恋愛は人を成長させる!  とか誰でも言いそうな戯言だが、創作者からすれば、あらゆる出来事や状態が何かを作り出すきっかけとなりうるだろうから、環境の変化を味わうという点においては恋愛ほど気楽なものはないのかもしれない。引越しより余程金はかからない。
  そういえば、K田君と以前話したが、恋愛において最も面白いのは落とす直前だという話をしたことがある。これはお互い同じ意見を持っていた。付き合い始めてしまうと駆け引きのような面白さはなくなってしまう。どうやって相手の口から好意を出させるか、それが実に面白いのだ。
  しかし、面倒くせえことに大学生の大半は高校生と早々変わらない。それの何が面倒くせえかというと、結局狭いコミュニティを外れるか、外れないか、仲間意識の強さが歪んで強迫的に互いを監視し合う関係となりうるところだ。これは男女関係なく面倒なものだ。どちらにせよ居心地を悪くさせる。
  恋愛ごとは簡単にこのコミュニティの仲間意識を高めることができる。ある種のお祭り騒ぎのような気持ちや、自分に恋人ができないことへの僻みなんかが原因なのだろう。脱線するが、僻むようなプライドの時点で恋人なんて作らない方がいい。結局、付き合うにしても、別れるにしても、当人らのコミュニティは盛り上がる。簡単な話だ。趣味が合わない、学業の話もできない、それでも仲間意識を高めたい、とすれば最も都合が良いのは噂話や恋愛話なのだ。
  それはプライドの高さが招いている可能性もあるが、単純に会話する能力がないだけの可能性もある。相手を楽しませる気のない会話というのは「聞いてほしい」「頷いてほしい」のような独り善がりな会話になりがちだ。「楽しませる」からといって、誰しも芸人である必要はない。「楽しませる」というのは興味を持たせるという意味だ。interesting?  なんか小っ恥ずかしいからやめておこう。学生の興味を惹くものは結局スキャンダラスとかってものなんだね。当事者らからすれば面倒そうなものだが。
  恋愛だけでなく、人間関係はどれだけ自分を客観視できるかが必要になる。もちろん完全な客観は存在しないわけで、この辺り「客観視」という言葉に語弊が生まれているような気もするから、ここは一丁文学らしく「虚構化」と書いてみよう。書いてみただけだ。正しいかは分からん。ただ、遠くから見る過程で「自分」という存在は何の特別でもなく、何の能力もない地球に住む一人間であって、名声を求めるにしても、金銭を求めるにしても、それは結局人間という生物の基本的な行動でしかないわけで、そんなことを願った人間は山のようにいる中、一握りのちょっと運のいいやつは数十、数百年も名前が残るようになる、イエスキリストなんて凄いものだ。西暦となっているんだから。
  この地球上で相性の良い異性を探すというのは不可能だ。こう書いてみたが、それは別に距離の問題じゃない。人間は常に流動するものだからだ。その時々の最適格な異性というのは必ずしも一人に限定されない。
  精神の支障が続く人は多かれ少なかれ、父母性を特別求めるものだ。父母性と書いたが、別にマザコンやファザコンと言いたいのではない。誰しもどちらかを求め、どちらかを刺激されたがるものだ。最善は互いに両面を満たせることにある。片一方を満たしてやって、与え続けるのは、大抵与える側が疲れ果てるものだ。悪い言い方をすると、求めるだけのやつは貪欲な程に我儘なのだ。余程の美人でもない限り、鬱陶しいやつだ。美人でも長くは付き合ってられないわけだが。
  あと誤解しないでもらいたいのは、思うに父性というのは一つの倫理観を示しているのではないということだ。つまり、端的に言えば、男尊女卑的な思考を父性と誤って受け取るのは危険だということだ。ここは男が!  ここは女が!  と考えていては差別的な見方をしかねない。いや、僕はその表現自体が差別的だとは思う。女性は元来戦ってきたのだ。それは現代なら尚更だ。卒業後は働かないで旦那に稼がせるの、なんて言える社会ではないんじゃないか?
  脱線してきたが、父性というのは包容・寛容であることのように思う。我慢ではない。傷つけられるほど手がつけられない相手なら別れた方が楽だ。どちらの視点に立っても、恋人にはある程度の理性がなければ面倒なのだ。お互いのおかしな点を指摘し合えなければならない。例えば僕の場合、恋人は愚痴を聞いたり聞いてもらったり、創作されたものを読まなければならないのだ。そして、百を褒めるぐらいの誠意を見せなければならず、見せたからといって一先ず冷静になった僕はその評価を鵜呑みにせず、もう少し変えた方が良いところを考え始めるのだ。「まあ恋人ならとりあえず褒めるよな」と嫌なことも言ってくる。あれ、面倒くせえな。
  ともかく、お互いに正直でいられなければ付き合う意味はないのだ。それで合わなければ無理に付き合う必要もない。遅かれ早かれ別れるぐらいなら、さっさと別れた方がいい。問題は慣れていないと冷めるまでに時間がかかることだ。
  そういえば、K田君と以前話したが、恋愛において最も面白いのは落とす直前だという話をしたことがある。これはお互い同じ意見を持っていた。付き合い始めてしまうと駆け引きのような面白さはなくなってしまう。どうやって相手の口から好意を出させるか、それが実に面白いのだ。
  しかし、面倒くせえことに大学生の大半は高校生と早々変わらない。それの何が面倒くせえかというと、結局狭いコミュニティを外れるか、外れないか、仲間意識の強さが歪んで強迫的に互いを監視し合う関係となりうるところだ。これは男女関係なく面倒なものだ。どちらにせよ居心地を悪くさせる。
  恋愛ごとは簡単にこのコミュニティの仲間意識を高めることができる。ある種のお祭り騒ぎのような気持ちや、自分に恋人ができないことへの僻みなんかが原因なのだろう。脱線するが、僻むようなプライドの時点で恋人なんて作らない方がいい。結局、付き合うにしても、別れるにしても、当人らのコミュニティは盛り上がる。簡単な話だ。趣味が合わない、学業の話もできない、それでも仲間意識を高めたい、とすれば最も都合が良いのは噂話や恋愛話なのだ。
  それはプライドの高さが招いている可能性もあるが、単純に会話する能力がないだけの可能性もある。相手を楽しませる気のない会話というのは「聞いてほしい」「頷いてほしい」のような独り善がりな会話になりがちだ。「楽しませる」からといって、誰しも芸人である必要はない。「楽しませる」というのは興味を持たせるという意味だ。interesting?  なんか小っ恥ずかしいからやめておこう。学生の興味を惹くものは結局スキャンダラスとかってものなんだね。当事者らからすれば面倒そうなものだが。
  恋愛だけでなく、人間関係はどれだけ自分を客観視できるかが必要になる。もちろん完全な客観は存在しないわけで、この辺り「客観視」という言葉に語弊が生まれているような気もするから、ここは一丁文学らしく「虚構化」と書いてみよう。書いてみただけだ。正しいかは分からん。ただ、遠くから見る過程で「自分」という存在は何の特別でもなく、何の能力もない地球に住む一人間であって、名声を求めるにしても、金銭を求めるにしても、それは結局人間という生物の基本的な行動でしかないわけで、そんなことを願った人間は山のようにいる中、一握りのちょっと運のいいやつは数十、数百年も名前が残るようになる、イエスキリストなんて凄いものだ。西暦となっているんだから。
  この地球上で相性の良い異性を探すというのは不可能だ。こう書いてみたが、それは別に距離の問題じゃない。人間は常に流動するものだからだ。その時々の最適格な異性というのは必ずしも一人に限定されない。
  精神の支障が続く人は多かれ少なかれ、父母性を特別求めるものだ。父母性と書いたが、別にマザコンやファザコンと言いたいのではない。誰しもどちらかを求め、どちらかを刺激されたがるものだ。最善は互いに両面を満たせることにある。片一方を満たしてやって、与え続けるのは、大抵与える側が疲れ果てるものだ。悪い言い方をすると、求めるだけのやつは貪欲な程に我儘なのだ。余程の美人でもない限り、鬱陶しいやつだ。美人でも長くは付き合ってられないわけだが。
  あと誤解しないでもらいたいのは、思うに父性というのは一つの倫理観を示しているのではないということだ。つまり、端的に言えば、男尊女卑的な思考を父性と誤って受け取るのは危険だということだ。ここは男が!  ここは女が!  と考えていては差別的な見方をしかねない。いや、僕はその表現自体が差別的だとは思う。女性は元来戦ってきたのだ。それは現代なら尚更だ。卒業後は働かないで旦那に稼がせるの、なんて言える社会ではないんじゃないか?
  脱線してきたが、父性というのは包容・寛容であることのように思う。我慢ではない。傷つけられるほど手がつけられない相手なら別れた方が楽だ。どちらの視点に立っても、恋人にはある程度の理性がなければ面倒なのだ。お互いのおかしな点を指摘し合えなければならない。例えば僕の場合、恋人は愚痴を聞いたり聞いてもらったり、創作されたものを読まなければならないのだ。そして、百を褒めるぐらいの誠意を見せなければならず、見せたからといって一先ず冷静になった僕はその評価を鵜呑みにせず、もう少し変えた方が良いところを考え始めるのだ。「まあ恋人ならとりあえず褒めるよな」と嫌なことも言ってくる。あれ、面倒くせえな。
  ともかく、お互いに正直でいられなければ付き合う意味はないのだ。それで合わなければ無理に付き合う必要もない。遅かれ早かれ別れるぐらいなら、さっさと別れた方がいい。問題は慣れていないと冷めるまでに時間がかかることだ。