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言の葉辞典 『粧』 ②

2023-09-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『粧』②

 《化粧の心理作用》

 化粧の内容にも左右されるが、一般的な化粧によって得られる心理的効果には自尊心の向上と、社会的な幸福感がある。
 化粧することによって自分の身体的問題点をカバーし、自己呈示したい特徴を増強することで、自己評価を高めるとともに社会的積極性を高めることになる。
 化粧の作業には適度な緊張が生じることから気持ちの切り替えがしやすく、鏡に向かうことによって自己意識や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある。
 また、うつ病や老人性認知症などの患者に対して化粧指導することで、平板化した感情を活性化し、社会復帰を促す効果が示されている。
 化粧行動は他者や世間への関心を前提として、自分の印象を管理することで関係の調和を図り、社会的承認欲求を満たすことが基本的な動機となる。
 また、入念な化粧をすることで、変身願望や若返りといった自己満足を達成する意味もある。
 化粧による自己満足感は年代的には30代後半で特に多く認識されており、その後はしだいに習慣性のものと認識される傾向がある。

 《日本の化粧文化史》

 日本の化粧文化史(にほん の けしょうぶんかし)

 日本における化粧にまつわる文化史について解説する。
 なお本記事での「化粧」とは、広義の「顔を中心とした装い」(白粉・口紅などの化粧品を塗る狭義の化粧(メイクアップ)のほか、洗顔・スキンケア・アンチエイジングなどの美容、眉などの毛髪処理、入墨・抜歯などの身体加工)とする。

 人類が化粧をするのは、美しくなりたいという本能的な要求のほか、目や肌の保護といった実用的な機能、特定の集団への帰属・身分や階級の表示、年齢や未既婚の表示、宗教・呪術的な目的などが複雑に絡み合っている。
 そのような意味で、化粧は社会を映す鏡でもある。
 日本における化粧は、先史時代に行われていた赤の化粧までさかのぼる。
 飛鳥時代に大陸文化が伝来するとその影響を受けて化粧も大陸風に様変わりした。
 平安時代中期になると国風文化とともに化粧も独自の発展を遂げた。この頃に成立した白(白粉)・赤(口紅・頬紅)・黒(お歯黒・眉墨)の三色を基本とした伝統的な化粧は、身分などを区別する社会的機能を負いつつ江戸時代まで継続する。
 近代には政府による近代化政策の一環として化粧も欧化が推進され、また科学技術の発展と共に近代化粧品が生産されるようになった。
 とくに庶民においては太平洋戦争後に急激に欧米化が進み、平成時代まで至っている。
 とくに大きな目を好む美意識には欧米化の影響が強く見られるが、一方では伝統的な美肌へのこだわりも健在だと指摘されている。

 ▼先史時代

 縄文時代の化粧を考察する手がかりとなるのが土偶を始めとした遺物であるが、これらは女性像と考えられているため男性の化粧については明らかではない。
 大塚和義は、土偶に見られる化粧を5つに分類している。まず縄文中期からみられる、眼を起点にして2条の線刻を頬に表現するもの・頬全体を中心に沈線をほどこすもの・左右非対称の沈線がほどこされるものの3つは、入墨である可能性が高いとしている。
 次いで縄文後期以降には、眼の縁・口辺部・額・顎などに赤色塗料を塗ったものが現れる。最後に縄文時代晩期に2条の沈線を口辺部を中心に頬や額に施文するもので、この化粧は弥生時代へと引き継がれるとしている。
 赤は太陽は血液を連想させることから、呪術的な意味を持つ神聖な色であったと考えられ、これを顔や身体に塗ることには魔除けの意味があったと考えられる。
 赤の化粧は古墳時代まで継承されてゆく。

 《飛鳥時代から奈良時代》

 弥生時代の化粧については『魏志倭人伝』に記される「男子は大小となく、皆黥面(顔に入墨)文身(体に入墨)する」「朱丹(しゆ)をもって身体に塗る、中国の粉を用うるがごときなり」や「黒歯国あり」の記述がある。
 鯨面は魔除けなどの宗教儀礼、あるいは所属する集団を表示する機能を持っていたと考えられる。
 鉄漿(かね。いわゆるお歯黒)の起源は解らないが、南方系の文化の伝来、インド発祥が中国・朝鮮半島を経由して伝来、日本発祥などの説がある。
 古墳時代では目のまわりや頬に赤い彩色を施す人物埴輪が男女とも確認されている。
 この赤色顔料は水銀朱やベンガラ(酸化鉄)である。いっぽうでヤマト王権の支配地域を中心に入墨の風習は廃れていった。『日本書紀』では、熊襲や土蜘蛛など中央政権にまつろわぬ集団が入墨を施すことを異習と見なしている。
 また、先史時代に特徴的な風習に抜歯がある。日本の抜歯風習は、縄文時代中期に始まり古墳時代まで継続するが、その理由は時代により変遷すると考えられている。
 春成秀爾は、縄文時代の抜歯は成婚の際に行われ、抜く歯の位置により出身地を表示する意味があったとしている。また弥生時代には上顎側切歯を抜歯する大陸風抜歯が流入し、渡来系と縄文系を区別する標識となったとする。

 大陸の化粧文化は、遣隋使によって日本にもたらされたと考えられている。
 大陸の化粧をすることができるのは女官など一部の女性だけであったと考えられ、身分を表示するステータスシンボルであったと考えられる。
 白粉に関する最初の文献資料は『日本書紀』持統6年(692年)に渡来僧の観成が初めて鉛粉(えんぷん)を作って持統天皇に献上したとする記述であるが、これ以前には貝殻の粉や米の粉を原料にしていたと考えられる。それゆえ付きや伸びの優れた鉛白粉(なまりおしろい)はとても喜ばれたと記録されている。
 この頃の化粧を示すものに、高松塚古墳壁画に描かれる女子群像があるが、それによれば細い眉に口紅を付けている。 
 また、東壁に描かれる男性像も口が赤く塗られている事から、男性も口紅を付けていた可能性がある。
 なおエジプト原産のベニバナが日本に伝来したのは3世紀頃と考えられている。
 奈良時代は遣唐使により唐風文化が流入した時期で、化粧にもその影響が色濃く窺える。正倉院宝物の『鳥毛立女屏風』は日本で描かれたものだが、描かれる女性の唇と頬は赤く染められ、弓なりに整えた眉に、額には花鈿(かでん)・唇の両端にはえくぼ状の靨鈿(ようでん)と呼ばれるポイントメイクを施している。
 こうした特徴は、唐代の墳墓に描かれる絵画と同じである。
 眉の形状については『万葉集』にも「三日月の眉根」「柳の眉し」などの表現が見られ、薬師寺『吉祥天像』に見るような長く弧を描いた形が好まれていたと考えられている。

 《国風文化から中世》

 ▼平安時代の女性

 平安時代中期になると、唐文化は日本的な文化へと転換されていった。化粧は依然として貴重品であり、これを用いるのは貴族階級に限られる。昼でも薄暗い寝殿造で、人とは御簾越しに面会するという生活スタイルは、女性の化粧にも影響を与えたと考えられる。
 また『堤中納言物語』では、眉毛を抜かずお歯黒もしない虫めづる姫君を変り者扱いしており、年頃(10歳前後)になった女性が化粧をしないことを非常識と認識していた。
 具体的な化粧としては、とくに美しさの象徴とされていたのが『源氏物語』の描写にも「白う美くしう」「御色はいと白く、光るやうにて」などと形容される、肌の白さであった。
 このような価値観は、白い肌が労働をしない高貴な身分の象徴であったためだと考えられている。
 また洗顔に用いられたと推測されている『延喜式』に記される澡豆(そうず)や皂莢(さいかち)、スキンケアに用いられたと推測されている『江家次第』に記される面脂(めんし)、現在の美肌サプリメントに相当するような内服薬が『医心方』巻四に記されるなど、美肌に対する関心の高さを窺うことが出来る。
 このような肌に対する美意識は現代まで連綿と続き、西洋とは異なる日本の化粧文化の特徴となっている。
 また黒の化粧では、紫の君は源氏の指示によって毛抜きで眉を抜き眉墨で新たに眉を引いてお歯黒をすると記されている『源氏物語絵巻』などに描かれる女性は眉は太く直線的な形が特徴で、奈良時代までの唐風とは異なっている。
 また眉は本来の位置よりも上に描かれた。その理由については「眉に感情が現れないように」や「ふくよかで平面的な印象をつくるため」などの理由が推測されている。

 いっぽうで平安中期では紅についての表現が少ない。『倭名類聚抄』ではお歯黒・眉墨・白粉は記載されるが、口紅についての記述はない。また『源氏物語』では田舎者で教養の無い女性として描かれる近江の君が「紅といふもの、いと赤らかにかいつけて」と形容されており、紅を濃くつけるのは品位に欠ける化粧だとされていたと考えられる。
 しかし時代が降ると美意識が変化したようで、『久安四年記』(1148年成立)には「女房の紅つくる様は面さきは赤く、囲りはにほいざまに淡く色をつく」などと説明しつつ「今と昔では化粧が違う」と記されており、平安後期には頬紅を付けるようになったと考えられる。
 赤・白・黒の三色を基本とする伝統的な化粧はこの頃に成立し、江戸時代までつづけられた。

 ▼中世の女性

 中世には化粧は礼法として形式化されていった。礼法としての化粧は公家から始まった。『建内記』には、万里小路時房が娘の成人儀式の際にお歯黒を3筆付け、母親が眉を抜いたと記されている。
 礼法としての化粧は幕府の奥女中にも取り入れられた。室町時代中期の礼法を記す『大上臈御名之事』によると、お歯黒は9歳、15,6歳から眉を作るとされる。
 この頃の化粧を良く残すと考えられているのが、能面の小面や孫次郎である。白粉を塗った白い肌と赤い紅をさした唇、歯にお歯黒を付ける。
 眉は自毛を抜いたうえで、平安時代よりもさらに高い位置でほぼ額の生え際により太い眉を描くようになった。
 なお日本の伝統的化粧では、目は小さく細い方が良いとされていた。
 ルイス・フロイスは、西洋の大きな目を美しいとする美意識との違いに驚き「日本人は涙の出る部分が閉ざされているのを美しいとする」と記録している。
 このような化粧は、支配者階層以外にも少しずつ浸透していったと考えられている。
 『七十一番職人歌合』では、紅(紅粉解)や白粉(白物売)を売る姿が描かれており、庶民もハレの日には化粧をするようになっていったと推測されている。
 また、この頃の武家から定着していった嫁入り婚では、嫁入り道具として化粧道具を持参するようになった。
 現存最古の化粧道具は、三嶋大社に北条政子が奉納したと伝わる梅蒔絵手箱で、中には鏡・鏡箱・白粉箱・歯黒箱・薫物箱・螺鈿櫛・銀軸紅筆・銀挟などが収納されている。
 嫁入り道具としての化粧道具は、江戸時代まで継続した。

 ▼男性の化粧

 編集 『枕草子』に髭を整えていない男性は見苦しいと記されているように、男性は髭を優雅に整えていた。
 平安後期になると、男性も化粧をするようになる。
 江戸後期に成立した『貞丈雑記』には、鳥羽院のころに源有仁が女性を真似て始めたと記されており、男色と関連付ける説がある。
 公家では男性の化粧が明治初期まで継続した。
 平安末期には武家も化粧をするようになったようで、『平家物語』では平敦盛は薄化粧にお歯黒をした姿で描かれる。また平忠度は源氏がしていないお歯黒をしていたために討取られたと記されている。
 室町時代には男性の化粧は通過儀礼となり、公家や武士は元服の前にお歯黒をつけ眉毛を抜いて眉墨で眉を作る儀式を行った。
 『春日権現験記絵』などの中世絵巻物では、白い肌に太く楕円形な眉を持つ男性貴人が、庶民と区別されて描かれており、身分を表示する意味合いに変わっていったと考えられる。
 とくに武士の化粧は、髭をもつことが豪気・勇敢な姿とされ習慣化していく。
 化粧をすることは権力者にあっては『蜷川親元日記』の第9代将軍足利義尚や『太閤記』の関白豊臣秀吉の例にみられるように、自らの権威を誇示する役割があったと考えられ、いっぽうで家臣にとっては『日新菩薩記』や『北条五代記』にあるように欠かすことができない身だしなみ、もしくは忠義の証とされた。
 また戦国時代の武士の化粧は、討取られた首が見苦しくないようにとする説もある。

 《江戸時代》

 ▼上流階級の化粧

 江戸時代になると儒教、とくに朱子学が官学となり、武家の化粧文化にも影響を及ぼした。
 上流階級の女性の化粧は礼法書に体系化されて大名家ごとに流派が生まれた。なかでも眉化粧は重視され、身分階級などを表示する役割を負った。
 そのためある年齢になると、女性は眉をそり落として決められた形の眉を決められた場所に描いた。
 また武家女性の化粧は濃くなっていく傾向があったが、これは女性が表情を出さない事が美徳とされていた為と考えられる。
 しかし享保の改革など度々の倹約令で薄化粧が奨励される事もあった。
 例外が江戸城の大奥で、天保の改革でも出費の削減に強く抵抗した記録があり、幕末まで濃い化粧が続けられた。
 男性は公家や歌舞伎役者など一部を除くと化粧をしなくなる。
 武士が化粧をしなくなる理由については定かではないが、戦乱が終わり合戦の身だしなみとしての化粧をしなくなったとする説や、朱子学の影響で倹約を美徳とするようになったことが関係したと考えられている。
 また武士は髭も剃るようになるが、その理由について『落穂集』は土井利勝が似ていると言われた徳川家康に配慮して髭を落としたことが始まりと記している。
 いっぽうで公家は男女とも、明治時代まで白粉・お歯黒・置き眉などの化粧を続けていった。

 ▼町人への波及

 庶民もまた衣食住が身分相応であることを求められたが、17世紀末から18世紀初頭にかけて上方で元禄文化が興って町人女性も化粧をするようになった。
 文政期には江戸でも町人が化粧をするようになり、やがて化粧は女性が学ぶべき知識や礼儀作法に位置づけられていった。
 『女鏡秘伝書』(慶安3年・1650年)や『女重宝記』(元禄5年・1692年)など、江戸前期に成立した女性向けの教養書では、言葉遣いや衣服の選び方などと共に白粉・紅・眉・際化粧・お歯黒などの化粧方法が記されている。
 こうした資料によると、当時の化粧は1日も欠かすことができない女性の身だしなみとされる一方で、厚化粧は戒められていた。
 ただし地域差もあったようで、『守貞謾稿』には上方の化粧は江戸よりも濃いなどと書かれている。
 やがて黒の化粧は、社会的属性を表示する役割を持つようになった。江戸中期には結婚や出産などの通過儀礼と結びつき、歯が白いのは未婚、お歯黒をしていれば既婚、眉を剃っていれば子持ちなどの化粧が慣習となった。
 また庶民は眉を剃っても眉墨で描かず、身分差を表示する意味もあった。眉を剃ると老け顔になるため、懐妊した女性の心境は複雑であったようである。
 しかし江戸後期になると女性が化粧をする目的は、身だしなみを建前にしつつ美しさへの希求へと変化する。江戸時代を代表する美容書として長く出版された教養書『都風俗化粧伝』(文化10年・1813年)では、「たちまち美人になる」などのフレーズと共に、顔だちの欠点をカバーする化粧や流行の化粧、美白スキンケアまで幅広く記載されている。

 ▼江戸時代の化粧

 江戸時代でも白・赤・黒を基調とした伝統的化粧だが、やはり白い肌へのこだわりが窺える。『都風俗化粧伝』で最初に記載されているのが美白スキンケアに相当する記述で、漢方薬や顔料を混ぜて作る複雑なものから庶民でも手に入る材料で作るものまで様々なスキンケア用品や洗顔料の処方のほか、ニキビ・疱瘡・あばた・たむしなどの肌トラブルに対する薬の処方から、洗顔方法まで収録されている。
 白粉は化粧水や鬢付け油を付けた上に、水で溶いた白粉を伸ばした。白粉を塗るのは顔だけに限らず、デコルテから耳やその後ろにまで及んだ。
 江戸時代の美しさの条件は鼻筋の通る「中高の顔」とされ、『都風俗化粧伝』では白粉の濃淡によってハイライト効果を狙う化粧も紹介されている。
 また小さい目を美しいとする美意識も健在で、『都風俗化粧伝』にも様々な修整化粧が紹介されているほか、スウェーデン人のツュンベリーは『江戸参府随行記』に大衆がヨーロッパ人の大きな目を見て驚き「オランダ大目」と叫んだと記している。
 お歯黒は貞女のあかしとされ、厚化粧が非難される時代であってもムラなく濃くつけるのが良いとされていた。江戸中期には原則として結婚に前後してお歯黒を染めることが多くなるが、例外や地域差も多い。
 遊女や芸者もお歯黒をするが、江戸では吉原の遊女だけがお歯黒をして、芸者や岡場所の遊女は染めなかった。
 しかし、上方ではあらゆる遊女・芸者がお歯黒をした。また、一般の未婚女性でも婚期を逃すと世間体のためにお歯黒をした。

 江戸時代でも独特な化粧が流行したのが文化・文政期である。この頃に遊女が始めたといわれる化粧が「笹色紅」である。笹色紅は高価な紅を下唇に濃く重ね塗り、緑色の光沢をだす贅沢な化粧で、大奥でも流行し庶民の女性も墨や油煙を下塗りするなどして真似た。
 しかし、天保の改革による奢侈禁止令の影響で廃れてしまい、大奥以外では紅は再び薄くつけるようになった。

 ▼化粧品産業のはじまり

 元禄期になると、様々な化粧品が安定して市場に供給されるようになり、庶民の手に届くようになった。
 元禄期の化粧文化は上方で発達したと考えられるが、文政期には江戸でも化粧産業が発達していった。
 化粧品店の競争が激しくなる江戸後期には、さまざまな工夫で宣伝が行われるようになった。
 とくに流行の発信地となったのが歌舞伎や遊廓である。
 『女重宝記』には、中流以下の女性は歌舞伎の女形から流行を学んだと記されており、化粧も例外ではなかった。
 化粧は観劇のほか役者絵や版本などが情報源となったほか、歌舞伎役者が副業として化粧品店を経営することも珍しくなかった。
 『役者全書』(安永3年・1774年)には九代目市村羽左衛門・五代目市川團十郎・初代尾上菊五郎など当時現役の役者が経営する油見世だけで13軒が記されている。
 様々な広告戦略を展開したのが、「美艶仙女香(びえんせんじょこう)」を販売した坂本屋である。
 坂本屋は絵師や戯作者に依頼して、美艶仙女香の名前などを錦絵や読み物に登場させ、さらには歌舞伎役者の台詞で商品名を言わせることもあった。
 なお江戸時代から2010年代現在まで続いている老舗化粧品店には、柳家と伊勢半がある。

     〔ウィキペディアより引用〕


 

言の葉辞典 『粧』 ③

2023-09-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『粧』 ③

 《近代》

 ▼明治の近代化と化粧

 明治時代になると、政府は近代化を推進するなかで化粧を含む風俗の西洋化を推し進めた。
 その理由は、来日した外国人の目に日本で独自に発展した化粧文化は非文明的に映っていたからである。
 イギリス外交官のラザフォード・オールコックは「日本の女性は、あらゆる女性の中でも人工的な醜さの点で抜きんでている」と記している。
 明治政府は、まず男性を対象に伝統的な化粧を止めさせた。
 慶応4年(1868年)に、公家の男性にお歯黒と置き眉をしなくてよいという主旨の布告を発した。
 しかしこの布告には従わないものが多かったようで、明治3年(1870年)にはこれから元服する華族に対してお歯黒と置き眉の禁止令を発布した。
 1873年には、宮内省が皇太后や皇后が黛や鉄漿を止めたと発表し、これを受けた華族の女性も伝統的な化粧を止めたと言われている。
 以上のように、化粧の西洋化は外国人と出会う機会が多く、洋服を着る機会がある上流階級を中心に始められた。
 いっぽうで明治4年(1871年)ごろには、民間の女性にも伝統的な化粧を止めさせようという声が福澤諭吉を始めとしてあがったが、政令の発布などには至らなかった。
 特に地方ではお歯黒の風習が根強く、1893年(明治26年)に和歌山市で行われた調査では既婚女性のおよそ70%がお歯黒をしていた。こうした需要に答えるように、大阪益田第一堂の「ぬれからす」を始めとして、水に溶かすだけで黒く染まるインスタントお歯黒が開発され昭和初期まで発売されていた。
 また眉ぞりも地方で根強く続けられた。『化粧かゞみ』(1907年・明治40年)には、都市の下層女性や地方ではお歯黒や眉ぞりが多数であると記されている。
 なお、ベストセラーとなった江戸時代の教養書『都風俗化粧伝』は、大正時代まで発刊され続けている。

 伝統的な化粧を止めた女性であっても眉墨を用いる眉化粧は続いた。
 明治30年代に入って鉛筆を使った眉描きが行われるようになり、若い女性の間では太眉が流行した。
 この頃、日本初の美人コンテストで優勝した末弘ヒロ子や美人絵葉書のモデルとなった芸者には、ぽっちゃりとした顔だちに太眉で、ぱっちりとした二重まぶたが多く、近代的な美意識への変化を窺うことができる。
 近代化粧の普及を促進したのが活字メディアである。
 特に1900年代から出版されはじめた女性誌では、さまざまな美容関連の記事が掲載された。
 当時の化粧は、依然として建前として他者の目を意識した身だしなみであったが、女性誌の記事からは化粧を楽しむ女性が多いことがうかがえる。
 明治初期から次々と創刊された日刊新聞にも多くの化粧品広告が掲載された。
 『日本広告発達史』によると、明治末には化粧品広告の出稿量は売薬につぐ2位になっていた。
 またポスターなどの広告でモデルとなったのは、江戸時代から続く歌舞伎役者に加えて人気芸妓が加わった。

 ▼近代化粧品の普及

 化粧の西洋化に伴い、西洋医学や薬学を基に開発された西洋化粧品の国産化も始まった。
 スキンケア用品として化粧水やクリームが発売されたほか、コレラや天然痘が流行すると石鹸が広く普及し、大正時代までに洗顔料として定着した。
 『平尾賛平商店五十年史』によれば、明治時代の4大化粧品メーカーは美園白粉の伊藤胡蝶園・獅子印ライオン歯磨の小林富次郎商店(現・ライオン)・クリームレートの平尾賛平商店・洗粉のクラブの中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)であった。
 また資生堂薬局(現・資生堂)や長瀬商店(現・花王)の創業もこの頃である。
 近代化粧品が普及するなかでも根強く使用された伝統化粧品が紅と鉛白粉である。
 とくに鉛白粉の有毒性は一般に認知されていなかったため、1878年(明治11年)に無鉛白粉が発売されても普及しなかった。
 一般庶民が鉛の有毒性を認知するのは、1887年(明治20年)の歌舞伎役者成駒屋四代目中村福助の鉛中毒事件である。
 この事件をきっかけとして1900年には化粧品や飲食物などに鉛を利用することが禁止されたが、白粉だけは例外扱いとされ継続利用された。
 その理由は無鉛白粉の生産量が需要を満たせなかった為だとされており、完全な鉛白粉の禁止は1935年(昭和10年)を待つことになった。
 また1907年(明治40年)ごろから地肌の色に近い「肉色白粉」が普及し始めた。きっかけになったのは欧米興行を行った女優川上貞奴が色付き白粉を用いる欧風化粧を雑誌などで紹介した事だとされており、洋服を着る上流階級の女性や電灯の下で働く芸者に好まれた。
 なお頬紅を付けるようになるのも明治末からである。

 また、芝山兼太郎や遠藤波津子が「美顔術(現在のフェイシャルエステ)」を始めたのは明治末とされている。
 当時の施術は「皮膚の清潔・血行促進・筋肉の活動」などを目的とし、温タオルで温めた顔にクリームを塗り吸引カップで汚れを吸い取り、そのあと石鹸で洗顔してふき取った後でクリームをつけてマッサージをするというものであった。
 美顔術を行う理容室は庶民には高額であったが、政財界の夫人・令嬢、役者・芸妓などに利用されていたようで、1909年(明治42年)の『東京朝日新聞』は理容室の繁盛ぶりを記している。

 ▼大正から昭和初期

 日本経済が大戦景気により発展すると、購買力を持つ中間層が増えていった。
 これに合わせて化粧品の生産力も向上し、手ごろな価格の化粧品が販売されるようになった。
 とくに職業婦人と呼ばれる女性が社会進出したことで化粧する機会が増え、庶民にも洋風化粧が普及するようになった。
 『化粧品工業一二〇年の歩み』によると、1909年(明治42年)からの5年間で、化粧品の生産額は38%増と急成長した。
 各化粧品メーカーは研究所を設立し、過酸化水素・ホルモン・ビタミンなど薬効的成分を含んだ独自性のある商品を開発するようになった。
 肌質別や乳液タイプの化粧水や、日焼け防止・美白効果・毛穴引き締め効果・アンチエイジング効果を謳う商品が販売されるようになったのもこの頃からである。
 また働く女性の増加や、利便性の高い近代社会になったことで、スピード性を重視した化粧品も求められるようになったことも特徴である。
 いっぽうで白粉の「肉食」は「肌色」と言い換えられるようになり、その他さまざまな色の白粉が売り出されるようになった。
 これは政府が近代化の一環として健康な体作りを推進し、スポーツが流行したことで「健康美」という基準が加わったためだと考えられている。
 日本人女性が断髪・洋装をするようになったのは大正時代からである。特に関東大震災からの復興により近代都市に生まれ変わった東京では、モダンガールが登場してファッションリーダーになった。
 その中には、細眉、濃くつけた頬紅と口紅、アイシャドウといったポイントメイクに重点を置く欧米モダンな化粧を好む女性が現れ、保守的な人々から批判もあった。
 そのいっぽうで頬紅は健康的に見えるとされて広く流行し、大正前期には有名国内ブランドが軒並み商品を発表した。
 口紅もリップスティック状のものが登場したほか、付け方も和洋で変えるようになった。
 眉は線のように細く剃り、眉墨をつかって眉尻側をこめかみ近くまで細く伸ばす「引眉毛」が流行した。
 対してあまり普及しなかったのがアイシャドウである。
 美容家の間でも使う事に戸惑いがあったようで、早見君子は「日本人にはあまり効果がない」と評している。
 このようなポイントメイクを重視する化粧の普及により、それらの組み合わせによる自由度の高い化粧が可能になった。
 これにより他者の目を気にした横並び的な化粧から、「個人美」に代表される個性を重視する化粧へと変化していった。

 このような化粧に影響力があったのが、ハリウッド女優などが出演する映画、化粧品会社が主催する美容家の講習会、『主婦之友』などの女性誌である。とくにハリウッド映画の美容アドバイザーであったマックス・ファクター(英語版)が生み出した流行は日本まで及んでいた。
 さらに大正末期から始まったラジオ放送で美容講習が行われ、マスメディアを媒体として都市部での流行がすぐに全国に広まるようになった。

 ▼戦時下

 1937年(昭和12年)に日中戦争がはじまると戦時色が強まり、翌1938年には化粧品には物品税が課せられた。最初は10%であった税率は、戦争末期には120%まで上昇した。
 最初は自粛という形で始まった化粧の制限も、1940年(昭和15年)には『七・七禁令』の施行により定価5円以上の香水の販売が禁止されるようになった。
 1941年(昭和16年)には大政翼賛会が設けた新女性美創定研究会が戦時に相応しい「翼賛型美人」を発表した。
 その十則には「自然美」「日焼けを自慢」などの表現がみられる。ただし化粧自体が禁止された訳ではなく、実情は「個性的な美」から「身だしなみ化粧」への回帰であった。例えば戦時下にあってもクリームや乳液が主力となって化粧品の売上は下がらなかった。
 むしろ目に見えて変わったのは化粧品広告であった。1940年(昭和15年)に『化粧品営業取締法』が制定され広告規制が行われるようになると、女優をつかった広告や「おしゃれ」「ぜいたく」を連想される表現が排除され、1944年(昭和19年)までには殆どのメーカーは広告を出すことを止めた。
 また業界への原材料の配給が年々縮小されたなかで各メーカーは代用品で賄い化粧品生産を続けていたが、そうした努力も1944年(昭和19年)にはついに限界に至り、原材料不足により生産数量は1942年(昭和17年)比で約60%と一気に落ち込んだ。
 そうしたなかで、防虫軟膏や凍傷用クリームを製造したポーラ、航空機用曇り止めクリームを製造したハリウッド化粧品など、軍需関連品の製造を行った企業も多い。

 《現代》

 ▼戦後復興期

 戦時中に抑圧されていた女性は、戦後の混乱期で生活が苦しい中にあってもおしゃれを求めた。
 そうしたなかでひときわ目をひく口紅は、他の化粧ができなくてもそれだけでおしゃれをしたような気分になれる化粧品として好まれ、昭和20年代に流行した。
 しかし真っ赤な口紅をしたのが当時流行の先端でもあったパンパンと呼ばれた娼婦であったため、保守的な人々からは非難の対象にもなった。
 もうひとつ同時期に流行したのが「光る化粧」である。
 これは下地に植物油を付けた上から粉白粉をはたく化粧方で、進駐軍の女性将校の影響と考えられる。
 この流行を受けて各メーカーは油性ファンデーションを販売し、急速に普及していった。
 また白粉の色もピンク系が流行するが、これは1951年(昭和26年)に公開されたカラー映画『カルメン故郷に帰る』で撮影技術に起因して肌の色がピンク色に見えた影響だと考えられている。
 いっぽうで化粧品業界は、輸入資材や技術者の不足に加えて金詰り不況に伴う乱売による混乱により再編されていった。
 1954年(昭和29年)には、卸・問屋経由で販売していた戦前の業界大手のレートが廃業し、同年に中山太陽堂も負債を抱えて再建となった。
 いっぽうで、軍需産業から化粧品業界へ転換・新規参入や外資系日本法人が相次いだ。
 現在の業界大手であるコーセー(小林合名会社)が1946年(昭和21年)に創業し、外資系マックスファクターは1949年(昭和24年)に総代理店を開設し、鐘淵紡績も一度手放した化粧品部門を買い戻して1961年(昭和36年)にカネボウ化粧品を立ち上げた。
 また1953年(昭和28年)に『独占禁止法』が改正され、化粧品は再販指定商品となった。
 これにより販売店登録制度を導入するメーカーが相次ぎ、資生堂やカネボウのように強力な販売組織を作り上げた会社が業績を伸ばした。
 なお、1947年(昭和22年)に『医学部外品等取締規則』が制定され、化粧品は法的に明確化されて規制が開始された。

 ▼高度経済成長期

 昭和30年代になると、雑誌のカラーグラビアが増え、テレビもカラー化した。
 また岩戸景気により「消費は美徳」が流行語となり、女性は異なる色の口紅を何本も持つようになっていった。
 こうした背景からメーカーは「カラー時代」をキーワードとして販売戦略を展開し、業界の売上は前年度比で毎年2桁成長を続けた。
 なかでも1959年(昭和24年)にマックスファクターはアパレル各社と組んだマーケティングを展開し、雑誌でファッションと化粧を連動させた特集を組むなどして「ローマン・ピンク」キャンペーンを行った。
 このようなキャンペーンは各大手化粧品に取り入れられて恒例化し、次々と新しい流行色を生み出していくようになった。
 いっぽうでは、メーカーの資本力を必要とする販売方法に乗り切れない中小企業は淘汰され、また化粧品の流行の作り手は美容家から大手化粧品メーカーへと変化していった。
 この時期に口紅に続いて注目されはじめたのがアイメイクである。
 昭和30年代初めからオードリー・ヘプバーンの影響で、角度のある眉や目じりを上げた太めのアイラインが流行し始める。
 1957年(昭和32年)には『バナナ・ボート』をヒットさせた浜村美智子の褐色の肌にグリーンのアイシャドウ・黒のアイライン・濃いマスカラで目元を強調するメイクは「カリプソメイク」と呼ばれて注目を浴びた。
 カリプソメイクのような野性的な化粧は流行しなかったものの、その影響で1960年ごろからはメーカー各社がアイシャドウの新商品を次々と発表し、ブルーやグリーンなど鮮やかな色のアイシャドウが昼間に付ける化粧として紹介されるようになった。
 アイメイクは1967年(昭和42年)のツイッギー来日によって大ブームを迎え、1968年のアイメイク商品の出荷額は前年比で63%増、1969年には128%増、1970年には53%増と驚異的な成長を続けて、日常の化粧として定着していった。

 またこの頃、最新の化粧品や美容技術は常に欧米を手本としていたため、美しさの理想形も「外人顔」が基準になっていった。
 入江美樹・丘ひろみ・山本リンダなどのハーフモデルが活躍し始めるのも昭和30年代後半からである。
 こうした背景から日本人顔を立体的に修正する「立体化粧」が注目されるようになり、茶系・グレーなどのアイシャドウや頬紅を使ったり、ファンデーションの2色使いなどのテクニックが紹介されるようになった。
 いっぽうで1960年代からレジャーやバカンスといった言葉が流行し、海や山で余暇を過ごす人々が増えていった。
 そして1966年(昭和41年)に資生堂が展開した前田美波里をモデルにしたサマーキャンペーンをきっかけとして、「日焼けをした健康美」が日本でも定着した。
 これに伴ってベースメークも主流だったピンク系に加えて濃いオークル系が加わった。
 ただし白肌へのあこがれも健在で、夏には肌を焼いたとしても秋以降にはしっかりとケアするのが定番となり、フェイスパックなど美白スキンケア商品が次々と発表された。
 また昭和40年代には、シェービングフォームやアフターシェービングローションなどのスキンケア用品を中心に、男性用化粧品をそろえるメーカーが現れた。
 1970年(昭和45年)にチャールズ・ブロンソンを起用した宣伝がブームとなった丹頂(現・マンダム)もその一つである。

 ▼昭和後期

 昭和50年代には、公害や環境汚染が社会問題となり、化粧品でも女子顔面黒皮症などの肌トラブルが問題となった。
 こうした社会背景からナチュラル志向が流行し、天然素材にこだわるスキンケア商品や、防腐剤不使用の自然派化粧品が発売された。
 化粧でも外人顔を意識した「立体化粧」から、日本人らしさを意識した「ナチュラルメイク」へと転換していった。
 頬紅やノーズシャドウは濃くつけなくなり、昭和40年代に流行したつけまつげも廃れる。
 ファンデーションは「素肌っぽい」がキーワードになり、各メーカーはパウダーファンデーションやリキッドファンデーションといった新しい商品を開発した。
 昭和の終わりには頬紅の出荷額が減り1996年(平成8年)ごろまで減少が続いた。
 また、物が溢れる社会が到来したことで、多様化・個性化が重視されるようになり、メイクやファッションが細分化されていった。こうした希求に応えたのが『JJ』や『an・an』といった昭和40年代から創刊が続いた女性誌である[109]。たとえば『an・an』は太眉メークを個性的DCブランドファッションに負けないモードメイクとして紹介した。
 太眉は「知的」「中性的」「媚びない」などの言葉で語られ、昭和40年まで細かった眉は、昭和50年代には自然な太さになり、昭和50年代後半にはより太く強調するようになった。
 また『JJ』の紹介により、昭和50年代に入って日焼けメイクにパール入りの明るいアイシャドウとパールピンクの口紅を組みあわせた「サーファーメイク」が流行した。
 また年齢別ケア商品や敏感肌用の商品も充実するようになった。

 いっぽうで昭和50年代になると肌の研究が進み、UVカット効果のある商品が開発されるようになる。
 昭和60年代にはオゾンホールの問題が明らかになり、各メーカーはSPF値(紫外線防御指数)を競うようになった。
 これと共に化粧も美白志向へと回帰した。
 また個人向け宅配サービスの充実を受けて、業界ではファンケル、DHC、オルビスなどの通信販売を行うメーカーが参入してきた。

 関連項目 ー カモフラージュメイク ー

 カモフラージュメイク(Cosmetic_camouflage)

 顔のアザや手術痕などキズを自然に隠すメイクの方法。
 兵士が戦場で目立たないようカモフラージュするために、顔・首筋・耳や腕といった露出する肌に施す化粧の方法を指すこともある。

 《概要》

 痣(アザ)や傷、その他の皮膚の状態を化粧で覆い隠すだけではなく、心理的にケアする目的のメイクアップである。
 化粧方法の特別な名称は付いていなかったが、昭和の時代からメイク技術の一つとして存在し、化粧品メーカーから様々な化粧品が発売されてきた。

 《歴史》

 歴史は1928年米国のリディア・オリリーによって皮膚変色をカバーして見えなくする化粧品が開発されたことから始まる。
 日本では1955年、広島のいわゆる「原爆乙女」たちがニューヨーク市のマウントサイナイ病院においてケロイド痕治療を受けたが、その際に5番街のカバーマーク相談室を紹介された。
 ここでカモフラージュメイクの施術をうけ、オリリー婦人からプレゼントされたカバーマーク化粧品を持って帰国した。
 一方、社会事業家、沢田美喜がニューヨークに滞在中に、顔にアザのある女性、リディア・オリリーが開発した化粧品「カバーマーク」を知り、自身が関わる皮膚の黒い子供たちのために必要とピアス化粧品の阪本社長に紹介し、日本への輸入を依頼した。
 1960年(昭和35年3月)日本医学皮膚科学会で、米国カバーマーク社のアーティスト、クラフト夫人がデモンストレーションを行い広く知られるようになった。
 この年ピアス化粧品の出資でジャパンオリリーが設立されて日本でのカバーマーク化粧品安定供給が可能となった。
 化粧指導員の多くが、顔にアザなどの疾患のある女性だった。
 各地で、カバーマークの使い方をデモンストレーションして普及させていった。 カバーマークの他に、資生堂からも医療用化粧品は販売されている。

 ▼欧米のカモフラージュメイク

 欧米ではコスメティックカモフラージュ、カモフラージュメイクアップ、またはカモフラージュセラピーと呼ばれる。
 英国赤十字ではスキンカモフラージュ(Skin camouflage)とよばれ、消えない傷跡、刺青、酒皶、あざ、皮膚変退色、その他皮膚疾患の患者に対するソーシャルケア(Social Care)の一環として年5日間の研修を受けたボランティアによる化粧の指導が行われている。

     〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『粧』 ④

2023-09-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『粧』 補足④

 《ボディーペインティング(及びフェイスペインティング)》

 ボディペインティング
(body painting)

 体に直接、塗料などで絵や模様を描くボディアートのことである。

 《概要》

 歴史的には、世界のいくつかの地域でボディペインティングが見られ、オーストラリア先住民(アボリジニ)やネイティブ・アメリカン、アフリカ、東南アジア、インドでも体にペイントを施す習慣が確認されている。
 20世紀の西洋社会では、アート表現としてボディペインティングが行われてきた。
 1933年のシカゴ万国博覧会にて、マックス・ファクター・シニア (en) がモデルのサリー・ランドにボディペインティングを施し、公序良俗違反で逮捕されたこともあった。
 しかし、1960年代くらいから社会的に受け入れられるようになっていった。
 ボディペインティングは政治的な抗議活動の手段として行われることもある。
 例えば、動物の倫理的扱いを求める人々の会はバーバリーに対する毛皮の抗議に動物の柄のボディペインティングのパフォーマンスを行った。
 1998年よりワールド・ボディペインティング・フェスティバル (en) が行われている。他にも、en:Rabarama Skin Art Festivalなど様々なボディペインティング・フェスティバルがある。ヌーディズムのキャンプ場などでは、イベントの1つとしても行われることがあり、コンテストの形態を成していることもある。
 2003年から毎年、欧米をはじめ現在20ヶ国・70都市と、世界各地で開催されているワールド・ネイキッド・バイク・ライド (en) で、ボディペインティングを施して参加する人もいる。
 また、2001年には世界ボディペインティング協会 (en) が設立された。ボディペインティングのコンテストを扱ったテレビ番組にはスキン・ウォーズ (en) がある。

 《日本におけるボディペインティング》

 海外では「アートの一ジャンル」「イベントでのアート表現」など、芸術として認知されているが、日本では主要な先進国に比べて、未だにヌーディズムへの理解が進んでいないこともあり、ボディペインティングが性的な表現と見做される場合も多い。

 ★暗黒舞踏

 1960年代末より、全身白塗りで舞踏を行った。
  例えば、金粉ショー等。
 金粉ショー(きんぷんショー)とは、金粉を全身に塗布してダンスなどを行うパフォーマンスである。
 歴史
  戦前
 1909年にはヨーロッパで、女性の全身を金色に塗る「ゴールデン・ビーナス」のショーが行われていたという記録がある。
 1934年(昭和9年)、吉本興業がニューヨークからアメリカのレヴュー団「マーカス・ショー」(ダニー・ケイも在籍)を招き、日本劇場で公演を行ったという。
 中でも美人ダンサーのミス・ハッチャが銀粉を全身にまぶしたブロンド・ビーナスは男性の聴衆から大盛況であったという。
 寺田寅彦は1934年のマーカス・ショー来日公演を見て「健康によくないであろう」という感想を残した。

 戦後
  戦後の1960年代から1970年代にかけて、日本国内のキャバレーで金粉ショーが上演されるようになる。
 暗黒舞踏の創始者・土方巽が弟子たちをキャバレーに派遣する際、演目として上演させ、唐十郎と李礼仙夫妻金粉ショーで有名となり、各地を回って稼いだ資金で、紅テントを購入したという。
 1969年(昭和44年)には福島県の磐光ホテルで、土方巽の弟子らで結成した金粉ショー舞踊団「セブンスター」の演出で使用する松明が原因で火災事故が発生している。
 その後はキャバレーやストリップの衰退や、温泉での金粉ショーの減少に伴い、大須大道町人祭や野毛大道芸など、大道芸の一形態として路上で披露されることも増えた。
 21世紀になってからも、舞踏家集団の大駱駝艦やささらほうさらが金粉ショーを行っている。
 ダンサーの秋風リリーは別府の芸術フェスティバルに参加した後、ビキニを付けた金粉ショーを披露している。
 なお、「金粉を塗ると皮膚呼吸が妨げられるため命に関わり、わずかな時間しか踊ることができない」 と長い間まことしやかに語られてきたが、根拠のない都市伝説だと言われている。映画『007 ゴールドフィンガー』の中で、敵方の女性が全身に金粉を塗られた結果死亡するシーンもある。

 ★異色肌
  異色肌(いしょくはだ)とは、自然には存在しない色の肌のことである。
 ただし、ファゲイト一族などメトヘモグロビン血症によって青い肌を自然に持つ者が稀に生まれることがある。

 ★腹踊り、腹芸
 胸から腹にかけて顔を模したペイントを施し、踊り動かして表情を変えてみせる日本の芸。「へそ踊り」ともいう。

 ▼フェイスペインティング

 ボディペインティングの中でも人の顔に絵や模様を描くことをフェイスペインティングという。
 古代から、宗教的理由などで装飾されていた。
 現在はテーマパークやパーティー、フェスティバルのなどで多く見かけられるようになっている。
 ハロウィンなどでも人気がある。サッカーの応援などのスポーツ資格 編集 イベントなどでフェイス・ペイント(首から上の部位)を第三者が施す場合は、美容師法が適用され、美容師免許の取得と美容所として保健所に申請する必要があることが、厚生労働省生活安全課で確認されている。
 違法かどうかは自治体が判断し、違反が認められ場合は、美容師法違反で罰金30万円を課せられる。
 美容師法(昭和32年法律第163号)「美容師は「美容を業とする者」をいい、美容師法に基づき厚生労働大臣の免許を得なければならない。
 美容師の免許を持たないものは美容を業として行うことはできない。
 なお、業とは反復継続の意思をもって行うことで、有料・無料は問わない。」のイベントで国旗を描いたものが代表的である。

 ★資格

 イベントなどでフェイス・ペイント(首から上の部位)を第三者が施す場合は、美容師法が適用され、美容師免許の取得と美容所として保健所に申請する必要があることが、厚生労働省生活安全課で確認されている。
 違法かどうかは自治体が判断し、違反が認められ場合は、美容師法違反で罰金30万円を課せられる。
 美容師法(昭和32年法律第163号)「美容師は「美容を業とする者」をいい、美容師法に基づき厚生労働大臣の免許を得なければならない。
 美容師の免許を持たないものは美容を業として行うことはできない。
 なお、業とは反復継続の意思をもって行うことで、有料・無料は問わない。」

 《隈取》

 隈取(くまどり)

 歌舞伎独特の化粧法のことである。
 初代市川團十郎が、坂田金時の息子である英雄坂田金平役の初舞台で、紅と墨を用いて化粧したことが始まりと言われる。
 芝居小屋などにおいて、遠くの観客が役者の表情を見やすくする効果がある。
 なお、隈取は「描く」ではなく「取る」と表現される。

 ▼隈取の意味

 隈取は初代團十郎が人形浄瑠璃の人形のかしらにヒントを得て創作したものといわれ、顔の血管や筋肉を誇張するために描かれたもので、役柄により、施される色や形状が異なる。
 隈取の色は役柄によっておおむね決まっている。
 「赤色(紅色)」は荒事の基本である勇気・正義・強さをもった役に使われ、「藍色」は、スケールの大きな敵役に使用され、「茶色」は鬼や妖怪といった人間以外の不気味な役に使われる。
 隈取の筋は指でぼかして仕上げる。
 隈取りの形状は、以下の形状と役柄が有名である。

 ・むきみ隈

 若々しく色気があり正義感にあふれた役に用いる紅隈。簡素な形が貝のむいた身に似ていることから、この名が付いた。
 『菅原伝授手習鑑』「車引の場」の桜丸、『助六由縁江戸桜』の助六、『寿曽我対面』の曽我五郎などが有名。

 ・一本隈

 力強くて頼りになるが、やんちゃな暴れん坊役に用いる紅隈。
 縦に一本の隈を取ることから、この名が付いた。
 あごの下にも、二重あごを示す隈を取る。
 『菅原伝授手習鑑』「賀の祝」の梅王丸、『国性爺合戦』「千里ヶ竹の場・楼門の場」の和藤内などが有名。

 ・二本隈

 落ち着きがあり、堂々として力強い大人の役に用いる紅隈。
 二本の隈を跳ね上げるように取ることから、この名が付いた。
 あごに青で髭を描き、目尻や唇の内側へは墨を入れる。
 『菅原伝授手習鑑』「車引の場」の松王丸、『鳴神』の鳴神上人などが有名。

 ・筋隈

 激しい怒りに満ちた、超人的な力を持つ勇者の役に用いる紅隈。
 いくつもの紅の筋を跳ね上げるように隈を取ることから、この名が付いた。    
 あごに三角形の紅を描き、口角へは墨を入れる。
 『菅原伝授手習鑑』「車引の場」の梅王丸、『暫』の鎌倉権五郎、『押戻』『矢の根』の曽我五郎などが有名。

 ・景清の隈

 武勇に優れた勇者だが、敵に捕らえられて閉じ込められ、青白くやつれてしまった役に用いる隈。
 特によく使われる「景清」という役から、この名が付いた。
 白い地色に、顔の上半分は筋隈と同じ形の紅隈ですが、下半分は藍で取るところから、半隈とも呼ばれる。
 『景清』の景清が有名。

 ・公家荒

 高い身分を持ち、国を転覆させようとするような大悪人の役に用いる藍隈。冷たく不気味な印象を与える。
 眉を際立たせたり、額に位星という丸い形を墨で入れたりする。
 『菅原伝授手習鑑』の藤原時平、『暫』の清原武衡などが有名。

 ・赤っ面

 大悪人の家来や手下で、考えの浅い乱暴者の役に用いる隈。
 地色を白ではなく赤で塗るところから、この名が付いた。
 紅でむきみ隈を取り、あごの下にも紅で隈を取る。『
 暫』「腹出し」、『義経千本桜』「川連法眼館の場」の亀井六郎、『菅原伝授手習鑑』「車引」の杉王丸が有名。

 ・茶隈

 人間がこの世のものではない、妖怪や精霊、悪霊などへ変身する役に用いる茶隈。
 土蜘蛛の場合は、やや茶色がかった白地に、付け眉毛をし、口元は大きく裂けたように描くことで、不気味な印象を強める。
 『土蜘』の土蜘の精、『茨木』の茨木童子が有名。

 ・猿隈

 豪快な武士なのに、滑稽でおかしみのある役に用いる隈。
 動物や植物をかたどった「戯隈」(=ふざけた隈取)の一つである。
 眉は「なすび眉」と呼ばれる八の字形である。
 『寿曽我対面』の小林朝比奈が有名。

 ・鯰隈

 悪人なのに間抜けな、観客を笑わせる役に用いる隈。
 「景清の隈」と同じように、上半分が紅隈、下半分が藍隈という組み合わせとなっている。
 「戯隈」の一つで、口の周りの鯰のような髭から、この名が付いた。
 『暫』の鹿島入道(通称:鯰坊主)が有名。

 以上のように大体の型はあるものの、隈取は役者が自分で書き入れるものなので、一人一人仕上がりが違う。
 歌舞伎の贔屓の中には、楽屋に絹本を持ち込んで役者に隈取を写し取ってもらったものを蒐集する者もいる。
 また、中国古典劇の京劇にも臉譜(れんぷ)と呼ばれる独特の隈取があり、役柄によって書法・種類・色・図案を替えるなど、歌舞伎の隈取との共通点が見られる。

 ▼隈取の発展

 初代市川團十郎が坂田金平を主人公にした人形浄瑠璃の台本を舞台用にしたものを上演する際、人形からヒントを得て、紅と墨で描いたのが最初の隈取だった。
 この時点での隈取は、派手な荒っぽいものであったと考えられる。
 隈取の特徴である「ぼかし」の技法は、二代目市川團十郎が牡丹の花を観察して考案したものと言われ、以後の隈取はより一層洗練されていくことになる。
 江戸の荒事の中で隈取が発展する際に参考となったのが、仁王像などに代表される仏像の誇張された筋肉表現と能面の洗練された表情の表現だった。
 一方、上方の和事を中心とした凝った筋書きの芝居の影響によって、隈取も荒々しいだけでなく色気を意識するようになる。
 歌舞伎の色男の代表格『助六』の主人公で「むきみ」の隈取も色っぽい花川戸助六は、現在こそ威勢のいい江戸男として知られるが、もともと上方歌舞伎で創成された役どころである。
 今日伝わる隈取の多くは九代目市川團十郎の門弟・ 三代目市川新十郎により残された。
 古今東西多くの隈取を熟知していた新十郎は、太田雅光の協力で研究書『歌舞伎隈取』を著した。
 その弟子の中村秀十郎は、臨終時の新十郎の顔に隈が浮かび現れ、いくら洗っても消えなかったと述懐している。
 スポーツ用品メーカーアシックスが、陸上競技用ブランドGONAのシューズをはじめ、野球のバッティンググローブ、オニツカタイガーのシューズ、アパレルなどにデザインとして採用していた時期がある。
 一方で、隈取の意匠を正しく理解しないデザインも流布しており、松竹は「日本が誇る「歌舞伎」の本来のイメージや価値が必ずしも正しく認知されていない現状を懸念しております」「「標準的」な隈取を追求し、基準とする立体見本と、これに基づく隈取図案を製作、保有し、普及をはかっています」としている。
 松竹では「隈取り模様」の商標を登録している。

 《ペイントレスラー》

 ペイントレスラーは、顔または全体にメイクをして活動するプロレスラー。
 活動時のリングネームは本名とは違う名前とするケースが大半である。

 ▼概要

 主に怪奇派レスラーが自身のキャラクターに肉付けする意味合いで使われることが多いが、深い意味は無くともペイント自体が自身の代名詞と成り得る場合もある。
 また、ヒールレスラーが顔に凄味を出すために利用する場合もある。日本国内では一般的にザ・グレート・カブキを元祖とする傾向があるが、カブキ以前にも1970年代にデトロイト周辺で「ザ・カブキ」名義で活動したレスラーが歌舞伎の隈取りをしたペイントレスラーとして存在したことや、同時期に「ムラサキ」なるペイントレスラーが存在したことも確認されている。
 また、マサ斎藤がワールドプロレスリング解説時に「僕も昔、顔に塗って、こういうスタイルでファイトしてました。外人には受けるんですよね」と語っていたことからペイントレスラーの元祖が誰になるのかは諸説あり、定かではない。
 ただしコンスタントにペイントレスラーとして活動し、ペイントレスラーという呼称が付いたのはカブキからであり、このことについてマサ斎藤も「カブキ以前にもいたことはいるんですけどね。
 やっぱり彼が元祖ですよ」と語っている。
 その後、カブキのギミック上の息子であるグレート・ムタがペイントレスラーの正統な系譜として登場したのを皮切りに、ムタのオマージュキャラクターである多くのペイントレスラーが誕生しており、アメリカでもロード・ウォリアーズやスティングなど著名なペイントレスラーが誕生し、その認知度は飛躍的に高まっていった。
 また、女子レスラーにも井上京子やアジャ・コングに代表される著名なペイントレスラーが存在する。
 また、フィン・ベイラーのように普段は素顔で試合をするが、規模の大きな大会など、ここ一番の試合でのみペイントを施す選手もいる。
 東洋系のレスラーがアメリカ人受けする目的で行い始めたため、主に日本、アメリカにおいて多く存在し、メキシコやヨーロッパのプロレスにはあまり存在しない。

 ▼ペイントの利便性

 覆面と同様に地味なレスラーや普段目立っていないレスラーにペイントさせ、注目を集めるといった興行的目的で使われることもある。
 また、ペイントをすることで素の自分とは異なるキャラクター・人格になりきり、素顔の時には出せなかった実力が発揮できる効果もある。
 武藤敬司がグレート・ムタに佐々木健介がパワー・ウォリアーに扮するように覆面レスラーとは違い、正体は明らかであるがレスラーのバリエーションの一つとして別名義での活動が可能であり、初期の武藤≠ムタに見て取れるように素顔がベビーフェイスであってもペイントレスラー時ではヒールというように、たとえ素顔で知名度があるレスラーでもそのキャラクターはそのままに、容易に二面性を演出出来るなどの利点もある。
 さらに試合の途中からペイントを施し別キャラクターとして試合を行ったり、試合毎にペイントのデザインを変更出来るなどの利点も存在し、覆面に比べ視界の確保が容易であることも、その一つとして上げられる。

 ▼ペイントの不便性

 覆面と違い、いくら上塗りを重ねてもリング上で激しく動くことにより徐々に剥がれて来たり 汗で塗料が落ちてしまうなどの難点があり、素顔を隠す場合には不向きである。
 特に初期のムタはこの例が顕著であり、試合終盤から終了にかけてほとんどペイントが剥がれてしまい素顔の武藤になっていることが大半であった。
 ペイントが占める面積が多いほどこの例は顕著であるが、怨霊のように試合終了後もその素顔がほとんど見受けられない例もある。
 また、試合毎にペイントのデザインを変更出来る利点も、反面その都度ペイントを施さなくてはならない点や、ペイントが複雑な場合、毎回同じデザインで施すのが難しいなどの難点もある。
 多くの場合、レスラー本人が鏡を見ながら自身でペイントを施しているため、初期のムタのように文字が裏文字になっている例もある。

 ▼ペイントレスラーの定義

 ペイントレスラーの呼称に定義はなく、明らかに何らかのペイントを施しているレスラーは全て、ペイントレスラーと呼べるが、一般的には顔面の大半にペイントを施しているレスラーを指すことが多い。
 ブル中野やダンプ松本、北斗晶、葛西純やC-MAX時代CIMAのように一部分にアクセントとして使用していたり、前述した「メイクの延長線上」で行われている場合、顔の大半が出ている場合は、ペイントレスラーと呼称されないことの方が多い。
 しかし、ムタのように元がペイントレスラーで派生していったものや、AKIRAのトカゲを模したようなオブジェを顔面に接着した覆面とペイントの中間に位置するような場合は便宜上ペイントレスラーの扱いを受けることもある。
 前述したハヤブサのような例は覆面レスラー(マスクマン)の類いであり、覆面の下にペイントを施している場合は、ペイントをしている覆面レスラーといった具合でペイントレスラーの括りに入れられることは少ない。

 ▼覆面との対比

 ペイントレスラーの対比として覆面を被って活動する覆面レスラー(マスクマン)が存在するが、ペイントレスラーは公の場に出る際に、覆面レスラーと違い比較的素顔を晒す頻度が高い。
 これは素顔を隠す目的でも使用する覆面とは違い、前述したように試合中に剥がれ落ちたり、単なるキャラクターの肉付けや、+αの意味合いで使用されることも多いため、必ずしも人前で素顔を隠す必要がないためである。
 また、ペイントレスラーの総数はマスクマンに比べその比率はあまり高くない。

     〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『花』

2023-09-01 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■花

 “花”という言葉の語源、意味について調べました。

 《意味》

 花とは、種子植物の生殖器官。
 葉の変形である花葉、茎の変形である花軸から成る。
 ある時期に開き、多くは美しい色や香りを有する。

 《語源・由来》

 花の語源は、

 ・美しく目を引くことから物の突き出た先の部分を意味する「端(はな)」とする説。

 ・開く意味の「放つ」の「はな」とする説。

 ・「葉」に接尾辞の「な」が付いたとする説。

 ・「早生(はやくなる)」の意味。

 ・「春成(はるなる)」の意味など諸説あります。

 ・植物学的に花は葉と茎の変形したものであり、特に目を引くのが葉の変形した花びらであることから、「葉」に接尾辞の「な」が付いたとする説が有力と思われ、これに「端(はな)」の意味が加わっていることも考えられる。

 平安初期まで花は主に梅の花を言い、平安時代後期から桜の花を言うようになった。
 以降、日本を代表する花は桜となっている。

 漢字の「花」は、つぼみが開き咲いて散るという、植物の部分の中でも著しく姿を変える部分であることを表して、草冠に化けると書く。
 漢字の「華」は、芯がくぼんで丸まった花を表したもので、元は別字であったものが混同され、花と同様の意味で用いられるようになった。
 「豪華」や「華がある」など、「花のような」といった形容詞的な意味を含んで用いらることが多くなったことから、現在では漢字を使い分けるとすれば「花」を植物に対して用い、「華」を形容的に用いるのが一般的となっている。

 〔情報元 : 語源由来辞典     
     https://gogen-yurai.jp/〕


 花(はな、華とも書く)。
 花卉-かき=漢字制限のため、「花き」と書かれることが多い)とは、植物が成長してつけるもので、多くは綺麗な花びらに飾られる。
 花が枯れると果実ができて、種子ができる。
 多くのものが観賞用に用いられる。
 生物学的には種子植物の生殖器官である。
 また、植物の代表的器官として、「植物(種)」そのものの代名詞的に使われることも多い。
 植物の花を生花(せいか)、紙や布・金属などで作られた花を造花(ぞうか)という。

 《生物学的「花」》

 花の定義 編集 花は雌蕊や雄蕊を含む(ないものもある)、一個の有限の茎頂に胞子葉(花葉)と不稔の付属物などから構成された、種子植物の生殖器官である。

 しかし、その厳密な定義については複数の考え方が存在する。

 1.被子植物の生殖器官を花とする考え方

 2.胚珠のある生殖器官を花とする考え方(被子植物と裸子植物)

 3.生殖器官が密集したものを花とする考え方

 花は、胞子葉が枝先に固まった構造から生じたと見られるが、この意味を広く考えれば、普通の被子植物の花以外に、裸子植物における松ぼっくりなどの元になる構造や、さらにはスギナの胞子葉であるツクシのようなものまでが花と言えてしまう。

 2は、松ぼっくりまでは花だというもので、
 3は、ツクシも花だという立場と言える。
 1はアメリカの研究者に多く、2はヨーロッパの研究者に多い。

 19世紀は3の考え方が主流だったが、現在では一番合理的とされる2が主流になりつつある。

 ▼構造

 花全体の構造は、1本の枝に、先端の方から大胞子葉、小胞子葉、不実の葉が並んだ構造が、ごく短くつまったものと見なせる。
 典型的な花は、枝から伸びた柄の先につき、中心に雌蕊をもち、その周囲を雄蕊が囲む。
 その周囲には、花びらや萼などが配置する。
 雄蕊では花粉が作られ、雌蕊には胚珠が入っている。
 この両者の働きで種子が作られる。
 裸子植物においては、雌雄異花が普通で、軸を中心に胞子葉由来の鱗片状の構造が並んだ形を取るのが普通である。
 被子植物では、花びらや萼といった装飾的な構造が多数加わることが多い。
 したがって、その構造は中心に大胞子葉由来の雌蕊、その外側に小胞子葉由来の雄蕊、そしてその外側に葉由来の花弁、そして一番外側にやはり葉由来の萼が取り巻くという形になる。
 花弁、萼はまとめて花被と呼ばれる。
 ただし、すべての花がこのような構造を持っているわけではなく、花びらや萼などがない花も多い。
 特に、風媒花などでは、花びらの欠損や退化が見られるものが多い。
 イネ科の場合このような花を小穂という。
 1つの花に雄蕊と雌蕊を備える花が多いが、どちらかだけを持つ、雌雄異花のものもある。
 雄蕊と雌蕊が両方備わっていても、片方が機能していない例や、どちらかが先に熟し、同時には熟さないようになっている例も多い。
 花の配列状態を花序という。花序は花によって異なるが、ある一定の方式に沿って並ぶ。
 苞は、花や花序の基部につく葉のことをいう。包葉ともいう。
 通常は、小型であるが花弁状になるものもある。

 ▼花の進化

 種子植物がシダ植物から進化するに伴い、雄蕊は小胞子のうをつける胞子葉が、雌蕊は大胞子のうをつける胞子葉が各々変化してできたと考えられる。
 また、花びら、萼も葉が起源のものと考えられる。
 被子植物の花が、どのようにして進化したかについては、大きく2説がある。

 1.1雄蕊1雌蕊1花被1の花を原始的なものと見なし、次第に複雑な構造のものが出現したとする説で、新エングラー体系の根拠となっている。

 2.軸を中心に多数の雄蕊、雌蕊、花被が螺旋状に並んだ花を原始的なものと見なし、次第にその形が整理されてきたと見なすもので、クロンキスト体系はこれを基礎とする。

 ▼生殖様式

 花粉により受粉をさせ、生殖を行う。受粉の様式は、花の構造により自家受粉と他家受粉に分けられる。
 通常、他家受粉が起きることが望ましいので、種類によっては自家受粉を妨げるような仕組みが見られる。
 例えば、雄蕊と雌蕊のどちらか先に成熟するようになっているのもそのひとつである。
 どちらが先かで雄性先熟または雌性先熟とよばれる。
 また、花粉はそのままでは移動できないため、受粉を行うためには何らかの媒介が必要となる。
 おもに媒介者となるのは風と動物であり、風が媒介するものは風媒花と呼ばれる。
 動物が媒介するものはその媒介者によって虫媒花・鳥媒花・コウモリ媒花などに分かれる。動物媒の中では特に虫による媒介が多い。
 最も古い媒介方式は風媒であるが、のちにより確実性の高まる動物媒が発展した。
 しかしながら冷帯地域においては単一樹種による樹林が多いことや媒介者となる動物の不足から、再び風媒に戻るものが多く、かなりの樹木が風媒花となっている。
 逆に媒介動物の多い熱帯地域においては動物媒が圧倒的で、熱帯樹木の95%を占める。
 風媒と違い、虫や鳥など動物に受粉を媒介させる場合、花に動物を引き寄せる必要があるため、多くの花は蜜腺から蜜を分泌し、動物に花を訪れるようにさせる。
 こうした蜜食動物にとって花の蜜は重要な食料であるが、他に花粉そのものを食糧とする昆虫も多く存在する。
 また、ナツメヤシなどの一部作物においては、人間の手で花に花粉を塗りつける人工授粉が行われているが、これは人間も花粉媒介者となっていることを示している。

 ▼花が美しいわけ

 花は人目を引く魅力がある。
 一般的な概念の花は、それ以外の部分が緑などの地味な中にあって、それとは対照的に鮮やかな色合いの花弁などを並べてよく目立つようになっている。
 これは、そもそも花の存在が、他者の目を引くことを目的としているからである。
 ただし、本来はヒトの目ではなく、昆虫や鳥などの目を引くためのものである。
 顕著な例としてミツバチの可視領域は紫外線を含み、ミツバチの目で花を見ると蜜のある中央部が白く反射する花がある事などが知られる。
 これは、植物が固着性の生活様式を持つため、繁殖時の生殖細胞、具体的には花粉の輸送に他者の力を借りなければならないためである。
 被子植物の多くがその対象を昆虫や鳥などの小動物とし、彼らを誘うために美しい花びらで飾られた花の構造が発達した。
 また同じ目的で、虫媒花の多くは強い香りを持つ。
 その香りは媒介者の好みの香りであるため、人間にとって素晴らしい香りとは限らない。
 また鳥は嗅覚が弱いため、鳥媒花の多くは強い香りを持たない。
 他方、無生物によって花粉を運搬する植物の花は目立つ必要がないため、花の色は地味なもので香りも弱い。
 現生の裸子植物は一部の例外を除くほとんど全てが風媒なので、花弁などを持たない。
 被子植物でもイグサ科やイネ科などは虫媒花から進化して二次的に風媒となったもので、イグサ科では花弁はあるが極めて地味になっており、イネ科では花弁は完全に退化し、開花時にも全く目立たない。

 ▼花の色

 花を発色させる色素は、開花時に細胞内部で酵素を用いた化学反応が起こり生成される。元来花の色は送粉者を惹きつけるために着けるもので、蕾の時には必要が無い。主な色素はフラボノイド・カロテノイド・ベタレイン・クロロフィルのグループであり、総数は数千にもなる。さらに水素イオン指数(pH)や存在するイオンの影響で色が変化する事もあり、多様な色で知られるアジサイの場合はアルミニウムイオン濃度で左右される。
 色素が無い花びらは白く見える。花びらの材質は本来透明だが、中に気泡があるために白く見える。花びらが色素を持たないメカニズムには、作られた色素が別の酵素で破壊される場合と、色素を作る酵素の機能が阻害された場合がある。   
 前者の例は白いキクで、花にはカロテノイドを分解する酵素が存在し、作られた色素が壊される。
 後者にはアサガオがあり、フラボノイドの一種アントシアニンを作る酵素のDNA内にトランスポゾンがあり色素生成を阻害する。
 このトランスポゾンが開花中にDNA上の別な場所に移動すると酵素は色素を作れるようになる。
 これによって一つの花の中に色素がある細胞と無い細胞が混在し、アサガオの模様が作られる。
 トランスポゾンの動き方は一定ではなく、それぞれの頻度やタイミングによって花の模様が異なってくる。
 トランスポゾンを含むアサガオは江戸時代に偶然発見され、品種改良を経て広まった。
 人工的に花の色を変える試みには、品種改良や遺伝子組み換え技術またはDNAを変質させる突然変異の利用などがある。
 品種改良では、色素を作る酵素が無かったり色素を破壊する酵素が存在するため、例えば青いバラや黄色いアサガオなどは作れない。
 他の花から色素をつくる酵素のDNAを組み入れる試みでは、青いバラが生産された例もあるが、pHなど他の条件が異なるため元の花と同じ発色は難しい。

 《文化》

 ▼儀礼と装飾

 花を摘み集めて装飾とする風習は世界中に広く見られる。
 ポリネシアなどでは、花を髪にさして髪飾りとすることも広く行われている。
 茎から切り取った花を切り花といい、これを花を方向をそろえて束ねたものを花束(ブーケ)、組み合わせて輪にしたものを花輪という。こうした花は結婚式や葬儀といった冠婚葬祭における装飾に広く用いられ、キリスト教系の献花や仏教における仏花など、死者を弔うための供え物にも用いられる。
 また花は、贈答品としても一般的なものである。花を贈答品とする場合、見かけの美しさ以外に、その香りを重視する場合もある。
 ヨーロッパやアメリカではバレンタインデーの贈り物には花、とくにバラが多く用いられ、また母の日にはカーネーションが主に贈られるなど、花を贈ることが一般的な祭日も存在する。
 花は装飾に多用され、日本の華道、いわゆる生け花もこの方向で高度に発達したものである。
 また生け花だけでなく、花を乾燥させたドライフラワーも装飾に使用される。

 言語的文化としては、漢字文化圏では「華」と書き日本語には「華やか」「社交界の花」「華がある」などは肯定的表現として用いられている。
 「きれいな薔薇にはとげがある(Every rose has its thorn.There's no rose without a thorn.)」=美人に裏がある、といった外国の慣用句も単純な肯定ではないが、ヒトの感性において美しいと認識する人間を花に例えている。
 強い色彩を持つ観賞用の火薬の爆発に「花火」という字を当てるのは漢字文化圏に共通である(ただし、中国語では「烟火」が主)。
 自然現象によるものとしては、「雪の花」は形状が花に似ていることに由来する名である。温泉の成分が集まることで発生する「湯の花」や、美しい結晶を薔薇の花に譬えた "desert rose (砂漠の薔薇)" など、「花」を美的な存在の代名詞として扱う向きは日本でも外国でも見られる。
 日本人特有の価値観では少し違った意味合いを付けられることもあり、もののあはれなどといった無常観や四季の変化のもとでその儚さが愛でられてきた。それは戦死を意味する「散華」など死にも近似するが、生命力と矛盾するわけでもない。
 短い命であるからこそ、束の間の栄華・華やかさが美しく感じられるということである。これは平家(伊勢平氏)の栄華とその後の没落を描いた古典文学『平家物語』などにも見てとることができる。
 「少しずつ咲いていって全体では長い間を咲き続ける、梅の花」から「いっせいに咲いてすぐに散ってゆく、桜の花」へと「日本人が最も好む花」および「花の代名詞」が移ろったことは、民族特有の美意識の確立を物語る事象の一つにも位置付けられる。
 「様々な花の色」あるいは「色とりどりに咲く花の様子」を日本語では千紫万紅(千紫萬紅、せんしばんこう)と言う。
 日本では、奈良時代から平安時代初期までは中国文化の影響を強く受けて梅の花が、平安時代初期以降は桜の花が最も盛んに愛でられる花であり、日本で花見と言えば一般的にはこれらの花を観賞することを意味する。

 ▼芸術

 花はその美しさから、様々な芸術のモチーフとなってきた。
 すでに古代エジプトの絵画にもスイレンがえがかれており、17世紀のオランダ黄金時代の絵画では静物画の題材として花は非常に好まれていた。
 その後も花が絵画の題材として好まれることには変わりがなく、ゴッホのひまわりなどのような名画も生み出された。詩にも古くから謳われ、洋の東西を問わず数々の大詩人が花を詠んだ詩を作っている。

 ▼信仰と象徴


 石器時代の遺跡からは、葬儀に花を副葬品にするという文化が発見されている。
 また、花は古来よりアニミズムの対象となっている。
 万葉集では頭に花を飾り、花の持つ霊力を我が身のものとする挿頭花(かざし)の風習が歌われている。
 また、平安時代には現在今宮神社で行われるやすらい祭のように、花の霊が及ぼす災いを鎮める鎮花祭が盛んに行われた。
 世界の多くの国において、その国の国民に最も愛好される花を国花として当該国の象徴とすることが行われている。
 正式な国花を制定していない国も多いが、日本のサクラやキクのように非公式に国花とみなされている花の存在する国もある。
 また国章に花の絵柄を用いている国も多く、日本も正式な国章ではないものの、皇室の菊花紋章(十六八重表菊)が事実上の国章として扱われ、パスポートにもデザインは少し変わっているもののこの紋章があしらわれている。
 また、日本政府は桐紋を用いている。

 ▼その他

 世界各地、古今東西の遺跡や壁画においても、花の絵柄は普遍的に見かけられるもののひとつである。文様としても花は多く用いられ、日本の家紋にも花をモチーフとしたものは多数存在する。このほか、硬貨のデザインや切手などにも花の絵柄は多用される。
 花の種類によってそれぞれに意味を持たせることもよくおこなわれ、日本では葬式にキクの花が用いられるというような定番がある。
 また、それをもっと推し進めてそれぞれの花にいくつかの意味を与える花言葉も、19世紀ヨーロッパで盛んになり広まった。
     〔ウィキペディアより引用〕





  「花」 作詞 喜納昌吉

 川は流れて どこどこ行くの
 人も流れて どこどこ行くの
 そんな流れが つくころには
 花として 花として 咲かしてあげたい
 泣きなさい 笑いなさい
 いつの日か いつの日か
 花をさかそうよ

 涙ながれて どこどこ行くの
 愛もながれて どこどこ行くの
 そんな流れを このうちに
 花として 花として むかえてあげたい
 泣きなさい 笑いなさい
 いつの日か いつの日か
 花をさかそうよ

 花は花として わらいもできる
 人は人として 涙もながす
 それが自然のうたなのさ
 心の中に 心の中に 花を咲かそうよ
 いついつまでも いついつまでも
 花をつかもうよ

 泣きなさい 笑いなさい
 いついつまでも いついつまでも
 花をつかもうよ

 泣きなさい 笑いなさい
 いついつまでも いついつまでも
 花をつかもうよ

 〔情報元 : Uta-net〕