛者を描くことが悪いとは言わないが、そのつもりでなく描く場合は、表現を慎重に選ばなければならない。
  T本さんの場合は、「俺」は友人の口元をよく見ている。それは食事中の様子として描かれているのだが、僕なんかには「口元」に性的な意味合いが含まれているような気がしてならないから、やっぱりこいつはゲイなんだろうと思わざるを得なかった。これなら「俺」を女性にした方が違和感がないと思った。
  男社会は、表立って友人に「好き」や「笑顔が眩しい」とは言わない。仮にそれが創作の一人称にしたってね。言われたら一歩引かざるを得ないし、なんだそりゃ?  と目を丸くするものなのだ。そういえば、名前を忘れたが、飲みの席で「原さん、可愛いっすよね」と言われたことがある。僕は素直に、「ああ、彼はバイかゲイなのだろう」と思った。もちろん、そこに否定の意味はないが、「何言ってんだよ」と笑った記憶がある。
  不思議なのは、これが逆の場合、中々良い女性像に見える。簡潔に言えば「サバサバした女」というやつだが、それは女性自身も意外と望んでいるものかもしれない。それぐらい、女性の社会は横の広がりが恐ろしく思える。
  T本さんは女性社会を描くのが得意だが、それは多分、日常的にそうした空間にいるせいだろう。今回の作品の違和感もそんな背景があるように思う。また、描かれている人物が幼く感じるのは、以前のI上君の作風と通ずるものがあると思う。それは良く言えば、現代の若者らしく思うし、悪く言えば、自尊心の問題としか思えない。
  S先生の演習で、質問責めされた発表担当者の女性が講義中に離席して帰ってこなかったそうだ。S先生は時代の変化を感じたそうだ。自尊心が傷つけられたということなのだろうが、当人はどうあれ、傍観者からすれば、そこに気を回さなければならないと感じることに、ただただ面倒くさく感じる。それは別に講義だけの問題ではなく、常日頃から関わる友人同士にもある。いじりづれえやつ、というのは話がしづらいから話しかけない。
  男同士の友情というものを描くために、男二人ないし複数人を絡めた場合、どう表現すれば良いのだろう?  スタンドバイミーでも見れば良いのではないかと思うが、あいにく僕の日常には「友情」なんてものはない。そんなことを意識すること自体に、幼さを感じるのは僕だけではないだろう。「友情」とか「恋愛」というのは、口に出すだけでも恥ずかしい言葉で、それを表現しようとするのもやり方次第では恥ずかしくなる。
  元も子もないことだが、男女の社会の差は少しずつなくなりつつあるだろう。男でも女でも噂話を好むものだし、孤立している人の話題をするものだ。それが暇つぶしの一つなのも同じだろう。ただ、パーソナルスペースの差は変わらないでもらいたい。男に触られるなんて不快で仕方がない。あと近いのも勘弁。