思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

短文感想『Frustration in My Blood』

2018-06-27 02:04:19 | 短文感想
NUMBER GIRL - Frustration in My Blood


ナンバーガール。ボーカルは坂口安吾の影響を受けているらしく、『桜のダンス』なんかには「私は海を抱きしめていたい」という歌詞が出てきたりする。確かに似ているような気もするのだが、少し異なるように思うのは「都市」「街」への意識の高さだ。これは都市小説と呼ばれる類に近い印象を受ける。簡潔に書くと、村社会から都市へ移住した結果、自由を手に入れる代わりに孤独を得るようになった、といったところか。
  この孤独感を都市小説とするなら、梶井基次郎にしても、井伏鱒二にしても該当しそうなもので、多くの作家が描いてきたことのように思われる。あくまでも孤独への恐怖を描くのでもなく、喜びを描くのでもなく、ただただ孤独なだけなのだ。何となく、シティポップの分野もそのような傾向があるような気もする。華やかな街を一人歩くような、そんな印象がある。「街」というもの自体が、孤独の集合体と言えるのかもしれない。
  さて、題名の『Frustration in my blood』はナンバーガールの最後のアルバム(厳密には異なるようだが、あとはライヴアルバムなので実質「最後」と書いても良いだろう)に入っている曲だ。とりあえず、歌詞を紹介しようか。


性的少女と思い出小僧は
夜に空を見上げ 三毛猫座を探す
そんなもんはない そんなもんありはしない

狂わす真昼間 体内回路
MANZOKUできんでうろうろ
妄想都市に入り込んで迷ってしまった
妄想都市に入り込んで迷ってしまった

桃色ぬったくった街 歩く俺らはやはり色情に支配された犬か?
Frustration in my blood

俺はかつて 酔狂人(すいきょうびと)だった
今も変わらない 何か知らんがうろうろ
うろうろしたくなってくる
ぐらぐらしたくなってくる
俺は俺に似合ってた
歩く俺はやはり
Frustration in my blood


『都市小説』との関連を考えると、この曲にも「妄想都市」「街」が出る。「妄想都市」が何を示すのか分からないが、「俺」がうろうろしている空間を示すのか、あるいは妄想が極まって作り出された虚構の空間を示すのか、どうも「三毛猫座」「そんなもんはない」や「俺」との繋がりの見えない「性的少女と思い出小僧」などを加味すると、「妄想都市」は虚構的空間のように思われる。この「都市」「街」は孤独を内包する記号だと捉えてみることにする。
  その意味で虚構世界ほど孤独なものはない。読者や受け手は好きに受け止められる分、製作者側の本心や意図が蔑ろにされることもあるだろうし、ある程度近づけたところで正解を導けるものでもない。こうした孤独は太宰治が意識していたように思う。
  話を戻そう。「歩く俺らはやはり色情に支配された犬か?」から分かることは、まず「俺ら」は人間を示すことはともかくとして、「やはり」ということはこの「俺」は、人間は「色情に支配される」ものかどうかを考え続けていたということだ。考えた末に「やはり」と来るということは、どちらかと言えば「恐らく支配されているだろう」という意味合いになる。これが「Frustration in my blood」と繋がることになる。
  「Frustration in my blood」は直訳すれば、「俺の血の欲求不満」とかって意味になるだろうが、「欲求不満」と書くと性的に受け取られる可能性があるので、ここでは「不快な緊張や不安」程度の意味で捉えた方が良いと思われる。Frustration in my blood→色情に支配された犬か?→「孤独(妄想都市・街)」と繋がっているのだろう。つまり、「俺」は人間は孤独であるがために色情でしか繋がりを持つことができないのだろうかと考えている状態なのだろう。
  そう考えれば、安吾との繋がりも見えてくる。安吾は『文学のふるさと』で孤独への言及をしているのだが、その内容は簡潔に書くと「生存の孤独は救いのないものだが、この救いのなさこそ唯一の救いである」というものとなっている。そして恐らくは『青鬼の褌を洗う女』なんかに出てくる性愛は、孤独の肯定的な要素となっている。
  この肯定的というのは、二番目以降の「俺はかつて酔狂人だった」以降と繋がるだろう。「俺は俺に似合ってた」と肯定して「Frustration in my blood」と繋がるところからみて間違いない。苦しんでいる自分を肯定する、これは思うに自己を俯瞰する状態に近い。実に創作者らしい。

  面白いのは、このような問題意識に至る過程に恐らくは一度ニヒリズムに陥っていることだろう。あらゆるものに価値を見出せなくなったとして、新たな価値観を獲得する場合、まず身近の五感的な要素から見出そうとすると思われる。政治思想で言えばアナキズムに陥りやすいのかもしれないが、根本的にこの孤独主義は集団によって構成される価値観に愛着を抱けないものと考える。価値のあるものと思いたいものは、自分で見つけなくてはならないのだ。
  創造行為は内省に近い。安吾にしてもナンバーガールにしても、ニヒリズムから内省を経て、こうして作品へと昇華させているものと思われる。これは創作する上で最も大切なことのような気もするが、果たしてこの歌詞がそのような意味を持っているのかは不確かなので、正しい前提の話はやめておこう。
  あれ、結局安吾と同じじゃねえか?
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監視社会

2018-06-23 02:22:12 | 文章
どうも最近疲れからか、元々不安定な自律神経が、より不安定になってきた。この疲れは実生活上の些細なことに過ぎないことは分かりつつも、日々、ネット上に晒される不思議な人々への恐怖心も相まっているかもしれない。
  統合失調ほどの妄想癖はないが、どうも監視社会な印象が強まっている気がしてならない。ネットリテラシーと言えばいいだろうか。具体例を挙げると、不愉快な思いをしたから対象を撮影しSNSに投稿する、ということが簡単に出来てしまう人が着実に増えているような気がしてならない。これは勿論、悪目立ちは印象に残る、程度の話だと信じていたいものだが、ネット上に平然と自分の写真などを公開できる人々が多いことを考えると、案外そうでもないのかもしれない。
  社会の中で自分の価値を見出す必要がある、と若い世代は考えているのかもしれない。この監視にしても、同調を求める働きがあるわけで、根本は人からの注目を浴びること以上の理由はないだろう。実際、犯罪であれば警察に訴えれば良いことで、その規模のものでなければ流せば良い。「晒す」という行為は、「正義の鉄槌」なんて表現と似ている。少年漫画の現実主義の悪役を倒す理想主義の主人公、そんな構図か?  そういえば、何とかの流儀という漫画があった。あれと似ているように思う。
  どうも監視の先には「平坦化」があるような気がしてならない。仮に監視も承認欲求を満たす一要素でしかないとすれば、個性や才能に固執する学生たちも無個性でしかないことを暗に仄めかしているような気もする。つまり、「自分には才能がある」「認めさせたい」「注目を浴びたい」そのような考えを多くの人が抱いているとすれば、その考え自体が何の個性にもなり得ないということだ。となると、こうした方々は身内同士を褒め合ったり罵り合ったりして、ごっこ遊び的な個性を獲得しようとするのだろう。「小説家」なんて良いごっこ遊びにならないかね。
  それにしても、資本のふりをした共産というのか。社会的に成功を収めていない方(もちろんこれはあくまでも当人の精神に依存するもので、こうすれば成功だという基準はない)からすれば、世の中は随分共産的なのかもしれない。
  改めて生き方を考える必要がある、と考えれば、これほど文学に向いた時代もないのかもしれない。
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成長物語

2018-06-19 16:20:51 | 文章
いよいよ短編集が完成し、一部の方にはその試作品を読んでもらっている。ほとんど修正する気がないので(というのも疲れるので)実質体験版というよりは製品版に限りなく近いもの、アーリーアクセス?  が近いかもしれない。作品は五つで124ページとなる。若干の修正を加えるがページ数は変わらないだろう。このうち、1作品
は50ページ近くもある。この作品は「シティオブファントムペイン」というとても格好良い題名をつけられ(『幻肢の街』だ。それにしても、英語にするだけで喉を引っ掻きたくなるぐらい格好いいな)、それまでの中でも長く、出来としてはどうだろうかいまいち分かりかねるが、とりあえずの構造としては整えられただろうとは思っている。ただ、少しテーマ的に疑問もある。
  ネタバレをしてしまうが、本作品のテーマは「虚飾を捨て、自己を受け入れる」という面にある。この作品を読む限り、その為には、破壊と時間が必要らしい。それで良いのか?  と思いつつも、自分の過去を振り返ると、やはりそれしか良いものはないように思う。環境を変化させるには現実の事情を片付けなければならない。例えば、高校生活であれば転校する、卒業する必要があるわけで、実家から離れたければ大学は遠くへ、金を貯め遠くへなどなど、何にしても時間のかかるものらしい。
  ただ、これは物語的に言えば、あんまり成功する考え方ではないような気がする。つまり、いわゆる典型的な話を考えると、基本的には大きな事象が起きて不幸が訪れる→その不幸から抜け出し成長する、までが基本の形とすれば、この作品は細かな事件こそ起きるものの、大きな事件は起きた後となっている。最も大きな事件は、もう終わっている前提で始まる。
  現実の僕らはどうだろうか。ある不幸が起きて、少しずつ精神が回復していくのに、ただただ時間だけが必要だったように思う。どれだけ理屈で分かっていても、凝り固まった無駄な何かに縛られ続ける人もいれば、そもそも理屈が立てられないせいで、とんでもないやつだという自覚さえ持てないのもいる。これはもう資質のようなものとしか言いようがなく、そいつ自身が本来どうありたかったか、が何よりも反映されているのだろう。
  例えば、嫉妬深さから小説を書いていたとすれば、その嫉妬深さの元(仮にいわゆるリア充と呼ばれるものに恨み辛みを抱いたり、評価された人間への恨み辛みを抱いたり)に自分がなりたいのだということを暗に仄めかしている。根本的には、こうした恨み辛みなどの攻撃的感情で書いたところで、ある意味では現代らしいかもしれないが、決して呼んでいて心地良いものとはなり得ないだろう。仮に戯画的に作り上げるだけの冷酷さがあれば別だろうが、それは中々精神的な、虚構に対しての技巧が必要になるわけで、素人の僕らには中々そこまでの腕に達するのは難しいように思う。恐らく良いものを作る人たちに共通するものは、作る上で極めて冷酷なことだ。素人はどうもこの辺りに、現在の感情を絡めたがるものらしい。ということは、現在の問題が解決しない限りは上手くできるはずがないとも言える。
  この「解決」は、毒親だから自立して家を離れる、という実生活上の解決ではなく、作る上での精神性にそうした背景を絡めないことができる、という意味合いになる。ただ度々思うのだが、根本的に読解能力が低い場合は書けないだろうし、自己愛が強すぎる場合はそれを自覚する必要がある。典型的な悪い例は「純文学作家だから」などと言い逃れることで、その定義にも興味の湧かない事柄に固執するのも問題だが、何よりも根本的に小説家を特権的な何かとでも思っているかのような思考がいけないと考える。
  小説を書くしか能がない、というのは別に「小説だけが自分を褒めてくれるから」ではない。どうしようもなく生きづらい中で、唯一続けられるから書くのであって、そりゃ褒められる分には良いだろうが(褒める側の思惑を考慮しなければ)、褒められなくても良い作品をコツコツ作っていけることが大切だろう。これは小説だけでなく、現代はあらゆる分野でそうなっているものと思われる。承認欲求が強まっているとしても、良い作品はそれを全面に押し出さない技法が施されているに違いない。
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右とか左とか

2018-06-14 13:39:23 | 文章
近頃、アーティストが右翼的な曲を作ったことで話題になっているが、歌詞を見る限り中々誤魔化しきれない右翼っぷりに見える。それが悪いかどうかという話ではないが、一先ず思うのは、何故愛国心が題材の曲に英語で題名をつけるのだろう、というのが不思議でしょうがない。そこは徹底して日本語で題名を入れた方が良いのでは?  と思う。
  最近このような右翼的な印象を持たせる曲がちらほら見られるらしく、メジャーどころの歌手が出すことで度々炎上しているようだ。正直なところ、彼らを右翼だの左翼だのと決めつけてもしょうがないし(とはいえ、右翼の文句の中には「普通の日本人」という表現があるそうで、案外それが炎上したアーティストに共通した発言のように見られるのは少し面白いところだが)、2020年のオリンピックに向けてそのような曲を作れと指示されて(もしくは商売上の意識として)いるのだとしか思えないのが、どうも大衆ものの限界のように思う。確かに考えてもみれば、僕らの世代は政治への関心が薄いと言わざるを得ないのだろうし、そうした世代に愛国心を持たせるには、有名どころのアーティストにそれらしいものを書かせる方が良いことは明白だろう。大衆を操るには名声が必要ということか。
  にしても、今後こうした愛国心(愛国心を右翼的とは思わないが、さすがに「御名」だの「万歳」だの「靖国の桜」だの、それぞれの単語が何を意味するのか、どう受け止められるのか理解せずに歌うほど愚かではないだろうし、明確に政治色が出るのは当然だろう。どうも愛国心=右翼と思われがちなのだろうが、そうではなく、右翼左翼どちらも、愛国心もあれば、その逆もあるのが当然だ。ただ、前述の単語は右翼と呼ばれても仕方ないものではあるだろう。作者は想定する受け取る側の理解力に応じた表現を用いる必要がある。どのような人たちに好まれるのか、を想定すると、どうも若者から中年辺りの意識の変化が目的な気がしないでもないのが……考えすぎな気もする)を高ぶらせる目的の曲がメジャー側に増えていくのかもしれない。国民のため?  僕が危惧するのはこのような曲で一致団結して、人々が根本的な問題から逃避しようとすることだ。自分の生活を豊かにするには、まずは自分を見つめないことには始まらない。
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弊害

2018-06-14 10:15:23 | 文章
ツイッターなんかの話題に上るものはどうも不穏だ。最近は男性憎悪的な女性主義が目立っているような気がする。こんなものが直接小説のテーマとも重なっている人たちも若い世代には出てくるのだろう。
  そういえば、素朴な疑問なのだが、日本の娯楽と呼ばれるものは根本的な解決(あるいは現実的な解決)を図ろうとしないところがある。実生活上でモテないからといって、ハーレムものやギャルゲーで性欲を満たしたりするのだろうが、現実では満たされないので虚しさが残る。娯楽が現実逃避の役割しかないとすれば、この虚しさを払拭するには現実に立ち向かわなければならない。ただ、実際そこまで考えるにとは少ないのだろうし、だからこそ、次の虚構が売れるようになるわけで、お金を回すにはこうした欲求不満を完全に満たすのではなく、程よく現実と隔離されている方が良いということらしい。「感動」を涙を流すことと捉え、「娯楽」を楽しいとしか捉えられない、そんな印象を受ける。
  話を戻すと、根本的な擦れを感じるのはあくまでもツイッターは国民御用達のアプリケーションではないということで、ツイッターの発言だけで国民に気を落とす必要はないということだ。これだけは忘れないでおきたい。どのような方々がツイッターを用いるのか、それが見えてくれば(というよりも、なんだか資本主義の弊害な気もする)自然とツイッターの発言意図も見えてくるだろう。
  別にツイッターを非難する気はない。実際、創作物の宣伝には都合が良いだろうし、同じ趣向の方を見つけるのも便利だろう。問題は見られる意識の欠如であって、つまり、想像力の欠如に他ならない。誰でも見ることができるということは、それだけ非難もできるだろうし、統制もできるということだ。
  いや、あるいは?  あまりにも自分の情報を開示することに抵抗がないのだろうか。ある程度のキーワードで調べれば簡単に誰が誰だか特定できるものだ。文学賞の名称で調べれば受賞者や落選者を調べられるだろうし、名称がないとしても、落選結果の時期から考えれば簡単にどの賞か分かってしまう。それが気にならない人が増えたのか、あるいは、自分だということを強調せずにはいられないのか。何故そんなに自分を愛せるのか。
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