goo blog サービス終了のお知らせ 

CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

■CTNRX的見・読・調Note ♯002

2023-09-17 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(2)

 ❖ テロリズム ❖

 ▼歴史

 古くはスパルタにおける κρυπτεια(クリュプテイア)などに例が見られる。
 50年頃のユダヤではローマ帝国からの独立をめざす熱心党がテロ行為をおこなった。
 スッラによるプロスクリプティオやユリウス・カエサルの暗殺事件などもテロと呼ばれることがある。

 近代以降では、上述のフランス革命における革命側による恐怖政治や、王党派側による白色テロ、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件、ロシア革命での赤色テロ、
 アナーキストによる黒色テロなどが有名である。
 特にヨハン・モスト(英語版)の「爆弾の哲学」に影響された19世紀末のアナキスト達による一連のダイナマイトによる暴力行動では、国家権力に正面から対抗する手段を持たない政治勢力、思想集団、宗教勢力が奇襲的な殺戮行為を行うことにより、国際社会や外交関係といった利害を背景としてそれにつけこみ、目標国家に政治的打撃を与え、政治的主張を受け入れさせることが主流となった。

 20世紀では、スターリン主義による大粛清、ナチズムによる水晶の夜事件がなどが発生した。

 また第二次世界大戦後では冷戦や民族自決運動の高まりによる各種の事件、1970年代にはパレスチナ問題を背景としたPFLP旅客機同時ハイジャック事件や、新左翼系のドイツ赤軍、日本赤軍、赤い旅団などにより、従来の紛争地域以外を含めた国際的なテロ事件が多発した。
 1980年代以降は、市民をも攻撃対象とする無差別テロが増加してきている。

 冷戦後から、兵器販売の自由化が始まり、軍の払下げ品などの出回った火器がテロリストの手に渡るようになり、国際的なテロ事件が増加するようになった。
 特に、1990年代初頭からのイスラム過激派の台頭は目覚ましく、2001年9月11日にはアルカイダの手によってアメリカ同時多発テロ事件が起こされるに至っている。
 テロリストによる破壊活動の拡大を防ぐため、対テロ戦争が行われているが、以後もISIL等のイスラム過激派の新興組織は現れており、1国の首脳が「戦争行為」と非難する程の大規模な攻撃が行われ続けている。
 2010年代末になっても、イスラム教の文化の侵害を理由としてアメリカとアメリカ同盟国を敵視するイスラム過激派と、破壊活動の被害者であるアメリカとアメリカ同盟国の泥沼の戦いが続いている。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ※“アフガニスタン紛争”を綴る前に、アフガニスタンとは、どういう国なのかを綴らせて貰います。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❖ アフガニスタン 
       歴史と変遷 ①❖

 アフガニスタンは
   今現在の名称は
 “アフガニスタン・イスラム首長国”

 2021年までの正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国であったが、政府は同年8月15日にターリバーン(タリバン)の攻勢によって事実上崩壊した。
 同年8月19日、ターリバーンのスポークスマン、ザビフラ・ムジャヒドはTwitterでアフガニスタン・イスラム首長国
 (パシュトー語: د افغانستان إسلامي امارت)、
 (英語: Islamic Emirate of Afghanistan)
 が成立することを宣言した。

 アフガニスタン・イスラム首長国は中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。
 現在はターリバーンによる暫定政権が築かれている。
 東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東ではワハン回廊で中国と国境を接している。
 多民族国家で、周辺国と民族やイスラム教宗派でつながりが深いパシュトゥン人、ウズベク人、タジク人、ハザラ人などが暮らす。
 中東の東端と位置付けられることもある。


 首都は人口最大の都市のカーブル。面積は65万2000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国となっている。

 ▼概要

 アフガニスタンは多様かつ波乱な歴史を紡いで来た地域に建つ国家である。
 少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。
 9000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった。
 インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書『アヴェスター』に描かれている文化と密接な関係がある鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500 - 1100年ごろ)が興った。
 「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。
 アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。
 マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。
 カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。
 また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。

 サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにムスリムがイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ。
 その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。
 現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。
 1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。
 1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャーワルはシーク教徒に奪われた。
 19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。
 1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。
 1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。
 1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。

 しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。
 1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。
 1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義者のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。
 2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。政府とターリバーンとの間で続いている戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させた。
 一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。
 2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われた。
 2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン大統領府を占領、アシュラフ・ガニー大統領は国外へ亡命し、アフガニスタン・イスラム共和国政府は事実上崩壊した。

 アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、購買力平価による国内総生産(GDP)は729億ドルである。
 一人当たりのGDP(PPP)ではもっと低い。
 現今においてはテロリズム、貧困、子供の栄養失調、汚職が蔓延しているだけではなく、頻繁な政権の奪取が行われる。

 ▼アフガニスタンの歴史(変遷)

 《 先 史 時 代 》

 アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで判明したことは比較的少ないが、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。
 10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。
 また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。
 およそ1万年前には農業と牧畜が行われ、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出され、また、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。
 さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産と思われる錫が運ばれていたことが分かっている。

 ▶インダス文明

 19世紀になって存在が知られるようになった。
 狭義ではインダス文明は紀元前2600年から紀元前1900年の期間を指す。
 滅亡には気候変動など様々な原因が考えられるが、インダス文明には他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。
 ヒンドゥークシュ山脈や北部のバダフシャン地方に数は少ないが遺跡が見られる。

 インダス文明
 (英: Indus Valley Civilisation)

 インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。

 これら各国の先史文明でもある崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。
 狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。
 インダス文明の遺跡は、東西1500 km、南北1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600にお呼ぶ。
 そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。

 ◆初期食料生産期

 メヘルガルI期(紀元前7000年〜紀元前5500年)は、土器をともなわない新石器時代である。

 メヘルガル(ウルドゥー語: م‍ﮩ‍رگڑھ ‎、Mehrgarh)は、考古学的にも重要な新石器時代の遺跡(紀元前7000年〜紀元前2500年)で、現在のパキスタン、バローチスターン州に位置する。
 南アジアで最初期の農耕(小麦と大麦)と牧畜(牛、羊、山羊)の痕跡がある遺跡である。

 ボーラーン峠付近、インダス川の渓谷の西、パキスタンの現代の都市クエッタの南東にある。
 1974年、フランス人考古学者 Jean-François Jarrige の率いる発掘チームが発見した。
 発掘調査は1974年から1986年まで続けられた。
 495-エーカー (2.00 km2) の領域の北東の角にメヘルガルで最も古い居住地跡があり、紀元前7000年から紀元前5500年ごろの小さな農村と見られる。

 ◆領域形成期
 (紀元前5500年〜紀元前2600年)

 メヘルガルII期(紀元前5500年〜紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。
 メヘルガルIII期(紀元前4800年〜紀元前3500年)は、銅器時代後期である。
 メヘルガルⅣ期(紀元前3500年〜紀元前2600年)で集落が放棄された。

 ハラッパーI期(紀元前3300年〜紀元前2800年、ラーヴィー期には、パンジャーブ地方のラーヴィー川河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。
 それに続くハラッパーII期(紀元前2800年〜紀元前2600年)は、シンド地方でコト・ディジ文化が始まった。

 ◆統合期
 (紀元前2600年〜紀元前1900年)

 狭義のインダス文明はこの統合期を指す。
 ハラッパーIIIA期(紀元前2600年〜紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450年〜紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200年〜紀元前1900年)の三期に区分される。

 ◆滅亡

 インダス文明の衰退や滅亡については次のような諸説がある。

 ❒砂漠化説
 インダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。
 インダス文明が消えたのは、この砂漠化によるのではないかという説がある。

 砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。

 大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。

 しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、という説である。

 衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。

 インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行したという説もある。

 しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。

 河流変化説
 紀元前2000年頃に地殻変動が起こり、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説。

 インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。

 ❒気候変動説
 気候変動によってインダス文明が衰退したとする説である。

 4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。

 こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。

 2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。

 また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。
 これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。

 また、インダス文明期には、海面が現在よりも2 mほど高かったという調査がある。
 これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる。

 そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。
 後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。

 ❒アーリア人侵入説
 インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、第二次大戦後にはM.ウィーラーによるアーリア人侵略説をはじめとする外部からの侵略説が唱えられた。

 発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。

   ΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖ

 ※アーリア人
 (英: Aryan, 独: Arier, サンスクリット語: आर्य, ペルシア語: آریا‎ )

 民族系統の呼称。
 広義と狭義で対象が異なり、広義には中央アジアのステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループを指し、狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。

 前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。
 その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
 現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり、彼らはアーリア人の末裔である。
 また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。

 この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。

 アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。
 このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。

 これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。

 ・狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)

 ✔イラン・アーリア人

 ・広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念)

 ✔インド・アーリア人
 ✔狭義のアーリア人
 ✔ペルシア人
 ✔パシュトゥーン人
 ✔タジク人
 ✔北インド諸民族

 最広義のアーリア人
 (アーリアン学説におけるアーリア人種)

 ✔インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫

 広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。
 ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。
 パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。

 現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。
 これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。
 ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。

 尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムやナチズムと結びつき、人種差別や優生学を生み出した。
 しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。
 
   ΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖΖ

 ❒核戦争説
 これはインダス文明は核戦争により滅んだという説である。
 理由はいくつかある。
 インダス文明の中心遺跡モヘンジョ=ダロは「死の丘」を意味している。
 ここで何かがあったと推測でき、遺跡の近くの人骨からは通常の約50倍の放射能が検出された。
 また、1945年にアメリカの核実験によってできた人工鉱物の「トリニタイト」が遺跡の近くで発見され、また、遺跡の建物などからは一瞬で超高温の炎を浴びた痕跡が発見されて、核爆発があった証拠であると主張されている。

 ◆滅亡後の地方化期
 (紀元前1900年〜紀元前1300年)

 ヴェーダ期(紀元前1700年〜紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化(英語版)となった事を示す墓地が発見されている。
 この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年〜紀元前500年)が形成されたと考えられている。

 ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。
 この文化と同時期に栄えた赭色土器文化は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。

 ◆十王戦争から十六大国まで
 (紀元前12世紀〜紀元前6世紀)

 十王戦争
 (サンスクリット語 दाशराज्ञ dāśarājñá)

 『リグ・ヴェーダ』に描かれる時代の古代インドにおいて、インド・アーリア人を中心とした諸部族の間で勃発した戦争である。

 この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。
 アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。
 またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、この文化は南から北へ拡大しておりBMACより北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。
 またサリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。
 またジェームズ・マロリー(英語版)はヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。

 ▶オクサス文明

 オクサス文明はバクトリア・マルギアナ複合と呼ばれ、アフガニスタンでは北部のアムダリヤ川上流周辺がオクサス文明地域にあたる。
 オクサス文明の発見は比較的新しい。メソポタミア文明、インダス文明などの他文化との関係、アーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目される。

 〔ウィキペディアより引用〕



■CTNRX的見・読・調Note ♯001

2023-09-16 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     と悲劇のアフガニスタン(1)

 アメリカ同時多発テロ事件
 (英: September 11 attacks)は、2001年9月11日(火)の朝にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃だった。

 ・ワールドトレードセンターへのテロ攻撃、2機。
 ・ペンタゴンへのテロ攻撃、1機。
 ・もう1機はテロ攻撃の失敗、ユナイテッド航空93便はワシントンD.C.に向かって飛行していたが乗員乗客がハイジャック犯の拘束を試みた結果、ペンシルバニア州ストーニークリーク郡区の野原に墜落した。

 そもそも、アルカイダは何故、アメリカ合衆国にテロ攻撃を実行したのか?

 当時、あの時のウサーマ・ビン・ラーディンの目的は何だったんだろうか?

 アメリカ同時多発テロ事件の首謀者は、イスラーム過激派テロ組織「アルカーイダ」の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンとされている。
 当初、ビン・ラーディンは事件への関与を否定していたが、2004年には一転して同時多発テロ事件への関与を公に認めた。

 ✣アルカイダとしての主な活動目的

 ・汎イスラム主義
 ・イスラム主義
 ・サラフィー・ジハード主義
 ・反米
 ・反シオニズム
 ・反共主義
 ・反ユダヤ主義 等

 ア✣ルカイダの指導者(指揮官)

 ・ウサーマ・ビン・ラーディン(創始者)
  (1988年〜2011年)

 ・アイマン・ザワーヒリー
  (2011年〜2022年)

 ・サイフ・アル=アデル
  (事実上:2022–)

 ✘アルカイダとしての敵対勢力

 ・アメリカ合衆国

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 ❖ ウサーマ・ビン・ラーディン ❖
         (アミール)

 大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか、詩作にも興味を示し、バーナード・モントゴメリーやシャルル・ド・ゴールの著作を好んで読んだと言われている。
 思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。
 さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。
 ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。
 思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。
 さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。
 ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。

 ●アフガニスタン紛争への参加
  (1979–1989年)

 ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた。
 のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている。
 1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた。
 ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。
 1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた。
 1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した。
 ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーやアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー、オマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。

 ❖ イスラム原理主義 ❖

 イスラム原理主義またはイスラーム原理主義とは、イスラム神学、イスラム哲学、イスラム法(イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)を規範として統治される政体や社会の建設と運営を目ざす政治的諸運動を指す用語である。
 アメリカ合衆国をはじめとするキリスト教圏諸国の反イスラーム主義思想を反映した、往々にして否定的・批判的ニュアンスを帯びた呼称となっている。

 日本での「イスラム原理主義」という用語は、英語の Islamic fundamentalism の日本語訳としてジャーナリズム等で使われて広まったものであり、今日一般には「イスラム原理主義」という用語法は無批判に受容されている。

 しかし、今日一般に原理主義と翻訳される英語の fundamentalism (ファンダメンタリズム)は、もともと「根本主義」と翻訳されるキリスト教の神学用語で、それが一部の保守的キリスト教徒を嘲弄(嘲笑や侮蔑)する意図の込められたレッテルとして使われるようになったという経緯がある。

 したがって、ファンダメンタリズムの語は、本来「キリスト教に由来するもの」であり、これをイスラム教に結びつけることの是非に関しては議論がある。こうしたことからイスラーム研究の専門家の間では、イスラム原理主義の代わりに、イスラーム主義、イスラーム復興主義、イスラーム急進主義といった用語が使われる。
 欧米では政治的イスラームとも呼ばれる。

 ▼表現の起源

 日本では一般に原理主義と翻訳されるようになったファンダメンタリズムという言葉は、本来は1920年代のアメリカ合衆国で、聖書の近代的な文献批評に反対する保守的なキリスト教徒たちが自分たちをファンダメンタリストと自称したものであり、ファンダメンタリズムはその神学的立場を表す「固有名詞」であった。
 後には、当事者でない人々からの他称ないし一種の蔑称としても使われるようになり、ダーウィンの進化論を認めず、これを学校教育で扱うことに反対したような人々がファンダメンタリストのレッテルを貼られた。

 アメリカ合衆国では、1979年のイラン・イスラム革命でアメリカ合衆国の傀儡政権であったパフラヴィー政権が打倒され、イスラム法に基づいて統治する革命政権が樹立された時に、革命政権を敵視して、本来はアメリカ合衆国のキリスト教における一つの神学的立場を表す固有名詞であるファンダメンタリズムを、教典の原典を無謬と信じ、著しく極端な教義を主張し追求する、狂信的な運動や思想という意味に一般名詞化し、イスラムと連結して Islamic Fundamentalism という表現を作り、イスラム革命政権に対して敵対や侮蔑の感情を込めて(誰が?)使用し始めた。

 言葉の用法としては、第二次世界大戦時の交戦相手である日本軍・日本人に対する「ジャップ」や、ベトナム戦争時の南ベトナム解放民族戦線や北ベトナム軍に対する「ベトコン」などと同じである。

 その後、アメリカ合衆国の国民・報道・議会・政府などは、イスラム原理主義という表現を、ハマース、ヒズボラ、ムスリム同胞団、ターリバーン、アルカーイダなどに対しても使用するようになった。

 アメリカ合衆国の公的言説では、イスラム法に基づいて統治をしている国家・社会・政府・政党、イスラム法による統治を目ざす政党・団体であっても、サウジアラビアのように、アメリカ合衆国の同盟国や友好国、友好政党・団体に対しては、イスラム原理主義という表現は使用されない。

 ❖ イスラーム過激派 ❖

 イスラーム過激派(イスラム過激派)(radical Islamism、Islamic extremism)

 イスラム教徒のうち、宗教的・政治的・経済的目的を達成するために殺人、暴力、誘拐などの犯罪的手段に訴える武装グループ。
 イスラム理想社会の実現のためには大量殺人などの犯罪も辞さず、アメリカ同時多発テロ、パリ同時多発テロ、ベルギー連続テロなどを引き起こしたとされ、日本を含む多くの西側諸国からは国際テロ組織とみなされている。

 海外メディアは、イスラーム過激派に対して、ジハード主義(Jihadism)あるいはジハード主義者(Jihadist)という言葉をよく使用している。
 また日本のメディアでも、例えば時事通信が「ジハーディスト(聖戦主義者)」という表現を用いている。
 なお、ジハードの語源は「苦闘・抗争・努力」であり、1880年頃から「あらゆる種類の教義的な聖戦運動」を指す語になった。

 ▼概要

 イスラーム過激派とは、自らの理想を「イスラーム主義あるいはイスラーム原理主義」イスラム神学、イスラム法(イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)の教義をより正当化し、そのような社会の実現を図るために武力・暴力も行使する戦闘的な組織を総称する用語である。
 こうした組織は、非支持者の側から見ればイスラームの名を使用して主張を実現するために「犯罪やテロ」を行う過激派(extremist)とみなされることになる。
 この中にはサラフィー・ジハード主義を掲げるアルカーイダ系の組織なども含めるのが普通である。
 なお、95%以上がスンナ派のハンバリー法学派の信徒で占められている。

 イスラーム過激派では、唯一神(アッラーフ)の性質である「神の単一性」(タウヒード)が、「イスラム信仰者の共同体(ウンマ)の単一性」として解釈されている。
 前提として、どんな人間でも「神の単一性」の共同体に加わろうとすることは可能だが、こうした考えや信仰からすると、共同体の外側は全て「敵」ということになる。

 20世紀のイスラーム思想家で最も影響力があった一人は、過激派のサイイド・クトゥブと見なされている。
 エジプトの「ムスリム同胞団」活動家だったクトゥブの解釈では、全世界が反イスラーム的状態にあり、人間の思想が「神の地位を与えられている」。
 しかし、世界の政治的抑圧[要曖昧さ回避]・不道徳・不平等・物欲等は ―― 「ユダヤ人」が打倒され、世界が「神の法則」のみによって統治されるようになれば ―― 全て終わるとクトゥブは言う。
 彼のメッセージは、すぐに民衆から支持された。
 暴力革命をはじめとするクトゥブの主張も、急進的なイスラーム主義者たちによって広く受け入れられている。

 クトゥブによれば、鳩でさえ「不幸」に見える場所が大都会であり、ニューヨークは「騒々しく」「やかましい」「巨大な作業場」である。
 そしてアメリカでは嘆かわしくも、「金銭、映画スター、新車」以外について会話されることは無いに等しい。
 日常生活には「誘惑[要曖昧さ回避]的な空気」があり、衝撃的な官能性や女性の慎みの無い行動で悩まされる。
 大都会ではないコロラド州の町グリーリーでも、教会の主催したダンスパーティーがあまりに「淫ら」だったため衝撃を受けた、とクトゥブは言う。
 クトゥブによれば

 イスラム以外の社会、そこで神以外のものが崇拝されている社会は、どんな社会であれすべてジャーヒリーヤだ。

 本来ジャーヒリーヤとは、イスラームにとっての「無知」 ―― つまり「偶像崇拝」 ―― を指す宗教用語であり、近代以降は「野蛮」という意味にも解釈されるようになった。
 近代におけるこの善悪二元論は、「悪」に対する戦争を煽動しており、イスラーム的であるが近代的でもある思想として、思想史に位置づけられている。
 クトゥブの論では

 イスラム教の生き方でのみ人間は他の人間への隷属から解放される。
 そして神の崇拝だけに専心し、神からのみ指導を受け、神の御前にだけひれ伏すようになる。

 実は「西洋」の中にはクトゥブが高く評価した部分もあったが、それはドイツロマン主義であり、フランツ・マルクの芸術作品(狐の絵)だった。
 アメリカ人はその作品を一瞥しかしないため、「西洋人」が「精神的、審美的熟考」に不向きなのは明らかである、とクトゥブは結論した。
 クトゥブによれば「西洋人」または「ユダヤ人」は、世界的な「陰謀」を企んでおり、その証拠としてクトゥブは、ロシアの偽造書『シオン賢者の議定書』を好んで引用している。
 クトゥブの「確信」によれば

 (イスラム)コミュニティーを、その宗教から遠ざけようとする者は、誰もがユダヤ人の手先に違いない。

 そして、宗教・人種・国家といった障壁を超越しているかのような国際的な文化や共通遺産は、「世界のユダヤ民族によって企てられた策略の一つ」であり、「全世界の国家へ潜入し、邪悪な計画を永続させるための試み」であるとクトゥブは言う。
 この「邪悪な計画」の頂点に立っているのは高利貸しであり、彼らを通じて

 (世界の富は)ユダヤ金融機関の手中に収められていく。

 こうしたイスラーム運動における「人間社会」とは、「純粋な信心」によって成り立つものであり、ドイツの国家社会主義(ナチズム)における「国家」が、「純粋人種」によって成り立つことに類似している。
 クトゥブによると、ジハード(努力・聖戦)の目標は「神の法[要曖昧さ回避]のみに権威を与え、人間が作った法を除去すること」だった。
 この「宣戦布告」は、隠喩・比喩の類としてではなく文字通りに受容されねばならないとクトゥブは言い、その理由として次を挙げた。

 これらの全ては説教や論説を通じて為されるものではない。
 この世で神の力を強奪し、崇拝者を奴隷にした人間は、言葉の力だけでは片付けられない。

 ▼原因または背景

 このテロリズムの原因は幾つかの観点に従って様々に与えられる。

 マレック・チーベルによると、民衆の悲哀とエリートの堕落への、社会的抗議の状況におけるテロリズムそのものがイスラムの国家統治の失敗をもたらす。
 「金持ちがぼろを着たろくでなしの単なる報復として乱暴にこの現象を解釈するような、イデオロギー上の闘争において同じのこちらの、ものである富める国家の無理解」においてテロリズムは永続する。

 社会学者のドミニク・バレ
 (仏語:Dominique Baillet)

 その原因が経済的、政治的、社会的そして心理的に重なっていることを考える。

 ▶経済的な面で、これは開発途上国の経済のひとつの状況において見られる、イスラム世界のことから考えて、それは南北の不均衡にたいしてそれと同時にもたらされる。

 ▶政治的な面で、それは植民地解放以来の立場における体制での専制的なそして権威的な特徴による圧力であり、それと同時にパレスチナ問題や、イラク経済制裁のような未解決の問題についてのことによる圧力である。

 ▶社会的な面で、それは失業、社会的苦悩、ならびに個人の自由の不存在、の増加によって引き起こされる。

 ▶他の原因は心理的である:失望、より良いひとつの世界の夢、唯物論の拒絶、恨み、欲求不満、感謝の欠如、によって陥り易いことはそれをとりわけ与える。

 ドミニク・バレによると、いくらかのイスラム人は屈辱を受けたと意識しているのと同様に堕落させられたと思う、そして後進的な宗教のようにイスラムを考える西洋も堕落していると思う。
 彼によれば屈辱は結果における原因ではない。

 J.ナイリンク
 (仏語:J.Neirinck)
 によれば、そして説教師で神学者のイスラム人のタリク・ラマダンによれば、西側諸国において多神教もしくは《金銭、充足、セックス、暴力、騒音、全部の道徳と全部の超越性における、すべての精神性の巧妙なまたは乱暴な否定》の崇拝のひとつの形が宗教の否定を形作るのをイスラム教徒たちは見ている。
 それらのこれがこの意識の周囲に連なるのを認識する。

 哲学者ルネ・ジラールによれば、《テロリズムは私たちの異なったひとつの世界、けれども想像もつかないようさせる、私たち同士の遠く離れたこの違いをかきたてるところの、これに束縛する。 
 それは目的への集中そして類似の極度の欲望とは正反対である》。
 それそのものはそれゆえ《欲求不満の人々のひとつの第三世界をめぐる再結集と呼びかけの意思、そして西洋諸国をもって模倣的な敵対関係の彼らの報告における死傷者》において仲間を受け入れる。

 テロリズムの原因における複雑さは理解と対話による終結のために込み入った思考に解決を求めることが必要である。

 21世紀からは、ひとつの類似の議論での理由において、そしてパレスチナ、ボスニアまたはカシミール地方において不当が多くのイスラム教徒において耐え忍ばせることの:正しさを示すところのいかに大きな《原因》であるかの以前における事例としての、グローバルな動きのひとつであるかのように、イスラムのテロリズムはしばしば考えられている。それが西洋の国、そして主に伝統的なイスラム教徒の国、とりわけアフリカと中近東において、明らかになる。Boko Haram: Inside Nigeria's Unholy Warにおいて、マイク・スミス(フランス語:Mike Smith)によれば、見られるその起源は、ソマリアまたはチャドにおけるような、たとえ一般的な注目点をつけ加えても、時代の国家への抵抗での社会における宗教のひとつの手段化(フランス語:instrumentalisation)においてそれはしばしば生じる。
 一般のイスラム文化に表現力のあるオリビエ・ロイ(フランス語版)は、グローバルなイスラムにおける2つの要因を強調する:《道徳と国家の決定の優位は、新‐原理主義のための周辺のジハードでの手段化だけでなく、一般のウンマ》からの、欠点をおぎなう、中身を与えるためにも》。
 国家による行政からの反対者と(パキスタン、カノならびにナイジェリア…などの)シャリアを制度化している、ダゲスタンまたはイスラムのたくさんの首長国から、イエメンの南部での、タリバンにおけるものを見分けるものであるこれが、この《イスラモトラバリスム(フランス語:islamotrbalisme)》である。
 2005年において、いかにグローバル化がテロリズムを生んできたかをRetour de flammeにおいて教える、アリ・ライディ(仏語:Ali Laïdi)によれば、テロリズムの10のうちの9近くというものは国家の弱さである、しかしながら逆に《本質的に独裁者によって統治されたイスラム教徒の世界においては、イスラムは、暴力活動によって弾圧された、不安定化の要因とならざるをえない》。

 トマ・ピケティはパリ同時多発テロ事件について、緊縮財政政策が国家主義的緊張を作りだし、所得格差が中東におけるイスラム過激派のテロリズムを促す大きな要素だという見解を示した。
 人口の10%にも満たない石油王らの生産量が地域のGDPの60から70%を占めており、地域の発展にお金が使われていない。
 女性や移住労働者を含む大多数は準奴隷同然だとピケティは述べた。
 そして近年における中東の若年失業率は25%に達する。
 大学卒の失業率はエジプトやヨルダンでは15%を超えている。

 オリヴィエ・ロワは1995年以降にフランスで活動したテロリストのプロフィールを調査した結果、移民二世がテロリストになった事例が突出して多い事実を見いだし、イスラム過激派への入信現象の本質は移民家庭内の世代間闘争であると主張した。
 ロワは、移民二世は自発的に移民した一世より格差や貧困に対する覚悟が足りず、憎悪や復讐心を募らせ、自らのアイデンティティを問わずにはいられない。
 そういった不安定な状況を「宗教的な目覚め」が後押ししてイスラム過激派になる、と推測した。

 母国で育った移民や出身者が母国でテロを起こすことを「ホームグロウン・テロ」と言い、「ホームグロウン・テロ」は頻繁に起きている。

 ▼ジハード
(جهاد‎ jihād)

 アラビア語の語根 جهد(J-H-D、努力する)から派生した動詞جاهد(ジャーハダ、自己犠牲して戦う)の動名詞で、「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する。
 「大ジハード」と「小ジハード」がある。

 「大ジハード」(内へのジハード)は個人の信仰を深める内面的努力を指す一方、「小ジハード」(外へのジハード)は異教徒に対しての戦いを指すため、一般的に「ジハード」というと後者を指す。
 イスラム法学上の「ジハード」は、「イスラムのための異教徒との戦闘」と定義される。
 しばしば「聖戦」と和訳されるが、ジハードという語には「聖」の意味はないため、正確ではない。

 ▼概要

 ジハードは、『クルアーン(コーラン)』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」に相当する動詞の語根 jahada (ジャハダ、アラビア語: جهد‎)を語源としており、アラビア語では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である。
 この語には本来「神聖」ないし「戦争」の意味は含まれていない[4]。しかし、『クルアーン』においてはこの言葉が「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われており、このことから異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)をも指すようになった。
 したがって、「聖戦」という訳語は、ジハード本来の意味からすれば狭義の訳語ということができる。

 奮闘努力の意味でのジハードは、ムスリムの主要な義務である五行に次いで「第六番目の行」といわれることがある。
 ジハードの重要性は、イスラームの聖典『クルアーン』が神の道において奮闘せよと命じていることと、あるいはまた、預言者(ムハンマド)と初期のイスラーム共同体(ウンマ)のあり方に根ざしている。

 近現代におけるイスラームの反帝国主義・イスラーム復古主義・イスラーム原理主義においては、イスラーム世界防衛のため、「実際に武器を持って戦うジハード」が再び強調されている。
 『世界大百科事典』では次の解説がある。

 イスラム法の理念では,世界はイスラムの主権の確立されたダール・アルイスラームでなければならない。
 まだその主権が確立されていない世界は,ダール・アルハルブdār al‐ḥarb(戦争世界)と定義され,そこではイスラムの主権が確立されるまでジハードが必要となる。

 ▼2つのジハード

 ジハードは、六信五行というムスリムの信仰と義務の項目には含まれていないが、『クルアーン』では「奮闘努力」という非常に幅広い意味で登場し、したがって、その意味からも六信五行を越え、イスラームの信者として当然持たなければならない基本的な心構えとして、いっそう重要な命令と考えられている。

 広い意味でのジハードには、次の2種類が存在するといわれている。

 ・個人の内面との戦い。
 内へのジハード。非暴力的なジハード

 ・外部の不義との戦い。
 外へのジハード。暴力的なジハード

 この2つについて、ムハンマドが実際の戦闘から日常生活に戻ったときに語ったと伝承される言葉が、その内実をよく説明している。その言葉とは、

 私たちは小さなジハード(戦争)から大きなジハードに戻る。…

 というものである。

 「大きなジハード」すなわち「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪や不正義、欲望、自我、利己主義と戦って、内面に正義を実現させるための行為のことであり、それだけに、いっそう困難で重要なものとされる。
 このことに関して、イスラーム共和制をとるイランでは、ラマダーンの期間、「ラマダーン月はジハードの月」などといった標語を掲げることによって、弛緩しがちなムスリムたちの規律を正し、イスラーム共和国の理想を思い起こさせるための行為という意味で「ジハード」の語が用いられる。
 イスラームが五行のひとつとして1ヶ月にわたる断食(サウム)を信徒に命じている理由は、人びとに食欲という本能を抑える訓練をさせることによって、精神は肉体よりも強固なものであると自覚させ、同時に食べものへの感謝の念を起こさせるためであるといわれている。

 現在、多くの学者は「内へのジハード」を「大ジハード」(الجهاد الأكبر‎ al-jihād l-akbar) と呼んでおり、それに対して「外へのジハード」を「小ジハード」(الجهاد الأصغر ‎ al-jihād l-asghar)と呼んでいる。
 どちらも、アッラーの命令を完遂できないような環境がつくられないための「奮闘努力」という点では共通している。

 もっとも広い意味でのジハードは、すべてのムスリムに課される義務を指している。
 神の意志にしたがい、神の意志を実現して倫理的な生活を営むために、説教、教育、実例および文書などによってイスラーム共同体の拡大のため、ムスリム一人ひとりとしても、イスラーム共同体としても、おこなうべき義務なのである。また、「ジハード」には、イスラーム教とイスラーム共同体を外部からの攻撃から守る権利(実際には義務)という意味もある。
 20世紀後半にあっても、1978年からのソ連のアフガニスタン紛争において、アフガニスタンのムジャーヒディーンが、ソヴィエト連邦の占領に対し、10年におよぶ長いジハードを戦ってきた。

 歴史的にみれば「大ジハード」は、平和主義と寛容さを旨とするイスラーム神秘主義の潮流のなかで特に支持されてきたものであり、その一方で、支配者・権力者は領土拡大や侵略の大義名分として「外へのジハード」を利用してきた。
 現代でもしばしば、テロリストと目される過激な集団が「外へのジハード」を大義名分として行動し、ムスリムの結集を呼びかけるために用いている。

 ❖ サラフィー・ジハード主義 ❖ 

 サラフィー・ジハード主義
 (アラビア語: السلفية الجهادية‎)

 フランスの政治学者ジル・ケペルによる造語で、サラフィー主義において1990年代半ばに勃興したジハード運動体もしくは思想。

 2000年代にはアメリカ同時多発テロ事件を契機としてジハード主義を掲げるアルカーイダ系組織が世界各地で台頭、これにより組織の影響を受けたジハード主義者(イスラーム過激派)によるテロが各地で発生している。
 さらに2010年代に入ると、その分派組織であったISILがシリア内戦(アラブの春)を契機としてアラブ世界で台頭し、地域情勢が深刻化している。

 ▼主なサラフィー・ジハード
            主義組織

 ・アルカーイダ系組織
 (アルカーイダ自体は一組織を指すわけでなく、国際的なネットワークの名称)   アル=ヌスラ戦線
 (シリア国内で活動、アルカーイダの下部組織とされる)

 ・ISIL
 (シリア・イラク両国内を中心に活動、アルカーイダとは絶縁状態)

 ❖ テロリズム ❖

 テロリズム(英語: terrorism)とは、政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いることを言う。「テロ」と略される。

 ▼概要

 『日本大百科全書』によると、テロリズムとは「政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致による自由束縛など苛酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るもの」とされている。
 1980年代以降、イスラム過激派によるテロリズムが激化し、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受けて米欧各国が対テロ戦争を主導した結果、ホームグロウン・テロリズムが主流となる。
 その中でも特に単独犯の形態はローンウルフと呼ばれるが、海外での先行研究によれば、ローンウルフは反人工中絶や反性的少数者の立場からの犯行など動機・目的も多様化し、人種主義やヘイトクライムとの境界も曖昧となっていることから、厳密な定義には当てはまらない形態とされる。

 テロリズムは、左翼および右翼政党、ナショナリズム集団、宗教集団、そして政府側など多岐に渡る政治的な組織が、彼らの目的を達成するために実施している。
 テロリズムを行う主体は、個人から集団、政府や国家などまで含まれる。

 テロリズムを行う主体はテロリスト(英: terrorist)と呼ばれる[5]。テロリストのうち、グループの場合はテロ・グループ、組織の場合はテロ組織、国家の場合はテロ国家と呼ばれる。
 また、テロリストを支援する国家はテロ支援国家と呼ばれる。

 ▼用語

 テロリズムとは何らかの政治的な目的を達成するために暴力や脅迫を用いることを言う。「テロリズム」の語源はフランス語のterrorismeで、1793年から1794年のフランス革命の際の恐怖政治(フランス語: La Terreur)に由来し、更にフランス語のterreurはラテン語のterreōから派生した語で「恐怖」を意味する。
 「テロリズム」という用語が使われるようになったのはフランス革命において行われた九月虐殺がきっかけであった。
 この虐殺事件では革命派が反革命派1万6千人を殺害する恐怖政治を行い、その中で政治的な用語として登場した。
 フランス革命ではジャコバン派が恐怖政治を行い、ジャコバン派の権力喪失後に「テロリスト」の用語は使用されるようになった。
 この語の用法には歴史的な議論があり、例えばネルソン・マンデラやチェ・ゲバラ、マハトマ・ガンディー、シャナナ・グスマンもかつては「テロリスト」と呼ばれていたのである。

 ▼定義

 「テロリズム」の語の正確な定義には多数の困難が伴っており、100を超える多数の定義が存在している。

 オックスフォード英語辞典(OED)はきわめて古典的な用法を真っ先に挙げている。

 1.1789-1794年のフランス革命時にフランスの権力者が指示し遂行した威嚇による統治(恐怖政治)
 2.(派生用法)脅迫や威嚇を意図した攻撃方針

    — オックスフォード英語辞典

 だがこのOEDの説明では現代的な用法を理解するにはもの足りないと感じられることになる。
 「テロリズム」という語の現代的な用法は政治的なものである。
 テロリズムの概念は、しばしば国家の権威者やその支持者が、政治的あるいはその他の敵対者を非合法化し、更に国家が敵対者への武力行使を合法化するためにも使用されている。

 各国政府が独自に定義付けをしている例があるが、自国や自国の支持する武装集団による暴力行為は「テロリズム」から除外して、他の組織のもののみを「テロリズム」と呼んでおり、定義が自己中心的で、普遍性を持ちえず、妥当性に関しては疑問視されている。
 たとえばノーム・チョムスキーは、アメリカの公式文書によるテロリズムの定義に従えば「アメリカが1985年にベイルートで1人の聖職者を暗殺すべくモスクの外にトラックに仕掛けた爆弾を設置し、80名を殺し、250名に怪我を負わせた」行為(en:1985 Beirut car bombings)や「アメリカが1980年代にニカラグアを攻撃し壊滅状態に陥れた」(コントラ戦争)のは間違いなくテロである、と主張している。

 ◆国際連合

 国際連合は、2004年11月、国際連合事務総長による報告書において、テロリズムを以下のように示した。

 住民を威嚇する、または政府や国際組織を強制する、あるいは行動を自制させる目的で、市民や非戦闘員に対して殺害または重大な身体的危害を引き起こす事を意図したあらゆる行動。

 ◆テロ防止関連諸条約

 当条約ではハイジャック関連を中心に、以下がテロ行為とされている。

 ・航空機内の犯罪:航空機内で行われた犯罪その他ある種の行為に関する条約(航空機内の犯罪防止条約 東京条約)

 ・航空機ハイジャック:航空機の不法な奪取の防止に関する条約(航空機不法奪取防止条約 ヘーグ条約)

 ・民間航空機の安全に対する不法行為:民間航空の安全に対する不法な行為の防止に関する条約(民間航空不法行為防止条約 モントリオール条約)、2010年作成の国際民間航空についての不法な行為の防止に関する条約(北京条約)においては、さらに核物質や生物兵器等の具体的事項を列挙

 ・国家代表等に対する犯罪行為:国際的に保護される者(外交官を含む。)に対する犯罪の防止及び処罰に関する条約(国家代表等犯罪防止処罰条約)

 ・人質を取る行為:人質をとる行為に関する国際条約(人質行為防止条約)

 ・国際輸送中の核物質の窃盗:核物質の防護に関する条約(核物質防護条約)

 ・空港における不法な暴力行為:1971年9月23日にモントリオールで作成された民間航空の安全に対する不法な行為の防止に関する条約を補足する国際民間航空に使用される空港における不法な暴力行為の防止に関する議定書(空港不法行為防止議定書)

 ・海洋航行の安全に対する不法行為:海洋航行の安全に対する不法な行為の防止に関する条約(海洋航行不法行為防止条約)

 ・大陸棚プラットフォームの安全に対する不法行為:大陸棚に所在する固定プラットフォームの安全に対する不法な行為の防止に関する議定書(大陸棚プラットフォーム不法行為防止議定書)

 ・爆発物を公共の場所に設置する行為:テロリストによる爆弾使用の防止に関する国際条約(爆弾テロ防止条約)

 ・テロリストに資金を供与する行為:テロリズムに対する資金供与の防止に関する国際条約(テロ資金供与防止条約)

 ・放射性物質や核爆発装置を所持し、使用する行為:核によるテロリズムの行為の防止に関する国際条約(核テロリズム防止条約)

 ◆アメリカ合衆国政府による定義

 連邦捜査局(FBI)の報告書においても、統一されたテロの定義がないことが示されている。

 合衆国法典第18編第2331条 18 U.S.C. § 2331においては、暴力行為若しくは人命に危険を及ぼす行為又は政府の行動に影響を及ぼすための大量破壊、暗殺、誘拐などを指す。

 連邦規則集第28編0.85条(28 CFR 0.85(l))においては、FBIとして「政治的又は社会的な目的の促進のために、政府や市民、もしくはその一部への脅迫や強制ないし、人物や資産に対する不当な実力行使や暴力」としている。

 アメリカ国務省は、合衆国法典第22編第2656f条 22 U.S.C. § 2656fに基づき、国際テロリズムに関する年次報告書を作成しているが、そこでは「工作員や非国家的団体によって行われる政治的な動機による非武装目標への計画的な暴力行為」としている。
 また、テロ活動を支援する団体も含めて、国務長官により国外テロ組織(Foreign Terrorist Organizations, FTOs)に指定され、監視や制裁の対象とされる。

 ◆日本政府による定義

 日本の法令でテロリズムに関連するものには以下のようなものなどがある。

 ・公衆等脅迫目的の犯罪行為のための資金等の提供等の処罰に関する法律 第1条

 ・警察庁組織令 第39条[法令文 2]

 ・自衛隊法 第81条の2第1項[法令文 3]

 ・特定秘密の保護に関する法律 第12条2項[法令文 4]

 ・その他
 北朝鮮による日本人拉致問題 - 2001年より北朝鮮による拉致被害者家族連絡会、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会が「拉致はテロ」の表現を使用し、2003年6月の衆議院本会議で小泉純一郎首相が「普通には、テロと言えると思います」と答弁した。
 2007年12月には衆議院の拉致問題委員会で「拉致はテロであり、拉致被害者が抑留され続けている以上、テロは今も続いている」として、アメリカ合衆国政府による北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除に反対する決議案を、日本共産党を除く賛成多数で決議した。
 しかし秘密裏に行われた拉致を政府は当初は「テロ」と呼んでおらず、この表現には議論も存在する。

 ▼種類・分類

 背景や動機による分類としては歴史的用語を含めると、極端に右翼的な思想を動機として行われるものを「右翼テロ」、共産主義思想などを動機としたテロを「赤色テロ」、反革命思想を動機としたテロを「白色テロ」、アナキズムを動機としたテロを「黒色テロ」、宗教的目的を背景とするテロを「宗教テロ」、貧困の苦境や貧富の極端な格差が原因となって起きるテロを「貧困テロ」、環境保護を動機としたテロを「環境テロ」、ある国家が他の国家の政府や国民・市民を恫喝するテロを「国家テロ」(state terrorism)と分類することがある。
 また、ある国の政府が自国の国民を虐殺するなどして脅すテロは、特に古典的な用語を用いて「恐怖政治」と分類されている。

 また実施者の人数による分類では、国家の諸組織を動員して国家ぐるみ国家規模で他国に対して行われている「国家テロ」、一定規模の集団による「集団テロ」などと分類できる。1名~数名程度で行うテロは、長らく「個人テロ」と分類されていて、こちらがオーソドックスな分類法だが、近年では「ローンウルフ(型)」と比喩的な用語で分類することも増えている。

 自国内の市民が自国内の市民に対して行うテロリズムを特に「ドメスティック・テロリズム(domestic terrorism)」やホームグロウン・テロリズムと言う。

 テロの実行手段による分類としては、実行犯が爆弾を大衆あるいは特定の人物の周辺へ投げ込み爆発させる「爆弾テロ」、爆発物を無差別あるいは計画的に設置して区域を爆破する「爆破テロ」や実行犯が自爆する「自爆テロ」、核兵器または核物質を使用するぞと脅したりあるいはそれを実際に使用する「核テロリズム」、病原体を使用したり使用するぞと脅す「バイオテロ」、サーバ・PC・コンピュータネットワークなどに対する攻撃を行う「サイバーテロ」などがあり、近年では特にサイバーテロは日々、日常的に行われており、しかもサイバーテロは情報インフラの破壊だけでなく、石油パイプラインなど重要な社会インフラまでも数カ月停止させてしまうほど破壊力があり影響が甚大である。

 サイバー攻撃や重要施設の破壊、重要人物の暗殺など破壊工作を行うために、各国に潜伏している工作員や諜報員によるテロリズムを特に「スリーパーセル」と言う。日本政府も対抗手段として、内閣情報調査室、警察庁警備局、公安調査庁、防衛省情報本部など専門機関を設置している。

 1960年代~1980年代などでは、ハイジャックや重要施設を占拠して人質を取るタイプのテロが続発したが、解決手段として特殊部隊の突入が行われるようになり制圧に成功する事例が増えてからは、これらの手段は下火になった。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的文化人類学 ー 未来家族 [後編]ー

2023-08-11 21:00:00 | 自由研究

 Wikipedia(ウィキペディア)による『家族』解説

 《家族の類型》

 ▼形態による分類

 家族はその成員によって、核家族と拡大家族とに分けられる。
 核家族は夫婦のみ、または未婚のその子供によって構成される家族形態である。
 夫婦どちらか片方のみと未婚の子供によるものもこれに含まれる。
 これに対し、それよりも多い成員から構成される家族を拡大家族といい、長男など家系を継ぐ子供の家族に親が同居する直系家族や、両親と複数の子どもの家族が同居する複合家族などが含まれる。
 またこの区分は一夫一婦制の場合に限られ、複婚が行われる場合は複婚家族という別の区分となる。

 この家族形態は時代や文化によって千差万別であり、一つの文化内においてさえ一般的なモデルは存在するもののすべて同じスタイルの家族というわけではない。
 日本では戦前までは直系家族が基本的な家族モデルとして想定されていたものの、第二次世界大戦後は核家族へと移行した。
 しかしすべてが核家族というわけでは当然なく、直系家族や大家族の家族も存在する。
 しかし日本も含め、世界的に社会が発展するに従って家族の規模は縮小する傾向にあり、19世紀にはほとんどの国で1世帯の平均人員は5人前後だったものが、20世紀末には先進国では2.5人前後にまで減少した。
 一方、発展途上国においては20世紀末においても家族規模の大きな国が多い。

 ★出自集団

 家族は多くの場合、出自を同じくする集団の中に包含されてきた。
 この出自集団は父母のどちらを重視するかによって、父系制、母系制、そして双系制の3つに分かれる。
 父系制の場合家族は父系集団に属することになり、父方の姓や地位、財産を継承する。これに対し母系制は母方の出自をたどり、相続も母方によるものである。
 母系制社会では一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではないことには注意が必要である。
 母系制社会では母方の伯父など母方男性の権力が強い。
 母方女性が社会権力を握る母権制社会は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、空想上の概念であると理解されている。
 父系制・母系制が父母いずれか単独の出自集団に属するのに対し、双系制は家族はどちらの集団にも属しうるので、多くの場合どちらかの集団を選択することとなる。

 ★リヒターによる病的な家族

 ドイツの精神科医ホルスト・エバーハルト・リヒター(de:Horst-Eberhard Richter)はその著『病める家族―家族をめぐる神経症の症例と治療』(佑学社 1976年)において、患者の家族を以下のように類型化した。

 ・劇場家族
  よい家族をお芝居のように演じている家族

 ・要塞家族
  自分たち以外はすべて敵とみなし、対抗することで絆を確認する家族

 ・サナトリウム家族
  互いに傷を舐めあうような家族

 ★小此木啓吾による家族

 精神科医の小此木啓吾は家族の心的問題に焦点を当てて次のように類型化している(『家族のない家庭の時代』ちくま文庫 1992年)。

 ・コンテナ家族
  容量が大きく、社会のストレス、不満を持ち帰っても、それを受容し、癒してくれるような家族

 ・ホテル家族
  みんながそれぞれにお客のつもりで、サービスされることだけを求め、他人のために汗を流そうとしない家族

 ★フェミニズムの視点から見た家族

 特にフェミニズムにおいては、家父長制という概念を通して家族の歴史がたどられる。
 リサ・タトル(米国、1952年生)著『フェミニズム事典』(明石書店)では「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」との説明を採用している。

 ★その他の家族分類概念

 ・生殖家族(family of procreation)
  人間が選択(配偶者や子供数の)によって構成した家族

 ・定位家族(family of orientation)  
  子供を社会に送り出す側面に注目した家族概念

 ▼西欧における家族

 エドワード・ショーターは中世ヨーロッパには家族愛は存在せず、性愛・母性愛・家族愛は近代になってはじめて家族に持ち込まれたとした。
 この3つの概念は「性=愛=生殖」の一致を基本とする、
 いわゆる「近代家族」の理念的支柱となった。
 「近代家族」は、18世紀後半以降の産業革命の中でヨーロッパにおいて生み出されたと考えられている。
 これは夫婦を中心とし、子どもに重点を置く核家族制で、生産の側面を持たず、男女の分業を特徴とするものであり、産業革命の進展とともにこのモデルは世界に広がった。
 また、同時に家族は夫婦・親子の愛によって相互に結ばれるものというイデオロギーが成立した。

 ★類型をめぐる学問的対立

 M・アンダーソンは「今日の社会学では、たとえば「家父長制」という概念を説明するために、『些細な事実』を集積してきて類型化してしまいがちである。
 しかし単一の家族制度などは現実には存在せず、どの地域でも、あるいは歴史上のどの時点でも、家族類型などは存在しない」と説いた。
 エマニュエル・トッドはフレデリック・ル・プレーによって見出された家族類型というものがブリコラージュ(やっつけ仕事)であること認めつつ、完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは不可能でもあれば無用でもあり、ほかの変数との対応関係に置くことができる形で記述するのを可能にする限りにおいて、類型化に意義があるとした。

 ▼日本

 日本では明治・大正期は、夫婦が多くの子をつくり(子沢山)、親たちと同居し、大家族の割合が高かったが、昭和期には夫婦とその子だけで成る核家族、小家族の割合が増えた(つまり、ある夫婦から見て夫や妻の親とは住まない割合、あるいはある夫婦から見て、孫と一緒に暮らさない割合が増えた)。
 その後、そうした形態の家族の様々な弊害が認識されるようになり、ひとつの家屋の1階2階に分かれて微妙な「近さ」と「距離」を保ちつつ暮らす人々も増えるなど、家族の多様化や 家族の線引きの曖昧化が進んでいる。

 ★日本の家族形態の変化
   戦前から終戦までの歴史と変容

 戦前の日本の家族は家制度に基盤をおき、地域社会はもとより国家とつながる「イエ」を形作っていた。「家制度」は16世紀に成立し、「家」と「家父長制」の二つを大きな要素としていた。
 「イエ」という親族集団の一体的結合と継続的発展を重視し、家族の人々を「イエ」に従属する存在とみなした。
 家父長権の相続(家督相続)、本家・分家などの階層性、それらを対外部的にひとまとまり(ウチ)としてとらえる心性・制度であった。
 また、家はひとつの経営体でもあり、その維持と継続が最も重視された。
 このため、長子、主に長男は家にとどまって跡取りとなり配偶者をめとり、先代が死去すると代わって家長となった。
 「家を継ぐ」という観念がこの時代に発生したことからもわかるとおり、家は跡取りの単独相続であり、また財産は家長ではなく家そのものに属していた。
 農村部においては、次男や三男など長男以外の男子や女子は、富農層では分家として財産の一部を分与され村内に一家を立てることもあったが、中農層以下のものは独立や婚姻によって村を離れることが多かった。
 こうした家は地域集団や共同体の基本的な構成単位であり、周囲との密接な関係の上で存続していた。
 一方離婚は比較的自由であり、この傾向は明治時代に入っても続いた。
 1883年には人口1000人あたりの普通離婚率が3.39となり、おそらく世界最高の離婚率となっていて、これは1896年の民法制定で離婚が抑制され激減するまで続いた。

 明治時代に入り、1896年には民法が制定され、そのうちの第4編「親族」と第5編「相続」(いわゆる家族法)によって家制度および戸主権は強化・固定された。
 ただし、理念的には直系家族が主とされていたものの、次男以下の独立家族が多かったことや父母の寿命が短かったことから、日本では戦前から比較的小規模な核家族が最も一般的な家族形態であり、1920年の時点で過半数の世帯が核家族化していた。
 戦前の農村では大家族制度が主流であったという認識は(一部の地域を除き)誤りである。
 一方、大正時代に入ると都市部の新中産階級を中心に、ヨーロッパの「近代家族」の概念が普及した。

 太平洋戦争の終戦を機に民法の改正により家制度は廃止された。
 経済復興と給与労働者の増加により家庭は家内労働の場という側面が薄まり、家庭の教育的役割が強調されていく。
 また直系家族に代わり核家族が主な家族理念とされたが、旧来の家族概念も残存した。
 1950年代以降(高度経済成長期)の家族変動の最も顕著なものは同居親族数が減少したこと、および共同体の力の減退に伴って家族の基盤に変容が生じたこと、の二つの特徴があげられる。
 多数の人口が農村から都市へ移動し、兄弟の数も減った。
 戦後社会で育った子供たちはすでに中年から高齢にさしかかり、不況の中で社会から孤立する者が急速に増え無縁社会という言葉まで生まれた。
 1980年代以降は、夫婦の共働きも一般化しつつあり、1991年以降男性片働き世帯と共働き世帯の世帯数は拮抗するようになって、1997年以降は共働き世帯が完全に上回るようになった。
 それによって育児や子育てが保育園や学童クラブ、地域の野球やサッカー、スイミングスクールなどのスポーツクラブ、学習塾などに一時的に委託されることも増え、性別役割分業の見直しが進みつつある。
 また、高齢化社会に伴う老親の扶養の問題も深刻化してきた。
 また、女性の社会進出にともない、女性が旧姓を通称として用いることが多くなってきたほか、選択的夫婦別姓制度導入などを求める声も大きくなって来ている。

 ▼日本の家族の現状

 2010年時点では、日本の家族構成は核家族が56.4%、直系家族等が10.2%、単独世帯が32.4%となっており、1960年代からのデータでは核家族は1980年代まで上昇した後微減傾向、拡大家族は一貫して減少傾向、単独世帯はほぼ一貫して増加傾向にある。
 ただし単独世帯が1人であるのに対し核家族・直系家族は2名以上で構成されるため、総人口ベースでは2005年データで87%の人が家族と同居していることとなる。
 また、一つの世帯に属する平均人員数は、調査の開始された1920年から1955年頃までは1世帯に対しほぼ5名で動かなかったものの、その後は急減していき、2005年には1世帯に2.58人とほぼ半減した。
 地域的に見ると、2005年時点ですべての県において核家族世帯が最も多くなっているものの、都市部では単独世帯もかなりの数を占め、東京都では4割以上が単独世帯である一方、主に日本海側の農村県においては直系家族や大家族の占める割合が比較的高く、山形県では3割を超えている。
 欧米で近代的な「家族」の崩壊が進んでいる中で、日本ではいまだに近代家族の概念が強固に残っているとされる。
 一例として、一部先進国においては婚外子の割合が結婚しているカップルの子どもの割合とほぼ同じとなっている国家も存在するが、日本においては婚外子の割合は2008年でわずか2.1%にすぎず、ほとんどが結婚した夫婦による子どもである。
 しかし、晩婚化や非婚化によって出産数が減少し、深刻な少子化が起こっている。
 また、一般に欧米の家族では夫婦愛が最も重要であるのに対し、日本の家族愛は母性愛がその柱となっているとされる。

 《一家団欒》

  家族で一緒に食事をしたり談笑するなどしてなごやかに過ごすことを一家団欒と呼ぶ。
 こうした一家団欒は家族内のコミュニケーションの重要な手段であり、子供の心身の発達において良好な効果を上げることが判明しているため、教育面の視点などから広く推奨されている。
 ただし、こうした家族での共食と一家団欒の思想が日本で成立したのは、明治時代中期にキリスト教の影響を強く受けた近代家族像が成立してからのことである。
 一家団欒は修身教育を通じて推奨され、主婦の専業化やちゃぶ台の普及によって徐々に広まっていったものの、定着したのは非常に遅く、日本では第二次世界大戦後のこととされる。

 《家族旅行》

  戦前から家族旅行は比較的裕福な市民において行われていたが、戦後の高度成長期には裾野が広がり、庶民の家庭においても家族で旅行することが定着した。 
 社団法人日本旅行業協会が公表した統計では、『成人するまでに20回以上、つまり平均して年に1回以上家族旅行に行った人は、「我慢強い」「思いやりがある」「協調性がある」「社交的である」等、周囲とのコミュニケーションや気配りに長けている傾向が強い』という結果となっている。

 ▼家族に関するメディア報道

 一部の家族が機能不全状態にあるという意識の広まりと共に、家庭でのドメスティックバイオレンス、児童虐待などの事件がマスメディアを賑わすことが日常化している。
 これらの問題はどの時代にもあり、件数的には現代ではむしろ減少しているが、報道は増加している。
 近年は家庭内の暴力を人権問題として社会問題ととらえる傾向がある。
 増加する高齢者人口と在宅での高齢者看護などと共に、家族をめぐる社会問題が報道されている。
 家族をめぐるメディア報道においては、現代の離婚件数が昔より増加しているかのような言論や(明治期の離婚は現代の1.5倍の件数であった)、「家族の終焉」といった、歴史的に見て適切ではない言説がなされる場合がある。
 ただし、離婚率は1960年から緩やかに上昇傾向に入り、2000年まで増加し続けた。
 それでも世界的に見れば日本の離婚率は2006年時点でもかなり低位となっている。

 ▼動物の家族

 家族に類する集団を作る動物もある。
 ある動物が次のような集団を作っている場合、それを家族と呼ぶことがある。

 1.配偶ペアがある程度以上の期間にわたって維持されること。

 2.この組がそれらの子の世話をある程度以上行うこと。

 配偶ペアが長期にわたって維持される例はあるが、それだけを以て家族ということはない。
 また、単独の親が子育てする例もこれを家族と言わない。
 もちろん、より文学的表現でそれらをも家族という語を使う例はままある。
 上記のような範囲で家族を構成する動物は鳥類に例が多い。
 いくつかの鳥類では前年の雛が巣に残って子育てを手伝う。
 これをヘルパーと言う。
 哺乳類ではタヌキやキツネなどいくつかの例がある。
 類人猿の中では、ゴリラは1匹の雄と複数の雌による一夫多妻制の家族を築いており、父母ともに子どもの面倒を見るが、父親が死亡した場合この家族は崩壊する。
 ゴリラの家族同士は接触しないように距離を置いており地域集団を形成せず、またより人間に近いチンパンジーは地域集団内の乱婚制で家族を形成しないため、いずれも人類の家族制度および社会制度とは異なっている。
 節足動物にもかなり例がある。
 いわゆる社会性昆虫は実のところ一頭ないし一組の生殖個体とその子で構成されており、非常に巨大ながら家族集団である。
 ただしハチとアリの場合、雌が単独で巣作りをするから先の定義から外れる。
 シロアリは夫婦で巣作りするのでこれは家族扱いできる。
 他に家族的集団や親子集団を形成するものもあり、それらは社会性昆虫の進化との関連でも注目される。

    〔ウィキペディアより引用〕

 

CTNRX的文化人類学 ー 未来家族 [中編]ー

2023-08-09 21:00:00 | 自由研究

 ■家族はどこに向かうのか

 これらの事例のように、多くの国や地域における伝統社会では、父と子に必ずしも血のつながりは必要でなく、例えばヤップ島の事例に出てきた精霊のように、それぞれの社会が持つ何らかのつながりが父と子を結びつけています。
 つまり社会的な父の方が生物的な父よりも重要とされているのです。
 一方で、精子や卵子が親子のつながりをあらわすという考え方は、実は近代の西洋社会で生まれた考え方であって、世界の当たり前ではありません。
 松尾先生は、不妊治療などの生殖補助医療技術は、こうした近代西洋社会の考え方をますます強める方向に進めるだろうとおっしゃっています。
 そして、親子に血のつながりが重要視されがちな社会の中で、それ以外の多様な親子でも生きづらさを感じずに暮らせる社会にするために、私たちはどうすべきだろうか?という問いかけを、最後の締めくくりとされていました。

 世界は広い。国や地域ノ数だけ社会があり、文化習慣があるわけですから、家族のかたちもさまざまで当然と言えば当然です。
 しかし、生まれ育った環境がその人の常識を大きく左右するのだろうと改めて認識するとともに、生殖医療という科学技術の進展が人々の家族観を変え、その家族観に収まらない人たちが生きづらい社会に向かってしまうのではないかという不安も感じさせるお話でした。

〔https://secure.en.ritsumei.ac.jp/psy/


 ■Wikipedia(ウィキペディア)による『家族』解説

 家族(かぞく)
 (ドイツ語: Familie)
 (フランス語: famille)
 (英語: family)

 婚姻によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のことである。
 婚姻によって生じた夫婦関係、「産み、産まれる」ことによって生じた親と子という血縁関係、血縁関係などによって直接、間接に繋がっている親族関係、また養子縁組などによって出来た人間関係等々を基礎とした小規模な共同体が、家族である。
 また、血縁関係や婚姻関係だけではなく、情緒的なつながりが現在の家族の多様性によって最重要視されている。

 家族の持つ機能には、性的、生殖、扶養、経済的生産、保護、教育、宗教、娯楽、社会的地位の付与などがあるとされる。
 しかしこれらは社会の変化に伴って、弱体化し、大きく変容している。

 《定義》

 「家族」や「family」といった言葉には、いくつかの意味がある。

 以下、辞書類の解説から紹介する。
 Oxford Dictionariesでは、英語の「family」に関して、大きく分けて3つの意味を挙げている。

 1 ふた親とその子たちで、ひとまとまり(ひとつの単位)として一緒に暮らしているものたち
  ・血縁や結婚によって関係づけられた人々

 2 共通の先祖を持つ全ての人々

 3 関連性のあるものごと

 広辞苑では「家族」の解説文としては、「夫婦の配偶関係や親子・兄弟の血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団」としている。
 大辞泉では、「夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」としている。

 なお、世帯と家族は基本的に異なる概念である。
 日本国厚生労働省の定義では、世帯とは同一住居・同一生計の集まりのことであり、同じ家族に属していても単身赴任や進学などで別居している場合は別世帯となる。
 また逆に、家族でなくとも同一生計で同居している親族や使用人は世帯に含まれる。

 ▼家族の持つ機能

 ★家族が持つ機能と変化

 ●性的機能
 [以前]
 結婚制度に基づいて、パートナー内では許容されるとともに、その外側においては性を禁止する秩序機能

 [現在の変化]
 同棲、未婚の母、事実婚

 ●生殖機能
 [以前]
 子孫を残す

 [現在の変化]
 子供を持たないとの選択

 ●扶養機能
 [以前]
 老人介護、子供の面倒を見る機能

 [現在の変化]
 介護施設、保育園

 ●経済的生産的機能
 [以前]
 農業・自営業など、共同単位として経済的生産を行う

 [現在の変化]
 会社・工場など外部での経済的生産

 ●保護機能
 [以前]
 外敵からメンバーを守る(とりわけ女性、乳幼児、病人)

 [現在の変化]
 警察、病院など

 ●教育的機能
 [以前]
 子供を育てるとともに、社会に適応した人格を形成する

 [現在の変化]
 幼稚園、学校など

 ●宗教的機能
 [以前]
 宗教、文化、伝統の継承

 [現在の変化]
 宗教が軽視される傾向

 ●娯楽的機能
 [以前]
 家庭内で娯楽を楽しむ

 [現在の変化]
 遊園地、映画など

 ●社会的地位付与機能
 [以前]
 親の職業や地位を引き継ぐ

 [現在の変化]
 世襲の弱体化

 上記のように、かつて家族は社会の基礎構成単位として広汎な機能を持っていたが、社会の発達による機能分化に伴って諸機能が外部化され、家族の機能は大幅に縮小しつつある。
 一方で、生産機能は失ったものの生活共同体としての家族の機能は失われているわけではなく、
 また教育的機能についても学校などの外部教育機関で長期間の教育が不可欠となる一方、子育ては依然として家族の中心的機能の一つであるばかりか、一家族あたりの子供の数の減少に伴い、家族内での比重はむしろ増しつつある。
 現代家族の機能については性的機能・生殖機能・教育的機能・経済的機能の4つに限定するものから、さらに縮小した機能を想定するものまでさまざまな理論が存在する。

 ▼ライフサイクル

 家族にもライフサイクルがあり、そのステージに応じて達成すべき発達課題がある。

 ★家族のライフサイクル

発達段階

 1 どの家庭にも属さない、
  ヤングアダルト
 〈発達課題〉
 ・家族から分離して自己を確立する
 ・親密な同年代と仲間関係を持つ
 ・職業上で自己を確立する

 2 結婚による家族の誕生
 〈発達課題〉
 ・夫婦関係を形成する
 ・互いの実家、友人関係と関係を再構築する

 3 幼い子供を持った家族
 〈発達課題〉
 ・子供たちのために、夫婦は心理的物理的空間をつくる
 ・親としての役割を務める
 ・祖父母=孫関係を含めた拡大家族を構築する

 4 思春期の子供を持った家族
 〈発達課題〉
 ・子供らが家庭の内外を自由に出入りすることを受容する
 ・中年夫婦は、夫婦関係、人生職業上の課題を乗り越える
 ・老年世代を配慮する

 5 子供たちの脱出と出立
 〈発達課題〉
 ・夫婦関係を再構築する
 ・成長した子供たちと父母は、互いに大人同士として付き合う
 ・義理の子供と孫たちを含めた拡大家族を再構築する
 ・父母は、祖父母の心身の障害、死別に対応する

 6 人生の晩年を送る家族
 〈発達課題〉
 ・社会的・肉体的衰退に対応し、夫婦関係を再構築する
 ・中年世代へ、中心的な役割を譲り渡す
 ・年長者としての知恵と経験を活かし、孫たちに対してよい祖父母になる
 ・配偶者、同胞、同世代の仲間の死別に対応する

     〔ウィキペディアより引用〕




CTNRX的文化人類学 ー 未来家族 [前編]ー

2023-08-06 21:00:00 | 自由研究

 ■文化人類学は心理学と関わりが深い学問なのです。

 いったいどんな学問なのでしょうか。

 もともと文化人類学は、欧米の人類学者が遠い外国の奥地を訪れて、文化を観察し記述するところから始まりました。
 欧米の人類学者たちが驚いたのは、「未開」だと思っていた地域にも独自の社会システムがあり、欧米とはまったく異なる方法で、実にうまく機能している、ということでした。
 そのなかで、いろいろな地域の人たちがそれぞれどのような心性をもつか、子どもたちはどのように育てられるか、などの比較研究がなされていきます。
 人類学者たちは次第に、自分たちの文化に対しても目を向けるようにようになります。
 外国の文化を観察するのと同じ目線で、自分たちの文化を見つめ直すようになったのです。
 そうすることで、今まで当たり前すぎて意識もしなかった自分たちの風習や日常的な行為が、実は当たり前のことではなかった、と気づくようになります。 
 現在、文化人類学は、世界中のあらゆる現象を研究対象にしてます。
 私たちが普段なにげなく通り過ぎている学校や公園、ショッピングモールでさえ、面白い研究ネタがたくさん転がっており、実際にそのような場所で現地調査をしている人たちもいます。
 日常の「当たり前」を一歩引いたところから眺める目を養ってくれる学問、それが文化人類学です。

 ■文化人類学を通じて
      家族に関する心理を問い直す

 総合心理学部で学ぶ文化人類学では、主に、家族に焦点をあてていきます。
 みなさんのなかには、今まで心地よい家族生活に恵まれつきた人もいれば、家族関係に苦しんできた人もいるでしょう。
 その心地よさ、あるいは苦しさは、個々人の問題にとどまらず、おそらく社会的・文化的に作り出されてきたものです。
 社会や文化、時代によって、理想とされる家族のありかたは異なり、そこにあてはまるかどうかで、心地よさや苦しさが大きく左右されてくるからです。
 一般的に家族の「病理」や「崩壊」と呼ばれるような現象に陥ると、私たちは苦しみます。
 しかしそのような現象だって、もしかしたら海外では「病理」でも何でもなく、ごく当たり前の家族のありかたかもしれません。
 いったん自分の「常識」の外に出てみること、他の社会や文化のありかたを参照しながら、自分の心地よさや苦しさをもっと広い文脈でとらえ直してみること。
 そのようなスキルをみにつけておけば、困難に対しても柔軟に対処することができます。
 
 ■日本でいう「家族」ってどんなもの?

 一般的な家族構成と言えば、みなさんはどんなかたちが思い浮かびますか?モデル的によく表されるのは、両親とその子どもだけで構成される“核家族”です。
 しかし、松尾先生が示されたデータ(平成22年度国勢調査)によると、全国に単独世帯は約1万7000世帯あり、これは全世帯の32.4%を占めるそうです。
 一方で標準的と考えられている夫婦と子どもからなる世帯は27.9%であり、実は単独世帯の方がかなりおおいのです。
 しかも、この27.9%の中には、30歳〜40歳の未婚男女とその親という世帯も増えていて、世帯構成だけでなく核家族の内実も変わってきています。

 ■文化人類学における家族の定義

 家族って何?と聞かれたら、みなさんはどう答えますか?
 私にとって家族ては、どんなにぶつかってもいつかは帰る場所、でしょうか。
 文化人類学では、アメリカの有名な文化人類学者GPマードックが1949年に発表した著書「社会構造」の中で、家族はこう定義されています。
 「居住の共同、経済的協働、生殖によって特徴付けられる社会集団」簡単に言うと、「住むところや家計をともにし、子どもを産み育てる人たちの集まり」です。
 マードックはこの定義のもと、核家族があらゆる家族の形のベースにあると唱えました。
 複数の婚姻関係を持つ家族や複数世帯がともに暮らす拡大家族なども、核家族が組み合わさったものであるという考え方です。

 しかし、その後の調査研究により、実際はその枠にとらわれない多様な家族のかたちがあることがわかってきており、彼の唱えた説はいまでは主流ではなくなっているそうです。

 ▼インド・ナーヤルの母系家族では、多様な家族のかたちとは一体どんなものなのでしょうか?

 松尾先生は、日本の一般的家族観と異なる3つの事例をご紹介してくださいました。

 一つ目は、インド南部のある地域におけるカースト(身分階級)のナーヤルという人たちです。

 ナーヤルは貴族などのクシャトリア階級に属するカーストです。
 ナーヤルでは、「母」を中心に家系が存続します。
 ナーヤルの女性は、初潮を迎える頃、儀礼的に夫を持ちます。
 わずか10歳〜12歳くらいで結婚をするわけです。
 そうすることで、女性はナーヤル社会の中で一人前に扱われるようになります。
 その後、儀礼的な夫とは別に、複数の男性を通い婚の夫として迎えることができます。
 通い婚の夫は、夜に女性の家に行き、朝には帰るという関係を築きます。

 そこで子どもが生まれると、その子どもは女性の家、つまり母親の家に属し育てられます。

 おもしろいのは、その子どもを教育あるいは扶養する義務を負うのは、その女性の家にいる男性、つまり母親である女性の兄弟なのです。
 儀礼的な夫、通い婚の夫は一切そうした義務をもちません。
 それどころか、権利さえないのです。例えば通い婚の夫が、血のつながった自分の子どもにおこずかいをあげたりプレゼントをしたりすることはできません。
 なぜなら、その夫がもつ財産はすべて、夫の姉妹の家族が握っており、姉妹の子どもを育てるために使われるべきだからです。

 日本とはまったく異なる特徴的な家族形態ですね。
 いわゆる嫉妬心などが起こらないのか、それとも解消できる何ががあるのかが気になりました。
 しかし、ナーヤルの家族形態がインドにおける民法にそぐわないという実態から、現在ではこうした家族のかたちは減ってきているそうです。

 ▼ヌアー社会の幽霊婚

 2つ目は、アフリカは南スーダン共和国のヌアー族です。

 彼らの結婚は、男性から女性へ牛を贈ることにより成立します。しかも、とても驚いたのは、例えば未婚のまま亡くなってしまった男性でも、その男性の代わりに家族から女性に牛が贈られれば、結婚が成り立ってしまうということです。
 つまり、その女性は亡くなった男性(以下「死亡夫」)と結婚するわけです。これを幽霊婚と言うそうです。
 そして、結婚後にこの女性が他の男性との間に子どもをもうけた場合、その子どもは死亡夫の正式な子どもとして、死亡夫の家族に属します。
 こちらも日本の一般的な家族観とはまったく違う社会です。
 生まれてきた子どもは、死亡している父と生物的父の存在をどのように捉えるのでしょうか。
 やはり、心の面がきになってしまいます。

 ▼ミクロネシア・ヤップ島の親子関係

 そして最後、3つ目はミクロネシア連邦のヤップ島というところです。

 ヤップ島の家族は父方の家系が軸となり、タビナウと呼ばれる土地や家がとても重要視されます。
 また、子どもは、父方の先祖の霊、すなわち精霊のはたらきによって母の体内に宿ると考えられています。
 なんだか「こうのとり」を思い浮かべてしまいます。
 母と子は「出産」によって親子というつながりを築きますが、父と子は同じ精霊のもとに生まれたという考え方によってつながっています。
 子どもが育つ過程で、いかに父親に従順に尽くすことができるかによって親子関係を築き、またタビナウを相続していくのです。

https://secure.en.ritsumei.ac.jp/psy/〕