思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

性欲と愛情

2017-09-28 17:46:23 | 日常
  もう五年以上も前になるが、ある時期はよく性欲と愛情のことを考えていた。妙にかぶれていた僕は、プラトニックなものほど本当の愛情と呼べるのだと思っていたわけだが、しかし、実際あの頃慰めてきたものは性欲ぐらいしかなかった。
  今そんなことを考えるのは小っ恥ずかしい。もう少し単純でいい。性欲は溜まる分だけ発散すればいいし、愛情は俺を(が)裏切らなければ満たされる、と考えるようになった。水商売をする友人を一人ぐらい欲しいと思ったこともあるが、そういう店に行かないものだから、そんな機会もない。いや、以前はホストの知り合いもいたのだが、札幌を出てから音信不通だ。不通にしたのは僕なんだが。
  キリスト教徒だからって何を学んだわけでもない。洗礼名をもらったところで度々話のネタに笑い飛ばすぐらいにしか使わない。いつキリスト教を辞めてもいいわけだが、その手続きすら面倒だろうし、もうそんなこだわりもない。とはいえ、この罪深い性欲を考えると、死んだら地獄行きだろうなあと思う。いや、意外と俺はニュータイプとなって女達の魂に引っ張られる可能性も……といっても、嫌な別れ方しかしていないから、引っ張られたら引っ張られたで、散々な目にあわされそうだ。
  S先生が昔、里見弴の講演を聞いたことがあるとか言っていた。里見弴は確か、性欲が強い話をしていたらしい。それを抑えるために、自分の膝を叩いたとか、ペンを刺したとか、そんなことを言っていたはずだ。
  恩師の現代文の先生なんかは自身がバツ3のことや、大学の頃はとっかえひっかえセックスをしたものだという話をしていたな。まあバツ3の理由も浮気なんだろうなぁと思いつつ、やはり三大欲求というのは逃れられないものなのかもしれない。そもそも、逃れる必要もないんだろう。
  理想としては彼女が同性の可愛いちゃんねーに好かれてもらうことなのだが、そして、僕はその絡みを黙って見ていたいのだが、さらに言えば、そのちゃんねーが僕に嫉妬することもまた面白いわけだが、まあその願望は妄想の中に留めておくとして、そういうエロティシズムを描く機会が中々ないので、そっちの方面にもちょっと手を出してみるのも悪くないかもしれない。
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会話

2017-09-28 17:15:00 | 日常
  よくよく想像してみてもらいたいのだが、会話をする時に肯定から入るか、否定から入るか、どちらの癖があるだろうか。
  今日学んだことだが、共感的傾聴という言葉があるそうだ。例を出してみるとすれば、こんな感じだろうか。
①「今回の小説は全体的に荒い。でも、◯◯の部分は中々良かったと思うよ」
②「今回の小説、◯◯のところが良かったと思う。ただ、全体的にちょっと荒いと思ったかな」
  共感的傾聴とは②のようなものを示すらしい。肯定から否定に入るか、否定から肯定に入るかの違いらしいのだが、基本的にはまずは肯定することが大事らしい。どうもカウンセリングの用語らしいので、調べてみると少し違うかもしれないが、これまでのことを思い返してみると確かに肯定から始める方が色々と捗った気もする。文章にして人の作品を評価するのは、①のやり方をしてしまいがちだ。折角コピーペーストできるので徹底的に気になったところを指摘することができるせいだろう。面と向かっての場合、意図的なつもりはないがとりあえず褒めているような気もする。それは思うに絶対評価か、相対評価の違いでもあるかもしれない。
  僕は絶対評価をできるほどそう呼んでいるわけではないので、自然と相対評価をするのだが、相対といっても他の方々の作品と比較するつもりはない。当人が書いてきたものとの相対だ。創作物はどうやっても何かが滲み出てしまうものなので、他社と比べても仕方がないところはある。それは好みの問題だ。そうなると、評価をする上で必要なのは、その人の作品を何作も読むことなんだろう。それで良い方向に変化を感じるものは、作品そのものの好みは置いておくとして、よく頑張ったなぁと思うのだ。
  それに褒められてそう嫌がる人はいない。僕も自分を作品を認めることはないが、それでもやはり褒められるというのは、良い意味でくすぐったさを感じる。
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元来

2017-09-28 16:40:03 | 文章
  元来人間は衝突し合うもので、それを過度に捉えてはならない。ただ、それに使う神経の面倒臭さを考えると、合わないものは合わないと考える方が精神衛生上楽だ。
  当然ながら人間はなんだかんだいって色々なやつがいる。そして、僕らはその色々なやつら全員に気を合わせる必要はないが、時に交流を持たなければならないこともある。波長の合う連中とだけ話せるのは理想だが、現実はそうはいかない。
  気楽に生きる為には素直になることが必要だろう。それで合わなければ、どう合わせようとしても疲れるだけなので、上手いこと躱すか、引くことが必要になる。素直に話せる友人は一人ぐらい居た方がいい。そういう友人は一人か二人いれば十分だ。大切にした方がいい。
  しかし、素直になるのは中々難しいのかもしれない。嫌われることもある。だが、良き理解者を求めるには素直になることが必須だ。それが必ずしも恋人である必要はないが、恋人はそうでなければならないと思う。弱音を吐いたり、吐かれたり、お互い素直になれることが理想だろう。余程の関心がない限り、自分から相手の本心を引き出すのは面倒なものだ。素直になれよ、と思う。かえって隠そうと努めるのは、一周して分かりやすいものだ。それもそれで問題はあるだろうが、少なくとも分かりやすいことは良いことだ。
  そういう相手を見つけることが難しいのかは分からない。ただ、思うに気が合うには、自分にある程度似ていることが大切だ。余程自分を好めない人は、そんなやつがいたら憎み合うと考えることもあるだろうし、同情なんていらないと考える人もいるだろう。いやいや、同情できるということは、それだけ相手も同じような弱さを待っているのだ。しかし、その弱さを共有するには、やっぱり素直にならなければいけないわけでね。
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短文感想⑤『歯車』

2017-09-22 17:07:43 | 短文感想
『歯車』は確か佐藤春夫が評価していたはずだが、『蜃気楼』と似た系統の作品だろう。引き続き「無気味」を感じる。度々現れる「歯車」は偏頭痛の前兆だと言われている。また、これは僕自身影響を受けているのだが、ここに描かれる「僕」と語り手の距離が離れているのが一つの特徴だろう。それがまた淡々とした雰囲気を作り出している。
  実際の出来事のように展開していくが、描かれる病的な有様は、錯覚と夢の入り混じった調子となっている。暗い話だが、どのような暗さかというと、ダウナー系とでも書けばいいのだろうか?  ストーリーの不条理さや被害者意識の強い暗さではなく、病的な自身の有様を静かに見つめ続けるような暗さだろう。ダウナー系と書いたのは、僕自身この静かな調子が心地良く思えるからだ。自殺直前の作品とはいえ、この作品の暗さは『人間失格』ともまた異なるように思う。静かな暗さだ。死ぬつもりなんだろうな、そういう前提の心地良い暗さだ。少なくとも構ってちゃんではない。主軸となる時間軸(出来事)を改めて振り返っている書き方だ。
  論文にもあるのだが、梶井基次郎との類似点も認められる。「歯車」の「僕」も丸善へ行き、小説を色々めくるのだが、いずれにも反抗的精神が起こる。また、短編を書き終えた「僕」は精神的強壮剤を求め銀座の本屋へ向かう。また、遠くへ行きたいという願望も梶井作品と重なるものがある。
  「屋根裏の隠者」とのやりとりなどは僕は「僕」側の考えに頷く。また、人通りの多い往来が不快なことや、特に知り合いに会ってしまうと堪えられない点も頷いて読める。だから努めて暗い往来を選び、盗人のように歩くのだ。

  愛読者とのやりとりが現在の芥川龍之介の扱いと重なって可哀想に思う。少なくとも「歯車」における「僕」はこの愛読者に絡まれることを好まず、特に「先生」と呼ばれることが不快でならない。その言葉の裏に嘲る何ものかを感じずにはいられないからだ。僕はどの作家でもそうだが、現在の扱いを知ったら改めて自殺してしまうんじゃないかと思ったりする。もはや商品となった「作家の顔」や「名前」は、むしろ、彼らが抵抗しなければならないものそのものだったんじゃないのか?  しかし、彼らはいつまでも「先生」でいるのだろう。色々なものにその顔や名前を取られて。

  最後に今後参考になりそうな表現をメモがてら抜き出しておく。
“僕は薄明るい外光に電燈の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った。”
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短文感想④『蜃気楼』

2017-09-22 06:57:38 | 短文感想
  僕はこの作品が好みなのだが、多くの人は退屈に思うかもしれない。それぐらいなんてことはない話だからだ。主人公の「僕」が友人や妻と蜃気楼の見える海を歩く話。それだけだ。
  この作品はそこに出てくる風景や物を虚無的な象徴に変換している。「黒い轍」「錯覚」「水葬した死体」「遊泳靴の片っぽ」「鈴の音」「夢」「背の低い男」あらゆる要素が僕にとって無気味なものへと変換されていく。その無気味は破滅的な未来を連想させるというよりも、自分のそれまでしてきたことの無意味さから転じて、世の中の無意味さを感じているような気もする。それを受け入れて自殺するかしないかが、積極的ニヒリズムと消極的ニヒリズムの違いだと思うのだが、芥川龍之介は消極的だったのだろう。
夢の話の場面では、意識の閾の外を感じるようで無気味だと書いていたが、蜃気楼という作品自体、できるだけ無気味の内訳を書かない工夫を凝らしている。その説明できない無気味さが意識の閾の外、と関連しているのかもしれない。『蜃気楼』という題材そのものも、主軸の時間軸より前から感じていた「錯覚」と連動しているようだ。最後に「無気味」と書いている箇所を一文抜き出しておこう。

“僕は又何か日の光の中に感じる筈のない無気味さを感じた。”

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