思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

露悪的

2018-05-31 10:41:24 | 文章
いつか露悪的なものを書きたいと思っている。例えば、こういうのはどうだ?

  「俺は小説が書けるんだ!  誰にだって認められる文豪になるんだぁ!」と言いながら、彼女の尿道責めに耐え抜くその姿勢はまさに古の悪来典韋の最期と重なるであろう。(典韋は全身に矢を受けても尚、膝を突かずに暗殺者たちを怖がらせたのである。全身ハリネズミとたかだか尿道一つで比べるのはどうかと思われるかもしれないが、それだけこの尿道責めは苦しみを伴うということを理解されてもらいたい。何なら爪楊枝でも刺してみればどうかね)
  「これで邪が払える!  これで邪が払える!」私の醜い叫び声は開いた窓を漏れ出していたのか、目の前の公園から子供たちの輪唱が聞こえてきた。「邪が払える」
「ほら、子供たちに何教えてんの」彼女はマドラーをねじ込み(人間、限界があるのだ)遠慮なく出し入れを繰り返した。
「邪が、邪が払えるぞ!」
「邪が払えるぞ」子供たちが輪唱した。私は邪がもうすぐそこまで来ていることを自覚した。彼女はマドラーの動きを早め、悶絶する私を視姦し、いよいよ頂点を迎えそうなところで引き抜いた。邪は一斉に吹き零れた。私は輪唱する子供たちとの不思議な一体感を味わい、これが世界平和の第一歩に違いないと思った。まずそのためにも私は文豪にならねばならない。想像してみるがいい。世界の中心で尿道責めされる文豪の勇姿を、そして、復唱する君たち、子供たちの姿を、これこそ真の平和だとは思わないかね。私はこれをカエルの歌計画と名付け、

  いや、書かねえわ。楽しいけどな。
コメント

文体に出る

2018-05-30 02:23:29 | 文章
今日、人の作品を読んで改めて文体の恐ろしさを痛感した。変な話だが、作品のテーマ性と作者の精神状態が同一でいることは極めて作品の質を落としかねないらしい。
  これはあの大学の方々の作品に見られる傾向だが、「私」を作者自身と重ね合わせようとした読書習慣からか、好き勝手に書いても良いと変に肯定的な考えを持ってしまうのかもしれない。これは裏返してもそうだ。つまり、好き勝手書かないで抑制する(というより自分のことが嫌いなので、そう語りたくない)場合にしても妙な作品となってしまう。
  大切なのは、一人称作品は決して私小説ではないということと、そもそも私小説なんて言葉を用いるのはややこしいので使わない方が良いということだろう。現実が舞台で作者が主人公前提の一人称作品は、エッセイや自伝小説と言い換えてしまった方が分かりやすい。それをすすんで書く方々は余程自分にスター性があるものと思われるし、素人がそんなものを書くとすればスター性への憧れが現れているかも分からない。小説よりも小説家が好きなんだろうな。
  結局、本来私小説と呼ばれてきたものも、構造や虚構への意識は強い。暗い過去の告白によって可哀想な自分を受け入れてほしい、なんて歪んだ自己愛を満たそうとするようなちゃちなものじゃない。そのような作風の方は(土台、こうした方々は自分がそうなっていることにすら気付けないほど読めず、そして書けないらしい)まず病院へ行き、精神の治療から始めた方が良いだろう。ただややこしいのは、この「作風」は決してテーマを示しているのではないということだ。
  語り手はあくまでも冷淡に物語を動かすものでなければならない。その上で細かな表現の差異によって何らかの主張を試みたり、物語の筋でテーマ性を示してみたりすれば良いのだが、その為には自己愛も自己嫌悪も、というより「私」=作者という考えを捨てて、「私」という登場人物をどう動かしていくかに重点を置かなければならない。
  ここに重点を置けないようでは少なくとも一人称は向いていないだろうし、結局テーマ性と作者の人生はある程度関係しているだろうから、自己を見つめる機会を失いかねない。見つめられない状態でいては、ただただ中身の無い迷惑ばかりかけるやつにもなるだろうし、人生棒に振りかねないぐらいお人好しなやつになる。どちらにせよ、心の成長が必要らしい。小説を真剣に書くというのは、自己鍛錬に違いない。自分が見えてくることもあれば、自分から離れていくこともある。離れられたら良い作品を作ることができそうだ。ただし、そもそも読解力のない方は自分の作品にさえ心酔しかねないので、僕が思うに絵でも描いてpixivなどで公開した方が余程承認欲求を満たせそうな気はする。向いていないということだ。
コメント

9条改憲NO

2018-05-25 12:34:35 | 文章
おやおや、ついにお前も左翼活動か?  と思われた方は残念だが違う。今日も某百貨店前では題名通りの小さなデモをしていた。やはり不思議なのは十人程度の規模でご老人ばかりなことだ。
  今更9条か?  と思わなくもない。現実的に若い人にも影響が出そうなのは裁量労働制だろうし、そっちの方が主張すればもう少し賛同者が増えるんじゃないかと思うんだが、結局のところ、老人の居場所探しや承認欲求でしかないのかも分からない。
  全くの無駄ではないのだろうが、それにしても邪推してしまう不思議な光景だ。
コメント

記憶と死

2018-05-18 15:14:33 | 文章
祖父は二三年前に呆けて以来、僕の中では今年亡くなる以前から死んでいるものだと思っていた。91だったか忘れたが、随分長生きしたようだ。確か戦場へ行かないために医者を目指したとかなんとかで、今で言うところの高専にあたる高校へ行っていたらしい。
  しかし、記憶とは恐ろしいものだ。というよりも、老いとは恐ろしいものだ。川端康成の自殺は老いの恐怖心から来ているという話もあるが、何となく分からないでもない。
  どうも現代は高齢者の凶暴化が進んでいるそうで、犯罪率が増加しているらしい。だから恐ろしいのだとは言わない。恐ろしいのは、この凶暴化の理由に老いによる前頭葉の収縮が関与しているということだ。脳が縮む?  それこそ恐ろしいものに違いない。自分の思想妄想空想が表現できなくなるかもしれない。それはそれで、それなりに満足のいく作品が出来上がるのかもしれないが、果たして……いや、僕は40を越えるようなことがあれば自分を褒めたいと思っているぐらい、どうもこれまで神経質になりすぎたように思う。まずはそこまで生きるのかどうかを傍観することからだろうな。
コメント

虚構の度合い

2018-05-18 08:25:26 | 文章
彼女からあるミステリーの話を聞かされたのだが、そう惹かれる筋ではなかった。何故惹かれなかったのか、という点がどうやら自分の趣向を導くのに役立ちそうな気もする。
  ある読書会のメンバーがなんやかんやで事件に関与している、というオムニバス形式なのだが、どうもどの人物もメイド付きのボンボンだそうで、恐らく学校自体が学習院とかそんなところなんだろうな、ということを加味しても、メイドのイメージがあまりにも三次元的に浮かべられなかった。こうした役柄は話の筋に嚙みあわせるための仕掛け以上の存在ではないと思えてくる。
  僕の祖父母の家にはお手伝いさんが雇われているが、これも割烹着を着たお婆さん方なので、メイドのイメージとは異なる。どうも「メイド」というのは華族的な、ちょっと住む世界の異なる人たちが雇うようなものというイメージと同時に、そんな世界はアニメ漫画以外にあるの?  というファンタジー的な虚構が高まる。こうなれば、ここに(日本なのに)都合よく拳銃が出てきても、ちょっとひねった程度のサイコパスが現れたとしても、何ら不思議な話ではなくなってしまう気がするのだが、これを虚構だからという理由で肯定できる人とできない人がいそうだ。
  僕はどうにもこうした趣向への理解に乏しいが(結局のところ外国人の言うNINJAと似たような、こじれた異国趣味に見えてくる)、一定の需要があることは確かだろう。ゴスロリファッションなんかも流行っていただろうし、ローゼンメイデンなんかも一時期メディアに取り上げられていただろう。ああ、つまり僕が考えるのは、こうした設定とミステリーの噛み合わせが悪いように思えたのかもしれない。
  恐らくミステリーはその事件の犯行方法や動機や犯人が驚くべきものでなければならないのだと思うが(そう考えるとミステリー作家は常にマンネリとの戦いなんだろう)、ということは、どれだけその過程が自然に読めるかが重要な気もする。この過程を二次元的な世界観にしてしまうと、なんでもありになってしまう。内容を聞いて驚けなかったのもこれが要因だろう。
  こうしたリアリティの差が想定される読者像を分けるのかもしれない。大人向け子供向けってよりは、マニア向けかそうでないか、ってところなんだろう。小説だけでなく、音楽や映画もそうなんだろうが、一般的に流行っているものほど一つの型に嵌めこまれているようだ。売れ線ってやつだろう。
コメント