思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

省略

2018-07-29 08:41:15 | 文章
小説の場合、どれだけ表現の省略ができるかが大切だと考える。某炎上なろう作品を数行読み、改めて考えさせられた。その作品の引用をそのままするのはあまり良いと思えないので、少し改変して載せてみよう。

女の子の号令の下に、一斉に紐を引かれるクラッカー。一体何人の女性が並んでいるのかは分からなかったが、視界を埋め尽くしているだけの数のクラッカーが寸分違わず一度に鳴り響き、轟音となって地面を揺らす。

  一文目の次は改行されているのだが、やかましいのでカットした。読者は好きに思えば良いので、このリズム感の良し悪しなど気にならない人はそれで良い。ただ、僕からすれば少し冗長に思えたりする。
  この例文から言うと、まず「クラッカー」とは何かという話になる。そもそも、「クラッカー」とは紐を引いて音を鳴らすものであるとすれば、「クラッカーが鳴り響く」だけで紐を引いている動作が付随していると言える。勿論、そうでない場合、つまり、クラッカーを鳴らす方法が紐を引っ張る以外にもあるならば(かつ、それが普及された方法であれば)この「紐を引っ張る」という描写は必要となるだろう。
  逆に言えば、例外の動作が生じる場合はその都度に描写する必要がある。例えば、「ギターを鳴らす」の時点で左手でフレットを押さえ、右手で弦を弾く動作が込められていることは分かるだろうが、「ギターを燃やす」と書くと「どのような方法で燃やすのか(古い洋楽好きならジミヘンとか連想するのかもしれない)」「ギターは今どのような状態なのか」という疑問が生じてくる。  また、弾いている場面が特殊な場合も、それを強調させるために描写するのも有りだろう。例えば、雨の中で濡れながらエレキベースを弾いていたとすれば、感電の危険性や弦の寿命の短さ、というものが描けるだろう。
  二文目は極めて厄介だ。「分からなかった」で区切った方が読みやすいだろうし、「視界を埋め尽くしているだけの数の」はリズム感の悪さを感じる。それより着目したいのは「クラッカーが寸分違わず一度に鳴り響き、轟音となって地面を揺らす。」という最後の箇所だ。こうした文章は度々見かけることがあるのだが、何が不思議かというと、「地面を揺らすほど鳴り響いている」のなら、それはすなわち轟音とは呼べないのか?  ということだ。実際、日常生活において音で地面が揺れる状態というのはどの程度あったろうか。アンプの傍で音を聞いても、重低音が全身を抜けるような感覚はあっても、地面が揺れることは早々ない。ということは、この地面が揺れるだけの音、というのは凄まじい音に違いないことになる。つまり、「轟音」と表記すれば、「地面を揺らす」音と重複気味の表現となってしまう。一文目に「一斉に引かれる」と書いてあるのに、改めて「寸分違わず一度」と説明するのも同じような状態だろう。
  あれ?  そもそもクラッカーって鳴り響くほど音が持続するのか?  鼓膜が破れそうではあるが。


  さて、その上で僕なりの例文を書いてみよう。いくつかのやり方がありそうだ。

1. 左右に整列した女性がどこまでも広がっていた。彼女らは女の子の掛け声の後に、一斉にクラッカーを鳴らした。その音は地面を揺らすほど響いた。

2.少女の掛け声に合わせて、彼女たちは一斉にクラッカーを鳴らした。その音は鼓膜を破くどころか、地を揺らすほど響いた。

3.俺が全裸少女をぺろぺろ舐め回していると、彼女はよく分からん言葉を叫び出した。すると突然、女性の列が現れ、一斉に膨れたコンドームを破裂させやがった。その音は俺のすっかり固くなっちまったオチンポ様に入り込み、尿道奥の前立腺をチカチカ刺激してきやがった。やれやれ、俺は射精した。こんなに出ちまったのは、蛆を入れた時以来だぜ。

ああ、これが朝の八時頃に書いた文章なことを少しも後悔する気はないが、公開には躊躇いを持った方が良いだろう。やかましいわ。
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夏の浜辺

2018-07-26 05:13:52 | 断片・詩・構想・屑
近頃、色々思うところがあるのも相まって疲労感が抜けない。この色々を詳細に書き連ねるつもりは全くないが、将来的にこれがテーマづくりに活かされる可能性があると睨んでいる。とりあえず、暑い夏が過ぎればもう少し冷静になれると思うのだが、こう30度超えばかりの日々では耐えられる気がしない。
  そういえば、少し涼しいものを書きたいと思い、逃避がてらに短いものを拵えた。元々数年前からこのようなものを作ってみたいと思っていたが、どうにも小説にはならなさそうなので、散文詩の形に仕立ててみた。
  文章における涼しさというのは、人間をあまり語らないことではないかと思う。いわゆる、熱血な人物が語れば暑苦しいだろうし、皮肉屋か書けばそう見えるだろうし、語り手の状態そのものが作品の温度となるのだろう。
  僕はどうも疲れてくると、一日中地元の海を見つめていたいと思う。テトラポットに座って視覚、聴覚、嗅覚を満たしていたいらしい。そういう願望が現れているのだと思われる。



  ある夏の日、浜辺を散歩していた。浜は白波の音や光に満たされていた。滴る汗も黄色の砂に触れては蒸発して、海へ還っていった。炎天下の青空には雲ひとつなかった。海風は少しでも暑さを逃そうとしていた。僕は打ち捨てられた大木に座り、途方もなく先のことを考えたり、描きたいものの空想に浸ってみたりした。そのうち、ぼんやりして眼を閉じた。
  瞼を開くと、夕暮れになっていた。帰ろうと思い、立ち上がると、波打ち際に女性が立っていた。彼女は真っ黒な影だった。
  ある日もまた、浜辺へ行った。海面は乱反射していた。一枚の貝殻にも磯の香りが残っていた。何枚か拾い集めても、対の貝殻は見つからなかった。潮風で揺れる木漏れ日に佇み、波打ち際を見つめたまま、前と同じようなことを考えていた。そのうちまた、ぼんやりしてきた。
  その日も、いつの間にか、夕暮れになっていた。彼女の波打ち際を歩く姿は、相変わらず暗闇だった。僕はその背が失われるまで、何となく眺めていた。
  僕は何度も海へ行き、その度にぼんやりして、彼女を見つめていた。足の指先から溢れた潮水は赤かった。彼女の足跡は一波、二波で消えて無くなっていた。薄暮の頃には、帰路を進む自分の足跡だけが、この浜に残っていた。
  気がつけば永い月日が過ぎていた。途方もない先のことも、少しずつ近づいていた。彼女は衰えることなく、何十年前と何も変わらない姿で、夕暮れの浜を歩いていた。僕はもう歩くことをやめて、木陰でしわだらけの身体を横たえていた。海原の揺らめきは蜃気楼だった。
  その日はいつになく揺らめいていた。木漏れ日が瞳に注がれていた。鴎が一二度鳴いたかと思うと、水平線の向こうに、ぼうっと汽笛が響いてきた。熱い海風が吹き抜けても、もはや一滴の汗も流れていかなかった。白い雲の切れ間には光が漏れていた。僕は今日一日のことを考えたり、描けなかったものを空想したりした。そのうち、ぼんやりして眼を閉じた。
  瞼を開くと、夕暮れだった。太陽の端が海面に溶けていた。彼女は波打ち際に立っていた。彼女が指差すと、太陽はぽっかり穴を空けた。夕暮れは彼女と共に、その穴の中へ吸い込まれていった。僕はもう明日を迎えられないと思った。
  眼を覚ますと、大木に座っていた。長い夢を見ていたらしかった。腕時計の針は五分も進んでいなかった。あまりの暑さで、景色は朦朧としていた。倒れたくはないので、もう帰ることにした。帰り際、波打ち際を見た。波の音だけが残っていた。
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バスにて

2018-07-24 12:09:34 | 日常
バスの中、前に座る男女から磯の香りがする。ふと沖縄の海を思い出す。延々とグラスボートに乗っていたいものだ。
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ある作家

2018-07-24 11:48:54 | 文章
大学の売店で中村なんとかの文章をちらっと見る。確かにこの文章なら影響を受けた先を想像するのは容易いが(この中村という方は「老人は何々して言う」という書き方をされる)、どうもこの「言う」の使い方には何らかの法則性があるように思う。僕は基本的にこの「言う」と言う表現について否定的だが、何らかの法則に従って用いているとすれば肯定できると思っている。
  しかし、教授方に聞いてもこの現在形の使い方には首をひねるばかりで、いまいちその効果を理解し難いところがある。小説というのは元来過去のものでしかない為に(全ての創造物がそうだと言える)、基本的には過去形の形で整える方が読みやすく感じられる。習慣的な行動や、説明文、あるいは昔から変わらないものなどを描写する時は「彼は今日も傘を差す」などのように、現在形にしても違和感がない。また、盛り上げようとする場面では意図的に現在形を多用する場合もあるだろう。
  しかし、この中村氏を現在の作家の代表として捉えるのはまず間違いだと思われる。現在でも上記のような法則に徹底されている方は多いだろう。恐らく中村氏の書き方は、少し気をてらった、あるいは翻訳か何かの影響が強い。少し読みづらさを感じたのも、その辺りかも分からない。
  この読みづらさから文章が下手だと断じるのはいけないと思うので、改めて買った上で読んでいけば、この書き方も理解できるのかもしれない。いや、買わないけども。
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創作における過去

2018-07-18 14:20:24 | 日常
過去の物語を作ろうとしても、その過去がどれだけ悲惨だったかを書いたところで、今書けているのは過去のおかげでしかないことを考えると、このテーマは「過去の肯定」以上の要素を持たないのかもしれない。
  例えば、商業作家が「過去」の何かに攻撃的になったとしても、その過去によって金が貰えるのだから、結局感謝せざるを得ない。これはあらゆる分野に言える。反戦的な考えは戦争があったから生ずるだろうし、親への反感は当人の中に何らかの理想のモデルがあったから起こるのだろう。いずれにしても、その思想を持って現在があることは変わらないので、逆説的に反対の存在を肯定することとなる。
  となると、創作に用いられるテーマは案外限られている可能性がある。過去は創作される以上、根底には肯定がある。それを否定し続けても、わざとらしい自己肯定の押し付けとなるかも分からない。
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