思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

梶井

2018-01-31 20:13:26 | 日常
梶井は実際に見た風景とそれを記す文章は一致し得ないということを手帳に残していたようで、それが当時の文学においては革新的な考えでもあったらしい。
  最も興味深いのは、梶井もまた、自己を晒さない作家に位置付けられるということだ。「位置付け」というと何とも言い難いが、やはり自己の抑制が良い作品を作る上で必要な要素なのかもしれない。

  ここまで書いて数日置いている。それにしても話は変わるが、梶井も19や20の頃は日記や手帳を読む限り随分若かった。自意識過剰な一文学青年というよりも、文学青年ではないから必死で文学青年というやつになろうとしている、そんな印象を受けた。正直、今の自分からすれば、読んでいて恥ずかしいやら何やら、よくここから檸檬を創り出したものだと感心する。
  面白いのは、梶井はどれだけ苦手な相手だろうと交友関係を大切にする癖があるようだ。その点、僕とは正反対のような気もするし、案外そうでもないような気もする。この「大切にする癖」というのは、どこか他人への恐れも加味されているかもしれない。僕自身、梶井文学の孤独感というものに影響を受けている、もしくは元々近いものを持っている(これは一概にどちらとも言えない。檸檬に描かれている「私」がまるで自分のように感じられた辺り、少し近いものはあるのかもしれない)と思うのだが、梶井はその作風の割には実際よく他人との交流を持っている。勝手な妄想に過ぎないが、作中の孤独は精神の孤独のようにも感じる。多分、この孤独はボードレールにも繋がるものがあるんだろうな。
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「君」について

2018-01-29 12:19:24 | 日常
僕は自分の作品に度々「君」が出てくることがある。それを用いる作品というのは一貫して「自意識」が関係した作品かもしれない。
  「君」という使い方は今でこそそう珍しくもないだろうが、昔の作家なら誰が用いただろうか?  すぐ頭に浮かぶのは太宰治だ。太宰の場合、虚構性を高めるために(この「君」は特定の誰かに向けたのではないとすれば、読者に向けられたものだと断定して良いだろう)用いているように思う。メタとは、語り手が顔を出すことだけでなく、読者の存在に触れてくることでも成り立つということだ。
  このメタへの意識は結果的に「自意識」へと繋がっているかもしれない。読者の存在を意識するということ自体、文章を書く上では必要不可欠で、誰もがある程度は考えているはずのものだが、あえてそれに触れていくということはどういうことなのだろう?  一つは虚構性が高まるように思う。特に一人称で始める場合、その世界観がファンタジーでもない限り、作者=一人称と結びつけがちだ。そうなると、読者はこれが実話に近いものとして読み始めることになるだろう。だが、「君はどう思う?」などと出てきた場合はどうなる。「あれはニコチンが切れて苛立っているだけだと思うのだが、君はどう思う?」とくれば、語り手は読者に尋ねる形となっている。太宰の何かの作品でも、そのような場面があったはずだ。その時は確か、残念ながらこの疑問が読者から返ってくることはないとかなんとか、つまり、読書において存在するものは厳密には一人の読者だけであって、どれだけ語り手が読者に語りかけようとその返事を聞くことはないということだろう。何の作品かは忘れた。『晩年』に入っているやつだった気がする。
  ここまで書いてから数日が過ぎた。それでまたしばらく「君」という効果について考えていたのだが、思うに自己を晒さない手段の一つと言えるかも分からない。「自己を晒さない」というよりも、「本心を晒さない」の方が正確だろうか。何か根本に抱える諦念あるいは悲哀、あるいは虚無、何でも良いがそうした感情の上澄みを隠せるような気もする。ただ、逆に底の方が滲み出てくるようにも思う。
  「所詮虚構なんだから」という言葉を使う人は僕も含めて大勢いるだろうが、それをただ単純に「虚構と現実を混ぜるなよ」ぐらいの意味合いで使うこともあれば、「虚構なんだからどれだけ現実にしたって、それは嘘なんだよ」と回りくどい感傷を持たせることもあるだろう。この「君」というのは後者の効果を含めている可能性もある。ある意味、実際の出来事に即した告白を軸にした小説(私小説と呼ばれる類だが、その定義に慎重にならざるを得ない結果こんなにも回りくどい表現を用いることとなった、というのはもう何度書いたかも分からない)を否定する形と言えるかもしれない。
  小説は読後の感想を聞くなりなんなりの交流方法はあるとはいえ、作者は読者に作品を与え続けるものという片一方の構図は揺るがないだろう。何という孤独だ。
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突発的な癖

2018-01-24 14:41:51 | 日常
たまに頭の中で作曲することがある。これは素晴らしい曲に違いないと思い、勿体無いから譜面に起こすってやつをやって見たくなるのだが、帰って来る頃には忘れているし、土台譜面が読めないからどうしようもない。
  それによく考えてみれば、それってなんだかアジカンみたいだな?  と中高生の頃は思ったものだし、今浮かんでいるのも初めこそ面白かったが次第にコーネリアスな気がしたかと思えば、スーパーカーみたいになった。非常に残念だ。
  一度母に頼まれて以来、度々作詞という分野を考えることがあるのだが、その詞の長さに応じて、適切な音を用いる必要があるのだと思う。膨大に長い歌詞ならラップにするしかないんじゃねえか?
  しかし、この浮かんでいた歌詞を捨てるのは勿体無いのでここに付記する。どうせ帰宅する頃には忘れているが、だからこそ今後行かせる可能性もあるというものだ。いや、案外やってみれば近いものは出来そうな気もする。アプリ探すか?

夢  夢  幻
幻  幻  有限
有限  有限  夕べ
夕べ  夕べ  夜更け
夜更け  夢


メトロノーム、ピアノ、ペースで編成。譜面わかんねえ。目覚ましの音とか入れてみたいよなぁ。3フレーズ毎にボーカルが増える。男女混合が良い。最後は一人で。
  さて、結局頭の中にはLAMAの『Parallel Sign』が出て来るのでそれを紹介して終わろう。つまり、僕の考えていることはこの曲の域を出ないということだ。



LAMA 『Parallel Sign』
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困った恋人

2018-01-23 12:49:38 | 日常
小説の題名のようなタイトルだが、こんな題名のものを書いてみても良い気がしてきた。そんなことを考えると、これから書こうとしていることを忘れてしまいそうになる。といっても、毎回構想を練っているわけではない。何となく書きなぐっているだけなのだ。
  恋人のことを話そう。その意味は恐らくこんな状態にある人は彼女だけではないと確信しているからだ。
  人には色々な事情があり、それが誰しも体験するわけではないことが、また人間であることの楽しみの一つではないかと思うのだが、彼女は典型的なアダルトチルドレンだ。断定しよう。慢性的に(いや、慢性というのは語弊がある)対人恐怖の状態だ。人に見られることの怖さ、というより、自分を主張することの怖さが強く出ている。僕は度々その点を惜しいと思っている。彼女はロック・jpopの趣味こそ良いとは言い難い(それらの曲に類似性を感じる。金の匂いが漂うのだ)が、それ以外の趣味はむしろ創作する上で良い影響を与えそうなものが多い。劇団、折紙、ピアノ、小説、過去、色々な面で面白いものを持っている。
  彼女が某坂口安吾の通っていた高校で強姦され、高校側に不自然にもみ消されていることは僕も度々ペラペラ話しているから知っている人もいるだろう。そうした女性心理は男には味わえない恐怖や損失感を伴っているはずで、付き合いたての頃なんかはその夢を見ることもしばしばあったらしい。逞しい女性像を描く下準備は既にできていると思わないか?  もちろん冗談で言っているのではない。内田春菊みたいに出来そうじゃないか?
  しかし、彼女に致命的に足りない点が自己表現への恐怖だ。それは誰しもが持ちうるものに違いないが、幼少期のいじめなんかが原因で過度に頭に残ってしまうのだろう。だが、トラウマは創造への道しるべとなる。現実からの逃避、逃避からの再認識、そんなことを何度も繰り返して作品は出来上がるような気がする。彼女の場合、あとはその恐怖心さえ克服すれば、良い作品を作り出せるものと考えている。実際、僕以上にちゃんとしたものを書けそうな気はするのだ。
  だが、飛び方を教わらず成長した鳥は、そう簡単に飛べるようにはならないか。保護するものもいれば、叩くものもいる。いずれにしても、地べたに居ては見下ろされるばかりなのだ。飛び立てなければ、本来の能力も分かりようがない。
  とりあえず、戸川純や人間椅子辺りを聞かせたら好みのようなので、どんどんアングラ世界に入り浸らせよう。他の趣味から考えて、その方が似合っているのだ。
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短文感想15『ルバイヤート』

2018-01-22 12:45:27 | 短文感想
本当は禽獣や桜の森の満開の下とか読んではいたのだが、それらの感想を書くのはどうにも難しくて断念した。また『伊豆の踊り子』みたいに書くことが無くなりそうだからだ。とりあえす、良い作品なことは確かだと書いておこう。

  『ルバイヤート』は岩波文庫のカバー裏によるとこう書かれてある。

11世紀のペルシアの詩人ハイヤームは、性への懐疑を出発点として、人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを短い四行詩(ルバイヤート)で歌った。19世紀以降、フィッツジェラルドの英訳本によって広く世界中の人々に愛読された作品の、日本最初の原点訳。

  当時はほとんど無名だったそうで、初めて本に名前が挙げられたのが没後五十年、その時は有神論者が書いた本らしく批判されていたそうだ。次に挙げられたのは百年後、と随分人に知られるまで時間のかかったものだ。恐らくその内容からして、20世紀の方が受け入れやすかったと思う。先取りしすぎたんだな。
  この作品はもう友人でもなんでもないやつにすすめられたもので、実際読んでみると僕好みの内容だ。根底にあるものはニヒリズムなわけだが、決して自殺を求めているような内容ではない。ざっくばらんに書くと「この世の中は虚無なのだから、酒でも飲んで過ごそうじゃないか」このような調子だ。幾つか挙げてみよう。

九重の空の広がりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ。
ああ、一瞬のこの命とて虚無だ!

月の光に夜は衣の裾をからげた。
酒を飲むに勝る楽しい瞬間があろうか?
たのしもう!  何をくよくよ?  いつの日か月の光は
墓場の石を一つずつ照らすだろうさ。

さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈のものがあると思って。

歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好をつなぐに足るは生の酒のみだよ
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃だけは残るよ!

  この詩を読んでいると無性に酒が飲みたくなる。そうだ。今からちょっくら飲みに行こう。それにしても、この詩は何度も酒が出てくるのだが、酔い切れるように見えないのは気のせいだろうか。
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