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言の葉辞典 『粧』 ②

2023-09-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『粧』②

 《化粧の心理作用》

 化粧の内容にも左右されるが、一般的な化粧によって得られる心理的効果には自尊心の向上と、社会的な幸福感がある。
 化粧することによって自分の身体的問題点をカバーし、自己呈示したい特徴を増強することで、自己評価を高めるとともに社会的積極性を高めることになる。
 化粧の作業には適度な緊張が生じることから気持ちの切り替えがしやすく、鏡に向かうことによって自己意識や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある。
 また、うつ病や老人性認知症などの患者に対して化粧指導することで、平板化した感情を活性化し、社会復帰を促す効果が示されている。
 化粧行動は他者や世間への関心を前提として、自分の印象を管理することで関係の調和を図り、社会的承認欲求を満たすことが基本的な動機となる。
 また、入念な化粧をすることで、変身願望や若返りといった自己満足を達成する意味もある。
 化粧による自己満足感は年代的には30代後半で特に多く認識されており、その後はしだいに習慣性のものと認識される傾向がある。

 《日本の化粧文化史》

 日本の化粧文化史(にほん の けしょうぶんかし)

 日本における化粧にまつわる文化史について解説する。
 なお本記事での「化粧」とは、広義の「顔を中心とした装い」(白粉・口紅などの化粧品を塗る狭義の化粧(メイクアップ)のほか、洗顔・スキンケア・アンチエイジングなどの美容、眉などの毛髪処理、入墨・抜歯などの身体加工)とする。

 人類が化粧をするのは、美しくなりたいという本能的な要求のほか、目や肌の保護といった実用的な機能、特定の集団への帰属・身分や階級の表示、年齢や未既婚の表示、宗教・呪術的な目的などが複雑に絡み合っている。
 そのような意味で、化粧は社会を映す鏡でもある。
 日本における化粧は、先史時代に行われていた赤の化粧までさかのぼる。
 飛鳥時代に大陸文化が伝来するとその影響を受けて化粧も大陸風に様変わりした。
 平安時代中期になると国風文化とともに化粧も独自の発展を遂げた。この頃に成立した白(白粉)・赤(口紅・頬紅)・黒(お歯黒・眉墨)の三色を基本とした伝統的な化粧は、身分などを区別する社会的機能を負いつつ江戸時代まで継続する。
 近代には政府による近代化政策の一環として化粧も欧化が推進され、また科学技術の発展と共に近代化粧品が生産されるようになった。
 とくに庶民においては太平洋戦争後に急激に欧米化が進み、平成時代まで至っている。
 とくに大きな目を好む美意識には欧米化の影響が強く見られるが、一方では伝統的な美肌へのこだわりも健在だと指摘されている。

 ▼先史時代

 縄文時代の化粧を考察する手がかりとなるのが土偶を始めとした遺物であるが、これらは女性像と考えられているため男性の化粧については明らかではない。
 大塚和義は、土偶に見られる化粧を5つに分類している。まず縄文中期からみられる、眼を起点にして2条の線刻を頬に表現するもの・頬全体を中心に沈線をほどこすもの・左右非対称の沈線がほどこされるものの3つは、入墨である可能性が高いとしている。
 次いで縄文後期以降には、眼の縁・口辺部・額・顎などに赤色塗料を塗ったものが現れる。最後に縄文時代晩期に2条の沈線を口辺部を中心に頬や額に施文するもので、この化粧は弥生時代へと引き継がれるとしている。
 赤は太陽は血液を連想させることから、呪術的な意味を持つ神聖な色であったと考えられ、これを顔や身体に塗ることには魔除けの意味があったと考えられる。
 赤の化粧は古墳時代まで継承されてゆく。

 《飛鳥時代から奈良時代》

 弥生時代の化粧については『魏志倭人伝』に記される「男子は大小となく、皆黥面(顔に入墨)文身(体に入墨)する」「朱丹(しゆ)をもって身体に塗る、中国の粉を用うるがごときなり」や「黒歯国あり」の記述がある。
 鯨面は魔除けなどの宗教儀礼、あるいは所属する集団を表示する機能を持っていたと考えられる。
 鉄漿(かね。いわゆるお歯黒)の起源は解らないが、南方系の文化の伝来、インド発祥が中国・朝鮮半島を経由して伝来、日本発祥などの説がある。
 古墳時代では目のまわりや頬に赤い彩色を施す人物埴輪が男女とも確認されている。
 この赤色顔料は水銀朱やベンガラ(酸化鉄)である。いっぽうでヤマト王権の支配地域を中心に入墨の風習は廃れていった。『日本書紀』では、熊襲や土蜘蛛など中央政権にまつろわぬ集団が入墨を施すことを異習と見なしている。
 また、先史時代に特徴的な風習に抜歯がある。日本の抜歯風習は、縄文時代中期に始まり古墳時代まで継続するが、その理由は時代により変遷すると考えられている。
 春成秀爾は、縄文時代の抜歯は成婚の際に行われ、抜く歯の位置により出身地を表示する意味があったとしている。また弥生時代には上顎側切歯を抜歯する大陸風抜歯が流入し、渡来系と縄文系を区別する標識となったとする。

 大陸の化粧文化は、遣隋使によって日本にもたらされたと考えられている。
 大陸の化粧をすることができるのは女官など一部の女性だけであったと考えられ、身分を表示するステータスシンボルであったと考えられる。
 白粉に関する最初の文献資料は『日本書紀』持統6年(692年)に渡来僧の観成が初めて鉛粉(えんぷん)を作って持統天皇に献上したとする記述であるが、これ以前には貝殻の粉や米の粉を原料にしていたと考えられる。それゆえ付きや伸びの優れた鉛白粉(なまりおしろい)はとても喜ばれたと記録されている。
 この頃の化粧を示すものに、高松塚古墳壁画に描かれる女子群像があるが、それによれば細い眉に口紅を付けている。 
 また、東壁に描かれる男性像も口が赤く塗られている事から、男性も口紅を付けていた可能性がある。
 なおエジプト原産のベニバナが日本に伝来したのは3世紀頃と考えられている。
 奈良時代は遣唐使により唐風文化が流入した時期で、化粧にもその影響が色濃く窺える。正倉院宝物の『鳥毛立女屏風』は日本で描かれたものだが、描かれる女性の唇と頬は赤く染められ、弓なりに整えた眉に、額には花鈿(かでん)・唇の両端にはえくぼ状の靨鈿(ようでん)と呼ばれるポイントメイクを施している。
 こうした特徴は、唐代の墳墓に描かれる絵画と同じである。
 眉の形状については『万葉集』にも「三日月の眉根」「柳の眉し」などの表現が見られ、薬師寺『吉祥天像』に見るような長く弧を描いた形が好まれていたと考えられている。

 《国風文化から中世》

 ▼平安時代の女性

 平安時代中期になると、唐文化は日本的な文化へと転換されていった。化粧は依然として貴重品であり、これを用いるのは貴族階級に限られる。昼でも薄暗い寝殿造で、人とは御簾越しに面会するという生活スタイルは、女性の化粧にも影響を与えたと考えられる。
 また『堤中納言物語』では、眉毛を抜かずお歯黒もしない虫めづる姫君を変り者扱いしており、年頃(10歳前後)になった女性が化粧をしないことを非常識と認識していた。
 具体的な化粧としては、とくに美しさの象徴とされていたのが『源氏物語』の描写にも「白う美くしう」「御色はいと白く、光るやうにて」などと形容される、肌の白さであった。
 このような価値観は、白い肌が労働をしない高貴な身分の象徴であったためだと考えられている。
 また洗顔に用いられたと推測されている『延喜式』に記される澡豆(そうず)や皂莢(さいかち)、スキンケアに用いられたと推測されている『江家次第』に記される面脂(めんし)、現在の美肌サプリメントに相当するような内服薬が『医心方』巻四に記されるなど、美肌に対する関心の高さを窺うことが出来る。
 このような肌に対する美意識は現代まで連綿と続き、西洋とは異なる日本の化粧文化の特徴となっている。
 また黒の化粧では、紫の君は源氏の指示によって毛抜きで眉を抜き眉墨で新たに眉を引いてお歯黒をすると記されている『源氏物語絵巻』などに描かれる女性は眉は太く直線的な形が特徴で、奈良時代までの唐風とは異なっている。
 また眉は本来の位置よりも上に描かれた。その理由については「眉に感情が現れないように」や「ふくよかで平面的な印象をつくるため」などの理由が推測されている。

 いっぽうで平安中期では紅についての表現が少ない。『倭名類聚抄』ではお歯黒・眉墨・白粉は記載されるが、口紅についての記述はない。また『源氏物語』では田舎者で教養の無い女性として描かれる近江の君が「紅といふもの、いと赤らかにかいつけて」と形容されており、紅を濃くつけるのは品位に欠ける化粧だとされていたと考えられる。
 しかし時代が降ると美意識が変化したようで、『久安四年記』(1148年成立)には「女房の紅つくる様は面さきは赤く、囲りはにほいざまに淡く色をつく」などと説明しつつ「今と昔では化粧が違う」と記されており、平安後期には頬紅を付けるようになったと考えられる。
 赤・白・黒の三色を基本とする伝統的な化粧はこの頃に成立し、江戸時代までつづけられた。

 ▼中世の女性

 中世には化粧は礼法として形式化されていった。礼法としての化粧は公家から始まった。『建内記』には、万里小路時房が娘の成人儀式の際にお歯黒を3筆付け、母親が眉を抜いたと記されている。
 礼法としての化粧は幕府の奥女中にも取り入れられた。室町時代中期の礼法を記す『大上臈御名之事』によると、お歯黒は9歳、15,6歳から眉を作るとされる。
 この頃の化粧を良く残すと考えられているのが、能面の小面や孫次郎である。白粉を塗った白い肌と赤い紅をさした唇、歯にお歯黒を付ける。
 眉は自毛を抜いたうえで、平安時代よりもさらに高い位置でほぼ額の生え際により太い眉を描くようになった。
 なお日本の伝統的化粧では、目は小さく細い方が良いとされていた。
 ルイス・フロイスは、西洋の大きな目を美しいとする美意識との違いに驚き「日本人は涙の出る部分が閉ざされているのを美しいとする」と記録している。
 このような化粧は、支配者階層以外にも少しずつ浸透していったと考えられている。
 『七十一番職人歌合』では、紅(紅粉解)や白粉(白物売)を売る姿が描かれており、庶民もハレの日には化粧をするようになっていったと推測されている。
 また、この頃の武家から定着していった嫁入り婚では、嫁入り道具として化粧道具を持参するようになった。
 現存最古の化粧道具は、三嶋大社に北条政子が奉納したと伝わる梅蒔絵手箱で、中には鏡・鏡箱・白粉箱・歯黒箱・薫物箱・螺鈿櫛・銀軸紅筆・銀挟などが収納されている。
 嫁入り道具としての化粧道具は、江戸時代まで継続した。

 ▼男性の化粧

 編集 『枕草子』に髭を整えていない男性は見苦しいと記されているように、男性は髭を優雅に整えていた。
 平安後期になると、男性も化粧をするようになる。
 江戸後期に成立した『貞丈雑記』には、鳥羽院のころに源有仁が女性を真似て始めたと記されており、男色と関連付ける説がある。
 公家では男性の化粧が明治初期まで継続した。
 平安末期には武家も化粧をするようになったようで、『平家物語』では平敦盛は薄化粧にお歯黒をした姿で描かれる。また平忠度は源氏がしていないお歯黒をしていたために討取られたと記されている。
 室町時代には男性の化粧は通過儀礼となり、公家や武士は元服の前にお歯黒をつけ眉毛を抜いて眉墨で眉を作る儀式を行った。
 『春日権現験記絵』などの中世絵巻物では、白い肌に太く楕円形な眉を持つ男性貴人が、庶民と区別されて描かれており、身分を表示する意味合いに変わっていったと考えられる。
 とくに武士の化粧は、髭をもつことが豪気・勇敢な姿とされ習慣化していく。
 化粧をすることは権力者にあっては『蜷川親元日記』の第9代将軍足利義尚や『太閤記』の関白豊臣秀吉の例にみられるように、自らの権威を誇示する役割があったと考えられ、いっぽうで家臣にとっては『日新菩薩記』や『北条五代記』にあるように欠かすことができない身だしなみ、もしくは忠義の証とされた。
 また戦国時代の武士の化粧は、討取られた首が見苦しくないようにとする説もある。

 《江戸時代》

 ▼上流階級の化粧

 江戸時代になると儒教、とくに朱子学が官学となり、武家の化粧文化にも影響を及ぼした。
 上流階級の女性の化粧は礼法書に体系化されて大名家ごとに流派が生まれた。なかでも眉化粧は重視され、身分階級などを表示する役割を負った。
 そのためある年齢になると、女性は眉をそり落として決められた形の眉を決められた場所に描いた。
 また武家女性の化粧は濃くなっていく傾向があったが、これは女性が表情を出さない事が美徳とされていた為と考えられる。
 しかし享保の改革など度々の倹約令で薄化粧が奨励される事もあった。
 例外が江戸城の大奥で、天保の改革でも出費の削減に強く抵抗した記録があり、幕末まで濃い化粧が続けられた。
 男性は公家や歌舞伎役者など一部を除くと化粧をしなくなる。
 武士が化粧をしなくなる理由については定かではないが、戦乱が終わり合戦の身だしなみとしての化粧をしなくなったとする説や、朱子学の影響で倹約を美徳とするようになったことが関係したと考えられている。
 また武士は髭も剃るようになるが、その理由について『落穂集』は土井利勝が似ていると言われた徳川家康に配慮して髭を落としたことが始まりと記している。
 いっぽうで公家は男女とも、明治時代まで白粉・お歯黒・置き眉などの化粧を続けていった。

 ▼町人への波及

 庶民もまた衣食住が身分相応であることを求められたが、17世紀末から18世紀初頭にかけて上方で元禄文化が興って町人女性も化粧をするようになった。
 文政期には江戸でも町人が化粧をするようになり、やがて化粧は女性が学ぶべき知識や礼儀作法に位置づけられていった。
 『女鏡秘伝書』(慶安3年・1650年)や『女重宝記』(元禄5年・1692年)など、江戸前期に成立した女性向けの教養書では、言葉遣いや衣服の選び方などと共に白粉・紅・眉・際化粧・お歯黒などの化粧方法が記されている。
 こうした資料によると、当時の化粧は1日も欠かすことができない女性の身だしなみとされる一方で、厚化粧は戒められていた。
 ただし地域差もあったようで、『守貞謾稿』には上方の化粧は江戸よりも濃いなどと書かれている。
 やがて黒の化粧は、社会的属性を表示する役割を持つようになった。江戸中期には結婚や出産などの通過儀礼と結びつき、歯が白いのは未婚、お歯黒をしていれば既婚、眉を剃っていれば子持ちなどの化粧が慣習となった。
 また庶民は眉を剃っても眉墨で描かず、身分差を表示する意味もあった。眉を剃ると老け顔になるため、懐妊した女性の心境は複雑であったようである。
 しかし江戸後期になると女性が化粧をする目的は、身だしなみを建前にしつつ美しさへの希求へと変化する。江戸時代を代表する美容書として長く出版された教養書『都風俗化粧伝』(文化10年・1813年)では、「たちまち美人になる」などのフレーズと共に、顔だちの欠点をカバーする化粧や流行の化粧、美白スキンケアまで幅広く記載されている。

 ▼江戸時代の化粧

 江戸時代でも白・赤・黒を基調とした伝統的化粧だが、やはり白い肌へのこだわりが窺える。『都風俗化粧伝』で最初に記載されているのが美白スキンケアに相当する記述で、漢方薬や顔料を混ぜて作る複雑なものから庶民でも手に入る材料で作るものまで様々なスキンケア用品や洗顔料の処方のほか、ニキビ・疱瘡・あばた・たむしなどの肌トラブルに対する薬の処方から、洗顔方法まで収録されている。
 白粉は化粧水や鬢付け油を付けた上に、水で溶いた白粉を伸ばした。白粉を塗るのは顔だけに限らず、デコルテから耳やその後ろにまで及んだ。
 江戸時代の美しさの条件は鼻筋の通る「中高の顔」とされ、『都風俗化粧伝』では白粉の濃淡によってハイライト効果を狙う化粧も紹介されている。
 また小さい目を美しいとする美意識も健在で、『都風俗化粧伝』にも様々な修整化粧が紹介されているほか、スウェーデン人のツュンベリーは『江戸参府随行記』に大衆がヨーロッパ人の大きな目を見て驚き「オランダ大目」と叫んだと記している。
 お歯黒は貞女のあかしとされ、厚化粧が非難される時代であってもムラなく濃くつけるのが良いとされていた。江戸中期には原則として結婚に前後してお歯黒を染めることが多くなるが、例外や地域差も多い。
 遊女や芸者もお歯黒をするが、江戸では吉原の遊女だけがお歯黒をして、芸者や岡場所の遊女は染めなかった。
 しかし、上方ではあらゆる遊女・芸者がお歯黒をした。また、一般の未婚女性でも婚期を逃すと世間体のためにお歯黒をした。

 江戸時代でも独特な化粧が流行したのが文化・文政期である。この頃に遊女が始めたといわれる化粧が「笹色紅」である。笹色紅は高価な紅を下唇に濃く重ね塗り、緑色の光沢をだす贅沢な化粧で、大奥でも流行し庶民の女性も墨や油煙を下塗りするなどして真似た。
 しかし、天保の改革による奢侈禁止令の影響で廃れてしまい、大奥以外では紅は再び薄くつけるようになった。

 ▼化粧品産業のはじまり

 元禄期になると、様々な化粧品が安定して市場に供給されるようになり、庶民の手に届くようになった。
 元禄期の化粧文化は上方で発達したと考えられるが、文政期には江戸でも化粧産業が発達していった。
 化粧品店の競争が激しくなる江戸後期には、さまざまな工夫で宣伝が行われるようになった。
 とくに流行の発信地となったのが歌舞伎や遊廓である。
 『女重宝記』には、中流以下の女性は歌舞伎の女形から流行を学んだと記されており、化粧も例外ではなかった。
 化粧は観劇のほか役者絵や版本などが情報源となったほか、歌舞伎役者が副業として化粧品店を経営することも珍しくなかった。
 『役者全書』(安永3年・1774年)には九代目市村羽左衛門・五代目市川團十郎・初代尾上菊五郎など当時現役の役者が経営する油見世だけで13軒が記されている。
 様々な広告戦略を展開したのが、「美艶仙女香(びえんせんじょこう)」を販売した坂本屋である。
 坂本屋は絵師や戯作者に依頼して、美艶仙女香の名前などを錦絵や読み物に登場させ、さらには歌舞伎役者の台詞で商品名を言わせることもあった。
 なお江戸時代から2010年代現在まで続いている老舗化粧品店には、柳家と伊勢半がある。

     〔ウィキペディアより引用〕


 


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