goo blog サービス終了のお知らせ 

CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

CTNRX的見・読・調 Note ♯007

2023-09-27 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(7)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(6) ❖

 ▶ガズナ朝

 ガズナ朝(ペルシア語: غزنويان, )

 現在のアフガニスタンのガズニーを首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年〜1187年)。
 ガズニー朝ともいう。

 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。
 また、その言語、文化、文学、習慣はペルシャのものだったことから実質的にはイラン系の王朝とする見方もある。
 その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。

 ◆サーマーン朝からの半独立

 サーマーン朝のアブド・アル=マリク1世に仕えていたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)だったアルプテギーンが、マリク1世の死後に失脚して、955年にガズナで半独立化して立てた政権を基礎としている。

 ◆アフガニスタン支配の確立

 元アルプテギーンのマムルークで、ガズナ政権の5代目の支配者となったサブク・ティギーン(在位977年〜997年)のとき勢力を拡張し、サーマーン朝に代わって現在のアフガニスタンの大部分を支配するようになり、南のパンジャーブにも進出した。
 スブクティギーンより政権の世襲が始まるため、スブクティギーンを王朝の初代に数えることが多い。

 ◆マフムードのインド侵攻

 サブク・ティギーンの死後、998年にen:Battle of Ghazni (998)で弟イスマーイール(在位997年〜998年 )を倒して即位したマフムード(在位998年〜1030年)のとき、ガズナ朝は最盛期を迎えた。
 マフムードはサーマーン朝に対する攻撃を強めてこれを滅亡に追いやり、イラン方面のホラーサーンに勢力を広げるとともに、パンジャーブから本格的にインドに進んで北インドやグジャラートに対して17回にわたる遠征を連年行った。
 異教徒に対するジハード(聖戦)の名目のもとに行われた遠征により、ガズナ朝は1018年にはカナウジのプラティハーラ朝を滅ぼすなど勢力をインドに大きく広げる。
 マフムードの治世において、ガズナ朝の領域は北は中央アジアのサマルカンドに及び、西はクルディスタン、カスピ海から東はガンジス川に至るまで広がって、ガズナ朝のマフムードの権威は鳴り響いた。

 マフムードの遠征を支えたガズナ朝の軍隊の中核は、テュルク系主体のマムルークからなっていた。
 文化面では、行政の実務はペルシア人の官僚が担当したので、ペルシア語が公用語になり、マフムードの時代には、その惜しみない援助を頼って『シャー・ナーメ』で名高い詩人フィルダウスィーを初めとする文人たちがガズナに集い、マフムードのもとでペルシア語文学が大いに盛行した。
 首都ガズナもまた繁栄を極め、文人たちはその壮麗さと征服者マフムードの名を称えた。その盛名は、ガズナ、ガズナ朝といえば、マフムードの名と永遠に結びつくといわれるほどである。マフムードが1030年に亡くなると、広大に過ぎる征服地を維持することはできなかった。

 ◆セルジューク朝の台頭

 マフムードの後を継いだ息子のマスウード1世(在位1031年〜1041年)は、1040年に新興のセルジューク朝にダンダーナカーンの戦いで敗れ、ホラーサーンなど支配領域の西半を失った。
 その後、ガズナ朝はイブラーヒーム(在位1059年 - 1099年)の治世に幾分か勢いをとりもどしたが、かつてのような栄光や力はもはや失われ、12世紀前半にはホラーサーンを本拠地としたセルジューク朝のサンジャル(在位1118年〜1157年)に臣従して貢納を行うほどであった。

 ◆滅亡

 1150年、もとガズナ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落させられ、その略奪によってガズナの繁栄も地に落ちることとなった。
 ガズナ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。

 ▶セルジューク朝

 セルジューク朝 (ペルシア語: سلجوقیان‎, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。
 大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。


 テュルク系遊牧民オグズの指導者セルジュークおよび、彼を始祖とする一族(セルジューク家)に率いられた遊牧集団(トゥルクマーン)により建国された。
 この遊牧集団を一般にセルジューク族というが、セルジューク族という語にあたる原語セルジューキヤーンは「セルジューク家に従う者たち」という程度の意味で、全てが血縁的結合をもった部族集団というわけではなく、セルジューク家の下に結集した様々な集団の集合体というべきものである。
 セルジューク族のトルコ国家という意味から、かつてはセルジューク・トルコやセルジューク・トルコ帝国、セルジューク朝トルコ帝国という呼称がしばしば用いられたが、現在はセルジューク朝と呼ぶのが一般的である。
 セルジュークはテュルク語による人名をアラビア文字で記したもの( سلجوق Saljūq/Seljūq )をペルシア語風に発音した形で、元来のテュルク語ではセルチュク(Sälčük/Selčük)といった。

 ◆セルジューク朝の勃興

 王朝の遠祖セルジュークは、オグズ族のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属するテュルク系遊牧集団(部族)の君長であった(セルジューク朝時代の資料では、むしろ『シャーナーメ』などのイラン世界伝統の歴史観に基づいて、古代のトゥーラーンの王アフラースィヤーブの後裔を名乗る場合が多く見られる)。
 10世紀後半頃にセルジュークらの遊牧集団はアラル海の北方から中央アジアに入り、アラル海東方のジャンド(現カザフスタン領)に拠を構え、南のステップ地帯や丘陵部へ定着して遊牧生活を送りながらイスラム教に改宗した。
 このように遊牧生活を守りながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語でトゥルクマーンという。 10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下してトゥーラーン(現ウズベキスタン・タジキスタン)に入り、サーマーン朝に仕えて勢力を蓄えた。
 セルジュークの子のひとり、イスラーイールは、11世紀初頭に配下のトゥルクマーン4000家族とともにさらにアム川を南渡してガズナ朝のマフムードに仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。
 しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーンの統制は失われ、アム川以南のホラーサーン地方(現トルクメニスタン)には多くのトゥルクマーンが流入し略奪が行われるようになった。

 一方、トゥーラーンに残ったイスラーイールの甥、トゥグリル・ベグをリーダーとするセルジュークの子と孫たちは、サーマーン朝を滅ぼしてトゥーラーンを支配したカラハン朝と対立して1035年にアム川を渡り、1038年にニーシャプール(現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。
 この事件がセルジューク朝の建国とされる。トゥグリル・ベグ兄弟はホラーサーンのトゥルクマーンを統御して軍事力を高め、1040年にはガズナ朝のマスウード1世の軍をダンダーナカーンの戦いで破ってホラーサーンの支配を固めた。
 トゥグリル・ベグは1042年にはアム川下流のホラズム(現ウズベキスタン西部)を占領し、1050年にはイラン高原に転進してイスファハーンを取り、イランの大部分を手中に収めた。
 また、スルタン(スルターン)の称号をこの頃から称し始めた。
 スンナ派のムスリム(イスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、バグダードにいるアッバース朝のカリフに書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派の擁護者としてシーア派に脅かされるカリフを救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つ、という大義名分を獲得した。
 1055年、バグダードのカリフから招きを受けたトゥグリル・ベグはバグダードに入城し、カリフから正式にスルタンの称号を授与された。
 同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号がイスラム世界において公式の称号として初めて認められた。

 ◆セルジューク帝国

 1063年にトゥグリル・ベグは亡くなり、甥のアルプ・アルスラーンがスルタン位を継承した。
 アルプ・アルスラーンは傅役(アタベク)のペルシア人官僚ニザームルムルクを宰相(ワズィール)として重用し、彼のもとで有力な将軍に対するイクター(徴税権)の授与による軍事組織の整備や、マムルーク(奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却した君主権力の確立が目指された。
 アルプ・アルスラーンは積極的に外征を行って領土を広げ、1071年にはマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)で東ローマ帝国に勝利し、皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕虜とした。
 この戦いによって東ローマ帝国のアナトリア方面の防衛が手薄になり、セルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなど多くのテュルク系の人々がアナトリアに流入し、アナトリアのテュルク(トルコ)化が進んだ。
 翌1072年、アルプ・アルスラーンの子マリク・シャーが、イラン東部のケルマーンにセルジューク朝のアミールとして地方政権を立てていた伯父、カーヴルト・ベグのスルタン位を狙った挑戦を破り、スルタン位を継承した。
 18歳のマリク・シャーは全権をほとんど宰相ニザームルムルクに委ね、君主の仕事は狩猟だけであるといわれたほどであった。大宰相ニザームルムルクの補佐を受けたマリク・シャーの時代に、セルジューク朝の支配は最大領域に広がった。
 西方ではセルジューク朝の権威はアナトリア、シリア、ヒジャーズに及び、東ではトランスオクシアナまで支配下に収め、セルジューク朝は中央アジアから地中海に及ぶ大帝国へと発展した。
 しかし、この時期にトゥルクマーンの一集団がファーティマ朝から聖地エルサレムを占領したことが西ヨーロッパに「トルコ人が聖地を占拠してキリスト教徒の巡礼を妨害している」という風評を呼び起こし、また東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスがアナトリアの領土奪回のためローマ教皇に対して援軍を要請したため、1096年の第1回十字軍が編成されることになる。

 版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。
 このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。
 セルジューク朝の地方政権の中では、トゥグリル・ベグが子を残さずに没したときアルプ・アルスラーンと戦って敗北したクタルムシュの子、スライマーンがアナトリアのトゥルクマーン統御のためマリク・シャーによって送り込まれ、1077年にニカイアを首都として建国したルーム・セルジューク朝(1077年〜1308年)が有名である。
 同じくマリク・シャー期にはマリク・シャーの弟トゥトゥシュによりダマスクスにシリア・セルジューク朝(1085〜1117年)が立てられ、ルーム・セルジューク朝と抗争した。
 ケルマーンには、先に触れたカーヴルト・ベグの敗死後も、その子孫がケルマーン・セルジューク朝(1041年〜1184年)として存続する。
 トゥグリル・ベクによって建国されイラク・イランを中心に支配したセルジューク朝の大スルタン政権は、これらのセルジューク朝地方政権と区別するために、大セルジューク朝とも呼ばれる。

 ◆大セルジューク朝の混乱と終焉

 1092年、宰相ニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に暗殺され、さらに同年翌月マリク・シャーが38歳で死ぬと、カラハン朝の王女テルケン・ハトゥンを母にもつ4歳のマフムードを支援する勢力と、12歳の長男バルキヤールク(ベルクヤルク)を支援する故ニザームルムルクの遺臣勢力の間で後継者争いの内紛が起こり、大セルジューク朝に2人のスルタンが並存した。1094年にマフムードが夭折するとバルキヤールクは単独のスルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャーの弟たちとの間でも後継者の座を巡って争いが続き、1099年に十字軍がシリアに到来してエルサレムを奪ったときも十分な対応をとることができない状態であった。
 さらに、バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルらがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争いを起こすと、大セルジューク朝の支配領域はバルキヤールクとムハンマドの間で分割されることになった。
 この内紛は、バルキヤールクが1104年、その子マリク・シャー2世が1105年に若くして没したために、ムハンマド・タパルのスルタン位継承をもって終結するが、もはやスルタンの権威は大きく失墜していた。

 1119年に至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーンに派遣され、イラン西部から中央アジアにかけて勢力を確立していたムハンマド・タパルの同母弟サンジャルが、前年に亡くなったムハンマド・タパルの子マフムードを破り、甥にかわって兄ムハンマド・タパルの後継者としての地位を確立した。
 これをきっかけにサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たち、イラク・セルジューク朝(1118年〜1194年)に対しても大スルタンとして宗主権を行使するようになり、1123年には断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻して、大セルジューク朝を復興させた。
 サンジャルはガズナ朝の都ガズナを征服し、ガズナ朝を支配下に置いた。
 1121年には現在のアフガニスタンに勃興したゴール朝を服属させ、1130年にはカラハン朝を宗主権下に置き、支配下にありながらサンジャルに反抗したホラズム・シャー朝のアトスズを攻撃して屈服させた。
 こうしてサンジャルは大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功したが、1141年に東方から襲来してカラハン朝を侵食した耶律大石率いるキタイ人の西遼軍を撃退しようと出撃してカトワーンの戦いで敗れた。
 この敗戦やキタイ人に追われて中央アジアから新たにホラーサーンに逃れてきたトゥルクマーンの増加はサンジャルの地盤であったホラーサーンを脅かすようになった。
 1153年、トゥルクマーンの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した。
 1157年のサンジャルの病没によってセルジューク朝の全体に権威を及ぼす大スルタンは消滅し、大セルジューク朝は事実上滅亡した。

 ◆イラクとケルマーンにおける
       セルジューク朝の滅亡

 サンジャルの死後、ホラーサーンは将軍たちの内紛の末、ホラズム・シャー朝の手に渡った。
  一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、サンジャルの先代の大スルタン、ムハンマド・タパルの子孫でイラン西部(イラーク・アジャミー)とイラク(イラーク・アラビー)を支配したイラク・セルジューク朝が存続したが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、アタベクたちが実権を掌握し、支配は有名無実化していった。
 1194年、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュはイランに進出し、イラク・セルジューク朝最後のスルタン・トゥグリル3世を敗死させた。ケルマーン・セルジューク朝は、既に1186年にトゥルクマーンによってケルマーンを奪われ滅亡しており、トゥグリル3世の死によりイラン・イラク・ホラーサーンにおけるセルジューク朝は完全に滅亡した。
 ルーム・セルジューク朝は他のセルジューク朝諸政権が内紛から衰退に向かう12世紀後半にただひとつ最盛期を迎えたが、1243年にモンゴルの支配下に置かれた。
 ルーム・セルジューク朝はその後も名目の上では存続し、セルジューク朝の地方政権のうちでは最も長く続いたが、1308年に最後のスルタンが没して消滅した。

 ▶ホラズム・シャー朝

 ホラズム・シャー朝(ペルシア語: خوارزمشاهیان‎ Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年〜1231年)。
 ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。


 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。

 ◆建国から拡大の時代

 ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。
 アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。
 ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。
 1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルターン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。
 この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ・キタイ(西遼)を中央アジアに呼び寄せたという節もある。
 1141年、カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。
 しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。
 1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。

 1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。
 争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。
 テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。
 1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
 1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。
 もともとホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民カンクリやキプチャクの力が大きな役割を果たした。
 テキシュの妻の一人であるテルケン・ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムハンマド(アラーウッディーン)が1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。

 ◆大帝国の建設と崩壊

 テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた。
 アラーウッディーンはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。
 カラ・キタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝は臣従と引き換えにアラーウッディーンにカラ・キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ・キタイを攻撃した。
 アラーウッディーンはカラ・キタイに敗れてホラズム内に彼が戦死した噂まで流れるが、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟してスィル川を渡り、キタイ人を破った。
 同1210年(もしくは1212年)にホラズムへの臣従を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフルを勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した。
 さらにはシハーブッディーンの死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。
 アラーウッディーンはゴール朝のホラズム侵入をアッバース朝の扇動によるものと考え、バグダードの領有とカリフの地位を望んだ。
 アッバース朝が招集したファールスやアゼルバイジャンのアタベク政権を破り、1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。

 しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。
 ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラ・キタイの政権を奪ったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた。
 アラーウッディーンはモンゴル帝国のチンギス・ハーンと誼を通じていたが、1216年にスィル川河畔のオトラルで、ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュクが、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。
 モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラーウッディーンはテルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した。

 ◆モンゴル襲来と滅亡

 おそらくかねてから中央アジア侵攻の機会をうかがっていたモンゴル帝国のチンギス・ハーンは、この事件を機にホラズム・シャーへの復讐を決し、1219年にハーン自ら率いるモンゴル軍の大規模な侵攻を開始した。
 アラーウッディーンはカンクリ族を含む、遊牧民諸部族の寄り合いだったため、モンゴルの侵攻に対しては内紛と反抗の危険性に脅かされていた。
 これにより、モンゴルの侵攻に対して寝返りの危険がある野戦で迎撃する作戦を取ることができず、兵力を分散してサマルカンド、ブハラなど中央アジアの各都市での籠城戦を行なった。
 その結果、各都市は綿密に侵攻計画を準備してきたモンゴル側の各個撃破にあって次々に落城、破壊され、ホラズム・シャー朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事実上崩壊した。
 アラーウッディーン・ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先のカスピ海上の小島で死亡した。
 モンゴル軍の侵攻に際し辛うじて抵抗を続けることができたのは、アラーウッディーンの子ジャラールッディーンであった。
 ジャラールッディーンはアフガニスタン方面でモンゴルと戦い[24]ながら次第に南へと後退し、一時はインダス川を渡ってインドに入った。
 ジャラールッディーンはインドの奴隷王朝に支援を求めるが拒絶され、奴隷王朝とインドの領主たちはジャラールッディーンを放逐するために同盟した。
 ジャラールッディーンはイランに戻って各地を転戦、エスファハーンで独立した弟ギヤースッディーンを破る。
 イラクを経てアゼルバイジャンに入り、1225年に当地のアタベク政権イルデニズ朝を滅ぼしてタブリーズに入城した。

 ジャラールッディーンはアゼルバイジャンを根拠にグルジア王国を攻撃して南カフカスから東アナトリアに勢力を広げるが、1227年にギヤースッディーンの裏切りによってモンゴル軍との会戦に敗れる。
 ジャラールッディーンはギヤースッディーンを再び破り、イラクに進出した。アナトリア中央部を支配するルーム・セルジューク朝と婚姻関係を結ぼうと試みたが、東部アナトリアの領土を巡って交渉は決裂した。
 1230年、ジャラールッディーンは東部アナトリアのエルズィンジャン近郊でルーム・セルジューク朝とダマスカスを支配するアイユーブ朝の地方政権の連合軍に敗れ、その兵力の半数を失った。 1231年、チンギスの死後に後を継いだオゴデイ・ハーンはイラン方面に将軍チョルマグンを指揮官とする討伐隊を派遣する。宰相シャラフ・アル=ムルクをはじめとする配下と、モンゴル軍の到来を知ったアゼルバイジャンの住民はジャラールッディーンに反旗を翻した。
 モンゴル軍の攻撃を受けたジャラールッディーンは東部アナトリアのアーミド(現在のディヤルバクル)近郊の山中に逃亡するが、怨恨を抱く現地のクルド人によって殺害される。
 ジャラールッディーンの死により、ホラズム・シャー朝は滅びた。

 《モンゴルのホラズム・シャー朝征服》

 1219年から1222年にかけて行われたモンゴル帝国によるホラズム・シャー朝の征服について。

 この遠征によって中央アジアには多大な被害がもたらされたとされるが、その規模については諸説ある。

 ◆戦争の背景

 ❒両国の交流

 13世紀初頭、中央ユーラシアの東方(モンゴル高原)ではテムジン(チンギス・カン)率いるモンゴル国、西方(中央アジア)ではアラーウッディーン率いるホラズム国という2大勢力が急速に勢力を拡大しつつあった。
 更に、1211年から1215年にかけてモンゴル帝国は第一次対金戦争によって華北の大部分を制圧し、ホラズムは1212年/13年までにマー・ワラー・アンナフル地方を制圧してアフガニスタンのゴール朝を併合し、
 1217年/18年にはバグダード遠征を実施してアッバース朝のカリフに圧力を加えイラン方面にも勢力を拡大した。
 一連の戦役によって多民族を統べる大帝国を築きつつあった両国は既に互いの存在を意識しており、イルハン朝の歴史家ジュヴァイニーは、1200年に没したホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・テキシュは西遼の後方に存在する「恐るべき民族」の存在をアラーウッディーンに警告し、聖職者のサイイド・モルタザは「恐るべき民族」の防壁となる西遼の衰退を嘆いたことを伝えている。 
 1215年、アラーウッディーンはサイイド・バハーウッディーン・ラーズィーが率いる使節団をチンギスの元に派遣した。
 チンギスは使節団を厚遇し、ホラズム地方出身のマフムードらが率いる返礼の使節団を派遣するなど、表面上の友好関係を築いた。

 一方、同時期に両国の中間にあたるアルタイ山脈から天山山脈にかけては、かつてモンゴル帝国によって滅ぼされたメルキト部とナイマン部の残党が逃れ込み、ナイマン部のクチュルクはカラ・キタイ朝を乗っ取るに至っていた。
 1216年に中国方面の攻略を将軍ムカリに委任しモンゴル高原に帰還したチンギス・カンは、翌1217年にはスブタイ(「四狗」の一人)率いる軍団をケム・ケムジュートのメルキト部残党の下に、ボロクル(「四駿」の一人)率いる軍団を叛乱を起こした「森林の民(ホイン・イルゲン)」の下に、そして1218年にジェベ(「四狗」の一人)率いる軍団を天山山脈のナイマン部=カラキタイの下へ、それぞれ派遣した。
 このうち、ジェベとスブタイは順調に敵軍を討伐したが、ボロクルのみは敵軍の奇襲を受けて急死してしまったため、1218年にチンギス・カンの長男ジョチが後詰めとして出陣し、恐らくはスブタイらの軍団も指揮下に入れ、キルギス部を初めとする「森林の民(ホイン・イルゲン)」を平定した。

 また、ジェベが率いる遠征隊が西遼を滅ぼして東トルキスタンを支配下に収めると、西遼を吸収したモンゴル帝国はホラズム・シャー朝と領土を接するようになった。
 一方、スブタイらに敗れたメルキト部残党の中でクルトゥカン・メルゲンのみは更に西北方面に逃れてキプチャク草原東端に進出し、これを追ったジョチ率いるモンゴル軍は期せずしてホラズム朝の支配圏に侵入することになった。
 一方、ホラズムのアラーウッディーンもまた早い段階から自国領に侵入したメルキト部の動きを察知しており、これを撃退すべくサマルカンドからブハラを経由してジャンドに至った。
 ジャンドに到着したアラーウッディーンはメルキト部を追撃するモンゴル軍もまた西進してきたことを知ると、モンゴル軍に打撃を与える絶好の機会と見てサマルカンドに戻って精鋭軍を招集し、自ら軍勢を率いて北上した。

 ❒オトラル事件

 このようにモンゴル・ホラズム両国の対立が深まっていた1218年に、アラーウッディーンはブハラにおいてモンゴル帝国から派遣された使節団と謁見し、「両国の友好を望み、自分の子のように見なしたい」というチンギスからの申し出を受け取った。
 アラーウッディーンは使節の一人であるマフムードにモンゴル帝国の兵力について尋ねたとき、アラーウッディーンに怒気を帯びていることに気付いたマフムードはモンゴルの兵力はホラズム・シャー朝に比べて弱いものだと答え、平静を取り戻したアラーウッディーンは友好的な回答を与えて使節を送り返したと伝えられている。
 同年、モンゴルが派遣した使節団と隊商がオトラルの町で総督イナルチュクに殺害され、財貨が略奪される事件が起きた。
 モンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征の原因を使節団の虐殺に対する報復とすることが従来定説とされているが、先述したようにメルキト部・ナイマン部残党の動向を巡って両国は1217年から既に軍を動かしており、「オトラル事件」はモンゴル側にとってホラズム侵攻の正当化の方弁に過ぎないと指摘されている。

 そもそも中央アジア遠征の補給基地たるチンカイ・バルガスンが1212年に建設されているように、ホラズム・シャー朝の攻撃は前もって計画されたものであり、使節団は遠征の前に派遣された偵察隊の役割を担っていたと推定する見解が現れている。
 モンゴルの中央アジア遠征の動機として、王侯貴族への新たな牧地の授与、従属民への戦利品の分配による社会的矛盾の緩和が挙げられている。
 また、オトラルの虐殺はモンゴル帝国とホラズム・シャー朝の友好による交易路の保護と拡張を期待していたムスリム商人に打撃を与え、彼らの交易ネットワークは破綻した。

 ❒カラ・クムの戦い

 それぞれメルキト部残党を追ってシル河北方の草原地帯に至ったジョチ率いるモンゴル軍とアラーウッディーン率いるホラズム軍は、1219年初頭に「カンクリ族の住まう地」カラ・クムにて激突した。
 両軍はともに遊牧国家伝統の右翼・中央・左翼からなる3軍体制を取って戦闘に臨んだが、両軍ともに決めてを欠いたまま日没を迎え、遂に明確な勝敗が決まらないまま両軍は撤兵した。
 ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』は、戦後に戦闘の経過を聞いたチンギスが「ホラズム軍の勇敢さを品定めし、スルターン軍の程度と規模がはたしてどれほどのものなのか、かくてわれらにはどのような取り除けない壁も、抗しえない敵ももはやないとわかって、諸軍をととのえ、スルターンに向かって進軍した」と記しており、この一戦でホラズム軍の力量を見切った事でチンギス・カンはホラズム侵攻を最終的に決断することになった。
 一方、ホラズムの側では国王自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援がなければ自らの身すら危うかったスルターン=アラーウッディーンは自信喪失してしまった。
 モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなくオアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている。
 なお、古くはロシア人史家V.V.バルトリドの学説に基づいて「カラ・クムの戦い」の戦いが起こったのは1216年のことで、モンゴルのホラズム侵攻とは直接関係ない戦いであったとする説が有力であったが、バルトリドの議論は史料の誤読に基づくものであって現在では成り立たないと指摘されている。

 モンゴル帝国で開催されたクリルタイでホラズム・シャー朝との開戦が正式に決定されると、軍隊の編成が協議された。
 チンギスは末弟のテムゲ・オッチギンをモンゴル高原に残し、1218年末にホラズム・シャー朝への行軍を開始した。 
 1219年夏にチンギスはイルティシュ河畔で馬に休息を取らせ、同年秋に天山ウイグル王国、アルマリクのスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンの軍隊を加えて進軍した。
 開戦前にモンゴル帝国は西夏にも援軍の派遣を求めていたが、西夏から援軍は送られなかった。
 経済的な危機に直面するムスリム商人はモンゴル帝国の征西に積極的に協力し、ホラズム・シャー朝の国情や地理に関する詳細な情報を提供するだけでなく、遠征の計画の立案にも関与していたと考えられている。

 ▶ゴール朝

 ゴール朝(ペルシア語: دودمان غوریان, ラテン文字転写: Dudmân-e Ğurīyân))は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝(11世紀初め頃〜1215年)。
 グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家(ペルシア語: شنسبانی, ラテン文字転写: Šansabānī)という。


 ◆ゴール朝の先祖

 シャンサブ家を首長とするシャンサバーニー族は、現在のアフガニスタン中部、ハリー川上流にあたるヘラートの東の山岳地帯ゴール地方(グール、マンデーシュとも)に居住しイラン系の言語を話していた人々で、地名からゴール人あるいはグール人と呼ばれたため、王朝の名が起こった。
 王統の起源については詳しいことは不明であるが、ゴール朝滅亡後にまとめられた年代記によると、その先祖は第4代正統カリフ、アリーの時代にイスラム教に帰依し、バンジー・シャンサバーニーのとき、アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードによってゴール地方の領主に定められたという。
 確実なところでは11世紀初頭頃に歴史上にあらわれ、ガズナ朝の英主マフムードの遠征を受けてガズナ朝に服属した。その後、ガズナ朝衰退後の11世紀末にガズナ朝とセルジューク朝との緩衝地帯になったことから自立し、1099年に独立を認められたが、1108年にはアフガニスタン北西部からイランにかけてのホラーサーンに拠るセルジューク朝のサンジャルによる支配を受け、セルジューク朝に服属した。
 ゴールの地方勢力であった頃のゴール朝は、シャンサバーニー族の部族制国家の性格が強く王朝内部の争いがしばしば起こったが、12世紀には、王家の一員クトゥブッディーンが兄弟たちの争いからガズナの宮廷に逃れたところ毒殺される事件があった。
 また、この事件の後には、ゴール朝のサイフッディーンは一時ガズナを占領したもののガズナ朝を支持する民衆たちの反感からまもなく捕虜となって処刑され、ゴール朝とガズナ朝は対立を深めた。

 ◆アラーウッディーンの勃興

 1150年に至り、ゴール朝のアラー・ウッディーン・フサイン2世(フランス語版)(ʿAlāʾ-ud-Dīn Ḥusayn II)は、カンダハール付近の戦いで、ガズナ朝のバフラーム・シャーに大勝した。この戦いで、歩兵を中心としたゴール軍は、防御用の盾を連ねて堅固な陣地を築いてガズナ軍の戦象隊を食い止め、攻撃の決定力をもたないガズナ軍をさんざんに打ち破り、ガズナを最終的に奪ってガズナ朝をホラーサーン・アフガニスタンからインド方面へと追った。
 ガズナへ入城したゴール軍は積年の恨みを晴らさんばかりに略奪、蹂躙の限りを尽くし、ガズナの歴代スルタンの遺骸まで掘り出して焼いたという。
 これによってゴール朝は、カーブルからガズナまで現在のアフガニスタン東部を広く支配することとなり、自立、発展の基礎を築いた。
 ゴール朝の君主はそれまでマリクあるいはアミールと称していたが、こののちスルタンを称するようになり、儀礼用の日傘を用いるようになった。
 1152年、ゴール朝はセルジューク朝への貢納を停止し公然とこれに宣戦したが、テュルク系の兵力がセルジューク朝側に降ったため惨敗し、アラーウッディーンは捕虜になった。
 しかし、まもなくセルジューク朝のサンジャルがトゥルクマーン遊牧民(オグズ)との戦いで捕虜となったことをきっかけにセルジューク朝のホラーサーン政権は無力化し、西のホラーサーンが政治的空白地帯になったため、ゴール朝は急速な勢力拡大に向かう。 アラーウッディーンは、シャンサブ王家の王族の間で領域を三分割支配する体制を築き、ゴール地方のフィールズクーフを宗家が支配し、ガズナとバーミヤーン(Bamiyan Branch)をそれぞれ分家が支配するようになった。
 バーミーヤンのゴール朝は西方に勢力を伸ばしてアム川流域にいたる地方を支配し、ガズナの分家がインド支配を企てることになる。

 ◆最盛期

 アラーウッディーンの死後、王位を奪手中に収めた甥のギヤースッディーン・ムハンマドがゴールを支配し、弟のシハーブッディーン(ムイッズッディーン・ムハンマド、ムハンマド・ゴーリーとも)がガズナを支配した12世紀後半から13世紀初頭に、ゴール朝は最盛期を迎えた。 兄弟は連携して領域を拡大し、ギヤースッディーンは弟と協力して1186年にラホールにいたガズナ朝を滅ぼした。
 北では、1190年にホラズムからホラーサーンに支配を広げつつあったホラズム・シャー朝を破ってその君主を捕虜とし、1198年にはカラキタイ(西遼)の侵入を撃退した。
 こうして1200年には、ホラーサーンの大半を支配することに成功し、ニーシャープールにホラーサーン総督を置いた。
 一方、弟のシハーブッディーンはラホールからインド奥深くへと侵攻し、1191年にはタラーインの戦いでラージプート軍を破り、ベンガルまで軍を進めて事実上の北インド支配を達成した。
 ゴール朝の国力が絶頂となったギヤースッディーンの治世には、王朝の本拠地ゴールやヘラートで盛んに建設事業が行われた。中でもゴール地方のハリー川支流のほとりに立つジャームのミナレットは現存し、世界遺産に登録されている。

 ◆ゴールの支流とデリー・スルターン朝の成立

 1203年、ギヤースッディーンが病没すると弟のシハーブッディーンがその後を継いで西方経営に力を注いだが、ホラズム・シャーとカラキタイに敗れ、ヘラートを除くホラーサーンのほとんど全土を失った。
 1206年にシハーブッディーンがインド遠征の帰途に陣没すると、ギヤースッディーンの息子であるギヤースッディーン・マフムードが王位を継いだが、支配下のゴール人やアフガン人の歩兵軍団と、テュルク系の奴隷身分出身のマムルーク騎兵軍団がそれぞれ後継者を擁立した。北インドに残されていたマムルークの将軍・クトゥブッディーン・アイバクは自立してインドに奴隷王朝を開いた。
 これ以降、デリーを中心にデリー・スルターン朝と総称されるムスリムの王朝が5代続き、そのもとでインドのイスラーム化が進んだ。
 1210年にギヤースッディーン・マフムードが暗殺されると、息子バハー・ウッディーン・サーム3 世が擁立されたが、これ以降、バーミヤーンの支流と互いに争いを繰り返したためゴール朝は急速に解体に向かった。

 ◆滅亡

 1215年に最後の君主・アラー・ウッディーン・ムハンマド4世がホラズム・シャー朝の君主・アラーウッディーン・ムハンマドによって廃され、ゴール朝は滅亡した。
 1245年にギヤースッディーン・ムハンマドの封臣の一族であるクルト家のシャムスッディーン・ムハンマドは、クルト朝をホラサーンで興した。

 《 モ ン ゴ ル 時 代 》

 ▶モンゴル帝国

 アラー・ウッディーンの死後にゴール朝は崩壊してアフガニスタンの支配権はアラー・ウッディーン・ムハンマド(ホラズム・シャー)に移る。
 ホラズム・シャー朝の時代にはアフガニスタンの勢力は中国、トルキスタン、イラクにまで達していた。
 ホラズム・シャーはアッバース朝カリフの地位を獲得するために1219年にバグダードにまで進軍するが、チンギス・ハンが率いるモンゴル帝国軍がアフガニスタン東部へ侵略して諸都市が占領され、これに反撃するものの失地の回復は失敗してホラズム・シャー朝は滅亡した。
 しかしチンギス・ハンの死後にアフガニスタン各地で族長が独立国家を打ちたてた。

 ▶チンギス・カンの西征

 チンギス・カンの西征は、13世紀にモンゴル帝国によって行われた征服戦争。1219年から1223年までの一連の戦闘によってモンゴル帝国は飛躍的に領土を広げ、1225年に帰還した。

 ◆背景

 1206年にチンギス・カンによって建国されたモンゴル帝国は、第一次対金戦争で成功を収めて東アジア最強の帝国に成長した。
 一方、ホラズム地方を中心として1077年に成立したホラズム・シャー朝も、ほぼモンゴル帝国と同時期に急成長し、西アジア最強の帝国となっていた。

 ❒西遼侵攻

 1204年にチンギス・カンがナイマン部族を征服した後、1208年にナイマンの族長タヤン・カンの子であるクチュルクは西遼(カラ・キタイ)に亡命する。西遼の皇帝である耶律直魯古はクチュルクに将軍の地位と自身の娘を与え、モンゴル帝国への備えとしようとした。
 しかし耶律直魯古は人望がない上に暗愚であり、属国であったホラズム・シャー朝や西カラハン朝、天山ウイグル王国などに次々と独立をされていた。
 1211年にホラズム・シャー朝と西カラハン朝が再び反乱を起こすと、耶律直魯古は軍に命じてサマルカンドを包囲させるものの、今度は西遼軍不在の間にクチュルクが西遼本国で反乱を起こす。
 一度はクチュルクを撃退した耶律直魯古であるが、反撃を許し捕縛され、幽閉されてしまう。
 この簒奪の時点で西遼は事実上滅亡した。
 1218年、西遼がほぼ自滅に近い形で滅び、その多くがモンゴル帝国の領土になると、モンゴル帝国とホラズム・シャー朝は直接領土を接することとなった。
 同年、ホラズムの東方国境近くのオトラルで太守イナルチュクによってチンギス・カンが派遣した通商団が虐殺され、この事件の報復を理由にしてモンゴル帝国はホラズム・シャー朝への遠征を決定したといわれる。
 しかし、後述のようにホラズムへの遠征はかなり計画的なものであり、このことから通商団はモンゴルのスパイであり、この理由はきっかけにしか過ぎないという説もある。

 ❒ホラズム侵攻

 1219年、モンゴル高原を弟のテムゲ・オッチギンに任せ、チンギス・カンはホラズム・シャー朝への遠征を開始した。モンゴル軍はオトラルに到着すると、第一次対金戦争の時と同様全軍を三つに分け、整然とホラズムに侵入した。


 一方でホラズム・シャー朝は専守防衛を基本戦略とし、各都市ごとに分散して防衛させた。これは戦力の分散にあたり、後によく批判の的になったが、そうせざるをえない原因がホラズム内にあった。
 もともとホラズムの急激な発展は、アラル海北方に遊牧するテュルク系のカンクリ族を味方に引き入れたことが背景にあったが、カンクリ族が実際に支持するのは国王アラーウッディーン・ムハンマドの実母テルケン・ハトゥンであり、ホラズムはモンゴル来襲時にはこの母子によって二分された状態にあった。
 結果的に、カンクリ族の戦場での反乱を恐れたムハンマドは野戦でのモンゴル軍の迎撃を断念せざるを得ず、モンゴル軍を引き入れて長期戦に持ち込み、相手が撤退するところを反転攻勢する、という作戦をとった。
 しかし、おそらく事前に周到に情報収集をしたであろうモンゴル軍は、対金戦争の経験も活かし、冷静に各都市を各個撃破した。
 サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチといった名だたる都市を墜とした上、見せしめのため抵抗した都市は破壊された。
 また、この頃チンギス・カンの長子ジョチと次子チャガタイとの間でウルゲンチの攻め方で対立があり、三男のオゴデイが仲裁に入ったことでその器量を示したという逸話もある。

 完全に読みの外れたムハンマドは、カラハン朝から奪い取って首都としたばかりのサマルカンドから逃走し、本来の中心地であるマー・ワラー・アンナフルをも見捨てた。
 そして息子たちに撤退命令を出し、アムダリヤ川を越えて西へと逃走していった。この撤退には、アムダリヤ川以南にモンゴル軍を引きずり込んでゲリラ戦を展開しようという狙いもあったらしいが、モンゴル軍がこれに冷静に対応したこと、またあまりにも無様な国王の撤退によるホラズム軍の指揮系統の混乱によって、1220年にホラズム・シャー朝はほぼ崩壊した。
 一方、逃走したアラーウッディーン・ムハンマドはニシャプール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)に立ち寄ったりしながらも、結局モンゴル軍との戦争に対する指示を出したりすることもなく、カスピ海西南岸近くのアーバスクーン島で死んだ。

 ◆アフガニスタン・インド侵攻

 ジャラールッディーン・メングベルディーは、カーブルの近郊でのパルワーンの戦いに勝利し、インドを目指したがインダス河畔の戦いでモンゴル軍に大敗した。
 西方の新興国、ホラズム・シャー朝を開戦後わずか約2年で破ったモンゴル軍であったが、アムダリヤ川を越えた後、急に無秩序な戦闘を始め、無意味な虐殺を行ったりする。
 これはあまりにもあっけなくホラズム・シャー朝が壊滅した結果、十分な計画・準備を整える間もなく、逃走するホラズム軍に引きずられる形でホラーサーン・アフガニスタン方面に入り、戦局が泥沼化したことが原因ではないか、という指摘がモンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによってなされている。
 この頃のモンゴル軍の損害としては、ジャラールッディーンによってパルワーンの戦いでシギ・クトク率いるモンゴル軍が大敗を喫したこと、バーミヤーン包囲戦でチャガタイの嫡子モエトゥケンが流れ矢を受けて戦死したことなどがあげられる。もともとモンゴル軍とはいっても生粋のモンゴル兵(モンゴル高原出身の騎兵)は少なく、現地で投降した兵が多かった。
 そのため、モンゴル軍の戦法は基本的に味方の損害を避けるやり方が多く、これらの損害はモンゴル人の上層部にとって衝撃的なものだった。
 これらの報復として、バーミヤーンにはチンギス・カンにより「草一本も残すな」という命令が出たとされ、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、などといった古代からの大都市も略奪され、完全に破壊されたとされる。

 ジャラールッディーンを追撃しつつ、南下したモンゴル軍はインダス川のほとりにおいてようやくジャラールッディーンを追い詰め、インダス河畔の戦いが行われたが、肝心のジャラールッディーンは川を渡って逃げ去ってしまう。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯006

2023-09-24 22:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(6)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(5) ❖

 ▶正統カリフ

 ◆アリー・イブン・アビー・ターリブ

 預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。
 後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。
 ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。
 直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。
 早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。

 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。
 アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。
 また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。
 アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。

 ◆ウマイヤ朝の成立

 661年にアリーがハワーリジュ派に暗殺された後、ウマイヤ家のムアーウィヤが実力でカリフ位に就いてウマイヤ朝を興した。
 ムアーウィヤはカリフ位世襲の道を開いたため、正統カリフの時代は終焉した。

 ▶ウマイヤ朝

 イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。
 大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。


 イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。
 第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。
 首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。
 750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。
 非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。
 また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

 カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。
 また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。

 ◆ムアーウィヤによる創始

 656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。
 ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。
 両者の抗争は656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。
 その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。
 ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。
 しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。
 このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。
 和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。
 ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。
 アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。
 ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。
 こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

 第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。
 ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。
 また、東方ではカスピ海南岸を征服した。
 しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。
 ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。
  ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。
 ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

 ◆第二次内乱

 ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。
 680年10月10日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。
 この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。
 ヤズィード1世はカリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。
 シリア駐屯軍は彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに即位後わずか20日ほどで死去した。
 これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。
 これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。

 第二次内乱中の685年にはシーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームでありマフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。
 ムフタール軍は一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。
 ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによってムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。 
 そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。
 すでにイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。
 しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。
 自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは691年にムスアブを破ってクーファに入った。
 また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した。
 ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。

 ◆絶頂期

 第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は平和と繁栄に恵まれた。
 彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。
 694年、アブドゥルマリクはアッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方でイラクの治安を回復させた。
 アブドゥルマリクはカリフ位を息子のワリード1世に継がせた。
 征服戦争は彼の治世に大きく進展した。
 ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。
 その後、ヨーロッパ征服は732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。
 また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破ってブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。
 これによって中央アジアにイスラームが広がることとなった。
 中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。

 ◆ウマル2世の治世

 この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して原住民に同化するものが増えた。
 これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて全てのムスリムを平等とした。
 これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。
 彼は今までのカリフで初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。
 また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから征服戦争を中止した。
 ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。
 ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた。

 ◆最後の輝き

 第10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世はウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。
 彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた[36]。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。
 また、ヒシャームの治世では中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。
 その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施にはイラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。

 ◆第三次内乱

 744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍がヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。
 ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。
 その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世がワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。
 彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。
 これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。

 ◆アッバース革命

 680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。
 フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。
 ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。
 しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。
 カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシムがイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。
 さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した。

 アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。
 ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。
 747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。
 イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。
 アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した。
 749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。
 750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。 
 士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。
 750年8月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。

 ❒背景

 正統カリフの時代の後、661年に成立したイスラーム史上最初の世襲王朝、ウマイヤ朝の正統性には当初から疑問が抱かれていた。
 ハワーリジュ派と総称される反体制運動が絶え間なく続いた。
 ムアーウィヤがそれまでの慣例に反して世襲制を導入したことや、その結果即位した第2代カリフのヤズィード1世がカルバラーでアリーの子イマーム・フサインを殺害したことなども、各方面からの非難を招いた。
 さらにウマイヤ朝はアラブ人を優遇し、非アラブ人はたとえイスラームに改宗したとしてもマワーリーとして差別され、ジズヤ(人頭税)の支払いを課せられていた。
 そのうえ歴代カリフのほとんどがイスラームの戒律を軽視し、世俗的享楽に耽ったことも厳格なムスリムたちに批判された。
 ウマイヤ朝治下では絶えざる反乱や蜂起が続いていたが、743年に有能な第10代カリフ、ヒシャームが死去したことによって、王朝の衰勢は決定的なものとなった。
 主要な要因としては以下のものが挙げられる。

 ・南アラビア系アラブ人の子孫と、北アラビア系アラブ人の子孫の対立

 ・それを背景とした宮廷の内紛とカリフ位をめぐる争い

 ・無能なカリフの続出

 ・シーア派の影響力拡大と反体制運動の激化(ザイド派の反乱など)

 ・ウマイヤ朝の支配に対する非ムスリムやマワーリーの不満と、イラン人(ペルシア人)民族主義の台頭(シュウービーヤ運動)

 こうした社会的混乱が広がる中に、預言者ムハンマドの叔父の末裔・アッバース一族が登場し、各地の不満分子を利用しながら自らの権力獲得を目指すことになる。

 ▶アッバース朝

 中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年〜1258年)。
 ウマイヤ朝に代わり成立した。

 王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。


 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。
 アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。
 また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。
 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。
 イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。
 1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。
 しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。
 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。
 後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

 前史

 ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。
 このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。
 また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。
 ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。
 この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。

 ❒ザーブ河畔の戦い

 こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。
 反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。
 翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い(英語版)でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
 ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。
 彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。

 ❒アッバース革命

 シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。
 この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。
 弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。
 アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。
 征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。
 アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。

 ❒アッバース朝の最盛期

 建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。
 その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。
 また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。
 第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。
 この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。
 また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。
 また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。
 アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。
 一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。

 第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。
 その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。
 バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
 一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。

 ❒衰退への道

 ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。
 しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。
 819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。
 第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。
 彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。
 翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。
 その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。
 バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。 マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。
 彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。
 しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。
 869年にカリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。

 ❒政治的混乱

 9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。
 892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。
 10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。
 さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。
 これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。
 そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。
 長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。
 1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。

 ❒アッバース朝のイラク支配回復

 11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。
 しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。
 第34代カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。
 これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。

 ❒モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡

 1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258年1月29日〜2月10日)。
 1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。
 その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。
 バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。

 ▶ターヒル朝

 9世紀にアッバース朝の総督(アミール)としてホラーサーン以東地域を統括したイスラーム王朝である。


 最大領域は現在のイラン、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンにまたがる。首都はニーシャープール。

 始祖のターヒル・イブン・フサインはホラーサーンを拠点としたアラブ戦士集団の有力者の出身で、祖父はウマイヤ朝を打倒したいわゆるアッバース朝革命に参加したひとりである。
 隻眼の武人で二刀流の達人であり、「2本の右手を持った人」と渾名されたという。
 809年にアッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッラシードがマー・ワラー・アンナフルでの反乱鎮圧のため親征した途上ホラーサーンで病没した。
 この時に、これに同行してメルヴにいた世継ぎの一人マアムーンのもとでこれに付き従った。カリフ・ラシードが没した後、ターヒルはアッバース朝第7代カリフとなるこのマアムーンが挙兵した際に協力し、バグダードを包囲して対立するアミーンを降伏させる等、マアムーンのカリフ位奪取に貢献した。
 マアムーン即位後ターヒルはバグダードやジャズィーラの総督職を与えられ、ついでホラーサーン総督に任命され、テュルク系やイラン系のマワーリー軍団、アラブ駐留軍などからなるホラーサーン軍に忠誠を誓わせ、この地域での行政・軍事力を統括するようになった。
 ターヒルはその後軍事力の強大さを警戒したマアムーンと対立するようになり、821年にモスクでの金曜礼拝の際に読み上げられるフトバからカリフ・マアムーンの名前を省き、事実上独立した。
 しかし、ターヒルの死後もターヒル家のホラーサーン以東での実力はカリフ政権側からも引き続き認められるところとなり、ターヒルの息子タルハ(在位822年〜828年)以降も総督職の任命を受け、毎年バグダードへ貢ぎ物や軍事力としてテュルク系奴隷の供給等を請負い、一族からバグダードの警察長官(シュルタ)職を務める者も輩出し、アッバース朝との関係は概ね良好であったようである。

 ホラーサーンはウマイヤ朝・アラブ征服時代以来、イスラーム帝国の東方支配の要であり、ターヒル朝が担ったホラーサーン総督職はマー・ワラー・アンナフルやスィジスターン(スィースターン)からアフガニスタン中南部、インド方面までの諸勢力と対峙するイスラーム支配地域の境域・前線地域でもあった。
 また、ターヒル朝はマー・ワラー・アンナフルや、スンナ派に属していたこともありホラーサーンのハワーリジュ派やカスピ海南岸のタバリスターンのシーア派などの反アッバース朝勢力と対立した。
 やがてスィジスターンからサッファール朝が台頭し、873年に首都のニーシャープールが落とされるまでホラーサーン支配を担い続けた。
 891年にはバグダードの総督職が廃止されて、同王朝は終焉を迎えた。

 ▶サッファール朝

 スィースターン地域(現在のイラン南東部スィースターン・バルーチェスターン州およびアフガニスタン南西部)を中心に存在した王朝。      

 861年から1003年にかけてこの地域を中心とする国家を統治した[2]。サッファール朝の首都は現在のアフガニスタンに位置するザランジュ(英語版)であった。

 この王朝の樹立者はヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールであり、王朝の名も彼の名前に由来する。
 彼は銅細工師(サッファール)という不確かな出自から諸侯の地位まで上り詰めた人物である。
 彼はスィースターン地域を掌握したのを皮切りに現在のアフガニスタン全土とイラン東部、そしてパキスタンの一部を征服した。
 首都ザランジは東西に向けた征服活動の拠点として活用された。
 彼はターヒル朝を打倒し、873年にホラーサーンを征服した。
 ヤアクーブは死ぬまでに、カーブリスターン、シンド地方、トハリスターン、バルーチスターン、ケルマーン、ファールス、ホラーサーンを征服した。
 また彼はバグダードの征服を試みたが、アッバース朝の反撃にあい敗北した。
 ヤアクーブの死後サッファール朝は長くは続かなかった。
 彼の弟であり後継者であるアムル・イブン・アル=ライスは900年にサーマーン朝に敗北し、領土の大半を新たな支配者に割譲せざるを得なくなった。
 サッファール朝の勢力は徐々に本拠地ザランジ周辺のスィースターン地方に限られるようになったが、王朝自体はサーマーン朝とその後継政権の臣下としてその後も続いた。

 ▶サーマーン朝

 サーマーン朝(سامانيان Sā中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。 首都はブハラ。
 中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる。
 ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。
 サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。
 サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。
 英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している。
 このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている。   

 ◆成立の背景

 サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する。
 サーマーン・フダーはサーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている。
 サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに与し、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。
 819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した。
 827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督にサーマーン家の人間が選ばれた。
 ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン・フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する。
 ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった。
 アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。

 ◆サーマーン家の独立

 こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。
 ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。
 ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。
 イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。
 ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。
 ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。
 翌886年にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。
 ナスルはヒジュラ暦279年(892年 - 893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。
 ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。

 ◆最盛期

 893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。
 この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている。
 以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった。
 他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた。
 900年にイスマーイールはバルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・アル=ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える。
 イスマーイールは捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉された後に処刑される。
 ムウタディドはサッファール朝の拡大を抑止できる勢力の確立を望んでおり、サッファール朝を破った後にサーマーン朝はカリフからマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンの支配を認められる。
 サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。
 946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。

 王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。
 北東部ではマー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。
 サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。
 王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた。
 ナスル2世の在位中に王権は弱体化し、西側の領土をブワイフ朝に割譲した。
 910年ごろにエジプトのシーア派国家ファーティマ朝はホラーサーン地方にダーイー(宣教員)を派遣し、シーア派の勢力はブハラの宮廷にも進出する。
 高官、ナスル2世の側近、ナスル2世自身がシーア派に改宗するに及んでウラマー(神学者)やトルコ系の将校はシーア派の排撃を行い、王子ヌーフは父ナスル2世を監禁した。

 滅亡 編集 ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する。
 また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた。
 アブド・アル=マリク1世(英語版)の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた。
 文人宰相として有名なアブル=ファズル・バルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。
 961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する。
 マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。
 アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。
 マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。
 ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった。
 一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。
 ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。
 カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した。

 ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。
 サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。
 しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した。
 997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。
 マー・ワラー・アンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。
 999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。
 カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。
 政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった。
 捕らえられたマリク2世は獄中で没し、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。

 ◆滅亡後

 サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。
 イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する。
 1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される。
 1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯005

2023-09-23 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(5)

 ❖ アフガニスタン
       歴史と変遷 (4) ❖ 

 ▶クシャーノ・サーサーン朝

 3世紀と4世紀、及び6世紀から7世紀の間、インド亜大陸の北西部に支配を確立したサーサーン朝の分流である。

 ◆最初のクシャーノ・サーサーン朝

 サーサーン朝は、パルティアに対する勝利のすぐ後、アルダシール1世の治世中の230年頃にはバクトリアまで領土を拡大し、彼の息子シャープール1世(240〜270年)の時代にはクシャーナ朝の旧領(今日のパキスタンと北西インド)まで拡大した。

 弱体化していたクシャーナ朝は西部領土を喪失し、バクトリアとガンダーラはクシャーンシャー(Kushanshahs クシャーナ王)と称するサーサーン朝の藩王に支配されるようになった。

 325年頃、シャープール2世は南部領域を直接管理の下に置いていたが、北部ではキダーラ朝の興隆までの間クシャーンシャーの支配が維持された。

 ◆インド・エフタル

 410年からバクトリア、続いてガンダーラはエフタルの侵入を受け、彼らは一時クシャーノ・サーサーン朝に取って代わった。
 彼らはインド・エフタルとして知られるようになった。

 ◆第2のクシャーノ・サーサーン朝

 突厥西面の室点蜜とサーサーン朝のホスロー1世とが共同で、558年にエフタルへの攻撃を開始し(ブハラの戦い(英語版))、565年に連合軍によってエフタルが打倒されるまでインド・エフタルによる統治は続いた。
 以後、再びサーサーン朝の王族がこの地に支配を確立した。

 《宗教的影響》

 預言者マニ(210年〜276年マニ教の教祖)はサーサーン朝の東への拡大につれて東へ向かった。
 それはマニをガンダーラで栄えていた仏教文化(ガンダーラ美術)に触れさせることになった。
 彼はバーミヤーンを訪れたと言われており、そこには彼の作になるという幾つかの宗教画があり、彼が暫くの間そこに住んで教えを広めたと信じられている。
 また、彼は240年か241年に、インドのインダス川流域に向かって出帆し、仏教徒であったトゥーラーンの王(Turan Shah)を改宗させたと伝えられている。
 その際、様々な仏教の影響がマニ教に浸透したと考えられる。
 「仏教の影響はマニ教の教義構成にあたって重要であった。
 輪廻(The transmigration of souls)の思想は、男女の僧侶らに与えられたマニ教の共同体における4つの位階(選良者 The 'elect')を定めるものとなり、それを補助した在家衆(聴講者 The 'hearers')は、仏教徒のサンガ(Sancha)を元にしたものと考えられる。(Richard Foltz, Religions of the Silk Road).

 ▶アフリーグ朝

 ▶キダーラ朝

 ▶エフタル

 エフタル(英: Hephthalite、パシュトー語: هپتالیان)は、5世紀から6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家である。
 名称は史料によって異なり、インドではフーナ (Hūna),シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン)、ヘテル (Hetel)、ヘプタル (Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス (Ephtalites)、アラブではハイタール (Haital)、アルメニアではヘプタル (Hephtal),イダル (Idal),テダル (Thedal) と呼ばれ、中国史書では嚈噠(ようたつ、Yàndā),囐噠(ようたつ、Yàndā),挹怛(ゆうたつ、Yìdá),挹闐(ゆうてん、Yìtián)などと表記される。
 また、「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。

 ◆概要

 5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝)を滅ぼしてトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
 これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。
 さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。

 6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。
 これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。

 しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。
 エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。

 ◆起源

 エフタルの起源は東西の史料で少々異なり、中国史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とし、西方史料の初見はトハリスタン征服であり「バダクシャン(パミール高原とヒンドゥークシュ山脈の間)にいた遊牧民」としている。

 ❒中央アジア・インドを支配

 410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入(彼らはインド・エフタルとして知られるようになる)。

 425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、バハラーム5世(在位:420年〜438年)により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。

 エフタルはクマーラグプタ1世
(在位: 415年頃 - 455年)のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。
 また、次のスカンダグプタの治世(435年〜467年もしくは455年〜456年/457年)にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。

 サーサーン朝のペーローズ1世(在位: 459年〜484年)はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル(アフシュワン)に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。
 アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。
 484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させた。

 エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えた。

 508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。 516年、高車王の弥俄突が柔然可汗の醜奴(在位: 508年〜520年)に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた。
 ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた(インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照)。
 520年、北魏の官吏である宋雲と沙門の恵生は、インドへ入る前にバダフシャン付近でエフタル王に謁見した。
 523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された。
 北魏の太安年間(455年〜459年)からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光(520年 - 525年)の末にも師子を貢納し、永熙年間(532年 - 534年)までそれが続けられた。

 533年頃、マールワー王ヤショーダルマンがエフタル王ミヒラクラを破る。
 ミヒラクラはカシミールに逃亡した。
  546年と552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した。

 ❒衰退と滅亡

 558年、エフタルは北周に遣使を送って朝献した。
 この年、突厥の西方を治める室点蜜(イステミ)がサーサーン朝のホスロー1世(在位:531年〜579年)と協同でエフタルに攻撃を仕掛け(ブハラの戦い)、徹底的な打撃を与えた。
 これによってエフタルはシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を突厥に奪われてしまう。
 567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)を占領した。 隋の大業年間(605年〜618年)にエフタルは中国に遣使を送って方物を貢納した。
 エフタル国家の滅亡後も、エフタルと呼ばれる人々が存続し、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争や619年の第二次ペルソ・テュルク戦争に参戦していたが、8世紀ごろまでに他民族に飲み込まれて消滅した。

 ❒政治体制

 中国の史書の『魏書』列伝第九十(西域伝)には、嚈噠(エフタル)国の政治体制などについて、次のとおり記す。
 「嚈噠(エフタル)国は大月氏の種族であるが、また、高車の別種であるとも言われ、その起源は塞北にある。金山より南方、于闐(ホータン)国の西方にあり、馬許水を都とし南200余里、長安を去ること10,100里である。
 その王は抜底延城(バルフ)を都としており、蓋し、王舎城である。城市は10余里四方で、寺塔が多く、みな金で装飾している。

 ・・・王は領国内を巡回し、月ごとに居処を替えるが、冬の寒冷な時期には、3箇月間移動しない。
 王位は必ずしも子に引き継がれる訳ではなく、子弟でその任務をこなせる者がいれば、(王の)死後に王位を継承する。・・・性格は兇悍で、戦闘を能く行う。

 西域の、康居・于闐・沙勒・安息及び諸々の小国30国ほどが、皆、嚈噠国に従属しており、大国と言っている。」

 ▶カブール・シャヒ朝

 ◆イスラーム化の進展

 アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。
 イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。

 《イ ス ラ ー ム 化
          の 進 展 》

 ◆正統カリフ

 正統カリフ(せいとうカリフ、アラビア語: الخلفاء الراشدون, ラテン文字転写: al-Khulafā’u r-Rāshidūn、アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教・イスラム帝国の初期(アラビア語: الخلافة الراشدية, ラテン文字転写: al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語である。
 正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。

西暦654年の正統カリフ時代の最大版図

 ◆アブー=バクル

 632年に神の使徒ムハンマドが死去した後、アブー・バクルがイスラム共同体の長に選出された。
 リッダ戦争(632年〜633年)。
 ドゥーマト・アッ=ジャンダルの戦いを指導し、634年する。
 以降は、同様にイスラム共同体の合議によって選出され継承を行った。

 アブー・バクル・アッ=スィッディーク( ابو بكرالصدّيق عبد الله ابن ابي قحافه عثمان بن عامر بن عمرو بن كعب بن سعد بن تيم‎ Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b. Sa‘d b. Taym, 573年〜634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年〜634年)。
 預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムのひとりであり、カリフすなわち「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」( خليفة رسول الله‎ Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。

 ❒正統カリフまでの経緯

 預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの近親を除く最初の入信者であったとされる。
 ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアーイシャをムハンマドに嫁がせたため、ムハンマドの義父にもあたる(ただし年齢はムハンマドより3歳程度若い)。
 632年、ムハンマドが死去した後、選挙(信者の合意)によって初代正統カリフに選出された。
 選出に先立って最初期からの最有力の教友で同僚でもあったウマル・ブン・アル=ハッターブとアブー・ウバイダ・アル=ジャッラーブのふたりが、アブー・バクルを預言者ムハンマドの後継者である代理人(カリフ、ハリーファ)として強力に推して人々に支持を求めて働きかけたため、初代カリフとなった。

 アブー・バクルはムハンマドの死後、イスラーム共同体全体の合議によってムスリムたちの中から預言者ムハンマドの代理人(ハリーファ)として共同体全体を統率する指導者(イマーム)、すなわち「カリフ(ハリーファ・アル=ラスールッラーフ)」として選出された。
 このようにして選ばれたのは、アブー・バクルを嚆矢としてその後に続くウマル、ウスマーン、アリーの4人であった。
 アリー以降はイスラーム共同体内部の対立によってシリア総督となっていたムアーウィヤが共同体全体の合意を待たずに事実上実力でカリフ位を獲得し、イスラーム共同体最初の世襲王朝であるウマイヤ朝の始祖となった。
 そのため、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの4人を指して、スンナ派では伝統的に「正統カリフ」 الخلفاء الراشدون al-Khulafā' al-Rāshidūn 〔「正しく導かれた代理人たち」)と呼んでいる(後述のように、シーア派ではほとんどの場合、アリー以外の預言者ムハンマドからのイスラーム共同体の教導権(イマーム権)・代理権(カリフ権)の継承を否定している〕。

 ❒正統カリフとしての
          アブー・バクル

 カリフとなったアブー・バクルは、「ムハンマドは死に、蘇ることはない」「ムハンマドは、神ではなく人間の息子であり、崇拝の対象ではない」と強調した。
 しかし、かつてムハンマドに忠誠を従ったアラブ諸族の中には、その忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブー・バクルに忠誠をみせない勢力もあった。
 アブー・バクルはハーリド・イブン=アル=ワリードらの活躍によってこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した(リッダ戦争)。
 また、イスラーム勢力拡大のためにサーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国と交戦したが、こうした戦争を通じてムスリム共同体の結束を強める狙いもあったと推測される。
 アブー・バクルは、カリフ在位わずか2年にして病のため亡くなった。
 そのため、一連の征服活動は2代カリフのウマル・イブン・ハッターブに受け継がれることになった。

 ◆ウマル

 634年にカリフに選ばれ、636年ヤルムークの戦い・カーディシーヤの戦い、
 642年ニハーヴァンドの戦いを指導する。
 644年に刺されて、息を引き取る前に後継者候補と選挙方法を残した。

 ウマル・イブン・ハッターブ(عمر بن الخطاب‎ ʿUmar ibn al-Khattāb)、(592年?〜644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年〜644年)。

 ❒生い立ち

 アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するアディー家の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、クライシュ族の遠い親族であるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラーム教を開くと、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からその布教活動を迫害する側に回った。
 伝えられるところによれば、血気盛んな若者であったウマルはある日怒りに任せてムハンマドを殺そうと出かけたが、その道すがら自身の妹と妹婿がイスラームに改宗したと聞き、激怒して行き先を変え、妹の家に乗り込んで散々に二人を打ちすえた。
 しかし、ウマルは兄の前で妹が唱えたクルアーン(コーラン)の章句に心を動かされて改悛し、妹を許して自らもイスラームに帰依した。ウマルがムスリム(イスラーム教徒)となると、クライシュ族の人々はウマルの武勇を怖れてムハンマドに対する迫害を弱め、またマッカで人望のあるウマル一家の支援はマッカにおいて最初期の布教活動を行っていたムハンマドにとって大いに助けとなったといわれている。

 622年にムハンマドらムスリムがマッカを脱出し、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に移住するヒジュラ(聖遷)を実行したのちは、マディーナで樹立されたイスラーム共同体の有力者のひとりとなり、イスラーム共同体とマッカのクライシュ族の間で行われた全ての戦いに参加した。
 また、夫に先立たれていたウマルの娘ハフサはムハンマドの4番目の妻となっており、ムハンマドの盟友としてウマルは重要な立場にあったことがうかがえる。

 ❒ムハンマドの死から

 632年にムハンマドが死去すると、マディーナではマッカ以来の古参のムスリム(ムハージルーン)とマディーナ以降の新参のムスリム(アンサール)の間で後継指導者の地位を巡る反目が表面化したが、ウマルは即座にムハンマドの古くからの友人でムハージルーンの最有力者であったアブー・バクルを後継指導者に推戴して反目を収拾し、マッカのクライシュ族出身の有力者が「神の使徒の代理人」を意味するハリーファ(カリフ)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。
 アブー・バクルが2年後の634年に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなる。

 ❒2代目カリフとして

 ウマルは当初「神の使徒の代理人の代理人」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー خليفة خليفة رسول اللّه‎ khalīfa khalīfa Rasūl Allāh )を名乗る一方、後世カリフの一般的な称号として定着する「信徒たちの指揮官」(アミール・アル=ムウミニーン امير المؤمنين‎ amīr al-mu'minīn )の名乗りを採用した。
 また、ヒジュラのあった年を紀元1年とする現在のイスラーム暦のヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準備した 。
 伝承によると、「信徒の指揮官」という称号は、彼の治世時代に教友のひとりがたまたま口にした言葉をウマルが非常に好ましい名称と思い、採用したと伝えられる。彼をこのように呼んだ最初の人物は預言者ムハンマドの従兄弟のアブドゥッラー・ブンジャフシュとも、アブー・バクルと同じタイム家の重鎮ムギーラ・イブン・シュウバとも、アムル・イブン・アル=アースとも言われている。

 政治の面では、アブー・バクルの時代に達成されたアラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出してアラブの大征服を指導した。
 当時この地方では東のサーサーン朝と西の東ローマ帝国とが激しく対立していたが、長期にわたる戦いによって両国ともに疲弊しており、イスラム帝国はその隙をついて急速に勢力を拡大しつつあった。
 すでにアブー・バクル期末の633年にはメソポタミア地方に兵を出し、フィラズの戦いにおいてサーサーン朝に痛撃を与えていた。
 このような情勢下、イスラーム軍は635年9月には東ローマ領だったダマスカスを占領し、さらに636年8月20日には東ローマの援軍をハーリド・イブン・アル=ワリードの指揮の元でヤルムークの戦いで撃破し、シリアで東ローマとサーサーン朝の連合軍をも打ち破り、シリアを制覇した。
 636年11月にはカーディシーヤの戦いによってふたたびサーサーン朝を撃破し、637年7月にはサーサーン朝の首都クテシフォンを占領。639年にはアムル・イブン・アル=アースに命じて東ローマ領のエジプトに侵攻し、642年にはアレキサンドリアを陥落させてエジプトを完全に自国領とした。
 642年にはイランに進んだムスリム軍がニハーヴァンドの戦いに勝利し、ヤズデギルド3世率いるサーサーン朝を壊滅状態に追い込んだ。
 644年にはキレナイカまで進撃し、ここをイスラーム領としている。

 征服した土地では、アラブ人ムスリム優越のもとで非ムスリムを支配するために彼らからハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収する制度が考案され、各征服地にはアーミル(徴税官)が派遣される一方、軍事的な抑えとしてアミール(総督)を指揮官とするアラブ人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設された。
 ウマルの時期に建設されたミスルとしては、イラク南部のバスラ(638年)やクーファ(639年)、エジプトのフスタート(現カイロ市南部、642年)などがある。
 ウマルはミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税機構を生かすための財政・文書行政機構としてディーワーン(行政官庁)を置き、ここを通じて徴税機構から集められた税をアター(俸給)としてイスラーム共同体の有力者やアラブの戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築き、歴史家によって「アラブ帝国」と呼ばれている、アラブ人主体のイスラーム国家初期の国家体制を確立した。

 638年には首都のマディーナを離れて自らシリアに赴き、前線で征服の指揮をとった。
 同じ年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の支配下に入ったことを宣言するとともに、キリスト教のエルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)とし、彼等がイスラームの絶対的優越に屈服しジズヤを支払う限りに於いて一定程度の権利を保障することを約束した(ウマル憲章)。
 また、このときにユダヤ教徒にも庇護民の地位が与えられ、このときからエルサレムにおいてイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3つの宗教が共存するようになった。
 このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが一夜にしてマッカからエルサレムに旅し、エルサレムから天へと昇る奇跡を体験したとき、ムハンマドが昇天の出発点とした聖なる岩を発見し、そのかたわらで礼拝を行って、エルサレムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝する慣行をつくったとされる。
 この伝承に従い、ウマイヤ朝時代にこの岩を覆うように築かれた岩のドームは、通称ウマル・モスクと呼ばれる。またウマルはソフロニオスから神への祈りを共にするよう誘われたが、ムスリムとして先例を残す事を好まずそれを断ったとされている。

 ❒ジハード、死

 644年11月、ウマルはマディーナのモスクで礼拝をしている最中に、個人的な恨みをもったユダヤ人ないしペルシア人の奴隷によって刺殺された。
 この奴隷はウマルの奴隷ではなく、教友のひとりでウマルによってバスラ、クーファの長官となっていたアル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷(グラーム)のアブー・ルウルウであった。
 殺害の動機はウマルがハラージュ税を定めた時に彼の主人にも課税されたためこれを恨んだからであったという。
 ウマルはこの時6ケ所を刺される重傷を負い、3日後に非業の死を遂げた。
 ウマルはマディーナにある預言者のモスクに葬られた。

 伝承によると、アブー・ルウルウは彼自身その場で取り押さえられて報復として殺害されているが、この時彼はモスク内で詰め寄ってきた人々をさらに11人刺しており、内9名が死亡するという大惨事となった。
 ウマルは刺された後、死の直前に後継のカリフを選ぶための、ウスマーン、アリー、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー、アッ=ズバイル・イブン・アル=アッワーム、アブドゥッ=ラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビーワッカースの6人からなる有力者会議(シューラー)のメンバーを後継候補として指名し、さらにアンサールのアブー・タルハ・ザイド・イブン・サフルに命じて他のアンサールから50人の男を選んで、彼らの6人から一人を選ぶようにも命じた。
 このような経過の末ウマルの死の後、互選によってウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選出された。
ウマル時代のイスラーム共同体最大領域(644年、ウマル没時)

 ◆ウスマーン

 ウスマーン・イブン・アッファーン
(アラビア語: عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن امية‎ ‘Uthmān ibn ‘Affān b. Abī al-‘Āṣ b. Umayya, 574年?[2]/76年?〜656年6月17日)は、イスラームの第3代正統カリフ(在位644年〜656年)。

 マッカ(メッカ)のクライシュ族の支族であるウマイヤ家の出身。
 預言者ムハンマドの教友(サハーバ)で、ムハンマドの娘婿にあたる。

 ムハンマドの妻ハディージャを除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている。
 クルアーン(コーラン)の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている。
 651年頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される。
 656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって殺害され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された。 
 莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー(「富めるウスマーン」の意)と呼ばれた。
 また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン(ذو النورين Dhū al-Nūrain、「二つの光の持ち主」)とも呼ばれる。

 ❒生涯

 イスラームへの帰依前

 ウマイヤ家の豪商アッファーン・イブン・アビー・アル=アースとアルワ(ウルワー)の子として、ウスマーンは生まれる。
 母のウルワは預言者ムハンマドの従姉妹にあたる。

 ウスマーンの幼年期については、不明な点が多い。
 子供のころに厳格な教育を受けたと思われ、マッカに住む若者の中でも特に読み書きに長けた人間に成長した。
 幼少のウスマーンが他のアラブ人の子供に混ざって脱いだ服に石を集めて運ぶ遊びをしていた時、何者かに「服を着よ、肌を出してはならない」と言われてすぐに遊びを止めて服を着、以来人前で服を脱ぐことは無くなったという伝承が残る。

 ウスマーンが20歳になった時、父のアッファーンが旅先で客死し、ウスマーンは父の遺した莫大な財産を相続した。
 父と同様に交易に携わったウスマーンは事業で成功を収め、跡を継いだ数年後にはクライシュ族内でも有数の富豪になっていた。
 商売で不正を行うことは無く、慎重かつ公正な姿勢を心掛けていた。

 ❒イスラームへの改宗

 ウスマーンが改宗した理由について、彼がムハンマドの娘のルカイヤに恋焦がれていたためだと言われている。
 ウスマーンは密かにルカイヤを想っていたがムハンマドに結婚を言い出す事が出来ず、ルカイヤはムハンマドの従兄弟ウトバの元に嫁いだ。
 叔母のスウダーに相談したウスマーンは、やがてムハンマドに重大な出来事が起こり、その時にはルカイヤが自分の下に嫁ぐと言われ、叔母からの助言を心に留め置いた。
 610年初頭、ウスマーンは旅先でマッカに預言者が現れた声を聞き、マッカに戻ったウスマーンは友人のアブー・バクルの勧めを受けてムハンマドに帰依した。

 クライシュ族内ではウマイヤ家とムハンマドが属するハーシム家の対立が深まり、ウマイヤ家の人間はウスマーンがムハンマドの教えに入信したことを喜ばなかった。
 ウマイヤ家の家長であるアル=ハカムはウスマーンを縛り付けて棄教を迫り、母のアルワと継父のウクバからも棄教を説得された。
 それでもウスマーンの決意を翻すことはできず、アル=ハカムはウスマーンをクライシュ族の信仰に立ち返らせることを諦め、アルワはウスマーンを勘当した。
 スウダーはウスマーンを擁護し、ウスマーンの異父妹であるウンム・クルスームは兄に続いてイスラームに改宗した。

 ムハンマドがハーシム家の人間から迫害を加えられた時、ウトバ親子もムハンマドを責めて、ルカイヤはムハンマドの下に帰された。
 また、ウスマーンはイスラームの教えを拒否する二人の妻と離婚した。
 ウスマーンが離婚したことを知ったアブー・バクルは、ムハンマドにウスマーンとルカイヤの結婚を提案する。
 ムハンマドはクライシュ族の有力家系であるウマイヤ家の人間の改宗を喜び、ルカイヤをウスマーンの元に嫁がせて友好関係の継続を望んだ。

 ウスマーンとルカイヤは幸福な結婚生活を送っていたがクライシュ族内でのイスラーム教徒への迫害は激しさを増し、ウスマーンはムハンマドと話し合った末、交易でつながりのあったエチオピアへの避難を決定した。
 615年、ウスマーン夫妻は信徒を連れてエチオピアに移住する。
 移住先のエチオピア王国では歓迎を受け、マッカ時代と同じように交易を続け、貧窮した人間に援助を与えた。
 また、エチオピア滞在中にルカイヤとの間に男子が生まれ、ウスマーンは息子にアブドゥッラーと名付けた。
 移住から2年後にマッカのクライシュ族がイスラム教を受け入れた報告を受け取り、ウスマーン夫妻は何人かの信徒を連れてマッカに帰国した。
 帰国後、報告が誤りだと分かった後もウスマーンたちはマッカに留まり続け、迫害に耐え続けた。

 ムハンマドの家族とハーシム家の人間がマッカ郊外の渓谷に追放された時、ウスマーンはムハンマドたちに食糧を供給し続けた。同時にムハンマドたちへの制裁の廃止をクライシュ族の若者たちに説き、ムハンマドへの制裁は中止される。
 622年のヒジュラに際し、ウスマーンも他の信徒と同じようにヤスリブ(後のマディーナ、メディナ)に移住する。

 ❒ヒジュラ後

 マディーナで新たな生活を始めたウスマーンは、ユダヤ教徒に独占されている商行為にイスラム教徒も参入するべきだと考え、マッカから運び込んだ財産を元手に商売を始める。
 ウスマーンはマディーナでも慈善事業に携わり、ムハンマドの邸宅とモスク(寺院)の建立に必要な土地を購入する資金を捻出した。また、水の確保にも尽力し、ユダヤ教徒と交渉し邸宅の権利を買い取ることができた。

 624年頃にマディーナで天然痘が流行し、ルカイヤは天然痘に加えてマラリアに罹る。
 同624年のバドルの戦いではウスマーンは従軍を志願したが、ムハンマドは自分の代理としてマディーナに残り、ルカイヤの看病をするように命じた。
 バドルでイスラム軍とクライシュ族が交戦している時にルカイヤは病没し、マディーナに勝利の知らせが届いたときには彼女の埋葬は終えられていた。
 バドルの戦いから1年が経過した後もウスマーンはルカイヤを亡くした悲しみから立ち直れず、またウフドの戦いで誤報を信じて退却したことを悩んでいた。
 625年末、ムハンマドはウスマーンを慰めるため、ルカイヤの妹であるウンム・クルスームを彼に娶わせた。
 翌626年にアブドゥッラーを亡くし、630年にウンム・クルスームも早世する。

 628年3月にムハンマドがカアバ神殿巡礼のためにマッカに向かった時、同行したウスマーンはマッカのクライシュ族との交渉役を任せられる。
 交渉の後、ムハンマドとマッカの間に和約が成立した(フダイビーヤの和議)。和議はクライシュ族にとって一方的に有利な内容になっていたため、イスラム教徒の中には和議に不服な人間も多かったが、ウスマーンはクライシュ族の中にイスラム教徒が増えてやがて事態は好転すると考えていた。
 ウスマーンの予測は当たり、クライシュ族内の有力者にイスラームに改宗する者が多く現れる。
 信徒の増加に伴うマディーナのモスクの増築にあたっては、ウスマーンは工事費の全額を負担し、自らもレンガを運んで工事に参加した。

 632年6月9日にムハンマドが没し、マディーナでその知らせを聞いたウスマーンは憔悴するが、アブー・バクルの励ましを受けて立ち直る。
 アブー・バクルがカリフに就任した後、ウスマーンはウマルの次にバイア(忠誠の誓い)を示した。
 厳格なウマルがカリフに就任した後、ウマルは自分に正面から意見をするウスマーンに信頼を置いていた。
 ウスマーンは若者の多いイスラム教徒の間で温厚な人物として尊敬を受けていたが、ウマルの治世の末期まで目立った動向は無かった。
 ウスマーンは政治顧問としてマディーナに留まり、ウンマ(イスラーム共同体)の運営に従事していた。

 ❒カリフ即位後

 ウスマーンは死に瀕したウマルから後継者候補の一人に指名され、同じく後継者候補に指名されたアリー、タルハ、ズバイル、アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビー・ワッカースらクライシュ族出身のムハージルーン(マッカ時代からのムハンマドの信徒でマディーナに移住した人間)の長老と会議(シューラー)を開いた。
 カリフの候補者はウスマーンとアリーに絞られ、アウフが議長を務めた。
 ウマルが没してから3日間、アウフは指導者層以外のマディーナの人間にもいずれがカリフに適しているかを諮り、最終的にウスマーンをカリフの適格者に選んだ。
 644年11月7日、ウスマーンはマディーナのモスクでバイアを受け、カリフに即位する。
 ウスマーンはカリフという職務に強い重圧を感じ、最初の演説を行うために説教台に登った彼の顔色は悪く、演説はたどたどしいものとなったと伝えられている。
 クライシュ族の長老たちにはウスマーンの支持者が多く、アリーの主な支持者であるアンサール(ヒジュラより前にマディーナに住んでいたイスラム教徒)には発言権が無かったことが、ウスマーンのカリフ選出の背景にあったと考えられている。
 さらに別の説として、ウマル時代の厳格な統治からの脱却を望んだ多くの人々が、禁欲的な生活を求めるアリーではなく、ウスマーンを支持したためだとも言われている。
 史料の中には、他の長老からの「先任の二人のカリフの慣行に従うか」という質問に、ウスマーンは「従う」と断言し、アリーは「努力する」と答えたことが選出の決め手になったと記したものもある。

 645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部は東ローマ帝国の攻撃を受ける。
 ウスマーンはそれらの土地の騒乱を鎮圧し、中断されていたペルシア遠征を再開した。
 ニハーヴァンドの戦いの後に進軍を中止していた遠征軍は、ウスマーンの命令を受けて進軍を再開した。
 650年にジーロフトに到達した遠征軍は、三手にわかれてマクラーン、スィースターン(シジスターン)、ホラーサーンを征服し、ペルシアの征服を完了する。
 翌651年にメルヴに逃亡したペルシアの王ヤズデギルド3世は現地の総督に殺害され、サーサーン朝は滅亡した[41]。シリアからはメソポタミア北部への遠征軍が出発し、646年にアルメニア、650年にアゼルバイジャンを征服する。
 こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人の征服活動は、650年に終息する。
 ウスマーンはカリフとして初めて中国に使者を派遣した人物と考えられており、651年に唐の首都である長安にイスラーム国家からの使者が訪れた。

 治世の後半、エジプトやイラクではウスマーンの政策への不満が高まった。
 シリアにはウマルの時代に総督に任命されたムアーウィヤを引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーンの乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。
 ウスマーンが実施したウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた。
 バスラやクーファに駐屯する兵士は俸給の削減によって苦しい生活を送り、地方公庫からの現金の支給を要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった。
 ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた。

 最期

 654年にウスマーンは各地の総督をマディーナに招集して政情について討議を重ね、ムアーウィヤからシリアに避難するように勧められたが、ウスマーンは避難と護衛の派遣を拒否してマディーナに留まった。
 656年バスラ、クーファ、エジプトの下級兵士は総督の不在に乗じて連絡を取り合い、マディーナに押し寄せた。ウスマーンはディーワーン職に就いていたマルワーンと改革派からの批判の対象となっている統治官の解任を条件にムハンマドの従兄弟アリーに助けを求め、アリーは兵士たちを説得して彼らを帰国させた。 
 しかし、数日後に兵士たちはマディーナに戻り、ウスマーンの退位を要求した。モスクでの説教と礼拝はウスマーンの支持者と反乱者の衝突の場となり、礼拝に現れたウスマーンに石が投げつけられる事件が起きる。

 数百人の反乱者はウスマーンの邸宅を取り囲んで方針の転換を要求し、ウスマーンの政策に不満を抱くマディーナの住民は彼を助けようとしなかった。
 ウスマーンはイスラームとマディーナの守護のために各地の総督に援軍の派遣を要請し、またウスマーンの元を訪れた教友たちは反乱者の討伐、あるいは亡命を進言したが、ウスマーンは攻撃を拒んで邸宅に残った。
 6月17日、兵士たちは彼の邸宅に押し入り、包囲の中でもウスマーンはクルアーンを読誦していた。
 アブー・バクルの子ムハンマドが最初にウスマーンを切りかかり、ウスマーンは切りつけられながらもなおクルアーンの読誦を続けていた。
 深手を負った後もウスマーンはなおクルアーンを抱きかかえ、クルアーンは彼の血で赤く染まったという。ウスマーンを殺害した兵士たちは、国庫から財産を奪って逃走した。

 ウスマーンの遺体は、殺害当日の日没の礼拝と夜の礼拝の間の時間にマディーナのハッシュ・カウカブに密かに埋葬される。
 ウスマーンの墓の側には、彼を助けようとして殺害された召使いのサビーフとナジーフの遺体が埋葬された。
 ハッシュ・カウカブは墓地であるバギーウの東に位置し、ハッシュ・カウカブを買い上げたウスマーンはこの場所が将来墓地となることを予見していたが、彼自身が最初に墓地に埋葬された人間となった。
 ムアーウィヤはウマイヤ朝の建国後にハッシュ・カウカブのウスマーンの墓を詣で、土地の周りを取り囲んでいた壁を壊して、この地を墓地にするように命令した。
 また、ウスマーンが読んでいたと伝えられるクルアーンの写本は、タシュケント(ウスマーン写本)、イスタンブールのトプカプ宮殿(トプカプ写本)に保管されている。

 没時のウスマーンの年齢は80歳、85歳、あるいはイスラム教徒にとって重要な年齢である63歳と諸説ある。
 歴史家のマスウーディーはウスマーンが没した時、彼の財産として東ローマの金貨100,000ディナール、ペルシアの銀貨1,000,000ディルハム、100,000ディナール相当の邸宅、私有地、多くの馬とラクダが遺されていたと記述している。
 ウスマーンの殺害について、正統な権力の拒絶である故意の殺人で極刑に処すべきだとする意見、地位を乱用した人間に処刑を下したに過ぎないという意見が出され、二つの立場の議論は形を変えて数百年の間続けられた。
 このため、ウスマーンの死はイスラームの政治理論と実践に大きな影響を与えたと考えられている。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯004

2023-09-22 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(4)

 ❖ アフガニスタン
       歴史と変遷 (3) ❖

 ◆メナンドロス1世

 インド・グリーク朝の王の中で最大の勢力を築き、また最も多くの記録を残しているのはメナンドロス1世(ミリンダ 在位:紀元前150年頃 - 紀元前130年頃?)である。
 メナンドロス1世はインドにおいてエウティデムス朝系の権力に対する反対者として台頭したという説が近年では有力であるが、彼が権力を得た具体的な経過はわかっていない。

 メナンドロス1世は北西インドの都市シャーカラ(現:シアールコット)を都とした。
 古代の地理学者プトレマイオスによれば、当時この町はエウテュメディアと呼ばれたという。
 メナンドロス1世の発行したコインは他のインド・グリーク王の誰よりも広い範囲から出土している。
 その範囲は現在のカーブルからバルチ、カシミール、マトゥラーに至る。

 同じく地理学者プトレマイオスによって造られた世界地図によればインド亜大陸にはメナンドロス山などと名づけられた山が存在していたらしい。
 こうしてインド亜大陸に勢力を拡張した王達、アポロドトス1世やメナンドロス1世はギリシア・ローマの歴史家達にはインド王として言及されている。

 メナンドロス1世の名を今日に伝えている最も重要な記録は仏典の1つ『ミリンダ王の問い』である。
 メナンドロス1世は仏教に帰依したことが知られており、当時のインドでは単に武勇に優れた征服王というだけではなく偉大な哲人王として記憶された。
 ミリンダとはメナンドロスの名がインド風に訛って伝わった名である。

 「彼は論客として近づき難く、打ち勝ち難く、数々の祖師(ティッタカラ)のうちで最上の者であったと言われる。
 全インド(ジャンブディーパ)のうちに肉体、敏捷、武勇、智慧に関して、ミリンダ王に等しい如何なる人も存在しなかった。
 彼は富裕であって大いに富み、大いに栄え、無数の兵士と戦車とを持った」

 この書はメナンドロス1世と仏僧ナーガセーナとの対談と、王の改宗の顛末などを中心に記録されたものであるが、メナンドロス1世が仏教に帰依したという点には疑問を呈する学者もいる。
 だが大勢ではやはり仏教を重視したのだろうとする説が有力である。
 メナンドロス1世はインド・ギリシア人最大の王であり、彼が発行したコインはその後200年以上にわたって北西インドで流通した。
 これはメナンドロス1世以降暫くの間、彼ほど巨大な経済力を持った王が存在しなかったことを示すともいわれる。

 ◆グレコ・バクトリアの終焉と
      インド・グリークの諸王

 メナンドロス1世が死んだ後、王妃アガトクレイアが権力を握ったが、それと同じ時期の紀元前130年頃には大月氏によってか、或いは大月氏の圧力によって移動したトハラ人、サカ人によってか、正確なことはわかっていないが、バクトリアのギリシア人王国はこういった遊牧民の侵入によって崩壊した。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❒ 月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)

 紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。
 紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。
 大月氏時代は東西交易で栄えた。
 『漢書』西域伝によれば羌に近い文化や言語を持つとあるが、民族系統については後述のように諸説ある。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 紀元前125年頃にグレコ・バクトリア最後の王ヘリオクレスは殺害されたか、もしくは亡命を余儀なくされた。
 そして残されたバクトリア・ギリシア人達のいくらかはインド・ギリシア人達の勢力範囲に流入した。
 リュシアス、ゾイロス1世、アンティアルキダスなどのギリシア人王が各地で勢力を持ったが、彼らの多くはこの時期に新たにインドに移動したグレコ・バクトリア系の王であると言われている[。
 彼らは基本的にはエウティデムス朝かエウクラティデス朝に属する王達であったと考えられている。
 また、メナンドロス1世とアガトクレイアの息子、ストラトン1世も、やや遅れてではあるがインド・ギリシア人の代表的な王として活動したと見られる。

 こういった経緯によって、インドにおけるギリシア人の勢力は新たにバクトリアから流入した人々によって形成された西方のアラコシアやパロパミソスを支配する勢力と、恐らくメナンドロス1世の後継者達によると考えられる東方の西パンジャーブ地方などを支配する勢力に大きくわかれた。
 また更に多くの群小王国が存在したと考えられる。

 だが、この時期のインド・グリーク諸王の勢力範囲は年代決定は諸説紛糾しており、極めて僅かな史料を下にその活動が想像されているに過ぎない。
 それでも上記の王達の場合はまだ記録に恵まれている方である。
 ニキアス、ポリクセノス、テオフィロスなどのように、発掘されたコインからただ名前のみが知られているインド・グリーク王は約40人にも上るが、彼らについては極めて大雑把な概要さえ知る事ができない。

 彼らは相互に覇権を争ったが、紀元前90年以降その勢力は減衰を続けた。
 西暦1世紀初頭までには支配者としてのギリシア人の地位は完全に失われた。

 ◆身分秩序

 インドにおけるギリシア人の支配はどのような影響を社会に及ぼしたのか、様々な見解が出されている。
 ある仏典にはヨーナ(ギリシア人)とカンボージャでは二種の階級、即ち貴族と奴隷(アーリアとダーサ)があり、貴族が奴隷となり奴隷が貴族となることがあるとされている。
 これはあまりに抽象的な記録であるが、「階級が入れ替わることがあった。」という点を重視し、ギリシア人の支配下で旧来のインドの身分秩序に乱れがあったことを示すとする意見もある。
 しかし、インド社会の根幹部分にはギリシア人の影響はさほど及ばなかったとする説も有力である。
 メナンドロス1世の王国では当時の支配階級はギリシア人を頂点とし、旧来のインド王族、バラモン、資産者が続くとされている。
 これに見るように、古いインドの階級秩序の上にギリシア人が置物のように存在したという説もある。

 インド・グリークの諸王国においてギリシア人が特殊な地位を占めていたのは『ミリンダ王の問い』にある記述から想定できる。
 これによれば、メナンドロス1世の周囲には常に500人のギリシア人が側近として控えていたとされている。
 実際にギリシア系と考えられているメナンドロス1世の側近の名前も記録されている。
 即ちデーヴァマンティヤ(恐らくデメトリオス)、アンタカーヤ(恐らくアンティオコス)、マンクラ(恐らくメネクレス)、サッバディンナ(サラポドトス、もしくはサッバドトスか?)の4人である。

 ◆領内統治

 ❒王権観

 インド・グリーク諸王朝の王権に関する史料は『ミリンダ王の問い』に収録されている僅かな記録を除けばコイン銘にある称号がほとんど唯一の史料である。
 バシレウス(王)や、バシレウス・メガス(大王)などが称号として用いられたが、時代を経るにつれ若干の神格化も見られた。
 『ミリンダ王の問い』に表されるインド・グリーク王の姿は極めてインド的である。

 「…王は政治を行い、世人を指導する。
 …彼は一切の人間に打ち克って、親族を喜ばせ、敵を憂えさせ、大いなる名望と栄光ある無垢白色の白傘を掲げる。…」 「…良家の裔であり、クシャトリヤである王がクシャトリヤの灌頂を受けた時、市民、辺境民、地方人、傭兵、使者が王に侍り…廷臣、役者、踊子、予言者、祝言者、一切の宗派のシャモン・バラモンが彼の下に赴き…いたるところにおいて支配者となる。…」

 しかし、後世の付加であると考えられ部分を含んでおり、インド・グリーク王が「インド的」な王権観の下にあったのかどうかは断言できない。
 後述のように、遺物から推測されるインド・グリーク諸王朝の政治体制はギリシア的要素を強く残しており、仏典に見られる強い「インド的傾向」は、採録者自身が王をそのようなものとして見なしていたが故のものかもしれない。

 だがインド・グリーク諸王の発行したコインはギリシア文字銘の他に、現地で用いられていたカローシュティー文字などを使用してプラークリット語の称号が併記されることが多いという点で、他のヘレニズム諸王国のそれとは著しい相違をなす。マハーラージャ・マハータ(偉大なる大王)や、マハーラージャ・ラージャティラージャ(諸王の統王なる大王)などのような称号は、基本的にはギリシア語の称号を現地語に訳したものであるが、こうした処置が必要だったことは、ギリシア人の王権観にインドのそれが影響を及ぼしていた事を示すとも言う。

 ❒従属王国

 メナンドロス1世を初めとしたインド・グリークの王達は、領域内で完全な主権を確立していたわけではなかった。
 彼らの支配する領域には数多くの従属王国が含まれており、彼らは王を名乗り独自にコインを発行したりする場合もあった。

 こういった従属王国は、必ずしも上位者の王と運命共同体を形成していたわけではなかった点は重要である。
 上位者の王の勢力が減衰すれば、彼らはその都度独立したり、別の王の庇護を求めたりして自らの地位を守ることに努めた。
 メナンドロス1世に従属していた王の一人ヴィジャヤミトラは、メナンドロス1世死後も長く独自の王国を存続させていた。

 ❒郡守

 メナンドロス1世の王国は、セレウコス朝と同様の郡守(メリダルケス)制度を持っていた。
 この称号はセレウコス朝の碑文に多く残されているが、インド・グリーク王朝の碑文にも確認されており、地方の統治に当たった。
 こうした点に見られるようにインド・グリーク王朝の国家体制にはヘレニズム的要素が強く見られる。

 彼らは地方の統治とともに独自に宗教活動にも従事していた。紀元前150年頃の群守の1人テウードラ(テオドロス)が仏舎利を供養したことが記録に残されている。
 こういったギリシア人の郡守達は実務・行政にはギリシア語を使用したと考えられているが、興味深いことに仏教に関する活動においてはギリシア語を避け、カローシュティー文字を用いて現地語を使った。

 ❒軍事

 コインに刻まれた記録からは、インド・ギリシア人が典型的なヘレニズム風の武装をしていたことがわかる。
 基本的には西方のヘレニズム王朝と軍事面であまり差は無かったと考えられているが、それでも地域的な影響は強く受けた。
 グレコ・バクトリア王国が遊牧民の襲来で崩壊した後の王、ゾイロス1世のコインの中には遊牧民の用いていた短弓が描かれているものがあり、インド・ギリシア人の弓騎兵も同様の物を装備していたといわれている。

 グレコ・マケドニアの伝統にのっとって、騎兵は重要視されていたと考えられ、グレコ・バクトリア王やインド・グリーク王はしばしば馬上の姿が描かれている。
 インドで重要視された戦象はヘレニズム諸国がこぞって使用した兵器であり、インド・ギリシア人も用いたと考えられるが、馬と異なりコインに描かれることは無い。
 しかし、インド世界一般の傾向から考えて戦象は重要な兵力であったであろう。
 少なくとも『ミリンダ王の問い』の中には、戦象の使用に言及する部分がある。

 ❒宗教

 インドに移住したギリシア人達は当初、当然ながら彼らの旧来の宗教、すなわちゼウスやヘラクレスへの崇拝を持ち込んだことが確認されている。インド・グリーク諸王が発行したコインにはギリシア系の神々の姿が刻まれている。
 時が経過するに連れ、インドの宗教の影響を受け、それらに帰依する者も出た。

 ❒ギリシア人と仏教

 インド・ギリシア人の中には多くの仏教徒がいた事が知られている。最も有名なのはメナンドロス1世であるが、彼の仏教改宗は、単に個人的に仏教に興味を持つ王がいたと言う範疇を超えて、当時のインド社会における大きな思想潮流の中での出来事であると考えられる。

 マウリヤ朝時代、仏教はその保護を受けて大いに発展していたが、その中で仏教に改宗するギリシャ人がいたことは考古学的に確認されている。
 マウリヤ朝時代に仏教教団へギリシア人から窟院や貯水池の寄進が行われていたし、アショーカ王の勅令の中にガンダーラ地方のギリシア人に仏教が広まっていた事を示すものもある。
 何故仏教がギリシア人に受け入れられたのかについては様々な議論があるが、一説に身分秩序を重んじるバラモン教の有力なインド社会において、外来のギリシア人がインド社会に同調しつつその宗教を取り入れようとした場合、大きな選択肢としては仏教しかなかったという説がある。
 バラモン教的立場に拠れば、いかなギリシア人が強大な軍事力を持ったとしても、夷狄の1つに過ぎない。
 サンスクリット語で蛮族を意味する語バルバラ(barbara)は、ギリシア語のバルバロイの借用であるが、皮肉なことにインドの文献にはギリシア人を指してバルバラと呼ぶものも存在する。

 ◆メナンドロス1世の改宗

 『ミリンダ王の問い』によればメナンドロス1世は当初仏教に懐疑的であり「質問をぶつけてサンガ(仏教教団)を悩ませた」とある。
 その後、ナーガセーナとの論戦に破れ仏教に帰依したことが伝えられている。

 この「メナンドロス1世の改宗」の史実性については長い議論の歴史がある。
 仏僧ナーガセーナは『ミリンダ王の問い』以外にその存在を証明する文献は存在せず、メナンドロス1世の残した遺物の中には、彼が仏教徒であったことを示唆する物は少ない。
 彼のコインに刻まれているのは伝統的なギリシアの神々であって、そこから仏教的要素を読み取ることは出来ない。
 ただし、これらのコインの中には輪宝を刻んだものがあることから、メナンドロス1世がインド人の宗教観の影響を受けていたことは確実である。
 但し、輪宝は仏教以外の宗教も用いるため、メナンドロス1世が仏教に帰依した確実な証拠とはならない。
 斯様な点からメナンドロス1世の仏教改宗の史実性に疑問を持つ学者もいる。

 一方、メナンドロス1世が仏教を信仰したとする最大の証拠は、シンコットで出土したメナンドロス1世が奉献したと記す舎利壷である。
 このため、メナンドロス1世は実際に仏教に帰依した、少なくとも重視したとする説が有力である。

 ❒仏教美術

 ギリシア人達はインドの美術にかなりの影響を残した。取り分けよく言われるのが、従来は仏の姿を直接現さないことになっていた仏教美術の中に仏像が現れたことに対するギリシア人の影響である。

 古代インドでは釈迦の入滅以来、仏陀が人間的な表現で表されることはなかった。
 釈迦の死後、崇拝の対象となったのは彼の像ではなく、彼の遺骨(仏舎利)を納めた仏塔(ストゥーパ)であり、仏教説話などを絵などに表現する時、釈迦を登場させる必要がある場合には、座席、仏足跡、菩提樹、法輪、傘蓋、仏塔などを描写することで釈迦の存在を象徴的に表すのみであった。
 これは意識的に釈迦の姿を現す事を避けたことがわかる。
 こうした仏教美術様式はマウリヤ朝、シュンガ朝、サータヴァーハナ朝を経て西暦紀元前後まで一貫して続いている。

 しかし、その次の時代のガンダーラ美術やマトゥラー美術では、釈迦を人間の姿で表現する事が既に前提となっている。
 仏像の登場の最も早いものはクシャーナ朝時代のことであり、インド・グリーク諸王朝の活動した時代よりも後のことであるが、神を人間の姿で表現するギリシア人の美術様式が仏教美術に影響したと言われている。

 ❒ヒンドゥー教

 ここでいうヒンドゥー教とは今日的な意味ではなく、当時のインドの土着の神々に対する信仰を指す。
 インド・ギリシア人の信仰として注目されるのはやはりゼウスやヘラクレス、アテナなどギリシア古来の神々への信仰と仏教信仰であるが、インド伝来の神に対するギリシア人の信仰の証拠も今日に残されている。

 最も有名な例はアンティアルキダス王に仕えたタクシラ出身のギリシア人ヘリオドロスに関する記録である。ベスナガルに残るガルーダ石柱銘文によれば、アンティアルキダス王は治世第14年にヘリオドロスをヴィディシャーの王バーガバドラの下に使者として派遣した。
 ヘリオドロスはバーガヴァダ派の信仰を持っていたため、ヴァースデーヴァ神のためにベスナガルにガルーダ像をつけた柱を建てたという。
 この銘文の中でヴァースデーヴァは「神々の中の神」と呼ばれている。
 このようにインド伝来の神を信仰するギリシア人は少なからず存在したと考えられ、また恐らくは旧来のギリシアの神々との混交も進んでいたと推測される。

 今ひとつ、インドの神々とギリシア人との関係を示す証拠は、神の像が刻まれたグレコ・バクトリア王国やインド・グリーク諸王朝のコインである。
 アガトクレスやパンタレオンの発行したコインに刻まれている踊子はクリシュナの姉妹スバードラを表したものと言われている。
 また、インド人の神話的伝承についてはギリシア人の「批判」も残っている。メガステネスやアリアノスなどのギリシア人達は、インド人の伝えた神話、伝説の類を「荒唐無稽」として全く信用しなかったことが伝えられている。
 (これらの伝説は今日の『マハーバーラタ』やプラーナ文献に対応するものが多く発見されている。)

 メガステネスやアリアノスはインド・ギリシア人ではないが、インド・ギリシア人の中にも西方のギリシア人と同じくこうしたインドの空想的な神話について懐疑の目を向けるものは少なからず存在した。
 そうしたギリシア人の1人は他ならぬメナンドロス1世であった。彼がナーガセーナとの議論の中で質問を多くぶつけたのは、ありえそうも無い空想的な説話についてであった。

 ◆カーラ・ヤヴァナ
       (黒いギリシア人)

 インドの伝説やプラーナ文献にはクリシュナがカーラ・ヤヴァナ(Kala Yavana、「黒いギリシア人」)と戦ったという説話が残されている。
 これは現地人との長期に渡る混血が進んだギリシア人か、或いはかつて古代インドの土着民がアーリア人の侵入につれてアーリア化したように、ギリシア化した土着民であったかもしれない。

 ただし、このカーラ・ヤヴァナとはバクトリアのギリシア人を指すという説もある。

 ▶インド・スキタイ王国

 紀元前2世紀、匈奴がモンゴル高原の覇者になり敦煌の月氏を駆逐すると、逃れた月氏が塞族を追い出しイシク湖に定住した。
 塞族は、パミール高原を越えて定住を始め、紀元前85年にインド・グリーク朝に侵攻し、紀元前10年に最後のギリシア系王朝が滅亡し、サカ人のインド・スキタイ王国が興った。

 インド・スキタイ王国
 (英語:Indo-Scythian Kingdom)

 紀元前1世紀の西北インドに興ったスキタイ系のサカ人による諸王朝。インド・スキタイ朝、インド・サカ王朝、サカ王朝、サカ王国ともいう。インド・グリーク朝の文化を受け継ぎ、多くのコインを残した。

 ◆遊牧民の大移動と建国

 紀元前2世紀、モンゴル高原の覇者となった匈奴は西域攻略を開始すべく、手始めとして敦煌付近にいた月氏を駆逐した。
 月氏はイシク湖周辺にまで逃れ、もともとそこにいた塞族(サカ人)を追い出してその地に居座った。
 追い出された塞族は縣度(パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈)を越えてガンダーラ地方に罽賓国を建てたり、途中のパミール山中に休循国や捐毒国を建てたりした。
 これらの国々がインド・スキタイ王国なのかは不明だが、紀元前85年頃には北方遊牧民(広義のスキタイ:サカ)が西北インドに侵入し、インド・グリーク朝を滅ぼして自らの王国を築いた。

 ▶インド・パルティア王国

 アルサケス朝パルティアが弱体化すると、パルティア人のゴンドファルネスがバクトリアと北インドを支配下に治め、20年にアルサケス朝パルティアから独立してインド・パルティア王国を興した。
 1世紀頃現代のアフガニスタン、パキスタン、北インドを含む領域に、パルティア人の指導者ゴンドファルネスによって建設された王国。

 ◆東方領土への進出

 匈奴が冒頓単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)治世下で強大化して西方を脅かすようになると、元来タリム盆地に拠点を置いていた遊牧民の大月氏はサカ人の領土を奪い取り西遷した。
 パルティアのミトラダテス1世(在位:前171年 - 前138年)の治世には、北西インドのサカ人が本拠地のヒュルカニア(英語版)に侵入し始めた。
 紀元前128年、フラーテス2世はサカ人討伐に失敗して戦死し、インド・スキタイ人のインド・スキタイ王国や大月氏の大夏によって東方領土は占領されていた。

 ローマとの抗争や、紀元前92年のミトラダテス2世の死などによってパルティア王国が弱体化すると、パルティアの大貴族スーレーン氏族(王族から分岐した氏族)は東方領土に侵入を開始した。
 パルティア人は、ガンダーラ地方でクジュラ・カドフィセス(後にクシャーナ朝の王となる)など大月氏側の多くの地方領主と戦った後、全バクトリアと北インドの広大な領域を支配下に治めた。インド・スキタイ王国は、最後の王アゼス2世が紀元前12年頃に死去するまで存続した。

 ◆建国

 西暦20年頃、パルティア人の征服者の1人、ゴンドファルネスは、パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設した。
 インド・パルティア人は、パフラヴァ(Pahlavas)としてインド人に知られており、ヤヴァナ(Yavanas)、サカ(Sakas)とともにしばしばインドの文書に登場する。

 この王国は何とか1世紀ほど存続した。
 王国はゴンドファルネスの後継者アブダガセスの時代には分解を始めた。
 北インド地方は75年頃にはクシャーナ朝のクジュラ・カドフィセスによって再征服された。
 その後、王国の領域はほぼアフガニスタンのみに限定された。

 ◆滅亡

 最後の王パコレス(英語版)(100年 - 135年)の治世には、サカスタンとトゥーラーンを支配するに過ぎなかった。
 2世紀の中央インドの王国サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)の王ガウタミープトラ・シャータカルニ(Gautamiputra Sātakarni 106年〜130年)は、自らを「サカ(西クシャトラパ)、ヤヴァナ(インド・ギリシア人)、パフラヴァ(インド・パルティア人)を滅する者」と称した。

 〜〜〜《余談》〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❒仏教のシルクロード伝播

 226年のサーサーン朝による支配の後も、パルティア人の孤立した領土が東方に残存した。
 2世紀から、中央アジアの仏教伝道師は中国の首都洛陽や南京で、仏典の翻訳活動によって有名となった。
 現在知られている限り、最初に仏典を中国語に翻訳したのはパルティア人の伝道師であった。
 中国ではパルティア人はパルティア(安息国)出身であることを表す「安」姓によって識別された。

 シルクロードを通じて仏教は陸路により中国にもたらされた。
 この仏教のシルクロード伝播が始まったのは2世紀後半もしくは1世紀と考えるのが最も一般的である。

 最初に中国の仏僧(完全に外国人)による仏典漢訳が行われたのは記録されている限りでは2世紀のことで、クシャナ朝がタリム盆地の中国の領土にまで伸長したことの結果ではないかと考えられている。
 世紀以降、法顕のインド巡礼(395年〜414年)やそれに次ぐ玄奘のインド巡礼(629年〜644年)にみられるように、中国からの巡礼者たちが原典によりよく触れるために、彼らの仏教の源泉たる北インドへと旅をするようになった。
 仏教のシルクロード伝播は中央アジアでイスラームが興隆する7世紀ごろに衰え始めた。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ▶クシャーナ朝

 紀元前1世紀前半に大月氏傘下には貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)の他に四翕侯があったが、カドフィセス1世(丘就卻)が滅ぼしてクシャーナ朝を開いた。
 カドフィセス1世は、カブーリスタン(カブール周辺)とガンダーラに侵攻し支配域とした。
 その子供のヴィマ・タクトの時代にはインドに侵攻して北西インドを占領した。
 カニシカ1世の時代には、ガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となった。
 カニシカ1世はパルティアと戦って勝利を収めた。

 ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。
 サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。

 ▶サーサーン朝

 イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国(226年〜651年)。
 首都はクテシフォン(現在のイラク)。
 ササン朝ペルシアとも呼ばれる。

 サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。
 更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサスと中央アジアまで広がっていた。

 特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。

 サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。
 サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。
 サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ、アフリカ 、中国、インドを含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた。
 ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた。

 サーサーン朝の起源は不明な点が多い。
 サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。
 サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。
 アルダシールの父親バーバク(パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。
 彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。
 そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。

 アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原諸国を次々制圧した。
 同年4月にホルミズダガンの戦い(英語版)でパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。
 この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認した。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝・トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

 以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。
 アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。
 244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス(英語版)などの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。
 そして、新皇帝フィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。
 後に皇帝ウァレリアヌスが再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いで皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。
 そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。

 ◆王位継承問題と弱体化

 シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。
 バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。
 絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教・仏教・キリスト教などの排斥を進めた。
 マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。

 バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。
 既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。
 しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。
 バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。
 ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。

 ◆統治体制の完成

 その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。
 シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。
 こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。
 少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。
 シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。
 また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。
 ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦いで侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。
 東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。

 対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。
 また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。
 こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

 ◆中間期

 バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。
 バハラームの死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。
 友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年にセレウキア公会議が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。

 ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後バハラーム5世が即位した。
 バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。
 亡命者を巡ってサーサーン朝・東ローマ帝国テオドシウス朝間で交渉が持たれたが決裂。
 422年にローマ・サーサーン戦争に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。

 ◆エフタルの脅威

 425年に、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。
 バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。
 428年にアルサケス朝アルメニア(英語版)が滅亡し、サーサーン朝アルメニアが成立。

 バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))の後、441年に相互不可侵の約定を結んだ。
 443年に、キダーラ朝(英語版)との戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。
 東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦いで勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。

 ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。
 ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年に世を去った。
 彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。

 458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家の王女が夫Varskenに殺害された。
 エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王ヴァフタング1世がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプを派遣したが、ヴァハン・マミコニアンが蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。

 ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。
 旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い》。
 485年にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアのマルズバーンに指名される。

 488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年〜496年、498〜531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。
 しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。
 幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。
 同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォンに立てられた。
 カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

 502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。
 この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年〜628年)の始まりであった。
 526年に、イベリア戦争(526年〜532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝連合軍との間で行なわれた。
 530年、Battle of Dara、Battle of Satala。
 531年、Battle of Callinicum。

 ◆最盛期

 カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年〜579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。
 ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。
 とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。
 一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。

 一方、東ローマ帝国ではキリスト教学の発展に伴う異教排除が進み、529年にはユスティニアヌス1世によってアテネのアカデミアが閉鎖された。
 ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。
 それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティアがキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。
 この結果、(ギリシア語、ラテン語)の文献が多数翻訳された。

 ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。
 宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。
 『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。
 現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。

 タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期ペルシア語)訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語のシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン(ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان‎、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である)。

 5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。

 ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。
 ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。
 一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。
 569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年〜591年)を引き起こした。

 ◆滅亡

 ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバフラーム・チョービーンの反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。東ローマのマウリキウスの援助で反乱を鎮圧したが、602年に東ローマの政変でマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にクーデターでヘラクレイオスが帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。

 連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年にはシリアのダマスカス、シリア、翌614年には聖地エルサレムを占領した(エルサレム包囲戦)。
 この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。

 615年にエジプト征服(英語版)が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)が起こった。
 621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ逃亡を計ろうとした。

 しかし、622年にカッパドキアの戦い(英語版)でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。
 サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。
  627年に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。
 ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。

 カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱)。
 長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。
 そこに新興の宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。

 アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。
 633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。
 翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。
 しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ(正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。
 クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。

 641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラ、クーファから軍勢を招集する。

 642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。
 敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。
 ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴへ逃れた。
 しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。
 東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、
 さらに唐の助勢を求め、自らが長安まで赴いて亡命政府を設立したが、成功することはなかった。
 『旧唐書』には大暦6年(771年)に唐に真珠を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。

 サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラム共同体(帝国)が世界帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。

 〔ウィキペディアより引用〕



■CTNRX的見・読・調 Note ♯003

2023-09-18 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(3)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷 ② ❖

 ▶オクサス文明

 バクトリア・マルギアナ複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex:略称BMAC)

 青銅器時代の紀元前2000年前後に、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン北部のアムダリヤ(オクサス)川上流部などに栄えた一連の先史文化を指す考古学用語である。

 インダス文明とほぼ同時代に高度の都市文化を発展させたことから「第五の古代文明」という意味でオクサス文明とも呼ばれる。
 発見は比較的新しく、研究途上にある。メソポタミアの文明やエラム文明、インダス文明など他の文化との関係、特にアーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目されている。

 バクトリア(アフガニスタン北部)、マルギアナ(トルクメニスタン)はいずれも遺跡が集中する地域のギリシア語名である。
 乾燥地帯であるが、川とオアシスを利用して古くから農業が行われた。
 バクトリア、マルギアナは現在のメルヴを中心とし、アケメネス朝ペルシア以降栄えた。

 BMACは、ソ連の考古学者ヴィクトル・サリアニディが発掘調査に基づき1976年に命名した。
 これは西側ではあまり知られなかったが、ソ連崩壊後1990年代に世界的に知られるようになった。
 代表的な都市遺跡としてはナマズガ・デペやアルティン・デペがある。
 住民は灌漑により小麦・大麦などの栽培を行っていた。都市や城塞の遺構のほかに、優れた金属器や、土器、宝石類、石の印章など様々な遺物が知られる。印章に見られる図柄はイラン南東部から出土した陶器や銀器によく似ている。
 マルグッシュ遺跡(ゴヌール・テペ)からはエラム文字と見られる銘文を彫った陶片が見つかっている。
 これらの遺跡の上下限年代は、放射性炭素年代測定によって紀元前2200年から1500年頃という数字が提示されている。
 この発展と没落の過程はまだよくわかっていない。

 BMACの遺物はこの地域だけでなくイラン東部、ペルシャ湾岸、バルチスタン、インダス川流域(ハラッパーなど)の広い範囲で見出されている。
 中心地はむしろアフガニスタン南部からバルチスタンにあったとする学者もいるが、今のところ同地方から本格的な規模の同文化に属する遺跡は一切発見されていない。

 イラク、イランやインダス地方とは盛んな交流が行われ交易圏を形成していたが、別の独立した文明という説と、メソポタミアやエラム文明からの移住地として始まったという説がある。
 東側では、土器などに関してガンダーラ墓葬文化(GGC:スワート(Swat)文化ともいう)との深い関係が考えられている。
 また同時期の北側では中央アジアの広い範囲に遊牧民のアンドロノヴォ文化が栄えており、これとの接触もあったようである。

 サリアニディはBMAC文化の起源についてアナトリアなどに由来する説を称えているが、イランのエラム文明に由来するとする説やイラクからインダス一帯の交易権圏の下で独自に発達したとする説、他にほぼ同時期のタリム盆地の先史文化と結び付ける説もある。

 この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。
 アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。
 またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、この文化は南から北へ拡大しておりBMACより北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。
 またサリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。
 またジェームズ・マロリーはヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。

 インド・イラン語派には印欧祖語やドラヴィダ語と異なる基層言語があるとの考えもあり、それがBMACの言語(単一ではなかったかもしれないが)ではないかと考える人もいる。
 現在ガンダーラ地方の近く(カシミール)に残っているブルシャスキー語も関係があるかもしれない。


 《 古 代 の 
  ア フ ガ ニ ス タ ン 》

 古代アフガン人は今日のアフガニスタンにおけるパシュトゥ語圏に居住し、言語分布の記録によるとパシュトゥ語はアフガニスタン北東部のジャラーラーバード北部から南方のカンダハール、カンダハールから西方のファラーおよびセブゼワールにわたる地域で話されていたとされる。
 この地域はインド、中東、中国、中央アジアの交通路であり、アフガニスタンはイラン、インド、中央アジアの文化から影響を受けることになる。

 ▶前期ヴェーダ時代

 『リグ・ヴェーダ』によると紀元前12世紀頃に十王戦争が起こり、アフガニスタン東部からパンジャブで勢力を伸ばしていたスダース王が率いるトリツ族とバラタ族に、ヴィシュヴァーミトラが率いる十王の連合軍(プール族など)が攻め込んだが、逆に敗北して覇権を握られた。
 後にバラタ族とプール族は融合してクル族となりクル国を建国し、支配階層を形成した(カースト制度)。

 ▶後期ヴェーダ時代

 全インド(十六大国)を征服すると「バーラタ(バラタ族の地)」と呼ぶようになった。
 『マハーバーラタ』によると、クル族の子孫であるカウラヴァ王家はその後内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北すると衰退していった。
 この頃インドで十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝に支配されるようになり、他のインドの国々と全く異なったアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。

 ▶メディア王国

 メディア王国
 (Media、古代ギリシャ語: Μῆδοι, Mêdoi、古代ペルシア語: 𐎶𐎠𐎭, Māda、アッカド語:Mādāya)

 かつて存在した古代イランの王国である。
 メディア地方は現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域であり、前1千年紀にはインド・ヨーロッパ語を話す人々が居住するようになっていた。
 この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。
 メディア人は当時の西アジアの大国アッシリアの記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。

 主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。
 前550年にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)のクル2世(キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。

 名称と語源という現代の名称はギリシア語の史料に登場するメーディアー(Μηδία / Mēdía)に由来する。
 古代ペルシア語ではマーダ(Māda)という語形でハカーマニシュ朝(アケメネス朝、前550年頃-前330年)時代の碑文に登場する。

 元々の語義は不明であり、名称の由来についても確実な説はない。
 ポーランドの言語学者ボイチェフ・スカルモフスキはマーダという語はインド・ヨーロッパ祖語の*med(h)(「中心」、「中央に位置する」の意)に関連しているとしている。
 彼の推定は同様の意味を持つ古インド語(サンスクリット)のmddhya-、アヴェスター語のmaidiia-を参考にしたものである。
 一方、ロシアの歴史学者ディアコノフはメディア(マーダ)がインド・ヨーロッパ語に由来するかどうかはっきりしないとしている。

 ヘロドトスが伝える古代ギリシアの伝説ではメディアという名称は人名から来ている。

 メディア人部隊もペルシア人と同じ装備で遠征(ペルシア戦争)に加わった。
 もともとこの装備の様式はメディアのものであって、ペルシアのものではない。
 メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族なるティグラネスであった。
 メディア人は昔からもアリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女メディア(メーデイア)がアテナイを逃れてこのアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。
 これはメディア人自身が自国名について伝えているところである。

  —ヘロドトス、『歴史』、巻7§62

 ここに登場するアリオイ人はいわゆる「アーリヤ人(アーリア人)」に対応する名称であり、元来はメディア人のみならずイラン高原に住む諸族の通称である。 
 しかし、語源とされる人物メディアはギリシア神話に登場する魔女であり、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして失敗しアリオイ人の下へ逃れたとされている。
 このため、ヘロドトスの伝える伝説は名称の類似に依ったギリシア人による創作と考えられ、メディア人自身の伝承であるという彼の証言も疑わしい。

 また、バビロニアの史料ではメディアは時にウンマン=マンダと呼ばれている。

 ◆メディア人の登場

 メディア人は古代イランに登場するインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派の言語(メディア語)を使用した人々である。
 ある時期にイラン高原に侵入し、その北西部(現代のハマダーン州)周辺の地域に定着したとされる。
 イラン高原にはメディア人の到来以前にフルリ人や「グティ人」等、様々な言語を話す住民が居住していた。
 ここにインド・ヨーロッパ語を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀の中頃までにはイラン高原に到達していた。
 彼らの中からメディア人やペルシア人など、後世のイラン世界の基層を成す人々が登場する。
 現在知られる限り、メディア人の言語であるメディア語は筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史についての記録はギリシア人の文筆家(特にヘロドトス)による記録や『旧約聖書』における言及、そしてアッシリア人が残した断片的な楔形文字文書に限られ、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。

 「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年または前834年のことである。
 アッシリア王シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスクに残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarḫar)という土地に攻め入った。
 このアマダイはメディアを指す。
 前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。
 およそ100年後のティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(Madai)を攻撃し略奪したことが記されている。
 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である。

 同じ頃にメディアと共に近傍のマンナエやペルシア(パルスア)がアッシリア人の記録に登場するようになる。
 ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない。
 アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人はオルーミーイェ湖(ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。
 ハマダーン州のエクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国の首都とみなされる。
 ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる。

 ◆アッシリアの支配とメディア

 ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた。
 彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人をイラン高原に移住させたとしている。
 そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという。

 前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年〜前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置し、メディア西部がそれに加えられた。
 これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された。

 この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。
 この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する)。
 しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた。
 このダイウックはヘロドトスの『歴史』に登場するメディアを統一した王デイオケスに相当するという見解がある。
 もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である。
 ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない。

 新たに設置されたアッシリアの東方新属州では反乱が絶えず、サルゴン2世は前708年に再度の遠征を行ったものの、メディアに対する安定的な支配を確立することはできなかった。
 キンメリア人やスキタイ人の侵入を受けてアッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王エサルハドン(在位:前681年〜前669年)はこの問題に対処するべくイラン北西部地方への遠征を行い、前679年から前677年にかけてイシュパカイア(Išpakaia)というリーダーに率いられたマンナエ人とスキタイ人を打ち破った。
 この時の遠征ではメディアも奥深くまで攻撃を受け、メディアの首長2人も家族もろともアッシリアへと連行された。
 ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように評価するかどうかは別として、当時のメディア人が多くの首長を持っていたことはエサルハドンの記録によってわかる。
 エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、パルタック(Partakku)のウピス(Uppis)、パルトゥッカ(Partukka)のザナサナ(Zanasana)、ウルカザバルヌ(Urukazabarnu)のラマタイア(Ramataia)という3人のメディアの首長が隣国との戦いのためにエサルハドンに支援を求めている。
 このうちラマタイアは前672年にエサルハドンが王太子アッシュルバニパルに対する忠誠の条約(いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印者の一人として登場している。

 一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長(city lord)」カシュタリティ(Kaštariti[注釈 7])、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu[注釈 8])の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている。
 この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている。
 アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある。
 この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対する包囲が行われるようになっていた。
 これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいはエラムによる訓練を受けた経験があったことを示すかもしれない。

 同じ時期にマンナエ人もアッシリアの北方で勢力を拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルはマンナエを攻撃し制圧した。
 マンナエ人はその後メディア人の勢力拡大を恐れ、アッシリアの滅亡までアッシリアの同盟国として行動した。
 アッシリアの記録におけるメディアについての最後の情報は前658年頃、アッシリアに背いたメディアの首長ビリシャトリ(Birišatri)を捕らえたというものである。

 ◆メディア「王国」の勃興と拡大

 メディアの王国は前7世紀半ばまでにはエラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合可能な勢力となっていた。
 前7世紀半ば以降、アッシリアはもはやメディアへの遠征を行わなくなっている。
 前7世紀前半にメディアにとってアッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのはウラルトゥであったが、この頃にウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点全てが破壊と炎上に見舞われ放棄されている。
 ウラルトゥ東方の拠点を破壊できるような勢力は当時メディア人しか存在しなかったため、この一連の破壊はメディア王国の拡張の証であるかもしれない。
 恐らくウラルトゥの撃破に成功した後、メディア人はペルシア(パルスア、当時のペルシア人は現在のイラン、ファールス州周辺に移動していた)人の征服に取り掛かった。
 前640年代、アッシリアによるエラム遠征が行われ、当時エラムのアンシャンを支配していたペルシア人の王クル1世は、アッシリア王アッシュルバニパルに貢納を行い人質として息子をアッシリアに差し出していた。
 メディア人によるペルシア攻撃はこの直後頃に始められたと見られる。

 こうしたメディア王国の勃興・拡大の時期はアッシリアの記録による言及が途絶え、メディア人自身による記録もないために、その歴史を同時代史料によって復元することはできなくなっている。
 当時について証言する史料はギリシアの著作家たち、取り分け完全な形で残されているヘロドトスの『歴史』(前5世紀)と、クテシアスの散逸した歴史書『ペルシア史』の断片や抄録が中心となる。
 しかしながらヘロドトスもクテシアスも空想的な説話の採用、物語的な語り口が後世批判された人物であり、また両者のメディア史についての記述は多くの点で(王名すらも)一致しない。それでもヘロドトスの方の記録はある程度の信頼性を認められているが、彼の情報源がメディア王国の勃興から2、300年後の伝承にのみ基づいている点には常に留意する必要がある。

 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子フラオルテスに帰せられている。
 このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。
 既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である。
 しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。
 特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性を含め全く知る術がない。
 少なくともアッシュルバニパルの即位前に書かれた忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)において元来メディアの王国はペルシアはおろかメディア全体を含んでいなかったことが示されている。

 とはいえ、前8世紀以来メディアに割拠していた独立的な小勢力は、前615年頃までにはその多くが「王国」に統合され、その支配者たちは宮廷の「貴族」となっていったであろう。
 ヘロドトスは建国者デイオケスが元来同等者であった他の貴族に対して自分が卓越した存在であることを認識させようと策を巡らしたことを記しているが、ディアコノフはこの説話をメディアの王とかつて同格であった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものとして参照している。

 ◆アッシリアの内戦とスキタイ人

 前652年、アッシリア支配下におけるバビロン(バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリア王アッシュルバニパルに対して反乱を起こした(両者は兄弟であった)。
 この反乱においてシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア周辺の諸勢力を味方に引き入れてアッシュルバニパルに対抗しようとした。
 アッシュルバニパルは後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として3つのグループを挙げている。
 第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。
 当時既にアムル人やメルッハ、グティ人は遠い過去の存在であり、この呼称は中世ヨーロッパにおいてフランスをローマ帝国時代の呼称でガリアと呼んだような、あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ人という古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的な表現である。
 「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカを、そして「グティ人」はアッシリアから見て東方の山岳地帯の住民を指したと見られる。
 当時アッシリアの東方に未だ存在していた勢力はメディアのみであったため、この「グティ人」をメディア人と理解することができるであろう。

 アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。
 この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない。
 これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、スキタイ人の手によったためであるかもしれない。
 この推測はヘロドトスの記録から導き出せる。ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子キュアクサレスが父親の仇を討つため、アッシリアの首都ニネヴェ(ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王マデュエスの攻撃を受け敗れたことを伝えている。
 アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。
 しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである。

 この時、スキタイ人は小アジアとトランスコーカサス地方に覇権を打ち立て、その後間もなくウラルトゥとマンナエもその影響下に置いたが、ウラルトゥやマンナエと共に、メディアの王国もスキタイ人の覇権の下で存続した。
 スキタイ人の支配は恐らく略奪と貢納品の取り立てに終始しており、組織的な国家体系を構築することはなかった。
 ヘロドトスによれば、スキタイ人によるメディア人の支配は28年間続いたが、キュアクサレスの計略によってスキタイ人を打倒し独立を取り戻すことに成功したという。

 ◆アッシリアの滅亡と
        メディア「王国」

 前626年頃、アッシリア支配下のバビロニアでカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)が反乱を起こし、前616年までにバビロニアを完全に制圧して独立勢力を築くことに成功した(新バビロニア)。
 ナボポラッサルの反乱で弱体化したアッシリアに対し、メディアもまた攻撃をかけた。
 前615年11月、キュアクサレスの指揮の下、メディアはアッシリアの属領であったアラプハ(現:イラク領キルクーク)に侵攻し、アッシリアの同盟国であったマンナエも征服した。
 前614年にはアッシリアの首都ニネヴェ近郊のタルビスを占領し、ニネヴェ自体も包囲したがこの都市の占領には失敗した。
 同年、メディアはアッシリアの古都であり「宗教」とイデオロギーの中心であったアッシュル市を占領した。
 アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した。
 なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった。
 このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。
 この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」。ここでキュアクサレスの孫(アステュアゲスの娘)アミティス(Amytis)とナボポラッサルの息子ネブカドネザル(2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた。

 前613年、ナボポラッサルに対する反乱がスフ(Suhu)で発生し、たちまちバビロニア全域に広がった。
 メディアとの同盟関係はナボポラッサルがこの危機を乗り切る上で大きな役割を果たした。
 翌、前612年にメディアとバビロニアの連合軍はニネヴェの城壁に到達し、この都市を攻略して事実上アッシリアを滅亡させた。
 公式な意味での最後のアッシリア王シン・シャル・イシュクンは一般にこの戦いで死亡したと考えられている。
 この攻略はメディアが中心的な役割を果たし、多くの戦利品を獲得した。
 アッシリアの残党は西方のハッラーンに集結し、アッシュル・ウバリト2世の下でなお事態の挽回を図ったが、ここでの戦いにメディアが関与したかどうかは史料上明らかではない。

 アッシリアの旧領土はメディアと新バビロニアによって分割された。
 両国の境界がどこにあったのかは議論があり、近年までアッシリア滅亡後のメディアはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)のティグリス川東岸とハッラーン地域を制圧していたという見解が一般的であった。
 この見解は現在再検討されており、アッシリアの中核地帯とハッラーンは前609年以来新バビロニアの支配下にあったと考えられている。
 いずれにせよ、国境を巡るメディアと新バビロニアの間の直接的な争いは記録されていないが、両国の関係はアッシリア滅亡後明らかに悪化しており、メディアと新バビロニアそれぞれの反乱分子は状況が悪化すると互いの国へと亡命するようになった。

 また、『旧約聖書』「エレミヤ書」の記載からはアッシリア滅亡後、ウラルトゥ、マンナエの地、スキタイの王国がメディアの支配下にあったこと、そして総督と共になおも複数の「メディアの王」がいたことが読み取れる。
 ヘロドトスはメディア王国の構造を「メディア支配の時代には、諸民族が互いに支配し合ってもいた。
 メディア人が全体の支配者ではあるが、直接には彼らの最も近くに住む民族だけを支配するのであって、この民族がその隣りの民族を、そしてまたこの民族がその隣接民族を支配するといったやり方であった。」と述べており、これが複数の「メディアの王」の実態であるかもしれない。

 明確な境界や支配の実態は明らかでないにせよ、アッシリア滅亡後のオリエント世界には4つの大国が残されることになったとされている。
 直接アッシリアを滅ぼしたメディアと新バビロニア、そして一時アッシリアに支配されていたものの独立を回復したエジプト、アナトリア西方のリュディアがそれにあたる。
 キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる。
 メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)中、日食が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。
 そしてバビロニアとキリキアの仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子アステュアゲスとリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる。
 これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である。

 メディアの勢力は東方でも拡大した。東方におけるメディアの勢力拡大はギリシア人の著作家の間接的な証言によってのみ知ることができる。
 メディアについて言及するほぼ全てのギリシア人の歴史家が、メディアの勢力がメディアの遥か向こう側(東側)まで広がっていたことを証言している。
 ただし、征服がいつ行われたのか、それを実施したのはどの王であったのかなど、確実なことはわからない。ヘロドトスによれば、後にペルシア(アンシャン)の王キュロス2世がメディアに反旗を翻した時、中央アジアの遊牧民マッサゲタイとバクトリアの制圧を必要としたことから、これらの地域までメディアの勢力が及んでいたと見られる。
 当然のことながら、これはバクトリアなどとメディアとの間にある地域、ヒュルカニア、パルティア、アレイアもメディアの支配下にあったことを示すであろう。
 アルメニアもまたメディアの下にあったと見られる。

 ◆メディアの滅亡と
        ハカーマニシュ朝

 前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ。
 アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア(アンシャン)の王キュロス2世(クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている。
 メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王ナボニドゥスの夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する)。

 ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た。
 夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた。
 ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた。
 やがてマンダネが息子キュロス(クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下のハルパゴスに命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった。
 牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした。
 やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した。
 やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った。
 メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。
 2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した。
 キュロスはその後、全アジアを征服した(ハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。

 この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。
 キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。
 メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。
 その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。
 キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。
 アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。
 彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。
 この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。

 独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。
 メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。
 さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。 
 ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。
 こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。


 ▶アケメネス朝ペルシア

 紀元前6世紀に、アケメネス朝ペルシアのキュロス大王が版図を東方のインダス川まで拡げ、その支配下にあった頃から、この地域が歴史の記録に現れ始める。
 ダレイオス1世によって、この地域に様々な州が設けられた。
 すなわち、アリア(ヘラート)、ドランギアナ(スィースターン)、バクトリア(アフガン・トルキスタン)、マルギアナ(メルブ)、ホラズミア(ヒヴァ)、ソグディアナ(トランスオクシアナ)、アラコシア(ガズニとカンダハール)、ガンダーラ(ペシャーワル谷)などであり、統治が強化された。
 紀元前332年、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)の東征におけるガウガメラの戦いでダレイオス3世を破ったことにより、この支配体制は終わる。

 ▶マケドニア王国

 紀元前330年にアレクサンドロス3世がアフガニスタンに侵攻した。
 アレクサンドロスは前進しながら征服地を守るため、各地に都市(アレキサンドリア)を築いていった。
 現在のヘラート近くのアレクサンドリア・アリアナがその最初である。
 紀元前329年には、カーブル北コヒスタン渓谷に、アレクサンドリア・アド・カウカスを築いた。
 また、この東征によってヘレニズム文化が流入した。紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると帝国は分裂し、アフガニスタン東部の領土(パンジャーブ)がセレウコス朝シリアに編入されるが、紀元前305年にマウリヤ朝インドのチャンドラグプタがセレウコス朝シリアからアフガニスタン東部を奪う。
 その後両国関係が好転し、紀元前3世紀中頃からはマウリヤ朝インドのアショーカ王のもと、インドとアフガニスタンで仏教が盛んになった。
 紀元前232年、アショーカ王が死ぬとマウリア朝は衰退する。

 ▶グレコ・バクトリア王国

 一方で紀元前250年頃にギリシア人のディオドトスがバクトリア(北部アフガニスタン地域)において独立王国・グレコ・バクトリア王国を建国し、一世紀にわたって栄えた。
 一方、イランと南部アフガニスタンにはアルサケスが独立王国・アルサケス朝パルティアを築き、226年まで続いた。

 ▶インド・グリーク朝
 (英語: Indo-Greek Kingdom)

 紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間に主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国の総称である。
 この地域におけるギリシア人はアレクサンドロス大王の時代より存在したが、有力勢力として台頭するのはグレコ・バクトリア王国の王デメトリオス1世によるインド侵入以降である。
 一般にこの時期以降のインドにおけるギリシア人王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。
 サカ人など他勢力の拡大につれてインド・ギリシア系の王国は姿を消したが、彼らの文化はインドに多くの影響を残した。

 インド・ギリシア人に関する記録は少ない。
 メナンドロス1世(ミリンダ)など例外的に記録の多く残る王は存在するが、40人前後に上るインド・ギリシア人王の中で具体的な姿を読み取ることの出来る王は数名に過ぎない。

 彼らについて知るために現在利用することが出来る記録は、各地で発行されたコイン(王名や称号などが記録されている)、僅かに残る碑文、ローマやギリシア人の学者達が残した書物や仏典などに残された記録などである。
 しかし質、量ともにインド・ギリシア人の歴史を明らかにするには極めて不十分である。

 なお、インド・ギリシア人達はインドの記録ではヨーナ、又はヤヴァナと言う名で現れる。
 これはイオニアの転訛である。

 ◆コイン

 インド・グリーク諸王国が発行したコインは後のインド社会に大きな影響を与えた。
 コインに王の横顔や神、称号を刻む習慣はインド・ギリシア人が権力の座を降りた後も長期にわたってインドで存続した。
 このコインは古代インド史を研究する上では欠かす事のできない資料であり広範囲で長期間流通した。
 インド・グリーク朝のコインの中には遠くイギリスで発見されたものもある。
 恐らく交易によって西方に齎されたコインを古代ローマ時代の収集家が保持していたものであると言われている。

 ◆ギリシャの移住

 ❒アレクサンドロス大王

 ギリシア人がいつ頃インド亜大陸に居住を開始したのかは不明である。

 アケメネス朝が紀元前6世紀末頃から紀元前5世紀初頭にかけてインダス川流域まで到達して以降に、アケメネス朝の手によってギリシア人がこの地域に移住させられた可能性はある(少なくとも中央アジア・バクトリア方面にはアケメネス朝時代に移住したギリシア人が存在したことが確認されている)が、記録が少なくはっきりとはしない)。
 インド亜大陸におけるギリシア人の活動を示す記録が増大するのはアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍がインダス川流域に侵入して以降のことである。

 アレクサンドロス大王がペルシア遠征を行っていた頃、北西インドにおけるアケメネス朝の統制力は大幅に弱まっており無数の群小王国が成立していた。
 ギリシア人の記録によればその数は20を超えていた。
 これらの王国はポロスの王国とタクシラ(タクシャシラー)を除けば大国といえるような勢力は無く、相互に争っていた。
 アレクサンドロス大王の侵入に対してポロス王は抗戦の構えを見せたが、他の諸国の反応はまちまちであった。
 タクシラ王アーンビはポロスとの敵対関係のために、ただちにアレクサンドロスへの貢納を決めている。
 戦いの末ポロスはアレクサンドロスに敗れたが、その後も王の地位には留まり、アレクサンドロス大王の宗主権下において王国は存続した。
 また、いくつかの州ではギリシア人の総督が統治することとなった。

 こうして支配者となったアレクサンドロス大王によってバクトリア(現在のアフガニスタン北部を中心とした地域)からインダス川流域にかけての地方にギリシア人都市が多数建設され、まとまった数のギリシア人が移住するに至った。
 紀元前4世紀末頃、これらの地域にセレウコス朝を開いたセレウコス1世がその支配権を獲得すべく遠征を行ったが、北西インド地方ではチャンドラグプタ王の建てたマウリヤ朝がセレウコス朝を圧倒し、その支配権を確保した。
 このため、北西インドに移住したギリシア人は、その後マウリヤ朝の支配下に入ることとなる。

 ❒マウリヤ朝治下のギリシア人

 マウリヤ朝の勢力範囲内にギリシア人がいたことは、アショーカ王の残した詔勅碑文に辺境の住民としてカンボージャ人やガンダーラ人とともにギリシア人が言及されていることから確認できる。サウラシュートラ半島(カーティヤワール半島、現:インド領グジャラート州)では、マウリヤ朝の覇権の下でトゥーシャスパと呼ばれるギリシア人王が統治していた(トゥーシャスパという名はイラン風であるが、イラン名を持ったギリシア人であると考えられている)。彼はアショーカ王の命令によって水道を敷設したことが記録されている。

 彼の他にもギリシア人による小王国が、インド北西部に散在していたことが知られている。
 これらの王国は土侯としての性格を持ったが、セレウコス朝など西方のヘレニズム王朝と異なり、マウリヤ朝の統制下にあって自立勢力とは言い難いものであった。

 ◆グレコ・バクトリア王国の
           最初の侵入

 バクトリアに移住したギリシア人達は紀元前250年頃にディオドトス1世の下で独立の王国を形成した。
 当初はマウリヤ朝が強勢であったことや、支配権回復を目指すセレウコス朝の攻撃とのためにグレコ・バクトリア王国がインドに影響を及ぼす事は少なかったが、紀元前200年に入るとインド方面への拡大を開始した。
 その端緒となったのはグレコ・バクトリア王国の4番目の王デメトリオス1世によるアラコシア征服である。
 彼はアラコシアにデメトリアードという名の都市を築くと、更にヒンドゥークシュ山脈を越えてパロパミソスを征服した。

 ◆デメトリオス2世から
       インド・グリーク朝へ

 アンティマコス1世の甥、パンタレオンやアガトクレスなどの内紛の後に(一説には内紛が続く中で)王となったデメトリオス2世の頃にはインドでは大きな政治的空白が生まれていた。
 紀元前180年頃にマウリヤ朝の将軍であったプシャミトラは、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺害して新王朝シュンガ朝を建て、中央インドでは新たにヴィダルパ国が成立し、カリンガ国(チェーティ朝)などマウリヤ朝の下でマガダ国に征服された諸国も自立していた。

 こういった状況のもとでデメトリオス2世はインドで大規模な征服活動を行ったと言われている。
 デメトリオス2世が支配した領域は学者によって見解がことなり正確なことはわかっていない。
 この時代のインドの文献にはマトゥラーなどガンジス川中流域の都市がギリシア人に包囲されたと記録するものがある。
 シュンガ朝やチェーティ朝との間で戦闘が行われたと考えられるが詳細はよくわかっていない。

 デメトリオス2世の行動に言及していると思われるインドの記録として、チェーティ朝の王カーラヴェーラの治世第8年の碑文がある。

 「カーラヴェーラ王の治世第8年、彼は大軍を持ってゴラダギリを攻略しラージャグリハ(王舎城)に迫った。彼の勇敢な所業の報せを耳にしたヤヴァナ王ディミタは、自らの軍を危険から逃すべくマトゥラーに退いた。」

 ともかくも、デメトリオス2世が熱心な征服活動をインド北西部からガンジス川流域にかけての地域で行っていたのは確実である。
 しかし、こうした中でグレコ・バクトリア本国では紀元前175年頃(年代には異説が多い)、エウクラティデス1世が反乱を起こし、支配権を握るという事件が発生した。
 このためデメトリオス2世は6万の兵を持ってエウクラティデス1世を討伐に向かった。
 エウクラティデス1世は僅か300人の手勢しか持っていなかったが、パルティアに領土の一部を割譲することで全面的な支援を獲得し、デメトリオス2世を撃退して紀元前171年頃に自ら王位についた(エウクラティデス朝)。
 そしてデメトリオス2世が征服したインド側領土の大部分を含む地方の支配権を得たが、バクトリア本国への帰還途中に息子に暗殺されたためにインド地方の支配権は大部分が失われた。

 この結果インド亜大陸及びその周辺におけるギリシア人の勢力はエウクラティデス1世の後継者によるバクトリア部分と、デメトリオス2世が征服した領域を基盤とするインド部分とに大きく分かれた。
 一般にこの分裂したギリシア人勢力のうちインド部分に支配権を持った諸王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。

 デメトリオス2世のインドにおける勢力基盤を継承したのは恐らくアポロドトス1世であった。
 この根拠となるのがデメトリオス2世の発行したコインとアポロドトス1世の発行したコインが同種の物であり、ほぼ同じ年代に属すると考えられることである(ただしアポロドトス1世がデメトリオス2世の父であるとする説もある。その他の説も多く正確にはわかっていない。)。
 アポロドトス1世はコインの分布からインダス川両岸地方からアラコシア(現:アフガニスタン南部)に至る地域に勢力を持っていたと推定されている。

 〔ウィキペディアより引用〕