思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

海峡の浜

2017-06-11 00:05:23 | 断片・詩・構想・屑
  2015年7月以前のものなのは確かだが、多分、僕が記憶している限り彼女との関係を持つ前に出来上がっていたはずだから、2015年の4月頃の作品ではないかと思う。今の作風の片鱗が見える。
  僕は『あの青、あの唇』という作品が受賞したのだが、これはその元となった素材の一つだ。読んでくれた人はよく分かるだろうと思う。





  私の倦怠な心持ちはどうあっても拭い去れないものであった。私は極端に面倒くさがりであったので、倦怠を拭い去るために何処かに出掛けようという気にもなれず、呆然と一室で天井を見つめているだけで時の経つ、無意味な日々を過ごしていた。無性に本が読みたくなって乱雑に積まれた本の山を崩したりもしたが、そのどれもこれもに買い始めた頃の昂奮といったものが失われていた。その山にあるほとんどの本が読み終わっていないもので、いずれ読まなければならないと思っているものの、自宅では自堕落に天井を見つめているか、新たな執筆に取り掛かるかのどちらかで、読むという心持ちにはさらさらなれなかった。
  この倦怠には昔から世話になっている。幼少の頃から時折無気力になり、時折生きる意味を問い、何の答えも出せずに時が経つのを待つ。いつしか忘れた気になってくれば、再び思い出すまでは活発で居られるようになる。この繰り返しには慣れてきたものだが、しかし、慣れてきた処で親しみを憶えるものでもなく、この頃は倦怠なのか疲労なのかの区別も付かなくなり、執筆するための意欲に吸われているような心地がする。心地がした処で書くこともできなかったのだが、誰が云ったのでもなく、書けなければならないという焦燥に駆られてしまい、少し書き始めては諦めるを繰り返していた。普段ならば、薄暗い自宅の陰気な雰囲気に耐えかねて外へ出かけているはずなのに、この倦怠を前にしては何もできなくなってしまった。
  そこで、一つの遊びを考えついた。まず、布団を被って横になる。次に頭に情景を浮かべる。窮屈な乗合の中だとか、押し込まれた昇降機の中だとか、そんな卦体なものを浮かべてはならない。燦々とした大海原に、それを包み込む快晴。こういう時、沖縄だとかの下手に綺麗な海を描いてはならない。描くならば紺一色の海に限る。その方が陽光の照りが冴えて見えるのだ。それから、空は雲が無ければ無いほど良い。雲一つ描いてはならない。それによって何処か寂しげな雰囲気が出てくる。砂浜も何処か時化ていて、珊瑚の死骸やらヤドカリやら、そんな小綺麗なものは一切出さず、木の枝や空き缶や吸い殻ばかりが落ちていて、砂は光を浴びていても泥の色に似ていると良い。最後に、名称をつけることで現実味が帯びていく筈だ。
  ──そうだ。津軽海峡にしよう。
  砂浜を歩いていると、向こうから女が歩いてきた。顔をよく見ると、私の知っている女だった。彼女は白、赤、青、黄の大きさの定まらない四角形が不規則に散りばめられた服を着ていた。
「モンドリアン?」
  私は話しかけた。
「よくご存知ですね。コンポジションって何処か可愛らしくありません?」
  彼女は服と相まって、不思議な魅力を秘めているように見えた。それらの色は元々の明度が高いだけでなく、快晴の陽光に照らされているおかげで、尚も色彩鮮やかになっている。私は彼女の服が決して洒落ているものとは思わない。寧ろ、洒落というよりも奇怪。面妖。若しくはどこか、悲哀な気分にさせられる。潮の香りや時化た浜辺が一層にそう思わせてくるのだろうが、彼女の服はこの海に似合って見える。
「不思議な色だ。」
  私はそれでも本音を云わなかった。よくその不思議の内訳を知っていながら、あえて話そうとは思わなかった。私と彼女はそのような仲であった。
「この海に合わないかも?」
「そうでもない。不思議と似合う。」
「なら、明日は君の服も持ってきてあげる。」
  彼女は私に微笑み、元から居なかったかのように消えてしまった。次に消えてしまう津軽海峡。砂浜。太陽。空。私は薄暗い自分の部屋の中で、呆然としたまま数時間を過ごしていた。意外と楽しく過ごせたので、もう一度してみることにしたが、この遊びはどうも眠気に襲われていなければできないらしく、一度遊び終って目覚めてしまうと、中々すぐには思い描くことができなかった。眠っていなかったはずだが、瞼を閉じてその場を忘れる気になり、目前に広がる闇に少しずつ色を塗りつける作業をしていく、それを上手くやるには眠気がとても重要なことに気がついた。だが、まだ朝方だった。締め切ったカーテンの隙間から、光が漏れているのが見えた。部屋は妙に暑苦しくなって、私を落ち着かせてこなかった。過去の初夏の日々が忌々しく思い浮かび、一層のことこのまま家に居た方が気が楽な気もしてきた。しかし、腹も空いてきた。
  ──生きていくつもりもないのでは?
  私に語りかけてくる私に鬱陶しく思いながらも、厭々上体を起こして外へ出かけようとした瞬間、私はそもそも何故に外へ出かける必要があるのかと語りかけてきた。私は少し考えた後、腹が空いているからだと答えたが、それなら家の中にあるものを食べたら良いではないか、無駄に外へ出て疲れてしまうよりも、自宅に籠っている方がずっと良いと云われるので、それはそれで頷けてしまった私は、着ていたクリーム色のジャケットを脱ぎ捨て、鯨の柄が入った紺のシャツを脱ぎ捨て、ジーンズを脱ぎ捨て、布団の中に潜り込み、空想の世界へ再び入り込もうとした。随分時間が掛かった。
  津軽海峡は荒れていた。雨が降っていた。私は傘を忘れていたので、髪も服もずぶ濡れになりながら歩いていた。いつも見える臥牛山や、湯の川の街も、その日は雨のせいで見えづらくなっていた。私はずぶ濡れになっている感触が落ち着かなかったので、一層のことと思い、海の方へ近づいていった。靴と靴下を脱ぎ捨てて、裸足で海に触れると、あまりの冷たさに思わず引っ込めたが、砂浜に迫る波だけに触れながら、時間をかけて慣らしていった後、次は脛、腿、腰まで浸かるのに尚も慣れが必要となったが、それも慣れてきたら、腹、胸、肩、もう服を着ている必要もなくなったので、着ているものを全て脱ぎ捨てた。衣服は海藻のように漂っていった。私は顔を出したまま、荒波に何度も口を濯がれつつ、平泳ぎをして水平線の向こうを目指していた。波がさらに荒れてきてしまい、私は何処か遠くへと流されてしまった。口の中に溢れる潮の味が厭に生々しかった。
「それなら、一緒に死んでもいいよ。」
「ありがとう。君は優しいね。」
「旅は道連れなんだって。」
  私は疲れ切って薄暗い天井を見つめていた。寝汗をかいていた。いつの間にか眠ってしまい、夕暮れになっているらしかった。私は外へ出かけた。まだ陽が隠れ切れていない為に、山の先には朱色の光が溢れて、白の明瞭な三日月が、夜ふけへ向けて散りばめられた点状の星々が、空一面に広がっているのがよく見えた。肌寒かった。月を浮かべる田圃には、蛙たちの声が響いていた。
  遺伝子の性なのか、雄と雌が惹かれ合うために授けられたのか、そのように考える辺り私は未だ愚かだが、生きる為に、彼らは生きる為に鳴き続けているようだった。彼らは目的があった。生きることに喜びがあった。それが私と違った。生きることにそう苦労していないと、死ぬことばかりを考えるようになる。私は生きていることの喜びを感ぜられなかった。薬局で睡眠薬を買って、洋酒を用意した。以前、知り合いに聞かされた話によれば、睡眠薬をつまみに酒を飲めば死ぬそうだ。私は生死を彷徨うことに関心を抱いていたから……正直云えば、私は過去に何度も死のうと考えたこともあるし、しようとしたこともある。悉く諦めたり失敗してきたので、いつしか死のうとするにも体力がいることを知ってから、中々その気になれなくなっていたのだが、これなら体力も使わず気も使わずに逝けそうだったので、早速一粒飲み干し、二粒飲み干し、瓶ごと口をつけて呑んでみるも味が濃すぎて中々呑めず、大さじ一杯も呑めないまま眠気に苛まれ、天井が歪んでいくのに見惚れていた。
「私を置いていくの?」
  先とは別の女が泣いていた。それを見て、空虚な心地がした。
「死なないでね。」
「どうしたの?」
「ううん。なんとなく。」
「死なないよ。まだね。」
  私は彼女を放って、浜辺を描いた。
「こころの先生に似てるよね。」
  さらに別の女が私に話しかけてきた。
「俺はこころを読んだことがないんだ。どんな人なの?」
「思い悩んだ末に自殺する人。」
「そうか。今度読むよ。」
  私は浜を歩き出した。風も雲もない紺の空に月が浮かび、周りには点のような星々が散りばめられていて、水平線の向こうには烏賊釣り船が輝いていた。砂浜を歩く音と、穏やかな波の音だけが聞こえていた。私は歩くことにも飽きて、砂の上で胡座をかき、砂を掴んで握ったり放り捨てたりしていた。砂は心地良い冷気をまとっていた。素足になって立ってみると、やはり心地がよかった。何となく、砂の城を作ることにした。小山を作って、そこに塔のようなものを建てるつもりが、筒状に固めようとするたび素直に固まろうとせず、形状を整えようとする時点で崩れていってしまう。なので固めるのではなく、積らせるように振りかけていくしかない。少しずつ土台を作り出して、その上に砂をかけていくも、あまりにも時間のかかるような気がしてきた途端、面倒くさくなって放ってしまった。
  結局、細かい装飾を作り出せるほど器用でもないので、私の城は寧ろ、ただの山になっていた。
「私も手伝おうか?」
  彼女がそう云って手伝ってきた。山は少しずつ大きくなってきた。別の女も、また別の女も手伝って、女たちの手で山は大きくなっていった。女たちは山の頂上から丸みをつけ始めた。それが段々、何かしらの形を成してきたかと思えば、どうもそれは私の顔らしいことが分かった。私はなんとも恐ろしくなってきたので、もはや身長を越えるほどの高さになってしまった私を、殴りつけたり蹴りつけたりして崩していった。彼女らは私に当たり散らしてきたが、彼女らが当たるほど、私の空虚は増していくばかりであった。
「ごめんね。何も知らないで。」
  私を虚ろにさせた。
  昔から謝られることを恐れていた。謝るならば何とも思わないのだが、謝られることほど抉られるものはない。何もしていないというのに、大抵彼女らが謝る理由は私が原因だったと云うのに、彼女らは自分が悪いと思い込んでひたすらに謝ってくるのだった。彼女らの謝っている顔を見ていると、私に関わらなければよかったのにと心底思ってしまい、つくづく自分が居なければよかったと考えてしまう。例えば、何故謝らせたのかを考えてみれば、自ずとその元は、元はと考えていくと、私が生まれてしまったことに繋がってしまう。そこでこの考えを留めてしまうと、合わせ鏡な嫌悪に苛まれていくのだが、さらに先へ考えていけば、果てはこの世が出来上がる前から既にこうなることは決められていたという結論に達する。そこまで行けば、もうどうでもよくなってくるのだが、私はどうやらそこまで考えられるというのに、嫌悪に苛まれていたいらしかった。
  眼が醒めた時、頭を締め付けられるような痛みが走った。カーテンの隙間から光が差し込んでいた。意識は意外にも明瞭としていたので、乗合で繁華街に向かった。さすがに自堕落でいることにも疲れてきたので、何か本でも買って気を和らげようと思ったのである。土曜の昼間だと云うのに、人気は少なく、寂れている街が尚も寂れて見えていた。私は繁華街の裏手にある静かな道、そこはせせらぎ通りと呼ばれているのだが、右脇には川へ繋がる水路が通っていて、左手には旧家の屋敷が並んでいた。旧家だからと云って高貴な人々が住んでいるのでもないらしく、窓に米国漫画の風呂敷が飾られた家もあった。人気は少ないが、居る人々は皆観光客らしく、西洋人の顔立ちをした人が多かった。燕が家々を飛び回っていた。家と家の間に楕円な軌跡を描いて、眼の前に飛んできたかと思えば、機敏に向きを変え、ただ目的もなく飛び回っているように見えた。せせらぎ通りを越えた先を左折していくと、看板の建てられていない白い建物が見える。そこが目的の古本屋であった。身体が疲れていたのか、自分が酷く重く感ぜられた。何処か斜に構えていた時の厭世な心持ちに蝕まれて、歩いている人々や私を憎たらしく見つめてくる私がいて、それを見つめている私は哀しい思いになりながら、しかし、それだけ分かっていながら何もしない辺り、蝕ませている要因は私にしかないのだろう。
古本屋は洒落た内装をしていた。このような内装を何と呼ぶのかは知らないが、所謂蔵書屋のような小汚く狭苦しいものではなく、JAZZが流れる喫茶店だとか、ピアノの置かれてあるバーだとか、そのような雰囲気に似ている店であって、素晴らしいのはその雰囲気の癖に品揃えが良いことにある。よく内装に力を入れすぎてか、品揃えのよろしくない店もあるものだが、この店は中々私の需要に合わせた品が並んでいて、井伏鱒二の全集なんかも五千円で買わせてもらったものだ。私はその店にある講談文芸社の文庫本を見て回り、一度一通り買い漁った後のことだったので、これといって欲しいものが並んでいないことを確認すると、別の棚を見て回ったり、机に積まれてある美術の本を何となく開いてみたり、しかし、どれもこれも目ぼしい物がないと思った途端、私の目に飛び込んできた画集があった。
  それを説明するのに、私は何を伝えればよいのか分からない。一度暗闇を思い浮かべてほしい。真っ暗な闇だ。次に陽光を目で捉えた時の緑の靄、手をかざした時の気味の悪い赤の靄、それらの靄が雨を降らせてきて、真暗闇を鮮やかに彩り、雷光の線が途端引かれたかと思えば、それが円を描こうとしては諦めたり、宙に飛び回って明後日へ消えたり、いつしか幾つもの顔が浮かんでいるように見えてきたかと思えば、それはやはり何の意味もない出鱈目な靄の塊のようで、しかし、出鱈目の割りに恐怖を与えるには十分すぎるほどで、この奇怪な説明のできない、これは単語で表すならば混沌とでも呼べば良いのだ。しかし、混沌と云われてもそれは果たして何か? と疑問を浮かべないはずがなく、この絵は小説家としての私に敗北すら与えてきた。小説の限界を垣間見せられたような、何の意味もないのかあるのかも分からない、これこそ得体の知れない塊と呼ぶに相応しいものが、私の目を捉えて離さなかった。私は別の頁を開いてみた。すると、真っ暗闇は途端に青やら赤やら黄やら白やら、何が何だか分からない色の塊が散々に交わりあって、やはり何を表しているのかは分からないものの、この色の塊という塊が、何の規則性も持たない恐怖が、私が私を幻滅させてならなくなった。それぞれの色の雨を浮かべてほしい。それらが同時に降り注いできたら、果たして水溜りは何色になるだろうか。青、赤、黄、白だけでなく、黒でも緑でも茶でも良い。この世に存在するあらゆる色の雨が混じり合ったとすれば、その水溜りは一体何色になるのだろうか? それは決して無にはならない。概念の世界ならばそれはもはや無だ。何色かも分からない無の色になるに違いないが、しかし、目の前にあるものは決して無ではない。それぞれの色の要素が垣間見えていて、赤とも呼べるが青とも呼べ、黄とも呼べるが緑とも呼べ、かと思えばそれらの色は黒とでも白とでも呼べるのだから、言語の概念の世界でしか存在しえない小説には、土台説明のできない絵画なのである。
私は焦燥に駆られて家に帰った。
  津軽海峡は紺のまま、空は星々に満ち、船の照明が眩しかった。満月は私に語りかけるか迷っているらしく、大きな満月を開いて見つめていた。モンドリアンの女が私に話しかけてきた。私はコンポジションの美しさを二三述べた後、彼女を通り過ぎた薄暗闇の浜の上に、本が置かれてあることが分かった。それは紛れもなく古本屋で見た本であった。私はもう拾って読む気にはなれなかったが、そうする必要もなく、その本がその本だと自覚した時点で、女の服がコンポジションからあの絵に変わっていることに気が付いた。
「君もそれが好きなのか?」
「ええ。何が何だか分からないけれど。」
「確かに。それにしても禍々しいな。」
「嫌い?」
「好きではない。でも、君は好きだ。」
「君の分もあるよ。」
  服を着た。私の身体は禍々しい云い様のない混沌に包まれた。彼女と私に描かれた靄を見て、お互いに笑い合った。指でなぞってみると、靄の中に白い線が描かれた。不規則を意識して何本も線を引いてみたのだが、何処か規則性のある線にしかならず、私を尚も幻滅させた。私が赤の線を入れたいと思ったら、線は赤く、同じように何色にでも変わったので、好きに描いていったら、やがて何色なのかも分からなくなり、元が何であったのかも分からなくなってしまった。次第に何色にもならなくなってしまったので、彼女の服にも描いてやろうとした。
「私には描けないよ。」
「分かっていたよ。」
  彼女は微笑み、私の周りを歩き回った。素足で砂を掘ったり、海に浸したり、彼女は禍々しい服を着ていながら、実に可憐で哀しい足取りをしていたのだ。満月が素足を照らし、纏わりついていた海水の一雫ごとが、弱々しい光を籠らせていた。私は寝そべって、左頬に砂が触れるのを感じた。意外と温かかった。波の音が段々大きく聞こえてくるのを感じた。
「もう波も止めてくれ。僕は疲れた。」
  彼女が哀しい目で私を見つめてきた。だから、瞼を閉じて静かに眠ることにした。波の音も、女の音も消え、そして、何も聞こえなくなった。
  私は眼を開かずとも、音を聞かずとも、隣に横たわる彼女を感じずにはいられなかった。