■アルカイダ、タリバン複雑な関係
悲劇のアフガニスタン(2)
❖ テロリズム ❖
▼歴史
古くはスパルタにおける κρυπτεια(クリュプテイア)などに例が見られる。
50年頃のユダヤではローマ帝国からの独立をめざす熱心党がテロ行為をおこなった。
スッラによるプロスクリプティオやユリウス・カエサルの暗殺事件などもテロと呼ばれることがある。
近代以降では、上述のフランス革命における革命側による恐怖政治や、王党派側による白色テロ、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件、ロシア革命での赤色テロ、
アナーキストによる黒色テロなどが有名である。
特にヨハン・モスト(英語版)の「爆弾の哲学」に影響された19世紀末のアナキスト達による一連のダイナマイトによる暴力行動では、国家権力に正面から対抗する手段を持たない政治勢力、思想集団、宗教勢力が奇襲的な殺戮行為を行うことにより、国際社会や外交関係といった利害を背景としてそれにつけこみ、目標国家に政治的打撃を与え、政治的主張を受け入れさせることが主流となった。
20世紀では、スターリン主義による大粛清、ナチズムによる水晶の夜事件がなどが発生した。
また第二次世界大戦後では冷戦や民族自決運動の高まりによる各種の事件、1970年代にはパレスチナ問題を背景としたPFLP旅客機同時ハイジャック事件や、新左翼系のドイツ赤軍、日本赤軍、赤い旅団などにより、従来の紛争地域以外を含めた国際的なテロ事件が多発した。
1980年代以降は、市民をも攻撃対象とする無差別テロが増加してきている。
冷戦後から、兵器販売の自由化が始まり、軍の払下げ品などの出回った火器がテロリストの手に渡るようになり、国際的なテロ事件が増加するようになった。
特に、1990年代初頭からのイスラム過激派の台頭は目覚ましく、2001年9月11日にはアルカイダの手によってアメリカ同時多発テロ事件が起こされるに至っている。
テロリストによる破壊活動の拡大を防ぐため、対テロ戦争が行われているが、以後もISIL等のイスラム過激派の新興組織は現れており、1国の首脳が「戦争行為」と非難する程の大規模な攻撃が行われ続けている。
2010年代末になっても、イスラム教の文化の侵害を理由としてアメリカとアメリカ同盟国を敵視するイスラム過激派と、破壊活動の被害者であるアメリカとアメリカ同盟国の泥沼の戦いが続いている。
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※“アフガニスタン紛争”を綴る前に、アフガニスタンとは、どういう国なのかを綴らせて貰います。
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❖ アフガニスタン
歴史と変遷 ①❖
アフガニスタンは
今現在の名称は
“アフガニスタン・イスラム首長国”
2021年までの正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国であったが、政府は同年8月15日にターリバーン(タリバン)の攻勢によって事実上崩壊した。
同年8月19日、ターリバーンのスポークスマン、ザビフラ・ムジャヒドはTwitterでアフガニスタン・イスラム首長国
(パシュトー語: د افغانستان إسلامي امارت)、
(英語: Islamic Emirate of Afghanistan)
が成立することを宣言した。
アフガニスタン・イスラム首長国は中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。
現在はターリバーンによる暫定政権が築かれている。
東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東ではワハン回廊で中国と国境を接している。
多民族国家で、周辺国と民族やイスラム教宗派でつながりが深いパシュトゥン人、ウズベク人、タジク人、ハザラ人などが暮らす。
中東の東端と位置付けられることもある。


首都は人口最大の都市のカーブル。面積は65万2000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国となっている。
▼概要
アフガニスタンは多様かつ波乱な歴史を紡いで来た地域に建つ国家である。
少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。
9000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった。
インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書『アヴェスター』に描かれている文化と密接な関係がある鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500 - 1100年ごろ)が興った。
「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。
アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。
マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。
カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。
また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。
サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにムスリムがイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ。
その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。
現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。
1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。
1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャーワルはシーク教徒に奪われた。
19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。
1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。
1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。
1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。
しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。
1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。
1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義者のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。
2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。政府とターリバーンとの間で続いている戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させた。
一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。
2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われた。
2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン大統領府を占領、アシュラフ・ガニー大統領は国外へ亡命し、アフガニスタン・イスラム共和国政府は事実上崩壊した。
アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、購買力平価による国内総生産(GDP)は729億ドルである。
一人当たりのGDP(PPP)ではもっと低い。
現今においてはテロリズム、貧困、子供の栄養失調、汚職が蔓延しているだけではなく、頻繁な政権の奪取が行われる。
▼アフガニスタンの歴史(変遷)
《 先 史 時 代 》
アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで判明したことは比較的少ないが、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。
10万年前頃(前期旧石器時代)の石器がカズニー西方のダシュティ・ナウルで、5万年前頃(中期旧石器時代)の石器がヒンドゥークシュ山脈の北方と南方地域で、2万~1万5000年前頃(後期旧石器時代)の石器がバルフ地域で発見されている。
また、1万年前頃のものと6000年前頃のものと推定される石器がアム・ダリアの南方とフルムの北方で発見されている。
およそ1万年前には農業と牧畜が行われ、紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出され、また、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっている。
さらに、紀元前1336年にはトルコ沖のウルブルンで難破した船からアフガニスタン産と思われる錫が運ばれていたことが分かっている。
▶インダス文明
19世紀になって存在が知られるようになった。
狭義ではインダス文明は紀元前2600年から紀元前1900年の期間を指す。
滅亡には気候変動など様々な原因が考えられるが、インダス文明には他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。
ヒンドゥークシュ山脈や北部のバダフシャン地方に数は少ないが遺跡が見られる。
インダス文明
(英: Indus Valley Civilisation)
インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。
これら各国の先史文明でもある崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。
狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。
インダス文明の遺跡は、東西1500 km、南北1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600にお呼ぶ。
そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。
◆初期食料生産期
メヘルガルI期(紀元前7000年〜紀元前5500年)は、土器をともなわない新石器時代である。
メヘルガル(ウルドゥー語: مﮩرگڑھ 、Mehrgarh)は、考古学的にも重要な新石器時代の遺跡(紀元前7000年〜紀元前2500年)で、現在のパキスタン、バローチスターン州に位置する。
南アジアで最初期の農耕(小麦と大麦)と牧畜(牛、羊、山羊)の痕跡がある遺跡である。
ボーラーン峠付近、インダス川の渓谷の西、パキスタンの現代の都市クエッタの南東にある。
1974年、フランス人考古学者 Jean-François Jarrige の率いる発掘チームが発見した。
発掘調査は1974年から1986年まで続けられた。
495-エーカー (2.00 km2) の領域の北東の角にメヘルガルで最も古い居住地跡があり、紀元前7000年から紀元前5500年ごろの小さな農村と見られる。
◆領域形成期
(紀元前5500年〜紀元前2600年)
メヘルガルII期(紀元前5500年〜紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。
メヘルガルIII期(紀元前4800年〜紀元前3500年)は、銅器時代後期である。
メヘルガルⅣ期(紀元前3500年〜紀元前2600年)で集落が放棄された。
ハラッパーI期(紀元前3300年〜紀元前2800年、ラーヴィー期には、パンジャーブ地方のラーヴィー川河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。
それに続くハラッパーII期(紀元前2800年〜紀元前2600年)は、シンド地方でコト・ディジ文化が始まった。
◆統合期
(紀元前2600年〜紀元前1900年)
狭義のインダス文明はこの統合期を指す。
ハラッパーIIIA期(紀元前2600年〜紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450年〜紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200年〜紀元前1900年)の三期に区分される。
◆滅亡
インダス文明の衰退や滅亡については次のような諸説がある。
❒砂漠化説
インダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。
インダス文明が消えたのは、この砂漠化によるのではないかという説がある。
砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。
大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。
しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、という説である。
衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。
インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行したという説もある。
しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。
❒河流変化説
紀元前2000年頃に地殻変動が起こり、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説。
インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。
❒気候変動説
気候変動によってインダス文明が衰退したとする説である。
4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。
こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。
2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。
また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。
これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。
また、インダス文明期には、海面が現在よりも2 mほど高かったという調査がある。
これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる。
そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。
後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
❒アーリア人侵入説
インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、第二次大戦後にはM.ウィーラーによるアーリア人侵略説をはじめとする外部からの侵略説が唱えられた。
発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。
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※アーリア人
(英: Aryan, 独: Arier, サンスクリット語: आर्य, ペルシア語: آریا )
民族系統の呼称。
広義と狭義で対象が異なり、広義には中央アジアのステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループを指し、狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。
前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。
その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり、彼らはアーリア人の末裔である。
また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。
この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。
アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。
このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。
これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
・狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)
✔イラン・アーリア人
・広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念)
✔インド・アーリア人
✔狭義のアーリア人
✔ペルシア人
✔パシュトゥーン人
✔タジク人
✔北インド諸民族
最広義のアーリア人
(アーリアン学説におけるアーリア人種)
✔インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫
広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。
ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。
パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。
現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。
これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。
ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。
尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムやナチズムと結びつき、人種差別や優生学を生み出した。
しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。
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❒核戦争説
これはインダス文明は核戦争により滅んだという説である。
理由はいくつかある。
インダス文明の中心遺跡モヘンジョ=ダロは「死の丘」を意味している。
ここで何かがあったと推測でき、遺跡の近くの人骨からは通常の約50倍の放射能が検出された。
また、1945年にアメリカの核実験によってできた人工鉱物の「トリニタイト」が遺跡の近くで発見され、また、遺跡の建物などからは一瞬で超高温の炎を浴びた痕跡が発見されて、核爆発があった証拠であると主張されている。
◆滅亡後の地方化期
(紀元前1900年〜紀元前1300年)
ヴェーダ期(紀元前1700年〜紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化(英語版)となった事を示す墓地が発見されている。
この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年〜紀元前500年)が形成されたと考えられている。
ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。
この文化と同時期に栄えた赭色土器文化は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。
◆十王戦争から十六大国まで
(紀元前12世紀〜紀元前6世紀)
十王戦争
(サンスクリット語 दाशराज्ञ dāśarājñá)
『リグ・ヴェーダ』に描かれる時代の古代インドにおいて、インド・アーリア人を中心とした諸部族の間で勃発した戦争である。
この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。
アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。
またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、この文化は南から北へ拡大しておりBMACより北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。
またサリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。
またジェームズ・マロリー(英語版)はヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。
▶オクサス文明
オクサス文明はバクトリア・マルギアナ複合と呼ばれ、アフガニスタンでは北部のアムダリヤ川上流周辺がオクサス文明地域にあたる。
オクサス文明の発見は比較的新しい。メソポタミア文明、インダス文明などの他文化との関係、アーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目される。
〔ウィキペディアより引用〕
