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世界の女傑たち Vol.02ー②

2023-10-09 21:00:00 | 自由研究

 ■ジャンヌ・ダルク ⅱ

 ▼異端審問

 ジャンヌへの異端審問は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。
 ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。
 そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された。
 しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。

 ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる。
 コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。
 ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった。
 物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。
 さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。
 公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した。
 この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。
 もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。

 この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。
 教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。
 ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。
 公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している。
 20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。
 さらに数名の法廷関係者がのちに、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。
 裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。
 審問官のジャン・ル・メートルも意に沿わぬ裁判に集められた一人で、中にはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。
 また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。
 しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。
 コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した。

 裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している。
 ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。
 異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた。

 ▼処刑

 当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯したときだけだった。
 ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。
 女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。
 このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。

 ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身につけた。
 『乙女の記録』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。
 ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している。
 貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった。
 ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。
 ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。
 ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった。
 ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。
 神学者ジャン・ジェルソンなどジャンヌの支持者たちは、のちに復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している。
 しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯した(戻り異端)として死刑判決を受けた。

 1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。
 場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。
 一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。
 そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。
 さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。
 ジャンヌの処刑執行者の1人ジョフロワ・セラージュはのちに「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている。
 2006年2月に法医学の専門家たちが、シノンの博物館に残るジャンヌのものだといわれている骨と皮膚を6か月かけて調査すると発表した(調査結果の詳細は「ジャンヌ・ダルク#偽造されたジャンヌの遺骨」を参照)。
 この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全なでっちあげともいえないとされた。
 しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている。

 《ジャンヌの死後》

 ▼百年戦争の趨勢

 百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。
 トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。
 イングランド軍が1429年のパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、アラスでフランス、イングランド、ブルゴーニュの3か国会議が開かれた。
 この会議でそれまでのイングランドとブルゴーニュとの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなり、アラスの和約締結に繋がった。
 シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公が1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。
 そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。
 歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている。

 ジャンヌの死後にフランス軍を率いて活躍したのはリッシュモンで、パテーの戦いからシャルル7世に疎まれ再度遠ざけられていたが、1432年にヨランドの要請で復帰、翌1433年に政敵のラ・トレモイユを追放して宮廷の実権を握った。
 それからリッシュモンは軍事・外交に手腕を発揮して各地でイングランド軍を駆逐、ブルゴーニュとフランスの和睦にも尽力して交渉をまとめ上げ、1435年に両国の和睦を果たし、1436年4月13日にパリをイングランドから奪還する手柄を挙げた。
 パリ解放後もリッシュモンは活発な軍事活動を展開、ラ・イルとザントライユらジャンヌの戦友たちもリッシュモンのもとで従軍してフランス奪還を進めていった。
 1439年にリッシュモンはシャルル7世とともに貴族への課税と正規軍創設を考え、反対する貴族たちを1440年のプラグリーの乱で平定、イングランド軍掃討を続け1445年には正規軍制度を発足、大砲部隊も充実させフランス軍を精鋭部隊へと改良した。
 この軍隊を率いてリッシュモンは1449年にノルマンディーの大半を平定、翌1450年に奪還を図ったイングランド軍をフォルミニーの戦いで撃破、勢いに乗りノルマンディーをすべて制圧した。
 そして1453年にフランス軍はカスティヨンの戦いでタルボットを討ち取り、ボルドー平定をもって百年戦争を終結させた。

 ▼復権裁判

 百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。
 ローマ教皇カリストゥス3世も公式に承認したこの裁判は「(異端)無効化裁判(nullification trial)」とも呼ばれ、フランス異端審問官長ジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ヴトンからの要請によるものだった。この復権裁判の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。
 修道士ギョーム・ブイユによる調査から裁判が開始され、ブレアルが1452年からこの裁判を主導することとなった。
 ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。
 この裁判にはヨーロッパ各地の聖職者たちも関与しており、正式な法的手順を逸脱することのないように注視されていた。
 裁判に携わった神学者たちは115人分の宣誓供述を審理した。
 1456年6月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。
 ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた。
 しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外にあたるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。
 そして復権裁判法廷は、1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣告した。

 ▼列聖

 ジャンヌは16世紀にフランスのカトリック同盟の象徴となっていった。
 1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー(英語版)がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。
 デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実した。
 さらに1920年5月16日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。
 そしてジャンヌはローマ・カトリック教会で崇敬されているもっとも有名な聖人の一人となっていった。

 関連項目 ー 百年戦争 ー

 百年戦争(ひゃくねんせんそう)
(英語: Hundred Years' War)
(フランス語: Guerre de Cent Ans)

 フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。
 国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。
 現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。
 百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。

 伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。
 いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではないが、対立状態は続いていた。
 両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。
 フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドはヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。

 百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。
 遠因はイングランド王国(プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。

 987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。
 フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。
 エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。

 ▼ギュイエンヌ問題

 プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン(欠地王、ヘンリー2世の末子)の失策と敵対者であるフィリップ2世(尊厳王)の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。
 大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にジョンの息子ヘンリー3世がルイ9世(聖王、フィリップ2世の孫)に臣下の礼をとることで安堵されたものである。
 このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ4世(端麗王)とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。
 イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。

 ▼フランドル問題

 フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。
 フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。
 しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。
 しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ1世(ルイ・ド・ヌヴェール)が都市同盟の反乱により追放されると、フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイ1世を戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。

 ▼スコットランド問題

 13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。
 しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。
 このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。
 エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。
 エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。

     〔ウィキペディアより引用〕

世界の女傑たち Vol.02ー①

2023-10-08 21:00:00 | 自由研究

 ■ジャンヌ・ダルク ⅰ

 ジャンヌ・ダルク
(フランス語: Jeanne d'Arc)
 (古綴:Jehanne Darc)
 (IPA: [ʒan daʁk])
 (英: Joan of Arc)

 ユリウス暦1412年ごろ1月6日〜1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。
 フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。
 「オルレアンの乙女」
 (フランス語: la Pucelle d'Orléans/英: The Maid of Orléans)とも呼ばれる。

 《概要》

 ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。
 神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦し勝利を収め、各都市をフランスへ取り戻し、のちのフランス王シャルル7世の戴冠を成功させた。
 その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。
 イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。
 ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。
 その後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。
 ジャンヌは、王太子シャルル(後のシャルル7世)を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。
 これを信じた王太子は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任にあたらせた。
 オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。
 そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回した。
 結果、王太子はランスでフランス王位に就くことができフランス王シャルル7世となることができた。

 フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。
 ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。
 世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。

 《背景》

 歴史家ケリー・デヴリーズ(英語版)は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。
 1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。
 ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。
 また当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。
 ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。
 デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している。
 ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。
 王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。
 そして1407年にオルレアン公が無怖公の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。

 オルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。
 イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。
 イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。
 そしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた。
 王太子が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。
 しかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。
 無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子のフィリップ3世(善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。
 そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。
 1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。この条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった。
 ヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。
 ただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。

 1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。
 ブルゴーニュはフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。
 パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。
 ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。
 そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた。

 《ジャンヌの生涯》

 ▼生い立ち

 ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメの娘として生まれた。
 父ジャック・ダルク(1380年〜1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1377年〜1458年11月28日)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている。
 ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。
 バル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(la Pucelle d'Orléans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている。
 ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた[20]。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。

 ▼神の声を聴く

 のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年頃に生まれたことになる。
 さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは13歳くらいの時だったと証言している。
 このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。
 聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている。
 1428年、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルール(英語版)(現在のムーズ県)へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者ルネ・ダンジューの顧問官でもあったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。
 ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった。
 翌1429年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス(英語版)とベルトラン・ド・プーランジ(英語版)という2人の貴族の知己を得た。
 この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。

 ▼歴史への登場

 ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。
 ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。
 シノンの王宮に到着してまもないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。
 当時、シャルル7世の妃マリーとルネの母でアンジュー公ルイ2世妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。
 ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。
 ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。
 フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について、歴史家スティーヴン・リッチーは「崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろう」としている。

 神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。
 しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。
 シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。
 ジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。
 そして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した。
 一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。
 ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。

 これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した。
 ジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。
 3月22日、ジャンヌはシャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官(サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボット、トーマス・スケールズなど)に向けた降伏勧告文を口述筆記させた(実際に書簡が送られたのは4月24日から27日の間)。
 イングランド軍が包囲していたオルレアンにジャンヌがラ・イル、ジル・ド・レらとともに到着したのは1429年4月29日だった。
 当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。
 当初デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった。
 しかしながら、このようなデュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。

 ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。
 エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加し、兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている。
 この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、のちの異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。
 この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。
 スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている。
 ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している。

 ▼ジャンヌの軍事指揮能力
 
 ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。
 ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。
 ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。
 翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。
 デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。
 結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。
 この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。
 しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した。
 ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。

 オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。
 イングランド軍はパリの再占領かノルマンディー攻略を目指していた。
 予想以上の勝利をあげた直後、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。
 しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった。
 イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョーの戦い、6月15日にモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。
 ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。
 そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。
 ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた。
 このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。
 戦役中、フランス軍に続々と援軍に加わる将官が現れ、ギー14世・ド・ラヴァル(英語版)・アンドレ・ド・ラヴァル兄弟やアルテュール・ド・リッシュモンなどが参加した。
 リッシュモンは宮廷で疎まれ遠ざけられていたため、復帰を阻止したいシャルル7世と側近の命令がジャンヌらに届けられていた。
 しかし、他の武将たちはリッシュモンの力量を買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得、受け入れたジャンヌもリッシュモンと会見して協力を誓った。

 6月18日にジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。
 フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。
 これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった。

 フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。
 ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。
 シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。
 この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。
 そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである。
 ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。
 ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。
 しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った。
 ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。

 イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。
 フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。
 この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。
 しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。
 多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している。
 10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦(英語版)で軍に復帰した。
 続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦(英語版)にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。
 そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。

 ▼捕縛

 フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数か月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。
 1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。
 フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。
 ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。
 異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた。
 フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効、ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かった。
 1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯ジャン2世の捕虜となってしまう。
 ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。
 しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった。

 当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。
 多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。
 イギリスとの和平の邪魔になることを恐れたシャルル7世自身がジャンヌダルクの復権を嫌ったという見方が有力です。
 母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。
 ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。
 水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。
 そしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる。

     〔ウィキペディアより引用〕

 

世界の女傑たち Vol.01

2023-10-07 21:00:00 | 自由研究

 ■世界の女傑たち

 女傑とは、

 【女傑】(じょ-けつ) 〘名〙
  たしかな気性とすぐれた知恵をもち、活発で実行力に富む女性。
 女丈夫(じょじょうぶ)。女豪。

 ▼クレオパトラ7世

 クレオパトラ7世フィロパトル
 (ギリシア語: Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ,)
 (ラテン語: Cleopatra VII Philopator,)
  紀元前69年 - 紀元前30年、古代エジプトプトレマイオス朝ファラオ(女王)。

 一般的に「クレオパトラ」と言えば彼女を指すことが多く、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる。
 プトレマイオス朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である。

 「クレオパトラ」は、古代ギリシア語クレオパトロス(父の栄光)の女性形である。
 「絶世の美女」として知られる。
 ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説があるが、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。
 なお、アレクサンドリアを襲ったクレタ地震 (365年)のため、当時の史料は残っておらず、プルタルコスやスエトニウスら後世の歴史家による記録に負うが、その正確性には疑問が残る。

 父は紀元前80年〜紀元前58年および紀元前55年〜紀元前51年のファラオであるプトレマイオス12世(アウレテス)。
 プトレマイオス朝末期の王家の系図に不備があるため、母は特定できていない。
 クレオパトラ5世、クレオパトラ6世、あるいは氏名不詳の女性の説がある。
 クレオパトラ5世はプトレマイオス12世のきょうだいまたはいとこであり、ベレニケ4世を産んだことは分かっているが、クレオパトラが生まれた紀元前69年頃以降の記録がない。
 クレオパトラ6世は紀元前58年にプトレマイオス12世がエジプトから追放された後にエジプトを統治した人物であるが、5世と同一人物とする説と5世の長女とする説がある。
 ストラボンはプトレマイオス12世の娘をベレニケ4世、クレオパトラ7世、アルシノエ4世としており、前説の場合これと一致する。後説はポルピュリオスの記述によるもので、この場合プトレマイオス12世の追放に関連したため系図から抹消されたと考えられる。

 他の人物として、歴史家ヴェルナー・フスは、紀元前69年頃にプトレマイオス12世はクレオパトラ5世と離婚してメンフィスの有力な家系の女性と結婚しており、この女性がクレオパトラ7世の母としている。
 弟にプトレマイオス13世、プトレマイオス14世がおり、何れもクレオパトラと結婚して共同統治を行っている。

 《生涯》

 即位までのエジプトの状況

 共和政ローマはエジプト産の穀物を必要としており、セレウコス朝シリアの攻撃を受けたプトレマイオス6世がローマに助けを求めて以降、プトレマイオス朝はその影響下に入っていた。
 エジプトは当時有数の小麦生産地であり、その販売をプトレマイオス朝が独占していた。後のアウグストゥス時代には、毎年ローマ市の4ヶ月分を賄っていたという。
 更にはパピルス、ガラス、織物生産地でもあった。
 これらのことから、プトレマイオス朝は当時世界でも最も裕福であったと予想する学者もいる。
 プトレマイオス11世は、紀元前80年にルキウス・コルネリウス・スッラによって玉座に上ったものの同年中に民衆に殺害され、11世の従兄弟でクレオパトラの父であるプトレマイオス12世がローマに無断で即位した。
 12世は地位の安定のためグナエウス・ポンペイウスを頼ったが、直接介入を渋られたため、紀元前60年に三頭政治が始まると、その一角であるカエサルを買収し、やっと正式に王位が認められた。
 しかしこの買収にかかった費用を増税でまかなったため、紀元前58年に反乱が起こり、ポンペイウスを頼ってローマ市へ亡命した。
 このとき娘の一人を伴ったとされ、その場合クレオパトラである可能性を主張する近年の研究者がいる。
 (アテネで発見された石碑に刻まれた"Liviaの王女"についての文面があり、それが若きクレオパトラである可能性を主張するもの。)

 アレクサンドリアではクレオパトラ6世やその死後ベレニケ4世が摂政の座についたが、紀元前57年、ローマで12世の復位計画が立てられた。
 これをポンペイウス派が行う陰謀もあったものの頓挫し、結局紀元前55年、シリア属州担当プロコンスル(前執政官)アウルス・ガビニウスと共にアレクサンドリアに舞い戻った12世は、ベレニケ4世を処刑し復位した。
 しかしながら、亡命中の生活費と政界工作費で莫大な借金を背負うことになった。
 この戦いに参加した、若きマルクス・アントニウスはベレニケ4世の夫であるアルケラウスの戦死の際に、王に相応しい葬いをしたとして評価された。
 この時期に、クレオパトラとアントニウスは出会っているという説もある。

 ▼即位

 紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が逝去すると、父の遺言によって弟のプトレマイオス13世と共同で王位に就いた。
 プトレマイオス朝はギリシア系であったが、紀元前217年のラフィアの戦い以降、エジプト人の存在感が増し、ギリシア人のエジプト化が進んでいた。
 一方、歴代王は統治に無関心で、エジプト人による反乱も起っていた。
 クレオパトラはエジプト人との宥和のため、自らエジプト文化を取り込もうとしていたとも考えられている。
 プルタルコスによれば、彼女の声は甘く楽器のようで、多数の言語を自在に操り、これまでの王たちとは違ってエジプト語も習得していたという。
 クレオパトラは古くから民衆に親しまれていたイシスと同一視して描かれることもあり、そのことからも、宥和政策を採っていたことが推測される。
 プトレマイオス2世の妻アルシノエ2世がイシスとして描かれていた前例があり、それを再現したのではないかとも考えられている。

 ▼ローマ内戦

 紀元前49年3月3日、
 キケロよりアッティクスへ

 先日の君の手紙からすると、まだ彼らが会談して和解する可能性を信じているようだね。
 しかしその可能性は低いと思う。
 もし会談があったとしても、ポンペイウスがなんらかの協定を結ぶとは思えないんだよ。

    —キケロ『アッティクス宛書簡』      
            8.15.3

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 ローマ内戦とは、

 ローマ内戦
 (ラテン語: Bellum civile alterum)

 紀元前49年から紀元前45年の間に起きた共和政ローマ期の内戦について記す。
 グナエウス・ポンペイウス及び元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル派の間で起こった一連の戦争で、カエサルが当時の国家に対して仕掛けたものである。

 《背景》

 共和政ローマではグラックス兄弟による一連の改革に始まり、ガイウス・マリウスやルキウス・コルネリウス・スッラによる支配、ポプラレス(平民派)とオプティマテス(閥族派、元老院派)の争いなど後世「内乱の一世紀」と呼ばれる政情不安な状態が続いていた。
 紀元前59年にポンペイウス、カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススは第一回三頭政治と後に呼ばれる統治体制を構築して権力を握り、カエサルは自身の娘ユリアをポンペイウスへと嫁がせたことで基盤を固めた。
 その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督として赴任してガリア戦争を戦い、紀元前55年にはポンペイウスとクラッススが共に執政官(コンスル)を務めた。
 しかし、紀元前54年にユリアが死去、紀元前53年にパルティアとのカルラエの戦いでクラッススも戦死したことで第一回三頭政治が崩壊した。
 また、カエサルがガリア戦争の成功によりポンペイウスと同等の軍事上の権限を得たことに対し、元老院派はカエサルの権力拡大を危惧してポンペイウスと接近した。
 紀元前52年にはプブリウス・クロディウス・プルケル暗殺に伴うローマ国内の混乱へ対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。
 元老院はカエサルがガリア総督としての任期切れ後にコンスルに立候補する意向であることを知り、カエサルから軍隊を引き離すことを模索した。
 紀元前50年12月、カエサルはポンペイウスも軍隊を解散させるならば自分も軍隊を手放すと元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが不法に軍を維持するのならば「国家の敵」と宣告するとした。
 カエサルの幕僚であるマルクス・アントニウス及びクィントゥス・カシウス・ロンギヌスはカエサルからの「応じられない」とする意向を元老院へ伝えたが、元老院はこれを拒否した。 紀元前50年、ポンペイウス及び元老院派はプロコンスル(前執政官)としてのカエサルの任期が終わったことを受けて、ローマに戻り軍を解散するよう指示し、カエサルがコンスルに立候補するのを禁じた。
 カエサルはコンスルの地位も軍隊の力もなしにローマに戻るなら、スキピオ・アフリカヌスのごとく罪に問われ、政治的に失脚させられると考えた。
 紀元前49年1月、元老院はカエサルに対して「元老院最終勧告」を発した。

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 この頃にはカエサルとポンペイウスの対立は避けられないものになっていた。紀元前49年1月1日にカエサルがその軍団を解散しなければ追放処分にすることが元老院で決議されていたが、カエサルはこれを無視して軍を率いてルビコン川を渡った。
 ポンペイウスはローマ市を捨て、さらに両執政官と共にギリシアへと渡っていった。
 アッピアノスによれば、レバント(東部地中海沿岸地方)のほぼ全ての国がポンペイウスを支援し、中には王自ら参戦する国もあったという。
 クレオパトラも60隻の船を供出したが、戦闘には参加しなかった。
 ポンペイウスはデュッラキウムに本陣を据えて軍勢を集め、一方のカエサルはヒスパニアのポンペイウス派を潰して回り、ローマ市へ帰還すると翌年の執政官に選出された。
 カエサルはポンペイウスに攻撃を仕掛けたが一時敗退し(デュッラキウムの戦い)、それをポンペイウスが追撃したもののカエサルに撃退され(ファルサルスの戦い)、海へと逃れた。

 同じ頃クレオパトラは、妹アルシノエ4世とも対立していただけでなく、共同統治を嫌ったプトレマイオス13世によって紀元前48年にアレクサンドリアから追放された。
 アッピアノスによれば、追放されたクレオパトラはシリアで軍勢を集め、対する13世はペルシウム付近で彼女を待ち受けていたが、そこへポンペイウスが逃れてきたという。
 ポンペイウスを追撃するカエサルはアレクサンドリアを訪れ、エジプト人を信用していなかった彼は、追放されていたクレオパトラを召喚した。
 カエサルは52才、クレオパトラは21才であった。

 ▼カエサルとの出合い

 プルタルコスによると、カエサルに召喚された女王は、シチリア人のアポロドロスという者と夜陰に乗じて忍び込み、寝具袋に入った彼女を友人に縛らせ、カエサルの元に運ばせたといい、この大胆なクレオパトラに魅せられたカエサルは、きょうだいであるプトレマイオス13世との仲を取り持ったという。
 寝具ではなく絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多い(古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があり、クレオパトラは宝物ではなく自らの身体を贈ったのだとする)が、史料では確認できない。
 しかし、クレオパトラがカエサルの愛人となったことを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。
 結局カエサルはローマに敵対するプトレマイオス13世を攻め殺し、アルシノエ4世を捕らえることに成功した。
 クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治という形で復位したが、実質は彼女一人による統治で、紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んでいる。
 クレオパトラは、カエサリオンを産むことでローマによるプトレマイオス朝の属州化防止や、自己の地位安定を計ったのではないかとも考えられる。
 紀元前46年7月、カエサルはローマ市へ戻り、凱旋式を4度にわたって挙行した。
 この頃完成したカエサルのフォルムにはクレオパトラの黄金像が立てられたが、これはウェヌス神殿のすぐ側であり、問題視された。
 クレオパトラは、プトレマイオス14世とカエサリオンと共にカエサルのティベリス川沿いの別荘に滞在し、カエサルとのスキャンダルが噂された。
 この間キケロらローマの有力者と面会したようである。

 紀元前44年6月13日、
 キケロよりアッティクスへ

 カエサルの別荘にいた時の女王の傲慢さときたら、思い出したくもない。
 だから私はもう一切関わりたくない。

   —キケロ『アッティクス宛書簡』    
          15.15

 ▼カエサル死後

 カエサルは紀元前47年に独裁官任期を10年延長され、さらに紀元前44年2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日に暗殺された。
 クレオパトラの希望とは裏腹に、カエサリオンは彼の後継者とはなりえず、カエサルは実の大甥(カエサルの妹の孫で姪の子)で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(オクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者と定めていた。
 クレオパトラは帰国したが、すぐにプトレマイオス14世が逝去した。
 彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。
 紀元前42年のフィリッピの戦いでは、第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。
 戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。
 これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。
 逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。
 エフェソスにいたアルシノエ4世は紀元前41年にアントニウスによって殺された。
 アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、クレオパトラと結婚した。
 紀元前39年には双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオス(英語版)とクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)が誕生している。
 アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスはローマでの評判を落とす一方だった。
 アントニウスの場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由が考えられるが、今回はプトレマイオス朝の領土をも獲得している。
 アントニウスは紀元前36年にクレオパトラの支援を得てパルティア遠征を行ったが、惨敗を喫した。
 アントニウスは紀元前34年に執政官に選出されたが初日に辞任し、アルメニア王国(アルタクシアス朝)に復讐するためニコポリスに現れると、国王アルタウァスデス2世を騙して捕虜とした。
 アルメニアを占領したアントニウスは大量の財宝と捕虜と共にアレクサンドリアに凱旋し、クレオパトラとの間の子らに、東方世界を分割して与えることを約束した。
 プルタルコスによれば、アントニウスがローマ市民に人気のあったオクタウィアを離縁したこと、あまりにもエジプト風に染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダに利用され、クレオパトラはローマの敵に仕立て上げられていったという。
 クレオパトラはカエサリオンをカエサルの後継者として宣伝し、アントニウスもその保護者としての立場を強調していた。
 それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立が決定的になると、後継者は自分であることを強調し、執政官としてクレオパトラという外敵を排除する立場を明確にしたといい、同時代の記録では、豊かなエジプトの女王の脅威に立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという。

 ▼アクティウムの海戦

 紀元前31年にアンヴラキコス湾に集結したオクタウィアヌス軍とクレオパトラ・アントニウス連合軍であったが、古代の記録によれば、9月2日、突如としてクレオパトラが戦線離脱し、アントニウスも味方を置いてそれを追ったために敗北したことになっており、あたかも全責任はクレオパトラにあるかのようである。
 この海戦に関して様々な説があるが、学者も東西どちらを専門にしているかで意見が分かれている。
 しかし、東側の圧倒的な経済力を背景に、有能な指揮官であったアントニウスとクレオパトラが、何も出来ずに敗退したとするのは不可解であると言える。
 同時代人でかろうじて信頼出来そうなホラティウスの『エボディ』などからは、オクタウィアヌスが勝利したことは読み取れるものの、オクタウィアヌス本人による『業績録』にすらアクティウムに関する記述はなく、その存在すら疑われるほどで、ただクレオパトラが敵視されていたことだけは分かるという。
 当時の東西の経済格差からいって、内乱の続いたイタリアを立て直すため、アントニウスを単独で支えることが可能であったエジプトを奪う必要があり、クレオパトラが敵視されたのではないかとも考えられる。
 対してアントニウスとクレオパトラは、海上封鎖を続け敵が自滅を待つ消極策を採っていたものの、それに対する危機感から団結した西方が予想外に手強く、封鎖を破られたのではないかとする説もある。

 ▼最期

 帰国したクレオパトラ7世はオクタウィアヌスとの外交交渉を試みるものの、条件面などで折り合いがつかず失敗に終わった。
 この結果、カエサリオンを国外へ逃がすことを決意し、実行に移した。
 しかし、ローマ軍はアレクサンドリアにまで到達し、アントニウスは残存する全軍を率いて決戦を挑むが、海軍の寝返りなどで失敗した。
 そして、紀元前30年8月1日、アントニウスはクレオパトラ7世が自分を裏切ったと思い込んでいたところに届けられたクレオパトラ7世死去の報告(ただし、これは誤報)に接して自殺を図る。
 それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。 8月29日、オクタウィアヌスは捕虜となったクレオパトラ7世が自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていたが、クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。
 贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(乳房か腕)を噛ませて自殺したとも伝えられている。
 オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。
 エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオンを呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼした。
 そして、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地(アエギュプトゥス)とした。
 しかし、クレオパトラがアントニウスともうけていた3人の子供たちは、オクタウィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育された。

     〔ウィキペディアより引用〕



 

CTNRX的見・読・調 Note ♯009

2023-09-29 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(9)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(8) ❖

 ❒アフガニスタン王国

 アブドゥッラフマーンの孫にあたるアマーヌッラー・ハーン(在位:1919〜1929年)は、王族間の内紛を制して即位すると、第一次世界大戦での疲弊をとらえてイギリスに宣戦(第三次アフガン戦争)。
 アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)が結ばれた結果、アフガニスタンは外交権を回復し、完全独立を達成した。
 アマーヌッラー・ハーンは、急進的な改革を進め、1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。
 しかし急激な改革は、聖職者階級の反発をまねき、1929年にアマーヌッラー・ハーンは王位を追われた。
 各地に僭称者が乱立する混乱を収拾したのは、王家の傍流ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーであった。
 このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して「ムサーヒバーン朝」と呼ぶこともある。
 ムサーヒバーン朝では、聖職者階級との妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。
 しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねき、1973年、ザーヒル・シャーの従兄弟、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。
 最後の国王ザーヒル・シャーは、アフガン国民統合の象徴として、現在も尊敬の念をもたれている。

 1926年にアフガニスタン首長国の後継国家として成立した国。
 初代国王アマーヌッラー・ハーンが首長に即位した7年後、王を称したことで成立した。


 アマーヌッラー・ハーンはソビエト連邦との間で中立条約を結び、国の安定化、現代化を務めたが、保守勢力の反発で社会不安が生じた。
 1927年のヨーロッパ訪問中に反乱が再び勃発すると、彼は弟イナーヤトゥッラー・シャーに譲位したが、イナーヤトゥッラー・シャーはわずか3日後に反乱の指導者ハビーブッラー・カラカーニーに権力を奪取された。
 その後、ハビーブッラー・カラカーニーは国制を首長国に戻した。
 10か月後、アマーヌッラー・ハーンの国防相ムハンマド・ナーディル・シャーが逃亡先のイギリス領インド帝国から帰国した。
 彼の軍勢はイギリスの支援を受けてカブールを奪回、ハビーブッラー・カラカーニーは停戦を提案したが、逮捕されて処刑された。
 ムハンマド・ナーディル・シャーは国制を王国に戻し、1929年10月に国王に即位した後、アマーヌッラー・ハーンの改革を元に戻した。
 1933年にはその息子ザーヒル・シャーが即位、1973年まで統治した。

 ザーヒル・シャーの治世中、アフガニスタンははじめてソビエト連邦、フランス第三共和政、イギリス、アメリカ合衆国など諸外国との外交関係を樹立、1934年9月27日には国際連盟に加入した。
 第二次世界大戦中、アフガニスタンは中立にとどまった。
 戦後は非同盟外交の政策を採用、1953年から1963年までの首相ムハンマド・ダーウードはアフガニスタンの現代工業と教育の発展に尽力した。
 1973年、ザーヒル・シャーはいとこのムハンマド・ダーウードによって廃位された(1973年アフガニスタンのクーデター)。
 ムハンマド・ダーウードは王政を廃止、アフガニスタン共和国を建国した。

 《 イ ギ リ ス
        保 護 国 期 》

 ドースト・ムハンマドの死後、息子のシェール・アリが王位を継いだ。
 クリミア戦争以後、中央アジアに版図を広げていたロシアは1878年、イギリスの影響力を排除することを目的にカーブルに外交使節団を送り込んだ。
 それを知ったイギリス政府とインド総督リットンはカーブルにイギリスの大使館の設置を要求したが、回答がなかったことからアフガニスタンに対し軍隊の進駐を決める(第二次アフガン戦争)。

 当初はさしたる抵抗もなく駐留が続いたものの、1879年にカーブルで反乱が起き、1880年にカンダハール郊外でおきたマイワンドの戦いではイギリス軍が大敗した。
 その頃イギリスでは自由党のグラッドストン内閣が成立、アフガニスタンへの積極的な介入を推進していたリットン総督を更迭し、新しくリポン総督を任命し撤退を指示した。
 その際にイギリス側は亡命していたアブドゥル・ラーマン・ハーンを擁立することで反乱の沈静化を図り、アフガニスタン側はイギリス以外の国との政治的な関係を結ばないことを条件に、イギリスからの内政干渉を受けないことの約束を取り付け、事実上イギリスの保護国となった。
 1897年にアフガニスタン国王アブドゥル・ラーマンとイギリス領インド帝国外相モーティマー・デュアランド(英語版)との間で国境線が画定される(デュアランド・ライン)。
 アフガニスタン側は暫定的なものと解釈していたが改定されることはなく、パシュトゥーン人の歴史と分布を無視した人為的な分断として、現在のアフガニスタン・パキスタン国境線につながり多くの問題を引き起こす元となった。
 1907年には英露協商が成立した。
 ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗するために、イギリスとロシアにおいてペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットでの勢力範囲を定めたもので、アフガニスタンについてはロシアへの軍事的拠点としない条件でイギリスが支配することになった。

 《 再 独 立 》

 1919年、アブドゥル・ラーマンの後を継いで国王となっていたハビーブッラー・ハーンが暗殺され、王位は息子のアマーヌッラー・ハーンが引き継いだ。
 同年5月、アマーヌッラーはイギリス軍に対してデュアランド・ラインで失われたパシュトゥーン人の土地を取り戻すという名目でジハードを仕掛けた(第三次アフガン戦争、第II期グレート・ゲーム)。
 第一次世界大戦やインドでの内乱でイギリス軍が疲弊していることを見越しての戦争であったが、軍事用の複葉機からの空爆を初めて受けるなどし戦意を挫かれ、早々に終戦となり、ラーワルピンディーで条約を交わすことになった。

 イギリスは戦争には勝利したものの疲弊していたのは事実であり、ライバルのロシアに革命がおきグレート・ゲームから脱落したこともあり、国境線はデュアランド・ラインで維持することを認めさせつつ、アフガニスタンの独立を認めた。
 その後、アフガニスタンは急速に近代化を進めることとなる。

 ◆アフガニスタン王国

 アマーヌッラー・ハーンは1921年にはソビエトと友好条約を締結し、1923年にはアフガニスタン史上初の憲法を制定、立憲君主制への移行へ踏み出した。
 憲法では、王権の絶対制と世襲制、イスラム教の国教化を規定する一方で、評議会の設置や大長老会議の招集、各大臣からなる内閣の規定など、さまざまな権能の分散化も図られた。
 1926年には歴代の君主の称号であるアミールをやめ、シャー(パーディシャー)に変えた(アフガニスタン王国)。
 しかし急激な改革は保守的な層(ウラマーなど)からの反発を招き、1929年には首都カーブルで反乱がおきた。
 混乱を回避するためにアマーヌッラーは退位してイタリアに亡命、ハビーブッラー・ガーズィーがアミールを自称して一時政権を奪った(1929年1月17日〜10月13日まで)。
 1929年、ムハンマド・ナーディル・シャーがこの混乱を収めて王位につき、1931年にはよりイスラーム色を強めた新憲法を発布した。
 しかしナーディル・シャーは暗殺され、1933年11月に息子のザーヒル・シャーが19歳で王位を継いだ。
 首相として実際の政権を担っていたのはナーディル・シャーの弟のムハンマド・ハーシム・ハーンであり、1946年から1953年まではシャー・マフムード、その後はムハンマド・ダーウードが首相を継いだ。
 このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して、ナーディル・シャー朝と呼ぶこともある。
 ナーディル・シャー朝では、ウラマーとの妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。

 1953年9月にザーヒル・シャーの従兄弟で、親ソ連急進派のムハンマド・ダーウードが首相に就任。ウラマー会議が改革に反発して反政府キャンペーンを組織すると、ダーウードはウラマーを弾圧した。
 旧世代のムッラーは社会に対する影響力を失うにつれ、学生達を中心により急進的なイスラーム主義の勢力が台頭した。
 世論の反発を受けて、1963年3月10日にザーヒル・シャーはダーウード首相を退陣させた。
 1963年3月末から7名から成る憲法委員会は会合を開き、1年近くにわたって作業を続け、憲法草案を提出した。
 この草案は32名から成る憲法諮問委員会によって徹底的に検討され、1964年9月、憲法草案を検討し、正式に承認するためのロヤ・ジルカが招集されることになった。
 できるだけ全国民の意見を反映するものとなるように、各州で代議員を選出するための全国間接選挙が行われ542名(うち女性は4名)がえらばれた。
 このジルカでの議論は主に王族の役割と、司法制度の性質についてのものだった。王族は政党に参加してはならないという条項を入れた。
 法律・裁判所制度については近代化主義者の意見が通った。
 また、国内の強制移動や強制労働の問題についても強い反対意見が出された。新憲法には二院制議会(シューラ)で、秘密投票で選出される定員216名の下院(ウォレシ・ジルカ)と、一部は選挙、一部は国王の任命にて委員84名の上院(メシラノ・ジルカ)が定められた。
 しかし、政党の結成問題は、政党法が準備されるまで先送りされた。
 また、州及び地方自治体の地方議会を選挙で選ぶ方法も審議が延期された。
 2週間も経過しないでロヤ・ジルカ審議を終了してしまい、1964年10月1日、国王は新憲法に署名し、施行された。
 しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねいた。

 ◆アフガニスタン共和国
     (1973年〜1978年)

 1973年7月、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。

 アフガニスタン史上初の共和国であり、ムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターでアフガニスタン国王ザーヒル・シャーを廃位して建国した。
 ダーウードは進歩主義で知られ、ソビエト連邦やアメリカ合衆国から援助を受けて国を現代化しようとした。

 ザーヒル・シャーはイタリアへ亡命した。
 アフガニスタン共和国大統領に就任したダーウードは、反急進派勢力の中心となっているイスラーム主義勢力指導者の弾圧に向かい、海外に亡命した指導者によって反ソ連を志向するムジャーヒディーンが結成された。

 ダーウードの弾圧は親ソ連のアフガニスタン人民民主党のパルチャム派へも向けられるようになる。

 1978年4月27日のクーデターでダーウードは殺害された(四月革命)。

 1978年、四月革命とよばれる軍事クーデターが共産主義者のアフガニスタン人民民主党によって起こされ、ダーウードは一家もろとも殺害された。
 「ダーウード共和国」はソ連と同盟したアフガニスタン民主共和国に取って代わられたのであった。

 

 ◆アフガニスタン民主共和国
 〔人民民主党政権とソ連軍事介入〕

 ❒建国

 ◤ 1973年アフガニスタンの
          クーデター ◢

 1973年アフガニスタンのクーデターは、1973年7月17日、陸軍大将で王子のモハメド・ダウド・カーンが従兄弟のモハメド・ザヒール・シャー国王に対して起こしたクーデターで、ダウド・カーン率いる一党独裁体制のアフガニスタン共和国が成立した。
 クーデターでは、国王がイタリアのイスキアで療養している間に、ダウド・カーンは当時の参謀長アブドゥル・カリム・ムスタグニ将軍とともにカブールで軍を率いて王政を転覆させた。
 ダウド・カーンは、空軍大佐アブドゥル・カディールを含むPDPAのパルチャム派の陸軍将校と公務員によって支援された。
 ザヒール・シャー国王は報復をしないことを決め、8月24日に正式に退位し、イタリアに亡命した。
 1747年のドゥッラーニー帝国の建国以来、2世紀以上続いた王室支配は、このクーデターで幕を閉じた。

 当時、アメリカ国家安全保障会議のスタッフが「よく計画され、迅速に実行されたクーデター」と評したこの事件で、警察官7人と戦車隊長1人が死亡した。

 ❒背景

 1933年からザヒール・シャーが国王として統治し、1953年から1963年まで従兄弟のダウド・カーン王子が首相を務めていた。
 ダウド・カーンは国王との関係がぎくしゃくしており、1964年の憲法改正でバーラクザイ家の人々が政治家になれないようになったこともあり、国王が意図的にそうさせたという説もある。
 国王は、ダウド・カーンの強い親パシュトゥーニスタン派を過激とみなし、パキスタンとの政治的対立を招いたため、意図的にこのような行動をとったという説もある。
 ダウド・カーンは、1964年の議会制民主主義成立以来、5代にわたる政府の改革の失敗に対する国民の不満が高まる中、国会で可決された政党法、州議会法、自治体議会法を国王が公布しなかったことを契機に、このような改革を断行した。また、1971年から1972年にかけて、ゴル県を中心とした中西部で数千人の死者を出したとされる飢饉への対応が悪く、アブドゥル・ザヒール首相が辞任する事態になったことも理由の一つであった。
 1972年頃、国会の非力さや指導力不足に不満を持った人々が、大学で様々な政治運動を活発化させるようになった。
 また、国王との内紛もクーデター決行の一因とされる。
 一部の学者や歴史家は、証拠は弱いが、クーデターにソ連が関与した可能性を示唆している。

 ❒クーデター

 ザヒール・シャー国王は、1973年6月25日の朝、目を負傷し、出血の治療のためローマを経由してアフガニスタンを離れ、ロンドンに向かった。
 治療後、イタリアに戻り、イスキア島で過ごした。
 7月17日朝、モハメッド・ダウド・カーンは軍隊から数百人の支持者を集めてクーデターを起こした。
 武力抵抗もなく、数時間で王政は終わり、カーンは朝7時にラジオ・アフガニスタンで新共和国を発表した。
 米国の国家安全保障会議のスタッフは、「よく計画され、迅速に実行されたクーデター」と評した。
 唯一の死傷者は、反乱軍を敵対勢力と間違えた駅の7人の警察官でした。バスとの衝突を避けようとして道路から外れ、カブール川で溺死した戦車長。

 1973年7月、アフガニスタン最後の国王ザーヒル・シャーがイタリアで眼科手術と腰痛の治療を受けている最中、王族で元首相のムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターを起こして共和国を建国した。
 ダーウードは10年前の1963年にザーヒル・シャーによって首相の辞任を余儀なくされていた。
 ザーヒル・シャーは全面内戦を避けて退位した。

 ❒一党統治

 権力を奪取したダーウードは自身の政党であるアフガニスタン国民革命党を創設、同党はすぐにアフガニスタンの政治活動の中心になった。
 ロヤ・ジルガは1977年1月に新憲法を議決して一党制大統領制を採用、野党は暴力も含む弾圧を受けた。
 また1973年には元首相ムハンマド・ハーシム・マイワンドワールが政変を計画していると疑われたが、計画が旧王制に対するものか、新共和制に対するものかは不明である。
 いずれにせよ、マイワンドワールは逮捕された後、裁判の前に死亡した。獄中で自殺したとされたが、拷問で死亡したと広く信じられた。

 ❒共産主義の勃興

 ダーウードが1973年に共和国を建国した後、アフガニスタン人民民主党は入閣した。
 1976年、ダーウードは7年経済計画を立てた。
 彼はインドとの軍事訓練プログラムをはじめ、パフラヴィー朝イランとも経済発展に向けて話し合いを始めた。
 さらに石油で潤っていたサウジアラビア、イラク、クウェートなど中東諸国に財政援助を求めた。
 しかし、ダーウードの大統領期ではソビエト連邦との関係が悪化した。
 ダーウードが西側諸国との関係を改善し、キューバの非同盟運動参加を批判、ソ連の軍事と経済顧問を追放したことでソ連はダーウードを危険人物とみたのであった。
 さらに、ダーウードが野党を弾圧したことでソ連を後ろ盾とするアフガニスタン人民民主党はクーデター以来の友から敵に回ったのであった。
 1978年時点でダーウードは自身が定めた目標をほとんど達成できていなかった。アフガニスタンの経済は実質的には成長しておらず、生活水準も向上しなかった。
 さらに1977年の一党制憲法も盟友を遠ざける結果となった。
 アフガニスタン国民が1978年までに「何もしない」ダーウード政府に失望したのに対し、一部では入閣していた人民民主党党員による経済と社会改革に期待をよせた。
 人民民主党ではそれまで2派にわけて党内闘争をしていたが、このときは脆い協定で一旦和解しており、共産党を支持する軍部の一部が反政府行動を計画した。 
 1979年に革命評議会議長(国家元首)に就任したハフィーズッラー・アミーンによると、クーデターは1976年より計画されていたという。

 ❒四月革命

 1978年、人民民主党は四月革命と呼ばれる軍事クーデターで権力を奪取した。
 4月27日、カーブル国際空港の軍事基地から軍が出撃して首都カーブルの中心部に進軍した。
 大統領宮殿への空襲、反乱軍が迅速に連絡線など主な目標を占領したことにより、権力奪取は24時間内に完了、ダーウード一家は翌日に処刑された。
 人民民主党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーが革命委員会会長に選ばれ、ダーウードに代わって国家元首、そして新生アフガニスタン民主共和国の元首に就任した。

 ❒四月革命
      (アフガニスタン)詳細

 サウル革命(ダリー語: إنقلاب ثور または ۷ ثور, パシュトー語: د ثور انقلاب、四月革命、4月クーデターとも)は、アフガニスタンの社会主義政党(共産党)であったアフガニスタン人民民主党が、1978年4月27日に当時アフガニスタン共和国の大統領であったムハンマド・ダーウード率いる政府へおこした革命、クーデターである。
 その後、人民民主党はアフガニスタン民主共和国の建国を宣言した。

 ❖ 四月革命(サウル革命)❖

  時 1978年4月27日4月28日 (1日間)
 場所 アフガニスタン

 結果 アフガニスタン人民民主党の勝利

 ・ヌール・ムハンマド
 ・タラキーによる社会主義国の成立
  (アフガニスタン民主共和国の成立)
 ・ムハンマド
 ・ダーウードの処刑
 ・タラキー派(ハルク派)と
        パルチャム派の対立

 《 背 景 》

 1973年7月17日に起きたクーデターにより、国王ザーヒル・シャーは追放、亡命し、新たにムハンマド・ダーウードが権力を掌握した。
 これにより王政は廃止となって共和制となったアフガニスタン共和国だったが、依然として国家の基盤は弱かった。
 また北にはソビエト連邦、東には中華人民共和国、南には当時親米政権だったパキスタンと、大国の影響力をアフガニスタンは強く受けていた。
 そこでダーウードはこの事態を中立的立場となることでなんとかアフガニスタンを守ろうとした。
 米ソ双方との関係改善を推し進め、7月19日にはソ連、インドの外交的承認を承けた。
 当初はこれら一連の政策が功を奏し、冷戦下でのアフガニスタンの平和を実現させた。
 経済面でも大きな動きを見せることなく、第三世界のような社会主義的な構想を見せつつも、実現までは穏やかなものとし、宗教(とりわけイスラム教)や文化を保護した。
 しかし1970年代後半、ダーウードは西側諸国、とりわけアメリカ、パキスタン、中国との関係を深めた。
 これは北のソ連を刺激し、国内の社会主義者や共産主義者によって結成された人民民主党に大きな疑念を与えることとなる。
 また1977年には大統領制を再確認した上で自身の与党であったアフガニスタン国民革命党の一党独裁制を憲法に記した。
 これによって人民民主党は武力行使を決定した。
 当時の人民民主党は派閥抗争に陥っており、タラキー率いるハルク派とカールマル率いるパルチャム派に大きく分かれていた。
 ハルク派は急進的な政策を掲げ、おもに労働者、地方教員に支持され、パルチャム派は穏健的な政策を掲げ、学生、軍人、知識人といった、エリート層に支持された。

 ◆アフガニスタン共和国
 1988年、(1988年〜1992年)
 に国名変更。

 1988年4月14日にジュネーヴ協定が締結され、10月31日の国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションを経て、1989年にソ連軍は撤退した。

 ❒内戦とターリバーン政権

 ソ連軍撤退後も国内の支配をめぐって、政府軍や武器が戦後も大量に残されていたムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、ムジャーヒディーンからタリバーンやアルカーイダが誕生した。

 アフガニスタン共和国

 ・1992年、アフガニスタン・イスラム国(1992年〜2001年)が誕生。

 ・1996年、タリバーン政権によりアフガニスタン・イスラム首長国が成立。

 1998年8月7日にケニアとタンザニアでアルカーイダによるアメリカ大使館爆破事件が起こり、テロリストがタリバーン政権の保護下に逃げ込んだ。
 アメリカ政府(ビル・クリントン政権)はテロリスト訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで破壊し報復。
 1999年11月15日にアメリカ政府はテロリストの引き渡しを求めたが、タリバーンがこれを拒否したため、経済制裁が課された。

 ❒ターリバーン崩壊と新政府樹立

 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、その報復として10月からアメリカ(ジョージ・W・ブッシュ政権)と北部同盟によるアフガニスタン紛争が行なわれた。
 北部同盟を構成するのは、タジク人のイスラム協会、ウズベク人のイスラム民族運動、ハザーラ人のイスラム統一党である。

 ❒暫定行政機構

 12月22日にパシュトゥーン人でザーヒル・シャー元国王派のハーミド・カルザイが暫定行政機構議長に就任。
 こうして、多数派パシュトゥーン人のターリバーンに少数民族連合が挑むという対決の構図が形成されたが、その結果、アメリカが撤退することが難しくなった。

 アフガニスタン・イスラム共和国

 て公式に和平を直接協議。
 同年7月30日、消息が不明だったタリバンの最高指導者ムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認。
 2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがタリバンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立。
 同年3月、タリバンは和平交渉を拒否した2019年12月4日、ナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。
 2021年4月、アメリカ合衆国のジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。
 アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは主要都市を次々に制圧し、2021年8月15日にはカブールに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。
 政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。

 そして同年8月19日には、ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国として新政権を樹立した。
 8月15日以降、政権崩壊に直面して多国籍軍、外国の支援団体に協力していた市民を中心に、ターリバーン政権下で迫害を受ける可能性のある市民らの国外脱出が本格化した。
 カーブル国際空港からは連日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍の輸送機が多数の市民を乗せて離陸、8月25日までに約8万8000人がアフガニスタンを後にした。
 これらの中にはテレビ放送局(TOLO)に所属していたジャーナリストをはじめとした知識階級、技術者も多数含まれており、国の立て直しに向けて障害となる可能性を含むこととなった。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯008

2023-09-28 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(8)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(7) ❖

 ▶イルハン朝

 イル・ハン国 フレグ・ウルス

 イル・ハン国
 (ペルシア語: ايلخانيان‎ Īlkhāniyān、)
 (英語 : Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1258年〜1335年/1353年)。


 ◆フレグの西征

 フレグは兄であるモンゴル帝国第4代皇帝(カアン)モンケによりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征(フレグの西征)を命ぜられ、1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。
 1256年にニザール派(暗殺教団)のルクヌッディーン・フルシャーが降伏すると、フレグはイランの制圧を完了させた。
 1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)、アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き、西部進出を伺った。
 1260年、フレグはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻)、アレッポとダマスカスを支配下に置いた。


 ◆建国期

 1260年春頃に兄モンケ死去の報を受けると、フレグはカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄クビライ(元世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断した。
 フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。

 また、成り行きで西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルスのベルケとは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャンの支配権を巡って対立し(ベルケ・フレグ戦争、1262年)、チャガタイ・ウルスとはマー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って対立したが、ジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスがオゴデイ家のカイドゥを第5代皇帝クビライに対抗して盟主に推戴したため、フレグはクビライの支配する大元ウルスとの深い友好関係を保った。
 さらにジョチ・ウルスのベルケはマムルーク朝のバイバルスと友好を結び、イルハン朝挟撃の構えを見せた。

 ◆十字軍遠征

 対抗してイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んでいた。
 イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカがネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。
 1268年、バイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。
 1269年、バラクとカイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻。
 1270年、第8回十字軍で苦戦していたアッコン防衛にエドワード1世が派遣される。1270年7月21日、カラ・スゥ平原の戦い。

 ◆後継者争い

 イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。
 そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。
 ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。
 その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。

 ◆イスラム王朝への転身

 1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。
 イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
 さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。
 この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
 さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。
 この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 ◆オルジェイトゥ

 ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続し、また1301年にカイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。
 オルジェイトゥは新首都スルターニーヤ(ソルターニーイェ)を造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラム神学に関わる著作集を執筆させている。
 さらにガザン、オルジェイトゥの時代には用紙の規格化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。
 地方史の編纂も盛んであった。『集史』編纂の影響と考えられているが、特に挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成されるようになったのも両ハンの時代からであった。
 この時代にはイルハン朝におけるイラン・イスラーム文化の成熟が示された。

 ◆アブー・サイード

 1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー・サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョバンが宰相として実権を握った。
 1317年、ラシードゥッディーンと政敵タージェッディーン・アリー・シャーの政争でラシードが失脚し、翌年処刑された。
 成人したアブー・サイードは、チョバンの娘バグダード・ハトゥンを巡ってチョバンと対立するようになり、1327年にチョバンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。
 ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する陣中で、ディルシャド・ハトゥンを寵愛するアブー・サイードは、1335年に子のなかったバグダード・ハトゥンに暗殺された。
 フレグ王統の断絶をもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。

 ◆イルハン朝の解体

 アブー・サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーンは、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。
 しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害された。
 以来イランは様々な家系に属するチンギス・カンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。



 アリー・パーディシャーはバイドゥの孫のムーサーを擁立したが、ジャライル部のハサン・ブズルグ(大ハサン)が取って替わりフレグの子モンケ・テムルの玄孫であるムハンマドを擁立した。
 一方でホラーサーンではチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの後裔であるトガ・テムルが周辺諸侯からハンと認められつつあり、逃げのびたムーサ―と反乱を起こした。
 これは失敗に終わったが、大ハサンもすぐにチョバン家のシャイフ・ハサン(小ハサン)に敗れて傀儡の君主であるムハンマドを失った。
 小ハサンが一族のサティ・ベクを女王として擁立すると大ハサンはこれに対抗してトガ・テムルをハンとして認めて擁立した。
 一時はトガ・テムルとサティを結婚させる案も出たが流れてしまい、トガ・テムルを見限った大ハサンはゲイハトゥの孫のジハーン・テムルをハンに擁立。小ハサンもフレグの子イシムトの後裔のスライマーンを老齢のサティと結婚させてハンに擁立した。
 抗争に勝利した小ハサンが1343年に暗殺されるとスライマーンはサティと共に混乱するチョバン家へ大ハサンの介入を求めた。
 しかしこれは失敗し、ハンたちは小ハサンの弟のアシュラフに追放されてしまった。
 以降はアヌシルワンという名の家系不明で実体すら定かでないハンが立てられる。
 1357年にチョバン家がアゼルバイジャンを巡ってジョチ・ウルスに滅ぼされるとイルハン朝は完全に滅亡した。

 一方でホラーサーンを支配していたトガ・テムルは周辺諸侯から1350年前後まではハンと認められ続け、一度は見限った大ハサンもチョバン家に対抗して1344年までは改めてトガ・テムルをハンと認めていた。
 1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残っていたトガ・テムルが殺害され、イランからはチンギス・カン一門の君主は消滅した。
 イラクでも大ハサンが1356年に死去すると次代のシャイフ・ウヴァイスは傀儡を立てずに自らハンに即位してジャライル朝を建国してジョチ・ウルスに滅ぼされたチョバン家領を併合していった こうしたアブー・サイード死去以来の混乱で、イランの各地にはムザッファル朝、インジュー朝、クルト朝、サルバダール政権、ギーラーン、マーザーダラーン諸政権など遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していった。
 アナトリアも同様でルーム・セルジューク朝時代から分離傾向にあったベイリクやトゥルクマーン諸政権が乱立した。
 これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。

 ▶クルト朝

 クルト朝(Kurt dynasty)は、13世紀から14世紀にかけてイラン東部のホラーサーン地方を支配した、タジク人[1][2]のスンナ派イスラム教徒の王朝。
 首都はホラーサーン地方の都市ヘラート。



 カルト朝(Kart dynasty)とも表記されるが、いずれの表記が正確なのかは定説が無く、王朝の名前の由来となった「クルト」の意味も明確になっていない。
 クルト朝の王家は元々はゴール朝のスルターン・ギヤースッディーン・ムハンマドの封臣であり、ゴール朝の王室とつながりを持っていた。
 13世紀半ばに、クルト朝はモンゴル帝国に臣従を誓う。
 モンゴル帝国の王族フレグが建国したイルハン国が成立した後はその臣従国としてアフガニスタンに相当する地域を支配し、クルト家はフレグ一門と婚姻関係を結んだ。
 1335年にイルハン国が無政府状態に陥った後、クルト朝の君主ムイズッディーン・フセインは王朝の勢力の拡大に努めた。
 クルト朝の統治下でモンゴル帝国の破壊によって荒廃したホラーサーン地方が復興されるとともに同地のイラン文化が維持されたが、1381年にティムール朝の攻撃によって王朝は滅亡した。

 ◆ゴール朝時代

 クルト朝の王統はゴール朝の貴族シャンサバーニー家に連なる。
 クルト家をセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーの末裔とする説も存在する。
 王朝の祖であるタージュッディーン・オスマーン・マルガーニーは、ギヤースッディーン・ムハンマドの宰相イズッディーン・オマル・マルガーニーの弟にあたる。
 タージュッディーンは、兄からヘラートの東に位置するハイサル城を領地として与えられた。
 タージュッディーンの死後、彼の子であるルクンッディーン・アブー・バクルが跡を継いだ。
 ルクンッディーンはモンゴル帝国がゴール地方に侵入した際にいちはやくチンギス・カンに臣従を誓った。
 ルクンッディーンはギヤースッディーン・ムハンマドの王女と結婚し、1245年に2人の子であるシャムスッディーン・ムハンマドが父の跡を継ぐ。
 シャムスッディーンはマリク(Malik、「王」の意)の称号を名乗った。

 ◆モンゴル帝国の封臣時代

 1246年にシャムスッディーンはモンゴル帝国の将軍サリ・ノヤンが指揮するインド遠征に参加し、1247年/48年にムルターンでスーフィーの聖者バハーウッディーン・ザカリーヤーと対面した。1248年のモンゴル帝国第3代皇帝グユクの死後、シャムスッディーンはトゥルイの長子モンケの即位を支持し、オゴデイ家を支持する党派と戦った。
 1251年にシャムスッディーンはモンケ・カアンの即位式に出席し、ヘラートとアフガニスタンに相当する範囲の地域の支配を認められる。
 1253年ごろ、シャムスッディーンは任地のヘラートに入城した。
 モンケの弟フレグが西征を実施した時、1255年にシャムスッディーンはサマルカンドのフレグに謁見し、遠征の協力を約束した。
 1256年から1257年にかけて、イラクに向かったフレグの本隊とは別に、シャムスッディーンはアフガニスタンからインダス川沿岸部にかけての地域で軍事活動を展開する。
 クルト朝の遠征は同時期にサリ・ノヤンが行ったインド侵入に呼応したものと考えられており、フレグの本隊が攻撃の対象としていたアラムートのニザール派の暗殺教団、アッバース朝とインドの連絡を絶つことができた。

 ◆イルハン国への従属

 1263年から1264年にかけて、シャムスッディーンはスィースターン(英語版)を征服し、西アジアでイルハン朝を創始したフレグの元に出頭する。
 1266年にクルト朝の軍隊はフレグの跡を継いだアバカ・ハンの軍事遠征に従軍し、コーカサス地方のデルベントとバクーでジョチ・ウルスのベルケ・ハンと交戦した。
 1270年にイルハン国に進軍するチャガタイ・ウルスのバラクの使者がヘラートを訪れた時、シャムスッディーンはバラクへの協力を約束し、アバカとバラクのどちらが勝利するかを静観した。
 シャムスッディーンがバラクに物資を供給したことを知ったアバカは激怒し、ヘラートの略奪を命令したが、周囲の人間のなだめによって略奪を中止する。アバカはバラクに協力したシャムスッディーンの態度に疑いを抱き、またシャムスッディーンの政敵から讒言を受けたため、彼をタブリーズの宮廷に召喚した。1278年にアバカの命令によってシャムスッディーンは毒殺され、シャムスッディーンの子ルクヌッディーン(シャムスッディーン2世)が新たなクルト朝の君主に据えられる。
 1283年にシャムスッディーン2世はハイサル城砦に移り、子のギヤースッディーンにヘラートの統治を委任した。
 また、シャムスッディーン2世は長子のファフルッディーンの行状が悪い点を考慮し、彼を城砦内の牢獄に監禁した。シャムスッディーン2世はイルハン国内の政敵の讒言から身を守るためにハイサル城砦に閉じこもり、やがてギヤースッディーンもハイサル城砦に逃げ込んだ。
 統治者を失って不安に襲われたヘラートの住民は他の地に移住し、さらにニクーダリーヤーン部族が人口の減少したヘラートで略奪と住民の拉致を行ったため、ヘラートは無人に近い状態になった。

 1291年にイルハン国の王子ガザンは将軍ナウルーズをヘラートに派遣し、ナウルーズは荒廃したヘラートの復興を推進した。
 シャムスッディーン2世はナウルーズからヘラートへの帰還を求められたが、シャムスッディーン2世は政務への復帰を拒んだ。
 結局、ナウルーズは脱獄したファフルッディーンを新たなヘラートの君主として迎え入れ、退位したシャムスッディーン2世はハイサル城砦で隠遁生活を送った。
 ガザンの宮廷を訪問したファフルッディーンは破格の待遇を受け、金品、礼服、1,000人のモンゴル兵を下賜される。

 ◆ガザン、オルジェイトゥ時代の
             クルト朝

 1296年ごろにナウルーズがハンに即位したガザンに対して反乱を起こしたとき、ファフルッディーンは反乱に失敗したナウルーズを匿った。
 しかし、ガザンの軍がヘラートに接近すると、ファフルッディーンはナウルーズをガザンの元に引き渡した。
 ナウルーズの処刑後、ファフルッディーンは改めてガザンから国の領有を認められ、イルハン国のオルド(宮廷)への出仕を免除される。
 やがてファフルッディーンはイルハン国からの独立を図り、ヘラートの防備を固め、貢納と物資の徴発を拒否した。
 ファフルッディーンはイルハン国から敵対視されたために領内に逃げ込んできたニクーダリーヤーン(カラウナス)に保護を与え、近接する地域に彼らを派遣し、破壊を行わせた。
 ニクーダリーヤーンの被害を受けた地域の人間はガザンに保護を求め、彼らの訴えを聴きいれたガザンは弟のハルバンダ(オルジェイトゥ・ハン)にファフルッディーンの討伐を命じた。
 1299年にヘラートはハルバンダの攻撃を受け、両軍に数千人の死者を出した戦闘の末、ファフルッディーンが金を支払うことを条件に和約が成立した。
 1304年にオルジェイトゥがイルハン国のハンに即位した後、ファフルッディーンはオルジェイトゥからの報復を恐れ、祝賀のためにイルハン国の宮廷を訪問しようとしなかった。
 1306年にオルジェイトゥは将軍ダーニシュマンドが率いる討伐隊をヘラートに派遣し、ヘラートは一時的にダーニシュマンドに占領され、ファフルッディーンはヘラート近郊のアマーン・クー城砦に避難した。
 ファフルッディーンがヘラートに残したクルト朝の将軍ムハンマド・サームが城内でダーニシュマンドを殺害し、ヘラートは解放される。
 ダーニシュマンドの殺害後、ヘラートは彼の子ブジャイ、タガイらの包囲を受け、包囲中にアマーン・クーのファフルッディーンが没する。
 包囲を受けたヘラートは食料が欠乏して飢餓に陥り、ムハンマド・サームはブジャイに降伏を申し出た。
 開城後にムハンマド・サームは処刑され、オルジェイトゥは人質として預かっていたファフルッディーンの弟ギヤースッディーンを新たなヘラートの領主に任命した。

 ブジャイをはじめとする一部のイルハン国の廷臣はギヤースッディーンを敵対視し、オルジェイトゥに讒言を行った。
 1311年にギヤースッディーンはオルジェイトゥの元に召喚され、3年にわたって拘留された末、所領の領有権を認められ、多量の財宝を下賜された。
 1315年にギヤースッディーンはヘラートに帰国する。
 ギヤースッディーンの時代にヘラートはチャガタイ家の王子ヤサウルから攻撃を受け、またイスフィザールの領主クトゥブ・ウッディーンやスィースターンの住民と対立する。
 1318年にヤサウルがイルハン国に侵入した際、クルト朝の領土はヤサウルの略奪を受け、翌1319年にヘラートはヤサウルの包囲を受けた。
 ギヤースッディーンはイルハン国の将軍フセインの援軍と共にヤサウルの包囲を解き、戦後アブー・サイード・ハンから新たな領地と領民を与えられた。
 1320年8月にギヤースッディーンはメッカ巡礼に向かい、子のシャムスッディーン3世にヘラートの統治を委任した。
 1327年にイルハン国の有力者チョバンがギヤースッディーンに助けを求め、ヘラートに亡命する。ギヤースッディーンはチョバンと旧交があったが、アブー・サイードの命令に従ってチョバンを殺害した。
 ギヤースッディーンの死後、彼の子たちが跡を継ぐが、シャムスッディーン3世とハーフィズはどちらも短期間で没する。友人であるチョバンを殺害したギヤースッディーンの背信行為のため、子供たちの治世が長く続かなかったのはチョバンの呪いと噂された。
 ハーフィズが暗殺された後に、ハーフィズの弟であるムイズッディーン・フセインが即位し、ムイズッディーン・フセインは兄を暗殺した貴族たちを討伐する。

 ◆王朝の独立

 1335年にアブー・サイードが没した後にイルハン国は急速に崩壊し、ムイズッディーン・フセインはハン位の請求者の一人であるジョチ・カサル家のトガ・テムルと同盟し、彼に貢納した。そして、ホラーサーン地方の小勢力の領主たちの多くはクルト朝の保護下に入った。
 イルハン国の崩壊後、ムイズッディーン・フセインはサブゼヴァール(英語版)を中心とする隣国のサルバダール政権と争った。
 トガ・テムルと対立していたサルバダール政権は彼の同盟者であるクルト朝も敵とみなし、クルト朝の領土はサルバダール政権の侵入に晒される。
 1342年7月18日のザーヴァの戦いでクルト軍とサルバダール軍が衝突した時、当初はサルバダール軍が優勢だったが、サルバダール軍内部の不和のためにクルト軍が勝利を収める。
 戦勝を収めたムイズッディーン・フセインはフトバ(英語版)の文に自分の名を刻み、独自の貨幣を鋳造し、王号を称して独立を宣言した。
 ムイズッディーン・フセインは西チャガタイ・ハン国の影響下にあったマー・ワラー・アンナフルに侵入し、西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンはクルト朝への報復を計画した。
 1351年にカザガンはバヤン・クリ・ハンを奉じてヘラートに遠征を行い、クルト朝の西チャガタイ・ハン国への臣従と貢納を条件に講和が成立した。
 1362年にサルバダール政権はクルト朝の攻撃を企てるが、サルバダール内部の不和のために遠征は行われなかった。
 政敵を殺害したアリー・ムアイヤドがサルバダール政権の指導者となった後、クルト朝はアリー・ムアイヤドの元から亡命したシーア派のダルヴィーシュたちを受け入れた。
 クルト朝はマー・ワラー・アンナフルに新たに成立したティムール朝の領土に侵入するが、そのためにティムールとの緊張が高まった。
 1370年にムイズッディーン・フセインは没し、彼の子であるギヤースッディーン・ピール・アリーが領土の大部分を継承し、サラフスとホラーサーン南部のクーヒスタンの一部はギヤースッディーンの義兄弟であるマリク・ムハンマド・イブン・ムイズッディーンが継承した。

 ◆滅亡

 ギヤースッディーン・ピール・アリーはティムールへの臣従を表明したが、1380年にティムールからクリルタイへの参加を求められた時、クリルタイに出席しなかった。
 1381年にティムールはヘラート遠征を実施し、戦闘に参加しなかったヘラート市民に財産の保障を約束した。
 短い抗戦の後にギヤースッディーン・ピール・アリーはティムールに降伏し、ギヤースッディーン・ピール・アリーはサマルカンドに移された。
 ティムールの支配下に置かれたヘラートの市民には重税が課され、有名な住民たちはティムールの故郷であるケシュ(シャフリサブス)に移住させられる。
 約束を反故にされた住民の反発を危ぶんだティムールはヘラートの城壁と塔を破壊し、1383年にティムールの予測通りヘラートの住民は蜂起した。
 また、ギヤースッディーン・ピール・アリーは子のピール・ムハンマドとともにサマルカンドに移送された。
 反乱はティムールの王子ミーラーン・シャーによって鎮圧され、同年にギヤースッディーン・ピール・アリーと彼の家族は反乱の計画に関与した疑いをかけられて処刑された。
 1389年にギヤースッディーン・ピール・アリーの子と孫はサマルカンドで処刑され、生き残ったクルト家の王族は1396年にミーラーン・シャーによって宴席の場で殺害された。

 ▶ティムール朝

 14世紀末にティムールがアフガニスタンの各地を征服してその大部分を支配した。
 ティムール朝は、かつてのモンゴル帝国の復興を目指した。
 ティムールの死後には後継者たちが学問や芸術の発達を推進し、ヘラートが文化的・政治的中心地として繁栄した。

 ▶アルグン朝

 ▶ムガル朝とサファヴィー朝の抗争

 16世紀にウズベク族のシャイバーニー朝はムハンマド・シャイバーニー・ハーンの支配下で中央アジアに勢力を伸ばし、1507年に戦争に勝利してヘラートを占領し、ティムール朝の支配は終わる。以前にウズベク族によりフェルガナを追放されたティムール家の子孫のバーブルはカーブルを領有していたためにアフガニスタン中部にカーブルを首都とする国家を建国していた。
 バーブルはサファヴィー朝のシャー・イスマーイールとともにウズベク族のムハンマド・ハーン・シャイバーニーと戦い勝利する。
 バーブルはカーブルの南北に征服し、1527年、アーグラを首都としてムガル朝の基盤を築く。
 バーブルは1530年に死ぬが、ムガル朝は、この後200年にわたってインドを支配し、大いに栄える。
 その後の16世紀と17世紀の200年間はアフガニスタンの統一は失われ、ムガル朝とサファヴィー朝によって分割統治される。
 とはいえ、17世紀前半には両国は係争地カンダハールを巡り、二度にわたるムガル・サファヴィー戦争を行った。

 《 ア フ ガ ン の 
   王 家 に よ る 統 治 》

 ▶ホータキー朝

 1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族の族長の一人ミール・ワイス・ホータキーに率いられサファヴィーに反乱を起こした。
 まず、カンダハールを攻撃し、陥落させた。
 その後、ペルシャに乗り込んだ。
 1715年ミールワイスが死ぬと息子のマフムードが争いの末後継者となり、サファヴィー朝の王座を奪い、1722年ペルシャの首都イスファハーンに向かい、ペルシャ軍を破り、長きにわたる戦いの末、イスファハーンを襲撃する。
 1725年世を去った。
 その後を従弟のアシュラフが継ぎ、オスマン軍を破ったが、1729年にナーディル・クリー・ベグの率いる復活したペルシャ軍に敗北する。

 ホータキー朝(パシュトー語: د هوتکيانو ټولواکمني)は、18世紀のアフガニスタンでギルザイ部族連合が興したイスラーム王朝。
 1709年4月、ギルザイ族の一支族、ホータク族の族長ミール・ワイスがローイ・カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻し成立した。
 最盛期には、短期間ではあるが現在のアフガニスタン、イラン、パキスタン西部、タジキスタンやトルクメニスタンの一部に跨る広大な土地を支配していた。
 1738年のカンダハール包囲戦においてフサイン・ホータキーがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗北し滅亡。

 ローイ・カンダハール(アフガニスタン南部の地域)は、16世紀から18世紀初頭までシーア派のイスラーム王朝であるサファヴィー朝最東端の支配域であったが、元々ローイ・カンダハールに居住していたパシュトゥーン人はスンナ派を信仰していた。
 彼らのすぐ東にはスンナ派のムガル帝国が位置しており、しばしばこの地域でサファヴィー朝と戦闘を繰り広げることがあった。
 また、同時期には北部地域がブハラ・ハン国の支配下に置かれている。
 17世紀後半に差し掛かると、サファヴィー朝は度重なる紛争や宗教対立に見舞われるようになり、次第に衰退の一途を辿るようになった。
 1704年、サファヴィー朝第9代シャーであるフサインは、属国のカルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルギーン・ハーン)を帝国最東端の総督に任命した。
 フサインは統治力に欠けており、既に国内は混乱しきっていた。
 ローイ・カンダハールを含むアフガニスタンでも帝国に対する反乱の気運が高まっており、総督ギオルギ11世の任務はこの地域の反乱を鎮圧することであった。
 この時拘束されたうちの一人は、後にホータキー朝初代首長となるミールワイス・ホータクである。
 彼は囚人としてイスファハーンの法廷へ送られたが、彼に対する嫌疑はフサインによって免じられたため自由の身でカンダハールに帰還した。

 17世紀後半に差し掛かると、サファヴィー朝は度重なる紛争や宗教対立に見舞われるようになり、次第に衰退の一途を辿るようになった。
 1704年、サファヴィー朝第9代シャーであるフサインは、属国のカルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルギーン・ハーン)を帝国最東端の総督に任命した。
 フサインは統治力に欠けており、既に国内は混乱しきっていた。
 ローイ・カンダハールを含むアフガニスタンでも帝国に対する反乱の気運が高まっており、総督ギオルギ11世の任務はこの地域の反乱を鎮圧することであった。
 この時拘束されたうちの一人は、後にホータキー朝初代首長となるミールワイス・ホータクである。彼は囚人としてイスファハーンの法廷へ送られたが、彼に対する嫌疑はフサインによって免じられたため自由の身でカンダハールに帰還した。
 1709年4月、ミールワイスはガズナ朝の流れをくむナーシル氏族の支援を受け、カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻した。
 叛逆は、郊外の農場でミールワイスが主催した宴会にギオルギ11世とその護衛をおびき寄せ、その場で彼らを殺害したことから始まった。
 その宴会で振舞われたワインに細工が施されていたとされている。
 次いで彼はこの地域に残るサファヴィー朝の兵士らの殺害を命じた。
 その後、彼の軍勢は反乱を鎮圧するためイスファハーンより派遣されたサファヴィー軍を撃破している。
 なお、サファヴィー側の軍勢はミールワイス側の2倍の規模を誇っていた。

 反抗的な都市を征服するためのいくつかの中途半端な試みは失敗している。
 ペルシア政府はギオルギ11世の甥であるカイホスローを鎮圧のため3万の軍勢とともに派遣したが、最初に成功を収めたにもかかわらず、条件に応じて降伏を申し入れてきたアフガニスタンに対して彼は妥協しない態度をとったため、軍は絶望的な努力を強いられた。
 結果としてペルシア軍(700人が逃亡)は完全に敗北し、彼らの将軍は死亡した。2年後の1713年、ルスタム率いる別のペルシア軍もまた、
 ローイ・カンダハール全体を支配した反乱軍に敗北した。

     —E・G・ブラウン、1924

 この反乱を機にホータキー朝が成立したが、ミールワイスは王の称号を拒否したため、彼のアフガニスタンの同郷からはカンダハールのヴァキール(摂政)にして国軍の将軍と呼ばれていた。
 彼が1715年11月に自然死すると、彼の兄弟であるアブドゥルアズィーズ・ホータキーにその地位は引き継がれた。
 なお、後に彼はミールワイスの息子であるマフムードによって殺害されている。
 1720年、マフムードはスィースターンの砂漠を越えてケルマーンを占領した。
 彼の計画は、サファヴィー朝の首都であるイスファハーンを征服することであった。
 1722年3月8日、グルナバードの戦いでサファヴィー軍を破った彼の軍勢はイスファハーンへ進軍し、6か月にわたってここを包囲、陥落させている。
 10月23日、フサインは退位し、マフムードを新たなシャーとして承認した。

 だが、ペルシア住民の多くは当初からアフガニスタンの反乱軍が政権を簒奪したとの認識を持っていた。
 1729年までの7年間はホータキー朝が事実上のペルシア支配者であり、アフガニスタンの南部と東部に限っては1738年まで支配下に置いていた。
 ホータキー朝は紛争によって成り立った王朝であるため、永続的にその領域を支配するのは困難であり、当初からその統治には苦境と暴力が伴っていた。
 マフムードはイスファハーンにおいて何千人もの民間人(宗教学者や貴族、サファヴィー家の一族など3000人以上)を虐殺するなど血に塗れた治世を行い、ペルシアでの王朝の影響力は徐々に失われていった。
 一方でホータキー朝を興したパシュトゥーン人も、1709年に反旗を翻すまではギオルギ11世を始めとするサファヴィー朝の勢力に迫害されている。

 ◆滅亡

 1725年、アシュラフ・ギルザイがマフムードを殺害してその地位を奪った。
 彼の軍勢は1729年10月にダームガーンでアフシャール族のナーディル・シャー率いるペルシア勢力と衝突したが、ホータキー朝は大敗を喫した。
 なお、後にアフシャール族はサファヴィー朝に代わってペルシアの覇権を握ることになる。
 ナーディル・シャーはペルシアからギルザイ部族連合の残党勢力を追放し、ファラーフやカンダハールのドゥッラーニー部族連合から軍勢を募った。
 軍備を整えたナーディル・シャーはアフマド・シャー・ドゥッラーニーなどを従えてカンダハールに進軍し、1738年にここを占領した。
 カンダハールの包囲によって権力の座は失われ、約30年に渡ってペルシア一帯を支配したホータキー朝は滅亡した。

 ▶アフシャール朝

 ペルシャの王位に就いたナーディルはナーディル・シャーと名乗って、カンダハールとカーブルへ進撃した。1738年に両都市を攻略し、インドへ向かった。インドでは、アブダーリー族の親衛隊がナーディルを助けた。
 彼はムガル帝国軍を下し、デリーを陥落させ、ペルシャに戻った。
 その後もオスマン帝国やサマルカンド、ヒヴァ、ブハラへ出征を続けた。
 1747年部下に殺害された。親衛隊を率いていたアフマド・ハーン・アブダーリーことアフマド・シャー・ドゥッラーニーは何とかカンダハールへ戻ることができた。


 アフシャール朝(ペルシア語: افشاریان‎、アフシャーリヤーン)は、イラン(ペルシア)の王朝で、首都はマシュハドでナーディル・クリー・ベグによって建てられた。

 ◆初代・ナーディルの勢力拡大

 ナーディル・クリー・ベグ(ナーディル・シャー)は、サファヴィー朝のアッバース3世の摂政として、ホータキー朝やオスマン朝を破って、旧サファヴィー朝が失った領土のほとんどを回復し、一時ペルシアの覇権を握った。
 1736年にサファヴィー朝のアッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーとして即位した。
 ナーディル・シャーはバルーチスターンへ侵攻し、カルホラを占領した。
 晩年になるとナーディルは息子を盲目にしたり、甥の息子ら親族を大量に殺したり、市民や役人を殺戮したりした。
 この反動により、1747年に部下の兵士らによって暗殺された。

 ◆衰退・抗争期

 ナーディルの死後、跡を継いだのは暗殺に一枚噛んでいたとされるアーディル・シャーであった。
 彼はナーディルの直系親族を一部を例外として殺戮したが、弟のイブラーヒームに背かれて廃された。
 だが、イブラーヒームも有力者の支持を得られず、すぐに廃された。

●ナーディル・シャー暗殺直後
(1747年12月ごろ)のイラン

 人に代わって擁立されたのが、ナーディルの嫡孫であるシャー・ルフである。しかし1750年、シャー・ルフは有力者によって退位させられ、サファヴィー朝の末裔とされるスライマーン2世が傀儡として即位した。
 しかしすぐに亡き祖父ナーディルの旧臣らが反乱を起こしてシャー・ルフは復位した。

 ◆滅亡

 以後のシャー・ルフは有力者の傀儡として利用された。
 そして1796年にアーガー・モハンマド・シャーがマシュハドを占領することでアフシャール朝は滅亡し、カージャール朝に取って代わられた。

 ▶ドゥッラーニー朝

 ドゥッラーニー朝(د درانیانو واکمني)は、18世紀にアフガニスタンにあった成立した王朝。
 1747年にアフマド・シャーがイランのアフシャール朝から自立して興した。
 ただし「ドゥッラーニー朝」の呼称が指し示す範囲についてはいくつかの定義がある。
 アフマド・シャーはパシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族の出身であった。
 狭義のドゥッラーニー朝(1747〜1826年)は、アフマド・シャーとその子孫の王朝(サドーザイ朝)・国家(ドゥッラーニー帝国)を指す。
 ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747〜1826年)と、続くバーラクザイ朝(1826年〜1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。

 「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。
 1747年から1973年までの王朝について「ドゥッラーニー朝+バーラクザーイー朝」、「ドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)+ドゥッラーニー朝(バーラクザイ朝)」、「サドーザイ朝+バーラクザイ朝」という3つの名称が鼎立している状況である。

 ◆サドーザイ朝

 1747年にイラン系遊牧民パシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合の一派ポーパルザイ部族(Popalzai)のサドーザイ部族がアフシャール朝から独立して建国。

 清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。
 以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。

 外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。

 ❒ドゥッラーニー帝国
 (パシュトー語: د دورانیانو امپراتوري)、またはアフガン帝国(パシュトー語: د افغانانو واکمني)は、アフマド・シャー・ドゥッラーニーが興した帝国である。



 最盛期には現在のアフガニスタン、パキスタン、イラン北部、トルクメニスタン東部、カシミール渓谷を含むインド北西部に跨る領域を支配下に置いていた。
 1747年にナーディル・シャーが死亡すると、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはカンダハール地域を獲得した。
 そこを拠点に彼はカーブル、次いでガズニーの征服を始め、1749年にはムガル帝国から現在のパキスタンやパンジャーブ北西部にあたる地域の主権を譲渡された。
 さらにアフシャール朝のシャー・ルフが支配していたヘラートを獲得するため西へ進軍し、続いてヒンドゥークシュ山脈も手中にしようと目論み軍を送り込んだ。
 ヒンドゥークシュの全部族は短期間のうちにアフマドの軍勢に加わっている。
 彼の軍は4度に渡りインドへ侵攻し、カシミールとパンジャーブを支配下に置いた。
 1757年初頭、彼はデリーの略奪を行ったが、既にデリーにおけるムガル帝国の影響力は低下していたため、アフマド・シャーによるパンジャーブ、シンド、カシミールの宗主権を認める限りにおいて帝国の維持は約束された。
 1762年にはパンジャーブにおいてシク教徒の虐殺事件を引き起こしている。
 1772年にアフマドが死亡すると、新たなドゥッラーニー朝の支配者に息子のティムール・シャーが即位した。
 ティムールは帝都をカーブルへ移し、ペシャーワルを冬季の帝都に定めた。
 ドゥッラーニー帝国は現在のアフガニスタンにおける国家の基盤と考えられており、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは国民の父と称されている。

 ◆バーラクザイ朝
 (Barakzai dynasty)

 19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカーブル。

 1826年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。

 中央アジアがロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)の舞台となる中で、両者の対立を利用しつつ3度にわたってイギリスと戦争を繰り広げ(アフガン戦争。1838年〜1842年、1878年〜1881年、1919年)、独立を確保して現在のアフガニスタンの国境線を画定した。
 外敵との戦いは「アフガン人」の国民意識の形成にも寄与した。

 ❒ドースト・ムハンマドの自立

 18世紀末以来サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は内乱状態に陥り、カンダハールを拠点とするバーラクザイ部族が勢力を伸ばした。
 バーラクザイ部族はサドーザイ朝で宰相(ワズィール)を出す部族であり、勢力拡張を嫌ったカームラーン王子 (Shahzada Kamran Durrani) が1818年に部族の長ムハンマド・アズィーム(別名ファトフ・ハーン。
 1778年〜1818年)を殺害すると、バーラクザイ部族は各地で反乱をおこし、サドーザイ朝は事実上崩壊した。
 ムハンマド・アズィームの弟であるドースト・ムハンマドは1826年にカーブルを掌握し、ハーンを称してハン国を建国した。
 しかし、その後もしばらくは、彼の兄コハンデル・ハーンがカンダハールを本拠とし、カームラーン王子と宰相ヤール・ムハンマド・ハーンのサドーザイ朝残存勢力がヘラートを本拠として、アフガニスタンに鼎立する状態が続いた。
 こうした対立は、当地を支配下に置こうとするイラン(カージャール朝)の動向や、ロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)と結びついた。

 ❒アフガニスタン首長国

 1835年、ドースト・ムハンマドは君主の称号をアミール(首長)に変えた(アフガニスタン首長国)。

 ドースト・ムハンマドのロシアへの接近を警戒したイギリスは、サドーザイ朝の復興を目指すシュジャー・シャーを支援してアフガニスタンに介入(第一次アフガン戦争、1838年〜1842年)。
 ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスによる逮捕・追放などを経ながら、1843年に復位し、その後20年間アフガニスタンを統治した。
 1855年にはイギリスとの友好条約(ペシャーワル条約)を締結し、インド大反乱ではイギリスを支援した。
 国内にあっては、コハンデル・ハーンの死(1855年)後の混乱に乗じてカンダハールを占領、1863年にはサドーザイ家の手にあったヘラートを併合し、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた。
 ドースト・ムハンマド・ハーンの跡を継いだシール・アリー・ハーン(在位:1863年〜1866年、1868年〜1878年)は、同族間の紛争に直面した。
 1878年には、シール・アリーのロシアとの接近を危惧したイギリスからも宣戦された(第二次アフガン戦争、1878〜1881年)。
 シール・アリーの跡を継いだヤアクーブ・ハーン(在位:1879年)は、イギリスとの間にガンダマク条約を結び、イギリスの保護国となることを認めたものの、アフガニスタンの抵抗は強く、ヤアクーブも退位した。

 妥協を図ったイギリスは、シール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880年〜1901年)を保護国アフガニスタンのアミールとして認めた。
 この際、ガンダマク条約が確認され、アフガニスタンの南東国境(現在のアフガニスタンとパキスタンの国境)が画定された。
 ただし、その後もイギリスとアブドゥッラフマーン・ハーンを認めない抵抗は続き、1880年にはマイワンドの戦いにおいてイギリス軍がアイユーブ・ハーン(シール・アリーの子)に大敗を喫した。
 アブドゥッラフマーン・ハーンは、中央集権を推進したが、一方で抵抗も根強く、イランに亡命したアイユーブ・ハーンとの戦いも行われた。

 〔ウィキペディアより引用〕