思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

怒り

2020-02-04 05:55:00 | 日常
他者と相容れない場合の一つに、思考回路の差がある。よくある、感情的と論理的が合わないのもそうしたところにあるようだ。
  抽象的な話を続けることになるが、難しいのは、一方の思考に飛躍が見られる場合(つまりは感情的とも言えるのだろうか)、もう一方はそれを理解するために詳細な情報が必要になることだ。それが時に、皮肉や嫌味にも捉えられがちかもしれない。どうやって、感情的な人の感情を逆なでしないように相手の主張を理解できるか、ネゴシエーターのようなものかもしれない。
  いや、もしかすればあれは感情的というよりも、被害者意識が強いのかもしれない。
  少なくとも、被害者意識の強い相手であれば、嫌味を言うつもりではないことを再三説明する必要がありそうだ。こうした人は、責められていると感じると、感情的な思考回路に陥りがちなのかもしれない。そうなると恐ろしいのは、正当性に固執している自分に気づけていないことだ。
  しかし、今更になって、という話でもあるのだが、正常と異常の差異は思いの外曖昧で、自己の認識で裁定する他に方法はないことを理解していない人々がいるようだ。そういう人の方が多いのかもしれない。友人が最近のテレビは怒る人が増えてきたと言っていたのを思い出すが、世の中正当性に固執することが社会の流れとなっているのかもしれない。
  誰もが異常だと捉えることもできると思うが、明確に特定の誰かを異常と定めることで、自分はそうではないと安心することはできるのだろう。誰もがそれぞれの特徴を有していて、その相性というだけの話ではなかろうか。そんな考えは、理想主義なのだろうか。どうにしろ、疲れがぶり返す。

文学観

2020-02-02 12:23:00 | 文章
大層な題名をつけたが、それほどのことは書けない。前々回の記事にも書いたが、この半年は酷い有様ではあったものの、それでも小説を書く一点だけは揺るがなかった。これを偉いだのと思いたいところだが、思えば中毒症状に近いのかもしれない。やらなければ不安になるのだ。
  そんなこんなで、新しい短編集を印刷したのが去年の十月。本作もまた、よく分からない世界観となっている。しかし、ここに来てようやく、自分の作品を少しぐらい好んでやれるような気持ちになっている。ただ、腕は上がっていると思うが、人に好まれる作品かどうかは全く別問題だ。むしろ、好まれない作品が増えたかもしれない。
  また、愚民観でも披露するのか?  と我ながら辟易としてきたが、しかし、変な展開のものを楽しめる層がどれだけいるか、いまいち分からない。 やっていることは、シュルレアリスムやらマジックレアリズムやら、その辺りのことには違いないものの、それを好む層がどれだけいるのか分からない。仮に少ないとすれば、好める人も少ないことになる。大勢いればいいというものでもないが、励みになりやすいことは確かだ。
  さて、少しぐらい作る時の意識を書き連ねておきたいのだが、何から書くべきか。これは結局、誰かに読まれるというよりも、僕自身が再認識するために必要なことだ。そもそも、このブログはそういうものだろう。
  しかし、ふと我にかえると、あえて書く理由もないように思う。今の書き方も変わる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。作品ごとに同じ書き方をしているとも言い難い。
  いずれ過去の作品群の説明をするのは良いのかもしれない。改めて読むことで、自分の作品がどのようなものだったか、気づくこともあるかもしれない。今の話をしても仕方ないだろう。また作風が変われば書くかもしれない。味覚は変わるものだろうか。

作られた役割に

2020-02-02 11:58:00 | ブログについて
  最近思ったのは、虚構における作られた役割を享受する側がどう思うのか、ということだった。そもそも、この発想からして僕の悪い癖なのかもしれないが、同じような疑問を抱く人々もいるにはいると思っている。
  例えば、格好いいキャラクターは、そもそも格好良く作られたから格好いいのではないか?  ということだ。少しややこしい表現になるが、意図して与えられた役割を享受者は素直に受け入れられるものか、という話になる。この疑問は、僕自身が特定のキャラクターに入れ込む、という虚構の楽しみ方をしていないせいで浮かぶのかもしれない。多くの方は、何らかのキャラクターに入れ込めるものなのだろうか。若年層に限った話ではないかと思ったが、アイドルにハマる年齢層も幅広いような気もするので、そうでもないのかもしれない。ただ、アイドルは肉体を持つ虚構なのだから、少し他の虚構よりも扱いが異なる気もする。よりリアルな虚構とでも言おうか。
  商売を考えると、作られた役割が上手く機能することは有難いことだ。あまり良い表現はできないが、金払いがいい客はこの作られた役割に気づかないか、気づいても尚素直でいられるか、いずれにせよ盲目的な信仰心を持っている。
  つくづく、誤解されやすいのだが、盲目的と書いたからといって、選民思想や見下していると捉えられてしまうのは溜息が出る。あらゆる分野でこれが当てはまるのだから、僕自身もまた、ある分野においては盲目的なのだ。こうしたことに神経を注ぐのも嫌気がさしてきた。説明しなくても、分かることではないか。
  と、茶番を書いてみたが、案外人は作られた役割に気づかないものらしいことは確かだ。恐らく、時代と共に流行り廃りのあるもののようで、上手く流行らせる人はよく時代を捉えているのかもしれない。
  いや、こんな終わり方にしたいのではない。結局のところ、この記事は逆説的に自分が虚構のどのような面を好んでいるのが浮き彫りになるって話になるのではないかしら。つまり、僕は虚構の中で作られた役割を「役割」としてしか見ていないとすれば、虚構を一つの集合体として見ている可能性がある。その集合体には、「役割」の他にも「演出」やら「脚本」やら細々としたものが含まれているわけだ。それらが合わさって、面白いかどうかという話になるのではないか。
  でも、それは別に特別なことでもないだろう。と、思いたいものだが、果たして。

久々に

2020-02-02 11:36:00 | ブログについて
  久々に書く。
  この半年色々あった。僕の主観的な認識によれば、多くの事柄が僕を責めてきたのだろうと考える。そのどれもが、僕自身のミスによるものらしい。
  しかし、人は怒ることによって正当性を主張する。僕自身もそうなのだ。そんなエゴの塊ということに、ある種の罪の意識が芽生えないこともない。自分も他人も横暴でしかない。あとは勢いに任せられるかの問題だ。
  それは論理的な世界とはかけ離れている。ニワトリの喧嘩のようなものだ。人には、言葉も筋力もあるから、そのどちらかを他者に向けることで、正当性を主張する。誰しもがそうだ。そして、優位性を求めるのだろう。
  そうした喧騒の世界に背を向けたがっていたが、この半年はそうもいかなくなった。案の定、疲れ切った末に一度壊れてしまったようだ。それも仕方ないことだ。結局のところは、喧騒と認識するこの意識が問題となるらしい。この世はすべからく幸せだと信じられるほうが、やはり生きることに苦労しないだろう。何はともあれ、この半年は酷いものだった。こう愚痴愚痴と書くのもやかましいので、いくつか記事を作ろう。続けるかは分からない。