思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

美文とは?

2018-11-16 15:38:38 | 文章
川端康成が日本文学で最も美しい文章を書く作家、と言われたら、お前の中ではなそうなんだろうなと思いつつも、そう言われるとのも分からなくもない気がしてくる。ただ、これが三島由紀夫や太宰治と言えば腑に落ちないし、芥川や夏目でも疑問に思うだろう。原民喜や井伏辺りになると、僕からすれば相当な美文ではあるが、概ね「最も」を求める大衆の心理から言えば、ノーベル文学賞を取った川端康成、候補だったがその前に亡くなった谷崎潤一郎、あるいは三島由紀夫辺りだろうか。
  ただ、美文とは装飾の量は質というものでもないように思う。どれだけ読みやすいリズムと装飾であるかが大きいように思うのだが、そうでもないのだろうか?  どうも三島由紀夫の文章が苦手なのも、そうした辺りにあるらしい。もちろん、あれを好む層がいることもよく分かるが。
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と〜して言う

2018-11-14 12:14:44 | 文章
「この表現は少し長ったらしいね」と私は嫌みたらしく言う。「ならどうすればいいんだ」と彼は声を荒げた。

  「〜して言う」と言う表現は学生の作品にも、大正の作品にも見られる一つの自然な表現ではあるが、どうも僕には長ったらしく思えてならない。これは感覚の問題に過ぎないだろうが、「いう」という文末の音の響きがきになるのだろうか。
  それなら自分ならどうするだろう。
「この表現は少し長ったらしいね」
「ならどうすればいいんだ」彼は声を荒げた。
  恐らく、僕の場合その台詞そのものに含まれる感情を踏まえると、そう脚色する必要を感じないらしい。少なくとも、「長ったらしい」と悪く言っていることは確かなわけで、続く「ならどうすればいいんだ」の「どうすればいいんだ」には指摘に対しての反抗的な態度が含まれるだろう。仮にその指摘を受け取って改善しようとするなら「ならこの箇所を短くしてみようと思う」などと友好的な返事をすると思われる。
  いや、これも一つの僕が過度に想像しているに過ぎないか?
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好み

2018-11-06 01:52:54 | 文章
某劇団の作品を動画サイトで見たのだが、どうも劇団にも合う合わないの差があるらしい。何となく何が苦手なのかを考えてみたのだが、次の要素からそう思っているようだ。
・まくし立てるようなトーン。
→終幕付近では沈黙が増える演出が施されるが、そこでの緊張感を高める効果はあるだろう。ただ、それまでが一定なせいでだれてきてしまう。勢いはあるものの聞き取りにくいせいもあるだろうか。
・ほとんど舞台装置がない。
→ある意味前衛的と言えるのかもしれないが、僕はあまり想像力が豊かではないので、その世界観に入り込むののが辛い。舞台俳優もほとんど私服のようなものだった。
・既視感
→これはもう仕方ないと思うが、どうしても節々でナイロンの影がちらついて見えてしまった。なんならナイロンならこうするだろうと想像してしまった。
・ギャグセンス
→ナイロンとの比較にも繋がってしまうが、ナイロンは認識論的なギャグをするのに対して、この劇団はナイロン風ではあるものの、あくまでも似ているのは勢いだけのように思われた。
  概ねこの辺りから合わないと感じたのだろうが、全体を総括すると良くも悪くも「劇が好きな人」という印象を受けた。また、ナイロンを持ち上げるというのもおかしな話だが、改めてその質の違いというのを考えさせられた。
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近況

2018-10-09 12:41:34 | 文章
今書いているものが意外と難航している。原因はあまりに収拾がつかないことなのだが、そういう時は少し前に戻ってみたり、冗長に思ったら切ってしまうのが良さそうだ。ある意味丁寧なぐらいシュルレアリスムな気もしているのだが、こうしたものは詰まってくると段々狂気が増してくるのが面白い。詳細はともかく、耳たぶって美味しそうに見えたことはないか?  あの食感最高だろうな。餃子の皮というよりも、ホルモン系の食感だろうか。いや、手作りの分厚い皮の餃子だな。上唇を包んで食べてみれば美味だろう。
  大体そんなことを考えている。何やってんだ。でも、耳は二つしかないぞ?  貴重だな。
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別れ

2018-09-30 03:23:13 | 文章
  くだらない話だが、ゲームでさえ自殺を繰り返していると止めようとする人がいることに驚いた。小刻みに視点を横に振って、死んではいけないと伝えてきた。面白い現象だ。
  それはそうと、前に成長するためには不条理が必要だと書いたような気がするが、未だにその考えは変わらない。出会いと別れ、なんてありきたりな表現だが、現実世界ではその繰り返しなのも確かだろう。井伏鱒二が漢文の和訳で「さよならだけが人生だ」と書いたことがあるが、まさにその通りのように思う。
  不思議なのは「別れ」にしたって、色々な別れ方があるということだ。ただ、違いの利害の不一致を理解して合理的に別れようとする人もいれば、これがどうしても認められなくて喧嘩別れのようになる人もいる。そもそも、死別することだってあるだろうし、記憶から消えてしまえばほとんど別れているようなものだろう。
  「別れ」とは無と同じだ。別れた以上相手のことを知ろうともしない、あるいは、知ることもないのだろうから、今相手が生きているのか、死んでいるのかも分からなくなる。この何も分からない状態が無だと思うのだ。僕らが感覚器官を用いて脳で記憶しているとすれば、無はその感覚から遠ざかることに違いない。
  二度と会うことのない相手が生きているか死んでいるか、それを想像すること自体が一つの虚構でしかないこと(あるいは、死に別れた相手を思い出すことも同様だろう)が、どうもこの「無」の正体らしい。しかし、一般的な話だが、男の方がこういうのは足を引っ張り続けるものだそうで、女は簡単に次の相手へと乗り換えられるものらしい。そうすると、この「無」とは一つの男性性を有している可能性もあるのだろうか。よくよく考えれみれば、この生存の空想はきわめてリアルな虚構に違いない。いや、リアルとは語弊がある。「虚構」と考えること自体を忘れかねない事柄だろう。
  人はほとんど利己的なものから逃れられない。例外があるとすれば、咄嗟に身体が動いた、というやつぐらいで、大抵は自分が得をするか損をするか、自然と考えているものだ。ということは、人は不条理なものに違いない。いや、逆説的に真に条理なのかもしれない。本当の不条理は実のところ、利己的な面を完全に失った状態にあるのかもしれない。しかし、そんな状態など「無」しかないだろう。腹が減ったら飯を食う、それだけでも利己的ではあるだろうから。
  そもそも「不条理」というものは、所詮自分の思惑通りにならないことでしかないのかもしれない。それを肯定するかしないか、ただそれだけのことなのだろう。もちろんキリスト教を考慮した場合の「不条理」はそれなりの定義があると思うが、それにしたってやはり人間である以上仕方のないことだ。そう考えると、不条理文学というのは、根底に宗教(あるいは、規範意識?)があるのかもしれない。
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