goo blog サービス終了のお知らせ 

CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

言の葉辞典 『多情仏心』

2023-09-21 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『多情仏心』【四字熟語】

 【読み方】

 たじょうぶっしん

 【意味】

 感情が豊かで移り気だが、薄情にはなれない性質のこと。

 【語源・由来】

 もともと人や物事に対して情けの多いことが仏の慈悲の心につながるという意味。

   ❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅

 優柔不断でもなければ、意志薄弱でもなく、かと言って意志堅固に成りきれない曖昧さがある。
 その言葉は如何なるものか。

   ✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼

 関連項目 ー 多情仏心(小説) ー

 多情仏心(たじょうぶっしん)

 里見弴(とん)の長編小説。
 1922年(大正11)12月から翌年12月まで『時事新報』に連載、24年4月(前編)および8月(後編)新潮社刊。
 自分の「一生の仕事」を、「本気で惚(ほ)れ、女にも本気で惚れさせることだった」と確信する弁護士藤代信之(ふじしろのぶゆき)が主人公。
 多彩な女性遍歴を重ねながらも、真心を尽くして生きてきたと自負する彼は、関東大震災の日の明け方に、「心からしたいことをする分には、何をしたつていゝのだ」と言い遺(のこ)して安らかな臨終を迎える。
 「多情乃(すなはち)仏心」という句に想を得て、作者のいわゆる「まごころ哲学」=「誠実至上主義」を具象化し、強引と思われるほど縦横に展開した作品。
 2000枚に及ぶ大作で、大正末年の享楽的な風俗描写が生彩を放っている。 『「多情仏心」(新潮文庫)』

 《里見 弴(さとみ とん)》

 1888年(明治21年)7月14日〜1983年(昭和58年)1月21日)
 日本の小説家。
本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。
 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。
 人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。
 日本芸術院会員。文化勲章受章。



 《来歴》

 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。
 生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。
 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。
 同高等科 (旧制) を経て東京帝国大学文学部英文科へと進むが、程なくして同校を退校し、バーナード・リーチにエッチングを教わる。
 1910年(明治43年)4月、志賀直哉や武者小路実篤らが創刊した雑誌『白樺』に2人の兄と共に同人として参加した。
 ペンネームの里見は、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったとしている。
 志賀の手引きで吉原などで遊蕩し、父母に強硬に許しを請い、大阪の芸妓・山中まさと結婚した。
 その経歴が『今年竹』『多情仏心』などの代表作に現れている。
 志賀の『暗夜行路』冒頭に出てくる友人・阪口は、弴がモデルである。
 1914年(大正3年)には、志賀とともに松江で暮らし、このことを志賀は『暗夜行路』に、弴は『今年竹』に生かしている。
 1914年(大正3年)、夏目漱石の依頼を受けて『母と子』を朝日新聞に連載。

 1915年(大正4年)、『晩い初恋』を中央公論に掲載して本格的に文壇デビュー、翌年同誌に『善心悪心』を発表、弴の初期の代表作とされ同年、同名の短編集を刊行、祖母・静子に献じる。
 1917年(大正6年)、『新小説』に『銀二郎の片腕』を発表する。
 1919年(大正8年)、時事新報に『今年竹』を連載するが中絶、のち完成させる。この年、吉井勇、久米正雄らと雑誌『人間』を創刊した。
 1920年(大正9年)、『桐畑』を國民新聞に連載する。
 1922年(大正11年)から翌年大晦日まで、『多情仏心』を時事新報に連載した。  
 同年、兄・武郎の心中事件があり、弴は「兄貴はあんまり女を知らないからあんなことで死んだんだ」と言ったという。
 1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで、武郎の心中事件を中心とした長編『安城家の兄弟』を3部に分けて発表する。1932年(昭和7年)より6年間、明治大学文芸科教授を務めた。
 1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる賭博事件が浮上。
 同年11月17日、警察に妾(出典ママ)や書店経営者と麻雀をしていたところに踏み込まれて検挙された。
 菊池寛のとりなしで翌日釈放され、罰金刑を受ける。
 1940年(昭和15年)、菊池寛賞(戦前のもの)を受賞した。
 1945年(昭和20年)、川端康成らと鎌倉文庫創設に参加、1947年(昭和22年)、日本芸術院会員となる。
 1952年(昭和27年)、『道元禅師の話』を連載、1954年(昭和29年)、十五代目市村羽左衛門の出生の秘密に触れた『羽左衛門伝説』を毎日新聞に連載した。
 1956年(昭和31年)、短編集『恋ごころ』で読売文学賞を受賞する。

 終生鎌倉に住み、鎌倉文士のまとめ役だった。
 その縁で戦後は大船の撮影所にもよく出入りし、小津安二郎監督とも親しく小津と組んでいくつかの映画の製作にもかかわった。
 1958年(昭和33年)の『彼岸花』は小津と野田高梧の依頼を受け、映画化のために書き下ろしたものである。
 四男の山内静夫は松竹の映画プロデューサーであり、この映画の製作も務めた。
 弴は舞台への造詣も深く、その縁から歌舞伎、新派、文学座など、原作や戯曲も多く提供し、また演出も行った。
 代表作に花柳章太郎の当たり役(花柳十種のひとつに選ばれている)となった『鶴亀』(脚色:久保田万太郎)などがある。
 1959年(昭和34年)、文化勲章を受章する。
 1960年(昭和35年)、『秋日和』を発表、同年小津安二郎監督により映画化されている。
 1961年(昭和36年)に『極楽とんぼ』、1971年(昭和46年)に『五代の民』で2回目となる読売文学賞を受賞した。
 1971年(昭和46年)、志賀直哉の葬儀に際し弔辞を読み上げた。
 1983年(昭和58年)1月21日に肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で亡くなったが、二十四節気の大寒にあたる命日は「大寒忌」と呼ばれている(文学忌)。 2000年4月、四男の静夫が武郎、生馬、弴の「有島三兄弟」の父の故郷である鹿児島県川内市に弴の小説の原稿や書、水彩画など354点の関係資料を寄贈した。 
 資料には、有島家を題材にした「安城家の兄弟」や「風炎」の原稿、明治時代の通信簿や父の有島武が書いた「結納書」が含まれていた。
 これらの資料を中心に展示する「川内まごころ文学館」は2004年に開館し、1月30日の開館式には、有島三兄弟の子からひ孫まで約30人が出席した。

 〔ウィキペディアより引用〕



 関連項目 ー 腐れ縁 ー

 「別れたり復縁したりを繰り返している」「気付いたら、連絡を取り合ってしまう」……そんな恋愛関係の「腐れ縁」に悩んだ経験はありませんか。
 腐れ縁は、ある意味ふたりを結び付ける「運命」のようにも考えられますが、場合によっては、良縁ではなく悪縁になってしまう可能性もあるでしょう。
 今回のセキララゼクシィでは、恋愛コラムニストのトイアンナさんによる監修の下、「腐れ縁カップル」の特徴や「悪い腐れ縁」を断ち切る方法についてご紹介します。
 腐れ縁に悩んでいる人は、ぜひ参考にしてみてください!

 ▶腐れ縁の意味。どんな関係が腐れ縁なの?

 そもそも「腐れ縁」とは、どんな意味があるのでしょうか。
 国語辞典で調べると、腐れ縁は「離れようとしても離れられない関係」「好ましくない関係を批判的・自嘲的に言う」といった内容がつづられていました。
 腐れ縁という言葉は、好ましくないけど続いている関係を表現しており、ちょっとネガティブな意味を持つ語のようです。
 しかし、一般的に「腐れ縁」と言うとき、悪縁を表現するだけでなく、良い関係性を表す場合もあります。
 例えば、仲の良い幼なじみや同級生同士などの間で「子どもの頃からの腐れ縁で、お互いをよく知っている」といった使い方をすることもありますね。
 腐れ縁には、「意に反しダラダラと続いているマイナスな関係」と、「縁が続くことで互いにプラスになっている関係」という2つのケースがあるでしょう。

 ▶恋愛における「腐れ縁カップル」の特徴

 では、恋愛において「腐れ縁の関係」とはどのようなものなのでしょうか。
 その特徴をまとめてみました。

 ◆幼なじみや元同級生

 が近所の幼なじみや元同級生などは、昔から付き合いがあり、気心が知れているので、一緒にいると安心感のある存在。
 地元に共通の知り合いが多かったり、家族同士が親しくしていたりなど、人間関係が密なゆえに、良い意味でも悪い意味でも、縁が長続きしやすい関係といえます。

 ◆過去に付き合ったことのある元恋人

 過去に付き合っていた元恋人と、別れてから度々会う人もいます。
 やはり、一度でも愛した人というのは、特別な存在。
 求められると、情に流されることもあるでしょう。
 しかし、このような関係は、どちらか一方が割り切れない想いを抱えていることもあるようです。

 ◆なぜか憎めない存在

 腐れ縁カップル」は、互いに相手を憎めない存在として感じている場合があります。
 昔なじみで相手のバックボーンをよく知っていたり、過去の良い思い出を共有していたりするため、多少のいざこざは許し合えます。
 そのため、一緒にいるのが心地いいのかもしれないですね。

 ◆別れたりくっついたりを繰り返す

 「いい人ができたら本当に別れたい」とか言いながら、別れと復縁を繰り返すケースがあります。
 寂しいときに甘えられたり、愚痴を言いたいとき気軽に話しやすかったりするため、そうした行動を取ってしまうのです。
 その相手と一緒にいて、居心地がよく、ポジティブな気持ちになれるなら良いですが、「なぜか疲れる」「マイナスな感情になる」などネガティブな気持ちになる場合は、注意が必要ですね。

 ◆依存し合ってる

 孤独感を紛らわすために会っていたり、体の関係だけがダラダラ続いていたり、愛情がないのにもかかわらず利害関係だけでつながっているカップルもいます。
 「今楽しければいい」「今寂しくなければいい」といった短絡的な考えで一緒にいるため、互いに成長がありません。時間ばかりが過ぎていき、残るのはむなしさだけということも……。

 ◆別れる理由がないから付き合っている

 感情的に似ているために誤解されがちですが、「これまで大事にしてもらった恩があるから付き合っている」というのは「腐れ縁」ではありません。
 この違いは「もっといい人から告白されたら、別れるかどうか」です。
 トイアンナさんいわく「100%腐れ縁になってしまったカップルは、付き合う理由を失っている」そうです。
 そのため、新しい恋愛対象が出てきたら結婚一歩手前でも別れるリスクをはらんでいます。
 それに対して、これまでの恩を感じているカップルは、新しい候補が出てきても今の恋人を手放すことはしません。
 そこには恋心がなくても長く時を共に過ごしたことで培われた愛情があるからでしょう。

 ▶自分にとって悪い腐れ縁を断ち切る方法

 100%の腐れ縁は、要するに「自分にもっといい人が現れなかったときのキープ」として今の恋人を維持しているだけの関係。
 ですが、その相手がいるだけでも周りからは「なんだ、恋人がいるならアプローチは諦めよう」と思われてしまいます。
 「保険」として恋人とお付き合いしているはずが、むしろ素敵な相手とお付き合いするチャンスを失っている可能性大です。
 しかし、思い切って行動すれば、その先には新しい未来が待っているはず。
 ここでは「悪縁」を断ち切るための方法をいくつかご紹介します。

 ◆腐れ縁の相手との将来を、真面目に想像してみる

 「周りからこの人にしときなよって言われるし」「もうXX歳だし」と、自分の気持ちと関係ない理由でキープしているなら、一度冷静になってみましょう。 あなたはこれからその人と結婚して、子どもが欲しいと思ったときに一緒に育てる覚悟はありますか。その人が要介護になったとき、オムツを変えることはできますか。相手が経済的に不安定な状態になったとき、屋台骨となって家を支えられますか。 リアルに子育てや介護の想像ができないなら、腐れ縁を断ち切る時期かもしれません。 一度、相手と何十年も続く日常生活に耐えられるかを想像してみてください。そこで「ひとりの方がマシ」と思ったら、腐れ縁を切るべき時です。

 ◆他の人とデートに出掛ける

 ●もし、他に当てがあるのなら、別の人とデートをしてみましょう。 「新しい恋は面倒」という気持ちがあるかもしれませんが、新たな出会いは、腐れ縁の相手について考える時間を減らし、新鮮な気持ちを思い出させてくれます。 悪い腐れ縁の相手とばかり会っている状況は、いわば「換気のできていない部屋に引きこもっている状況」と似ています。空気を入れ替えるためにも、新しい出会いに積極的になれるといいですね。

 ◆連絡を取れないようにする

 体の関係だけしかない、相手の都合に振り回されているなど、腐れ縁の相手が自分にとって害でしかない存在であれば、思い切ってLINEを非表示やブロックにしたり、連絡先ごと消してしまいましょう。
 自ら連絡手段を断ち切ることで、自分の人生を前向きに生腐れ縁の相手との「思い出の品」を断捨離するのも、縁を断ち切るために重要な行動です。
 思い出の品が素敵な未来を連れてきてくれるわけではありません。
 過去の楽しかった日々の思い出は胸の中にしまい込み、区切りを付けてこれからの自分のために行動しましょう。
 自分の時間を充実させるきる決意の一歩を踏み出すことができるかもしれません。

 ◆思い出の品をすべて処分する

 腐れ縁の相手との「思い出の品」を断捨離するのも、縁を断ち切るために重要な行動です。
 思い出の品が素敵な未来を連れてきてくれるわけではありません。
 過去の楽しかった日々の思い出は胸の中にしまい込み、区切りを付けてこれからの自分のために行動しましょう。

 ◆自分の時間を充実させる

 相手のことを考える時間を減らし、依存状態から脱出するためには、「自分と向き合う」ことが最も大切かもしれません。
 難しいことですが、理想の自分に一歩でも近づくために、必要な行動は何かを考え、それに没頭してみましょう。
 仕事に集中したり、ひとりで旅行などに出掛けてみたり、新しい趣味を始めてみたりするのもいいかもしれないですね。

 ◆引っ越しや留学など、物理的な距離を取る

 悪い腐れ縁の相手が近所に住んでいたり、家族や友人とも親しかったりすると、なかなか関係を断ち切ることが難しいかもしれません。
 そういう場合は引っ越しや留学をするなど思い切って「物理的に距離を取る」というのもありです。
 環境を新しくすることで、ポジティブな気持ちになれ、相手に対する依存感情から抜け出せるかもしれません。

 〔情報元 : セキララ・ゼクシィ〕


   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 『多情仏心』 作詞 さだまさし

 誰がとばしたか竹蜻蛉

 横風に追われて

 あなたとの愛みたいに

 うしろ向きに落ちた


 誰がとばしたか シャボン玉

 あき風に追われて

 あなたとの愛みたいに

 すぐはじけて消えた

 〔情報元 : Uta-net〕



言の葉辞典 『守株待兎』

2023-09-19 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■守株待兎【四字熟語】

 【読み方】
 しゅしゅたいと

 【意味】
 いたずらに古い習慣やしきたりにとらわれて、融通がきかないたとえ。
 また、偶然の幸運をあてにする愚かさのたとえ。
 木の切り株を見守って兎を待つ意から。

 【語源・由来】
 中国春秋時代、宋の農夫が、ある日、兎が切り株にぶつかって死んだのを見て、また、同じような事が起こるものと思って、仕事もせず、毎日切り株を見守ってばかりいたので、畑は荒れ果て国中の笑い者になった故事から。

 【同義語】

 ・旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)
 ・刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)


 関連項目 ー 待ちぼうけ ー

 「待ちぼうけ」

 北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌(童謡)である。
 1924年(大正13年)に、満州唱歌の一つとして発表された。

 《歌詞》

 1.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 ある日せっせと、野良稼ぎ
 そこに兔がとんで出て
 ころりころげた、木の根っこ

 2.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 しめた。これから寝て待とうか
 待てば獲物が驅けてくる
 兔ぶつかれ、木のねっこ

 3.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 昨日鍬取り、畑仕事
 今日は頬づゑ、日向ぼこ
 うまい切り株、木のねっこ

 4.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 今日は今日はで待ちぼうけ
 明日は明日はで森のそと
 兔待ち待ち、木のねっこ

 5.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 もとは涼しい黍畑 いまは荒野(あれの)の箒草(はうきぐさ)
 寒い北風、木のねっこ

 関連項目 ー カーゴ・カルト ー

 カーゴ・カルト(cargo cult)

 主としてメラネシアなどに存在する招神信仰である。
 いつの日か、先祖の霊・または神が、天国から船や飛行機に文明の利器を搭載して自分達のもとに現れる、という物質主義的な信仰である。
 直訳すると「積荷信仰(つみにしんこう)」。
 近代文明の捉え方について独特の形態をとることが特徴である。

 《特徴》

 パプアニューギニアのマダン地区ボギア地方で起こったマンブ運動を研究した人類学者ケネルム・バリッジの著書『Mambu. A Melanesian Millennium』(1960年)などに基づくと、カーゴ・カルトの特徴は次のように整理される。

 ・カーゴの到来への期待と、その時が差し迫っていることを告げる預言。
 多くの場合、カリスマ的な指導者が超自然的な方法でメッセージを受け取り、それを預言として流布させる。

 ・カーゴの源泉は超自然的な領域(天国)にあると考えられており、カーゴはカーゴ神(カーゴを創造している超自然的存在)や先祖の霊と共に「汽船」で(内陸部の山岳地帯では「飛行機」で)到来(帰還)する。
 その際、多くのカーゴ・カルトでは、先祖は白人(白い肌をした存在)として戻ってくると考えられている。

 ・カーゴ・カルトのプラクシスとして、カーゴを受け入れるために、桟橋や滑走路が敷設されたり、倉庫や装飾された特別な建物が建設されたりする。
 沖合や上空を通過する船舶や飛行機を「おびき寄せる」ために、はりぼての「船」や「飛行機」を設置する。
 また、「カーゴ」の到来を促進するために、興奮状態(トランス状態)になって集団でダンスや歌を続けたり、放心状態となって海岸で水平線を見つめたりすることに専心する(それゆえ、日常のルーティンがすべて放棄され、村落の生活が荒廃してしまう)。
 さらに、たとえば集落の広場に整列して行進したり、盛装をしてテーブルについたりと、ヨーロッパ人の行動の模倣を行う。

 ・白人(ヨーロッパ人)がカーゴを独占しているのは、カーゴの獲得方法(ネイティブにしてみれば、それは超自然的な呪術的方法ということになる)を白人がネイティブに明かさないからか、もしくはもともとネイティブ向けに送られたカーゴを白人が不正な手段を講じて横領してしまったからであると、カーゴの分配についての不等な現状が説明される。

 《歴史》

 1919年、パプアニューギニアのガルフ地区に駐在していた行政官のもとへ、沿岸地域の村々で住民らが興奮状態にあるという報告が届いた。
 この報告によれば、村落に現れた先祖の霊が、カーゴを満載した大きな船で親族の霊が戻ってくるので、その受け入れ準備をするように告げ、指導者らはこれに従って歓迎の準備を命じ、白人と雇用契約を結んではならないと告げたという。
 住民の興奮状態は1920年5月22日付で沈静化した旨が記録されているが、この間には彼らが日常のルーティンを放棄したことで、生活は荒廃していったという。
 また、以後も同様の興奮状態が単発的に繰り返された。この後に人類学者F・E・ウィリアムズ(英語版)が行った調査の結果は、1923年に『ガルフ地区におけるヴァイララ狂信と土着儀礼の破壊』として発表された。
 これをきっかけに「ヴァイララ狂信(英語版)」(Vailala Madness)という言葉が広く知られるようになり、後にはカーゴ・カルトの典型とみなされるようになった。
 カーゴ・カルトという言葉が初めて使われたのは、雑誌『パシフィック・アイランズ・マンスリー』(Pacific Islands Monthly)の1945年11月号に掲載されたノリス・メルビン・バード(Norris Mervyn Bird)の論考においてである。  
 この論考では、カーゴ・カルトという概念とヴァイララ狂信を併置し、メラネシア各地で生じた類似の事例を包括する枠組みであるとした。

 人類学の分野で用語として定着したのは、ピーター・ワースレイの著作『千年王国と未開社会:メラネシアのカーゴ・カルト運動』(The Trumpet Shall Sound: A study of "cargo cults in Melanesia, 1957年)以後であり、これと同時に研究も本格化していくことになる。
 また、カーゴ・カルトを植民地状態から生じた社会的運動であったと初めて明確に主張したのもワースレイである。
 ワースレイはカーゴ・カルトを植民地主義的な経済的・政治的抑圧に対する未発達な形態の階級闘争、あるいは「異文化接触の合理的理解の運動」と位置づけたが、一方でさらに後年の研究においては、いわゆるカーゴ・カルトが政治的な組織と直接関係した事例は必ずしも多いわけではなく、またすべてのカーゴ・カルトが反植民地主義や反ヨーロッパ主義を特徴としたわけではないことが指摘された。
 例えば、バリッジが『Mambu』で取り上げたマンブ運動や、ピーター・ローレンス(英語版)が著作『Road Belong Cargo』(1964年)で取り上げたヤリ運動(英語版)は、ヨーロッパ人との関係を植民地状況においていかに再構築するかが目的であったとされる。
 ネイティブの信じる「同等性を原理とした互酬性の交換システム」において、ヨーロッパ人との不当な関係を解釈した場合、ヨーロッパ人と対等ではない以上は人間ではない、あるいは道徳的な欠陥を持つ存在となってしまう。
 そこで、ネイティブが持たないカーゴを獲得することが目的となり、ヨーロッパ人と対等の「新しい人間」存在へと変容するための運動が起こった。
 この中で対等者としての、いわば「聖㾗」を与える、両者を包括、あるいは超越した「新しい人間」の祖型としてマンブなる存在が創造され、これを信仰するマンブ運動が生まれた。
 1960年代の研究では、包括的な研究よりも、むしろ特定のカーゴ・カルトと土着の伝統的な信仰との類似性が注目され、こうした中でいわゆるカーゴ・カルトの多くは、ヨーロッパ人にとっては奇異に写ったものの、実態は従来の宗教儀式のバリエーションにすぎないと解釈されることも多くなった。

 ▼ジョン・フラム信仰

 バヌアツ・ニューヘブリデス諸島のタンナ島では、宣教師らが定めた規範を放棄し、伝統的な習慣に立ち戻ることによって、ジョン・フラムという人物から富がもたらされるという信仰がある。
 現在語られるところでは、ジョン・フラムが初めてタンナ島に現れたのは1939年であるという。
 彼の名は「ジョン・フロム・アメリカ」に由来するとも、白人や宣教師の影響を一掃する箒、すなわちブルームに由来するとも言われる。
 第二次世界大戦中に島民の多くがアメリカ軍の補助部隊に参加したこともあり、現在のジョン・フラム像にはアメリカ軍のイメージが重ねられている。
 そのため、戦後にはアメリカ軍のイメージを投影したシンボルや儀式が数多く考案された。
 また、イギリスのエジンバラ公フィリップをジョン・フラムの兄弟および積荷を積んだ飛行機の操縦者であるとして信仰の対象に含めている地域もある。

 《「カーゴ・カルト」概念に対する批判》

 カーゴ・カルト研究が進むにつれて、歴史性とイデオロギー性を背景とする「カーゴ・カルト」という概念自体の有効性が問題化されるようになった。
 そして、世界的なポストモダン的思潮の最中にあって、トーテミズムに対して行われたような、カーゴ・カルトに対する脱構築の試みが現れ始めた。

 カーゴ・カルトの典型とされるヴァイララ狂信について、実際にこれが存在した時代に研究を行ったのはウィリアムズただ1人で、以後の研究も彼の著作に依拠せざるを得なかった。
 しかし、「植民地政府お抱えの人類学者」であったウィリアムズの研究は、植民地行政にとって不都合で説明不能でもあるネイティブの事象を「ヴァイララ狂信」というカテゴリーに囲い込むことで、彼らを「病理を呈している患者」に仕立て上げ、植民地支配を可能にし、正当化したと批判される。
 批判者の中でも特に先鋭的な論調としては、例えばナンシー・マクダウェル(Nancy McDowell)が主張する、カーゴ・カルトなる概念は西洋人の偏見が作り出した虚構のメラネシア文化であり、現実にはそのような文化は存在しないというものがある。
 この主張においては、メラネシアの人々のこの信仰は、突如現れた旧来の常識では理解不能な異文明を、旧来の常識をもってどうにか止揚した彼らなりの解釈のしかたであり、この思考自体は何ら突飛なものではなく全世界普遍の反応であって「カーゴ・カルト」とは人類普遍の考え方の一部を切り出して名前を付けただけのものであるとする。

 1950年代には、カーゴにはシンボルとしての土着的な意味が備わっていて、土着人は対象とされる品物以上の、何か特殊な価値を求めているという解釈が既に語られ始めていた。
 カーゴ・カルトという概念が、植民地主義に対し生じたストレスやトラウマを根源とする多くの複雑かつ異なる社会的・宗教的運動全てを区別せず適用されてきたと批判する立場の人々は、信仰の目的はカーゴという物質的なものよりは、民族自決のように多用かつ不定形のものであったとする。ジョン・フラム信仰はカーゴ・カルトの典型とみなされることも多いが、バヌアツ文化センターの職員ジャン=パスカル・ワヘ(Jean-Pascal Wahé)は、しばしば語られる「座って助けを待つだけの物語」と、ジョン・フラムは無関係であると指摘する。ジョン・フラムは島民にとっての伝統の統一された象徴であり、外部からもたらされる変化ではなく、タンナ島民の文化的アイデンティティの象徴であるという。

 《類似信仰》

 ・オランダから植民地として圧政を受けていたオランダ領東インドの人々の間では、12世紀の王ジョヨボヨ(en:Jayabaya)が『バラタユダ』に書いた「北方から黄色い人間の軍隊が来攻、異民族支配を駆逐し、代わって支配するが、それはジャグン (トウモロコシ) 一回限りの短い間である」という予言が度々信じられており、1942年3月1日にオランダ領ジャワ島に上陸した日本軍はこの予言に重ねられて被支配層の人々から歓迎を受けた。
 インドネシアは独立後も似た様な予言が度々語られている。

 ・アステカ民族は1519年にやって来たスペイン人を、「一の葦の年(1519年)に復活する」と宣言してアステカを去った白い善神ケツァルコアトル(白い肌に黒い髪をしており生贄の儀式を嫌うという点にスペイン人が共通していた)と同一視したため、侵略を許してしまった。

 ・19世紀後半にアメリカで発生したゴースト・ダンスは、インディアンがアングロアメリカ人から抑圧された事で生まれた儀式である。
 パイユート族(英語版)の予言者ウォヴォカ(英語版)は、特定の形式で踊る事で先祖が鉄道に乗って帰還し、到来する新たな世界ではインディアンの自由とバッファローが復活し白人が抑圧される事になると説いた。

 ・現代のUFO信仰はカーゴ・カルトになぞらえられる。
 一部のUFO信奉者は近代兵器には宇宙人からもたらされた技術が用いられていると考えている。
 また一方でUFO信奉者自身もカーゴ・カルトの事例を古代宇宙飛行士説の説明に用いる。
 エーリッヒ・フォン・デニケンら古代宇宙飛行士説論者は上述の近現代における南太平洋のカーゴカルト信仰のような出来事が太古の地球においても宇宙人との接触によって引き起こされ、世界各地の神話や不思議な遺跡(オーパーツ)はその名残だと主張する。

 関連項目 ー まれびと ー

 まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。
 折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。
 まろうどとも。

 《概要》

 外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。
 その理由は経済的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれる。
 「まれびと」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者の折口信夫によって提示された。
 彼は「客人」を「まれびと」と訓じて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。
 折口のまれびと論は「国文学の発生〈第三稿〉」(『古代研究』所収)によってそのかたちをととのえる。
 右論文によれば、沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機となったらしい。

 常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。
 その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという。
 現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるという。
 まれびと神は祭場で歓待を受けたが、やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることになった。
 『万葉集』東歌や『常陸国風土記』には祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されている。
 さらに時代を降ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となった。
 来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。
 オーストリアの民族学者であるアレクサンダー・スラヴィクは、友人の岡正雄により日本における「まれびと信仰」の実態を知り、ゲルマン民族やケルト民族における「神聖なる来訪者」の伝説や風習と比較研究した。

   〔ウィキペディアより引用〕


   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 『石狩挽歌』 作詞 なかにし礼

 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると

 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ

 雪に埋もれた 番屋の隅で

 わたしゃ夜通し 飯を炊く

 あれからニシンは

 どこへ行ったやら

 破れた網は 問い刺し網か

 今じゃ浜辺で オンボロロ

 オンポロポーロロー

 沖を通るは 笠戸丸

 あたしゃ涙で

 ニシン曇りの 空を見る



 燃えろ篝火 朝里の浜に

 海は銀色 ニシンの色よ

 ソーラン節に 頬そめながら

 わたしゃ大漁の 網を曳く

 あれからニシンは

 どこへ行ったやら

 オタモイ岬の ニシン御殿も

 今じゃさびれて オンボロロ

 オンボロボーロロー

 かわらぬものは 古代文字

 あたしゃ涙で

 娘ざかりの 夢を見る

 〔情報元 : Uta-net〕

言の葉辞典 『暖簾』①

2023-09-15 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『暖簾』①

 《意味》

  のれんとは、屋号・店名などを記し、店先にかけておく布。
 また、部屋の仕切りや装飾に用いる布。店の信用・格式。

 《語源・由来》

  のれんは漢字で「暖簾」と書き、本来は「のんれん(「暖」は唐音で「のん」)」であったが「のうれん」となり、「のれん」に変化した。
 元々、暖簾は禅宗の用語で寒さを防ぐためにかけられた垂れ布をいい、簾の隙間を覆い暖めることから名付けられたものであった。
 店先にかけられる布の意味で「暖簾」が用いられるようになったのは、近世以降のことである。
 のれんは屋号などを記して店先にかけられることから、店の信用なども意味するようになり、「暖簾分け(のれんわけ)」や「暖簾代(のれんだい)」などの言葉も生まれた。

 暖簾(のれん)は、店先あるいは部屋の境界に日よけや目隠しなどのために吊り下げる布。
 商店の入り口などに営業中を示すため掲げられ、屋号・商号や家紋などが染め抜かれ(印染:しるしぞめ)ていることも多い。
(のれん)



(縄のれん)

 通常、複数の布(縁起を担いで奇数枚が多い)の上部を縫い合わせ、下部はそのまま垂れとし、上端に乳(ち)という輪状の布をつけて竹竿を通し出入口などに掛ける。

 《概要》

 古来、建物に直接風や光が入るのを防いだり、外からの目隠しとして、内外を柔らかく仕切った。
 暖簾はしだいに商店の営業の目印とされるようになり、開店とともにこれを掲げ、閉店になると先ずは暖簾を仕舞う(片付ける)ことでそれを示した。
 この意味が転じて屋号を暖簾名(または単にのれん)と象徴的に呼び、商店の信用・格式をも表すようになった。
 戦前戦後の屋台・飯屋などの店では、客が出て行く時に食事をつまんで汚れた手先を暖簾で拭いていくという事もあり、「暖簾が汚れているほど繁盛している店」という目安にもなっていた。
 銭湯・旅館など入浴・温泉施設がある建物においては、「ゆ」などと書いた「湯のれん(ゆのれん)」を掛ける事がある。
 また、「女湯」「男湯」などの暖簾を下げて区別を分かり易くしたり、時間帯により下げ替えて場所の置換を示す事もある。
 暖簾は、聖なる領域と俗なる領域を結界する意(注連縄)も持っており、玉暖簾などは料理店などの調理場にかけられる。

 竹竿を通す乳は、イヌの乳のように等間隔に並んでいることからそう呼ばれ、東日本で多く見受けられ、西日本では一本の筒のようになっていることが多いがこれも乳と呼ばれる。

 《歴史》

 日本の家屋では戸口にかけて日光や雨などを遮る障具の素材として最初は筵(むしろ)を用いていた。
 暖簾は古語で「たれむし」といい関連も指摘されている。
 暖簾が現存する資料に現れる最初のものは保延年間の『信貴山縁起絵巻』で現代の三垂れの半暖簾と同様のものが町屋の家に描かれている。
 保元年間の『年中行事絵巻』には大通りに面した長屋に三垂れの半暖簾・長暖簾がみられる。
 また、治承年間の『粉河寺縁起絵』には民家の廊下口にかかる藍染の色布がみられる。

 《種類》

 ▼基本的分類

 鯨尺三尺(約113cm)を基準としてそれより長い長暖簾とそれより短い半暖簾に分けられる。
 丈は最も短いが幅が長く間口全体に及ぶものを水引暖簾という。

 ・長暖簾

 直射日光による品傷みを避けたり、店内の客が品選びに落着けるように配慮する目的で使われてきた。

 ・半暖簾

 店内の作業や商品を客に見せたい場合に用いられ、うどん屋、蕎麦屋、寿司屋などにみられる。

 ・水引暖簾

 水引暖簾は軒先に掲げた筵張り、板張りの木枠が布に代ったものとされている。

 ▼特殊な暖簾

 ・日除け暖簾(太鼓暖簾)

 切れ込みのない一枚布を軒先から道路にせり出すように張った暖簾。
 風に煽られると音がすることから太鼓暖簾ともいう。

 縄暖簾(紐暖簾)

 布のかわりにカラムシ(イラクサ)を縒った縄を横一列に並べて垂らしたもの。
 歴史は布の暖簾よりも古いといわれている。
 天保年間に煮売りの居酒屋で虫よけになると掛けられるようになり縄暖簾は居酒屋の代名詞になった。

 ・珠暖簾(玉暖簾)

 珠暖簾は古くは珠だれと呼ばれ、ビーズやガラス製・木製の珠を繋げて紐に通し、垂らしたもの。

 ・管暖簾

 管暖簾は篠竹、木管、ガラス管、管状の具殻を繋げて垂らしたもの。

 関連項目 ー のれん分け ー

 のれん分け(のれんわけ)

 日本において、奉公人が主家から許されて出店することを意味する概念。
 主家と同一またはそれに近い屋号を染め抜いたのれんの使用を認めたことからこの名があり江戸時代に盛んに行われた。
  無償方式のフランチャイズのような性格があるが、江戸時代ののれん分けと現代のフランチャイズ・システムには事業対象や契約関係、身分関係などに大きな相違がある。
 のれん分けは江戸時代には盛んにおこなわれたが、時代が下るにつれ、身分制度や雇用形態の変化、経済構造の変化などに伴って少なくなった。
 ただ、現代でも従業員の士気高揚策や販売網拡充策として用いられることがある。

 《のれん分けの例》

 ▼飲食業・小売業・製造業

 ・千疋屋總本店 → 京橋千疋屋、銀座千疋屋

 ・木村屋總本店 → 札幌キムラヤ、岡山木村屋、木村屋(福岡県久留米市)等

 ・さくらや(新宿) → 荻窪カメラのさくらや(荻窪)

 ・創元社(大阪) → 東京創元社(東京)

 ・三洋電機 → 東京三洋電機
  その後1986年に三洋電機本体に吸収合併。

 ・松下電器産業 → 松下電工
  その後、松下電器産業がパナソニックに社名変更する事に合わせてパナソニック電工に社名変更し、最終的にはパナソニックに再度統合されている。

 田辺製薬(旧:田邊五兵衛商店・大阪) → 東京田辺製薬(旧:田邊元三郎商店・東京)
  その後、東京田辺は合併を繰り返して三菱ウェルファーマとなり、最終的には田辺三菱製薬として再度統合されている。

 ・セイコーインスツル(旧第二精工舎 → セイコー電子工業 → セイコーインスツルメンツ) → セイコーエプソン(旧大和工業 → 諏訪精工舎)

 ・高見沢電機製作所(後に倒産) → 高見沢サイバネティックス

 ・餃子の王将 → 大阪王将

 ・力餅食堂

 ・来来亭

 ・大勝軒

 ・ラーメン二郎

 ・ぼてぢゅう総本家→ぼてぢゅうグループ

 ・コメダ珈琲
  創業時の店舗に存在する。

 ▼サービス業

 ・大映(後に倒産 → 再建、現・角川映画) → 大映テレビ、映像京都

 ・ノヴィル(旧シンクス、徳島、遊技業・外食業主体のコングロマリット)→アクサス(旧(有)セルバ、徳島、専門店主体の小売業)

 帝拳プロモーション(東京帝拳) → 大阪帝拳、福岡帝拳、八戸帝拳

 ・協栄ボクシングジム → 協栄札幌赤坂、博多協栄、協栄カヌマ

 ・新日本木村ボクシングジム → 新日本大阪・新日本仙台・新日本カスガ・新日本周南・新日本大宮

 ・U-FILE CAMP → U-FILE CAMP岐阜

 ・スーパーホテル

 関連項目 ー 花嫁のれん ー

 花嫁のれん(はなよめのれん)

 日本の石川県と富山県の一部地域で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、ならびにそののれんを尊び用いる風習を言う。

 《概要》

 幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀・能登・越中の地域で行われた風習で、平成時代に入っては石川県能登地方の観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている(第5353935号)。
 使用されるのれんは、多くは加賀友禅で仕立てられ、上部には新婦実家の家紋が染め抜かれている。
 代表的な図柄に「鶴亀」が用いられる。
 のれんは婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り(婚家系譜に入ることを先祖へ報告)」をした後、結婚式に臨む。式から1週間、仏間の入口にそのまま掛けられ(あるいは仏間内に移さたうえで衣桁に飾られ)、仏間にいるとされる婚家先祖の霊(現代では祝賀に訪れた近隣住民)に対し新婦実家の系譜をその家紋に依って明示し、同時に、婚家当主の立場から祖先へ婚礼事実の報告を行う。
 花嫁のれんは、婚礼当日(および、わずか1週間の披露期間)のためだけに個別制作すなわち新婦実家によって発注され、新婦実家から婚家へ嫁入り道具の一環として贈られる。
 ただ、結婚式で一度しか使用できず高価かつ非実用品であるため、現代においては(西洋のウェディングドレス同様に)母親が嫁ぐ娘へ自身の花嫁のれんを譲る例がある。

 《関連する婚姻風習》

 花嫁が結家の敷居を跨ぐ際、玄関で「合わせ水」がある。
 花嫁の家の水を竹筒に入れて持参し、嫁ぎ先の水と実家の水をカワラケに同時に注いだ「合わせ水」を花嫁が一口飲む。
 すると媒酌人夫人が「両家の水に合いますように」と願いを込めて、カワラケを玄関の地面に打ち付けて割る(元に戻れない、すなわち「離婚して実家に戻る」などの事態を否定する、『新婦の退路を断つ』象徴的な行為)。
 富山、福井では、これを「一生水」と呼ぶこともあり、嫁ぎ先の水だけを飲み、「一生この家の水を飲みます」という誓いになる。

 関連項目 ー 居酒屋 ー

 居酒屋(いざかや)

 酒類とそれに伴う料理を提供する飲食店で、日本式の飲み屋である。
 バーやパブなどは洋風の店舗で洋酒を中心に提供しているのに対し、居酒屋は和風でビールやチューハイ、日本酒などを提供する店が多く、バーやパブに比べると料理の種類や量も多い。

 《概要》

 装飾や提供する飲食類は和風のことが多いが、あえて洋風にすることにより他店との差別化を図る店もある。
 また、新鮮な魚介類を提供していることを強調するため店内に活魚用の生け簀を作る店や、カウンターを作って目の前で調理をしてみせる店など、様々な工夫を凝らした店が増え多様化している。
 チェーン店においてはセントラルキッチンにおいて調理済みの料理を提供する店が多かったが、近年は「店内調理」を前面に出してセールスポイントとするチェーンも少なくない。

 《歴史》

 ▼日本の居酒屋

 『古事記』に登場する逸話や歌から、8世紀初頭までには定着していた。
 「造酒司(みきのつかさ)」と呼ばれる役所の管轄の下、醸酒料としての米が租税として徴収された733年の記録が残っている。
 797年に書かれた『続日本紀』には、761年に葦原王が居酒屋で酔って殺人事件を起こした記録が残っている。
 ただしこの時は中国大陸の言葉である「酒肆(しゅし)」と書かれていた。
 奈良時代になると貨幣経済も始まり、仏教寺院などで酒の醸造と提供が始まり、神社関連も醸造を行うようになる。
 やがて平安時代から室町時代にかけて民間業者が醸造を行うようになり「醸造屋」と呼ばれるようになった。
 「醸造屋」は当初、貴族階級の富裕向けであり、庶民の飲酒行為は、811年の規制法等によって、祭り以外の飲酒が規制されていた。
 醸造屋が全国に波及するのは、11世紀頃と言われている。
 鎌倉時代になると貨幣経済が都市部で本格化し、武士階級に酒を提供する醸造屋が現れた。
 これらは「好色家」と呼ばれ、酒類の提供だけでなく売春業も行っていたようである。
 酒を巡ってのトラブルも多発したため、1252年(建長4年)の10月には、酒壺の破棄指令が出たほどである。
 その後、鎌倉時代の末期になると、ようやく商人階級に酒類を提供する醸造屋が登場する。

 室町時代になると醸造屋は一定の権力を持ち、幕府から課税対象とみなされるようになる。
 この頃の醸造屋は同時に金貸しをやっており、庶民に対して積極的に金を貸すと同時に、酒類も提供していた。
 また室町時代から、醸造と提供の分離が始まり、酒の提供に特化した「酒屋」や茶も出す「茶屋」が登場するようになる。
 その後戦国時代になると各大名が領内の経済強化のために酒屋や茶屋を積極的に保護した。
 都市部や街道沿いには庶民相手の居酒屋が建つようになる。
 居酒屋の本格的な発展は江戸時代頃になる。
 酒の量り売りをしていた酒屋(酒販店)で、その場で酒を飲ませるようになり、次第に簡単な肴も提供するようになった。
 酒屋で飲む行為を「居続けて飲む」ことから「居酒」(いざけ)と称し、そのサービスを行う酒屋は売るだけの酒屋と差別化するために「居酒致し候」の貼紙を店頭に出していた。
 現在でもこうした酒販店に付属する形式の立ち飲みスタンドは残存しており、近隣住民の気軽な社交場として機能している例も見られる。
 他にも煮売屋が酒を置くようになったことに始るもの、また屋台から発展したものなどの別系統もある。
 江戸は男女比率が極端に男性に偏っており、一人住まいの独身男性が多かったことから酒が飲めて簡便に食事も取れる居酒屋は大いに広まっていった。
 一方、農村部は最後まで居酒屋の普及が遅れ、18世紀後半まで待たなくてはならなかった。

 明治時代になると文明開化の名の下、ビールなど洋酒が流入し、1899年には東京の銀座に富裕層向けの「恵比寿ビアホール」が設立された。
 その後、カフェやキャバレー等の洋風居酒屋が相次いで流入した。
 1939年にはビール生産量が太平洋戦争前のピークを迎えている。
 太平洋戦争末期の1944年、『決戦非常措置要綱』により多くの飲食店やカフェーが閉店に追い込まれ、一方で1人ビール1本または日本酒1合に限る公営の国民居酒屋が登場した。
 戦後の1960年を境に日本酒と洋酒の消費量が逆転することになった。
 1970年代頃までは居酒屋といえば男性会社員が日本酒を飲んでいる所というイメージが強かったが、近年は女性にも好まれるようにチューハイやワインなど飲み物や料理の種類を豊富にしたり、店内装飾を工夫したお店が多くなり、女性だけのグループや家族連れを含め、誰でも気軽に利用できる場所というイメージが定着しつつある。

 特に1980年代頃から居酒屋のチェーン店化が進んだ。
 このことで、居酒屋は安く、大人数が集まることができ、少々騒いでもよく、様々な人の好みにあわせて飲み物や料理を選べるというメリットを持つようになった。
 このため、学生・会社員・友人同士などのグループで「簡単な宴会」を催す際の会場としてよく用いられている。
 チェーン店を中心に基本的には低価格で気軽に飲食できることを売りにしている店が多く、そのため男女に関わらず広い層を顧客としている。

 ▼中国の居酒屋

 中国でこれまでに確認されている最古の酒の痕跡は、紀元前7000年頃の土器に付着していた酒粕である。
 内訳は米や葡萄、蜂蜜などの成分が含まれていた。
 当初は華北に殷や周の王都が建国されたため、麦栽培が盛んになる紀元前270年以前は黍や粟の酒が、それ以後は麦の酒が飲まれた。
 稲作は気象条件の都合上、華中と華南でしか栽培できなかったため、米の酒が流通するのは、秦の中国統一による紀元前3世紀頃と言われている。
 その後、紀元前6世紀頃の春秋時代に布銭や刀銭、そして紀元前403年から紀元前221年までの春秋戦国時代にかけては青銅貨の円銭が流通した。
 これら貨幣経済の誕生と共に居酒屋や酒類を提供する宿屋は誕生したと見られている。
 古代中国では、民衆の酒盛りは禁止されており、漢の法律には『三人以上故なくして酒を群飲すれば、罰金4両』と規定されていた。
 ただし、国家の慶事の際には民衆の宴会は許されたようである。
 このことから古代の居酒屋は、富裕層向けに特化した店だったようである。

 その後居酒屋は、唐代の頃になると、各都市部に庶民向けの店が出始め、「酒肆(しゅし)」や「酒楼(しゅろう)」、「酒家(しゅか)」などと呼ばれた。
 これらは、当時の詩人であった李白や杜甫によって歌に詠まれている。
 各都市の街道沿いには宿屋を兼ねる居酒屋が軒を並べ、看板である「酒旗」を掲げ、ウイグル系の酌婦などが働いていた。
 当時は夜間の営業が禁止されており、深夜営業は宋朝の時代まで待たなくてはならなかった。
 またこの唐の時代に、詩人の王翰が葡萄酒を歌に詠んでいるが、ワインのような代物ではなく米と葡萄汁をブレンドした醸造酒だったようである。
 その後はアラビアから蒸留酒が伝来し、「白酒(パイチュウ)」と呼ばれて富裕層が嗜んだ。
 蒸留酒が庶民に出回るのは20世紀になってからである。
 宋の時代になると居酒屋は「酒壚(しゅろ)」と呼ばれるようになり、12世紀初頭の北宋の頃には、酒を蒸気で蒸して加熱殺菌する世界初の試みがなされている。
 居酒屋が庶民に広がった頃、同時に仏教の寺院等で茶館と呼ばれる飲茶の文化が広まった。
 居酒屋の持つ多機能性は茶館に集約され、共産党による一党支配がなされるまで、その機能を維持し続けた。現在では「酒家」はレストランを差し、「居酒屋」は日本から逆輸入されて使用されている。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『暖簾』②

2023-09-15 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『暖簾』②

 ▼古代オリエントの居酒屋

 編集 紀元前18世紀の古代バビロニアには既に居酒屋が存在していたとされる。 
 当時の居酒屋は無償提供であり、有償の提供は下賤行為とみなされ、居酒屋は下層民の店として上流階級から侮蔑された。
 この傾向は貨幣経済が浸透した紀元前7世紀以降も継続する。
 記録としての居酒屋の最初の記述はバビロニアの法律集ハンムラビ法典であり、代金は大麦、謀の禁止や尼僧の来店禁止などの細かい規定が存在した。
 その後紀元前1300年頃には古代エジプトにも広まっており、この時代の王であったラムセス2世の王都ではビール、ワイン、蒸留酒等が売られ、特にビールは国民飲料と言って良いほど頻繁に飲まれたようであるが、ワインは気候柄栽培できなかったため輸入に頼っていた。
 やがて紀元前670年頃にリディア王国の貨幣鋳造が始まると貨幣経済が浸透する。
 紀元前の二桁の年数になると尼僧禁制も解かれ、居酒屋は娯楽施設に変容した。
 居酒屋が世界に伝播して行ったのは宗教のおかげであり、三大宗教のうちの一つであるキリスト教と、その祖先であるユダヤ教は飲酒を悪としなかったため、この2つの宗教が存在するところには自然と居酒屋が発生した。

 貨幣経済が当たり前となった紀元前5世紀頃の居酒屋は宿屋の機能も兼ね、古代ギリシャでは多くの詩人や歴史家、演劇人が居酒屋の記録を残している。
 ギリシャの居酒屋には、ギリシャ以外の外国人や、商人、巡礼者、ヤクザ者、放浪者、奴隷出身の水夫や肉体労働者など下層民が溜まり場として、売春や窃盗、果ては盗賊などのアジトと化していた物まであった。
 特に物流が集結するアテナイや古代の植民都市であったビザンティウムには居酒屋が多く立ち並んだが、上流階級は相変わらず居酒屋を忌み嫌い、アレオパゴス集会で居酒屋入店を禁止したり、哲学者のプラトンが『飽くなき利益を追求する商売行為』と非難したほどである。
 またギリシャの居酒屋では、ブドウ栽培やワイン醸造が発達したため、ビールよりワインが好まれた。
 時代が進んだ古代ローマの居酒屋兼宿屋は「タベルナ」と呼ばれ、宿屋と共に厩が併設された。
 軒に酒の神ディオニソス(ローマ呼びではバッカス)の化身であるキヅタの枝束を吊るして看板としていたようで、ほかにも熊や鷲、オリーブ、車輪、剣がモチーフになった。
 ローマやイタリアなどの都市を繋ぐ街道沿いの居酒屋は「カウポーナ」と呼ばれ、1階が食堂で2階が寝室と様式化された。純粋な居酒屋は「ポピーナ」と呼ばれ、女性店員は売春婦として日常的に居酒屋の2階で商売をしていたようである。
 ローマは紀元前2世紀ギリシャを征服するが、征服前はビール、征服後はギリシャ文化に倣ってワインを好むようになった。

 ローマ時代も相変わらず居酒屋は下賤なものとされたが、第2代ローマ皇帝ティベリウスや第3代カリグラ、第4代クラウディウス、第5代ネロ、第8代ウィテリウス、第17代ルキウス・ウェルス、第18代コンモドゥスの歴代皇帝は居酒屋通いをしていたとされる。
 特にティベリウスは「ビベリウス」(のみ助)のあだ名を称されるほどの酒好きであった。
 ローマの居酒屋は大体夕方の16時に開店し、祭日ともなると深夜営業を行った。
 日没後は香を炊くなど客への配慮も怠らなかった。
 ローマ時代の居酒屋には飲酒と売春業の他に賭博業が新たに加わり、特にサイコロ賭博が盛んに興じられ娯楽性が強調されていく。
 居酒屋はローマ帝国の発展と共に各属州に広まっていくが、ローマ帝国の終焉と共に一度全滅の憂き目に遭う。
 中世ヨーロッパ初期の領主たちがギリシャやローマの貴族たちのように、自分の領地内での酒類の地産地消を行い、商売としての居酒屋を認めなかったためだ。

 ▼ヨーロッパの居酒屋

 ヨーロッパで居酒屋が登場するのは11世紀頃である。
 荘園制度による農地改革で農奴たちが土地を経営できるようになったからだ。
 各村々や都市との交流が再び活発化し、折しも十字軍の時代であったために多くの巡礼者がこの交流に拍車をかけた。
 王が最後まで居酒屋認可の利権を独占したイギリスと異なり、ヨーロッパ大陸では権力者たちが早々と認可権を手放したため、地方の有力者や教会、修道院などが積極的に居酒屋を経営するようになった。
 やがて彼らは自分たちが開いた居酒屋以外での飲酒を禁止する居酒屋禁制を公布することとなる。
 ドイツではビール、フランスではワインが主だった禁制対象であり、長らく諸侯たちの利権であり続けた。
 こうして誕生した居酒屋には都市と農村で明確な違いが現れる。
 都市の居酒屋は上流と下流の人々による棲み分けが行われ、上流では嗜好品としての酒類の提供、下層ではそれに加えての売春、賭博による娯楽の提供に特化していく。
 一方農村では居酒屋自体が村のコミュニケーションの場となり、世代や性別を問わず人が集うだけでなく、行政や司法などの村の機能を代行する一大コミュニティーセンターとなっていった。

 1647年にイタリアのベネチアにアラブ発祥であるカフェが伝来すると、やがて勃発したフランス革命による封建制の崩壊と上流社会文化の開放により、瞬く間に欧州全土に広がる。
 18世紀の後半に大衆向けのカフェが出来るようになるとリキュールなどの酒類の提供が盛んに行われ、加えてレストランやホテルといった外食産業による酒類の提供も盛んになった。
 居酒屋の役割はこれら新興の飲食店が果たすようになる。
 また低温殺菌や冷凍保冷など、酒類を長期間保存できる技術革新も居酒屋を衰退させる間接的な要素となった。
 革命の伴う封建制の崩壊は、農民たちを都市部に招く結果となり、多くの労働者が発生した。
 19世紀になって登場した週払いの給金システムによって、居酒屋は労働者たちの週末の息抜きの場になっていく。
 二日酔いに伴う月曜日の欠勤が多発し、「聖月曜日」が一時期習慣化する事態となった。
 19世紀から20世紀にかけて、アメリカ合衆国に端を発した禁酒運動の影がヨーロッパに広がったが、いずれの国でも禁酒法が成立されることはなく、仮に成立してもすぐに廃止された。
 しかし禁酒運動は、酒類輸送を人員輸送に転換した鉄道旅行の発達や識者たち啓蒙によるスポーツの振興を促す要因となった。

 ▼イギリスの居酒屋

 西暦43年にローマがブリタニアに侵攻する以前、ケルト人は古代フェニキア人から教わったビールを、紀元前2世紀か紀元前1世紀頃には既に常飲していたようである。
 ローマ以後、455年に民族大移動に伴うアングル人とサクソン人の入植、そして1066年のノルマン人による征服でも、ビールを飲む習慣は変わらなかった。
 イギリスのビールはエールと呼ばれ、常温での上面発酵させたホップなしのビールである。
 イギリスでのビールは各個人の家庭で作られ、それを近隣住民や旅行者たちに分け与えたのが居酒屋の始まりで、居酒屋が「エールハウス」と呼ばれるのもここから来ている。
 初期の居酒屋は家庭発祥の経緯から女性経営者が多かったが、専業となるに伴い醸造等の肉体労働に対応するため、男性経営者が増えていく。
 特にイギリスの場合は身分の低い者たちが経営者となり、毛織物業や皮革業などの兼業で生計を立てることが多かったそうで、居酒屋が専業として免許による認可制になったのは1552年である。
 その後居酒屋は、宗教改革に伴う価値観の変化によって聖と俗の分離がなされ、飲酒が涜神行為とみなされるようになる16世紀から17世紀にかけて爆発的にその数を増やしていく。
 この頃の居酒屋は、宿屋の側面が強い「イン」と「エールハウス」、ワインを専門とする「タヴァン」の3種類に分かれていた。
 このうちタヴァンにはイギリスの上流階級が頻繁に通うようになり、格差が生じるようになった。
 また農村では共同体の交流の場となり、会合や商談、選挙投票や裁判などが行われた。

 19世紀頃になると居酒屋は「パブリックハウス」、通称「パブ」と呼ばれるようになるが、居酒屋としての多機能性は徐々に失われ、純粋に酒類を提供する店に特化する。
 当時有名だったパブは「ビクトリアンパブ」であり、パブ内において上流(サルーン、パーラー)と中流、下流に階層順に別れていた。
 やがて上流向けは会員制クラブやサロンに移行し、パブは下層民の店となる。当初パブでは、エールとビールが良く飲まれたが、17世紀にオランダから伝来したジンを主立って提供する立ち飲み形式の「ジンパレス」が猛威を振るう。
 その後は踊りやショーを提供するミュージックホールが主流となるが、1843年の劇場法によって演劇が禁止され、音楽と踊りのみ認可されて今日に至る。

 ▼フランスの居酒屋

 フランスではキリスト教の教会や修道院が居酒屋の起源であり、客は多くが巡礼者たちであった。
 しかしカエサルが紀元前1世紀にガリアに侵攻(ガリア戦争)を行った時まではビールが主に飲まれており、今日フランスの代名詞であるワインはカエサル率いるローマ人によってもたらされたものである。
 ワインはまず南部でのブドウ栽培が盛んになり、10世紀頃からセーヌ川やロワール川流域で王権と繋がりの深いクリュニー会の教会や修道院で盛んに醸造され、ミサなどに使用された。
 11世紀頃にバイキングの侵攻を受けたのを機に、現在のブルゴーニュ地方に栽培拠点を移してからはクリュニー会に異を唱えたシトー会の修道士たちによって、フランス全土に広まっていったのである。
 フランスの居酒屋は、宿屋の機能を持つ「オベルジュ」や「ホテル」、大衆飲み屋としての「キャバレー」や「タヴェルン」、安価で食事を提供する「ガルゴット」、そして18世紀の首都パリ郊外で多く見られた「ギャンゲット」がある。
 18世紀から19世紀にかけてワインが大衆化されるようになってから居酒屋の進化が起こり爆発的にその数を増やした。
 「ガルコット」は「ターブル・ドート」、「タヴェルン」は「アソモワール」に呼び名が替わり、また喫煙者限定の酒場である「タバジー」、ビールを主に提供する「ビストロ」や「ブラスリ」が登場するが、実際には居酒屋の種類の境界は曖昧であった。

 居酒屋の数は19世紀に激増し、1789年は10万だったのが、1830年に28万、1914年にはおよそ50万店舗にまで拡大した。
 パリだけでもフランス革命時代に公式で3000ほどだった店舗が、1840年代後半には4500、1870年には2万2000、19世紀末では3万に達する。
 パリの居酒屋は中世時代の多機能が色濃く残り、労働者たちの出会いの場や職業斡旋、ストライキの会合まで行われた。
 賃金が居酒屋で支払われたメタルコインの換金システムも、居酒屋の多機能性を残す要因となった。
 やがて居酒屋内に音楽と芸能が流入し、「カフェ・コンセール(音楽カフェ)」と呼ばれる店舗が登場してくる。
 1867年に芸人の衣装に関する規定が緩和されたことで、居酒屋の娯楽性はさらに高まる。
 1881年にロドルフ・サリによって、近代的な居酒屋であるキャバレー「黒猫」が登場したことで、居酒屋は各界著名人が集う一大サロンと化していった。

 ドイツの居酒屋 編集 ドイツでも、居酒屋は領主でもあった教会や修道院が巡礼者のために酒類を提供するようになったのが起源であり、修道院内に「修道院居酒屋」と呼ばれる施設を堂々と開いていた。
 「修道院居酒屋」は開かれたものであり、村人たちが気軽に飲みに来られる場所であった。
 ドイツでは当初ワインが主体であったが、16世紀頃に発生した後氷河期によって南部地方のブドウ栽培が不可能となり、18世紀頃になるとビールが主体となった。
 世界最古のビール醸造所があるヴァイエンシュテファンは、ベネディクト会の修道士たちが中心となって1021年に建てた修道院が発祥となっている。
 またビールに付き物のホップも直後から添加されていた。
 1516年にバイエルン公ヴィルヘルム4世が発布したビール純粋令によって、ドイツのビールはより洗練された物となっていき、1871年のドイツ統一までの間、ドイツではビール令を順守した上で様々な地域性のあるビールが醸造され続けた。
 1524年から1年間起きたドイツ農民戦争や17世紀の30年戦争では、村々の居酒屋が蜂起した農民たちの集会所となり、集会のみならず平常時でも雑貨屋や、食料品店、商談事や裁判、銀行業務、軍人募集まで請け負う多機能性を有していた。
 利用する人間も富裕層から貧困層まで幅広く、男女や年齢による制限も比較的ゆるいものであった。
 このことを都市部の人々は快く思っておらず、マルティン・ルターなどは、「祝日に行われているあらゆる悪徳の場」と蔑んでいる。

 フランス革命が勃発すると教会や修道院の領地は没収され、「修道院居酒屋」も閉鎖されてしまう。
 このフランスでの革命を機に、ドイツ国内でも近代的なカフェやキャバレーが登場し、1901年にエルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンによるキャバレー「彩色劇場」の登場によって一層の娯楽性を強調していったが、より劇場型に特化して政治風刺の強い社会性を強めていく。  
 戦間期のワイマール共和国時代になってこの傾向は一時期廃れるが、共和制末期の4年間に再び活気づく。
 しかしナチ党の権力掌握が進んだ1935年、最後の一軒が閉店し、ドイツキャバレーの歴史は幕を閉じる。
 一方でドイツのカフェは、バイエルン王政時代からの醸造所を改造したミュンヘンの「ホフブロイハウス」を筆頭に、1928年時点の首都ベルリン市内で1万6000軒を数える規模にまで発展する。
 特にホフブロイハウスは、後にナチス・ドイツ総統となるアドルフ・ヒトラーが1920年に国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)を結成した場所として有名である。

 1928年にはベルリン市内に、2500人収容可能な巨大カフェ「ハウス・ファターランド」が完成し、ドイツのみならず、スペイン、トルコ、東欧、日本などの様々な様式の居酒屋がカフェ内に開設され、ダンスホールや映画館、オーケストラによるショーを連日行う世界最大の娯楽施設として、年間100万人の来場者を記録したという。
 この来客層は当時の中産階級であり、ナチスの支持基盤層であったためカフェは禁止されなかった。
 ハウス・ファターランドは第二次世界大戦で爆撃を受けて損傷し、1953年に破壊されている。
 ドイツは最も遅くショービジネス形式の居酒屋が伝来し、居酒屋の持つ多機能性を最も残した国となった。

 ▼スペイン・東欧の居酒屋

 スペインでは、聖ヤコブの墓へのサンティアゴへの巡礼を行う者たちのための居酒屋が、宿屋の併設という形で11世紀頃からレコンキスタの余波もあって北部から南部にかけて急速に発達していった。
 街道沿いの宿屋は「ベンタ」と呼ばれたが、治安や設備等が粗悪であり、待遇は良くなかった。
 一方東欧では、1453年のビザンツ帝国崩壊に前後して、バルカン半島一帯がオスマン帝国の勢力下となり、北部のスラブ地方ではドイツ騎士団によるプロイセンの建国により、居酒屋も大きく様変わりする。
 東欧南部では都市型の居酒屋が、北部では農村型の居酒屋が多くみられるようになっていく。

 ▼ロシアの居酒屋

 ロシアの居酒屋の歴史は13世紀頃にアラビアから伝来したウォッカに始まる。
 1480年にモスクワ大公国の都市部に「カバキ」と呼ばれる居酒屋が誕生する。
 飲まれたのはやはりウォッカであった。
 初期のカバキは国営であり、貴族専用店であったが、直ぐに富裕層に解禁され、17世紀には私営店も認可されるようになった。
 この辺りまでのウォッカは高級品で、低所得の市民や農民は雑穀から作ったクワスと呼ばれるアルコールの度数が低い酒を飲んでいたようである。
 農村部までにウォッカの出す居酒屋が広まるのは19世紀になってからである。
 この頃になると、カバキは高所得者向けの居酒屋の名称となり、低所得者向けの居酒屋は「シノーク」と呼ばれるようになる。

 ▼アメリカの居酒屋

 北米大量における英国の植民地政策が始まると、居酒屋は宿泊機能を持った「タヴァン」と呼ばれ、欧州の多機能性を有したコミュニティセンターであった。
 アメリカ合衆国の独立後、19世紀中頃になると高級宿泊施設のホテルが大陸北部に登場し、フランスの入植も始まって居酒屋は「サロン」あるいは「サルーン」と呼ばれた。
 19世紀末期の居酒屋はアメリカ大陸に約30万軒ほどが大陸北部の工業地区に集中して存在しており、労働者たちの週末の息抜き場だった。
 しかし19世紀に起こった禁酒運動と1919年に成立したボルステッド法(禁酒法)によって、居酒屋は存続に危機に晒される。
 だが飲酒行為そのものは禁止されなかったため、非合法の居酒屋が存続し、1931年当時には22万軒を数えるまでに発達した。
 この急速な居酒屋の発展には、アル・カポネなどのギャング団やマフィアが大きく関わっていた。
 1933年に禁酒法が撤廃されると、居酒屋は一気に酒類を専門に提供する店へと変わっていくが、これは禁酒法時代に発展した映画観賞や野球観戦など娯楽が多様化したためである。

 ▼アラビア地域の居酒屋

 7世紀の622年にイスラム教が成立する以前は、アラビア半島周辺ではごく普通に酒が飲まれ、アラビア語で「ハーヌート」と呼ばれる居酒屋が存在していた。
 アラビア圏では主に「アラック」と呼ばれる蒸留酒や「ナビーズ」と呼ばれる醸造酒が飲まれたが、地域によっても特色があり、中部ではナツメヤシ、イエメンでは蜂蜜酒があり、北部にかけてはワインやビールが古代から常飲された。
 イスラム教成立以後も権力者たちの飲酒行為は止まらなかった。
 これはイスラム教自体が禁酒を厳格化しなかったためである。
 歴代のカリフたちは公然と酒に溺れ、例外は居酒屋禁止令を行ったウマイヤ朝の第8代目、ウマル2世くらいだと言われている。
 特にウマイヤ朝の第11代目であるアル・ワリード2世は、禁酒を説くコーランを破壊するパフォーマンスを行うほどの享楽家であった。
 その後アッバース朝の時代になると、異教徒であるキリスト教徒やユダヤ教徒が運営する居酒屋が普通に出店されるようになる。
 酒や関連する店舗は王朝に多大な税収をもたらしたため、黙認されたのである。
 16世紀になってアラビア圏にカフェが発生する。
 ただしアラビアのカフェは15世紀の中頃にアフリカから伝わったコーヒーが主体であった。
 カフェは16世紀の中頃までにはアラビア圏を網羅し、後期にはモスクに隣接するような大規模な店も出店するようになった。
 アラビア圏ではカフェの隆盛が契機となって禁酒の傾向が進み、コーヒーの飲用が奨励された。
 しかし酒類の提供は水面下続けられ、現在でも都市部などで細々と行われており、厳格なサウジアラビアやスーダンでも密造酒が流通しているほどである。

 ▼インドの居酒屋

 インド亜大陸は10世紀や16世紀にイスラムの支配を受けたが(ムガル帝国など)、イスラム教の浸透は支配者階級のみであり、大多数の市民たちはヒンドゥー教の教えを守り通した。
 そして飲酒の規律も、古代のマヌ法典によって、蒸留酒であるスラー酒の飲酒が禁止され、醸造酒であるソーマ酒が認められていたが、それはごく建前であり、都市部には両者を提供する多くの居酒屋が軒を並べていた。
 しかし近代に入ると、インド独立を指揮したマハトマ・ガンジーの禁欲主義と、彼が率いたインド国民会議派の政策により、居酒屋の数はごく少数となっている。

 《文化》

 現在は老若男女を問わず利用されているが、かつては居酒屋は主に男性会社員や肉体労働者の大衆的な社交場として機能していた。
 これが日本の文化に与えている影響も少なくない。
 歌謡曲の題材として取り上げられ、特に演歌で居酒屋の情景が歌われることが多い。
 また、日本映画の舞台として取り上げられることもある。
 2000年代に入ると地域寄席を含めて各地で落語会の開催会場が寄席以外に広がり、居酒屋を会場にする上演の形式が定着しつつある。

 〔ウィキペディアより引用〕




   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 『暖簾』 作詞 永井龍雲

 心にポツリと

 寂しさの明かりが灯(とも)る

 やさしい人に逢いたい こんな夜には

 温(あた)たかな言葉に ふれたい


 暖簾を潜(くぐ)って

 立ち上(のぼ)る湯気(けむり)の行方(ゆくえ)にも

 ささやかな人生 謳(うた)うものがある

 明日を信じて 生きたい

 馬鹿な 生き方しか

 どうせ できないけれど

 お前らしくていいさと

 今夜も 酒が笑う

 死ぬほど 本気で

 惚れて 惚れて 惚れて 惚れ貫いた

 あの女(ひと)に逢いたい こんな夜には

 気取った夢など いらない

 酔って 男が涙

 流せば 見苦しいね

 すべて 胸にしまえと

 今夜も 酒が叱る

 馬鹿な 生き方しか

 どうせ できないけれど

 お前らしくていいさと

 今夜も 酒が笑う

 〔情報元 : Uta-net〕



言の葉辞典 『祭』

2023-09-08 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『祭』

 《意味》

 祭りとは、神仏や祖先の霊に祈願、感謝する儀式。

 《語源・由来》

  祭りは、動詞「祭る」の連用形の名詞化。
 神仏に物を献上したり、差し上げることが祭りの原義と見られるため、謙譲語「たてまつる」と同じ意味の「奉る(まつる)」と同源と考えられる。
 「待つ」を語源とする説もあるが、アクセントや意味から考えて不自然である。

 祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。
 供物そのほかが捧げられる。 祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。
 また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが異なる。

 《概要》

 ▼原初的形態

 祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。
 すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。
 農耕社会においては、収穫祭が古いものであるが、その他にも祭壇に動物の生贄を捧げる形式があり、ともに命によって豊穣を得られる信仰が窺える。
 『金枝篇』に載せられている例でいえば、ヨーロッパのキリスト教以前の色を濃く留めている風習の一つで、収穫した穀物を使い人形状のパンまたはクッキー(人体の象徴)を作り、分割する祭礼があり、聖餐との類似が指摘できる。
 キリスト教・仏教などの世界宗教にも祭礼がみられるが、教義より儀式・慣習によるところが大きい点で、祭の要素は、本質的に民族宗教に顕著であるともいえる。
 狩猟民族でも、獲物を捧げ豊猟を祈願する儀礼がみられる(熊送りなど)。
 また、先にも述べたが、キリスト教の復活祭やボロブドゥール遺跡で行われているワイシャックのように、キリスト教・仏教などの世界宗教に基づく祭りもある。
 一方、アングロ・サクソン諸国のハロウィーンなどのように、世界宗教以前の信仰に基づくものや世界宗教が伝来した各地で習合した形で伝わっている事例もある。

 《日本語の「まつり」の語源と原義》

 「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。
 この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。
 日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。
 「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。
 現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。
 「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。
 これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。
 この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。
 その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。

 「祭り」は命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。「祭」は、漢字の本来の意味において葬儀のことであり、現在の日本と中国では祭りは正反対の意味と捉えられているが、慰霊という点に着眼すれば本質的な部分では同じ意味でもある。
 古神道の本質の一つでもある先祖崇拝が、仏教と習合(神仏習合)して現在に伝わるものとして、お盆(純粋な仏教行事としては釈迦を奉る盂蘭盆があり、同時期におこなわれる)があり、辞書の説明では先祖崇拝の祭りと記載されている。
 鯨祭りといわれる祭りが、日本各地の津々浦々で行われているが、それらは、鯨突き(捕鯨)によって命を落としたクジラを慰霊するための祭りである。

 「奉り」は、奉る(たてまつる)とも読む。
 献上や召し上げる・上に見るなどの意味もあり、一般的な捉え方として、日本神話の人格神(人の肖像と人と同じような心を持つ日本創世の神々)や朝廷や公家に対する行為をさし、これは、神社神道の賽神の多くが人格神でもあるが、皇室神道に本質がある「尊(みこと)」に対する謙譲の精神を内包した「まつり」である。
 その起源は、自然崇拝である古神道にまで遡り、日本神話の海幸彦と山幸彦にあるように釣針(古くは銛も釣針も一つの概念であった)や弓矢は、幸(さち)といい神に供物(海の幸山の幸)を「奉げる」神聖な漁り(いさり)・狩り(かり)の得物(えもの・道具や神聖な武器)であった。
 古くから漁師や猟師は、獲物(えもの)を獲る(える)と神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還した。
 このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なりわい)から、現在の醸造や酒造など職業としての神事や、各地域の「おまつり」にもあり、地鎮祭や上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。

 「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり、この二つの「まつり」が一致した祭政一致といわれるものであったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ。
 古くは卑弥呼なども祭礼を司る巫女や祈祷師であり、祈祷や占いによって執政したといわれ、平安時代には神職が道教の陰陽五行思想を取り込み陰陽道と陰陽師という思想と役職を得て官僚として大きな勢力を持ち執政した。
 またこうした政と祭りに一致は中央政府に限らず、地方や町や集落でも、その年の吉凶を占う祭りや、普請としての祭りが行われ、「自治としての政」に対し資金調達や、吉凶の結果による社会基盤の実施の時期の決定や執政の指針とした。
 なお、日本の祭について英語で紹介する場合、「フェスティバル」・「リチュアル」・「セレモニー」がそれぞれ内容に応じて訳語として用いられる。

 ▼祭祀と祭礼

 祭祀と祭礼に厳密な区分はなく、便宜的な区分である。
 「まつり」は、超自然的存在への様式化された行為である。祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた(祭祀の段階)。
 祭祀は定期的に行われるとは限らないが、年中行事や通過儀礼と関連して定期的に行われるものが多い。
 このことによって、「まつり」は、日常生活のサイクルと深く結びつき、民俗学でいう「ハレとケ」のサイクルのなかの「ハレ(非日常性)」の空間・時間を象徴するものとなった。
 社会的に見れば、共同体全体によって行われ、共同体統合の儀礼として機能した(祭礼の第一段階)。
 共同体が崩壊し、都市が出現すると、都市民の統合の儀礼としての機能を強め、宗教的意味は建前となり、山車の曳行や芸能の披露といった娯楽性が追求されるようになった。
 「まつり」を行う者と、「まつり」を鑑賞する者の分化が生じた(祭礼の第二段階)。
 大衆統合としての機能と娯楽性のさらなる追求の結果、元来の宗教的意味は、忘却され、あるいは機能を喪失し、世俗的な催事としての「まつり」が登場した。

 例えば大相撲も本来は神道としての奉納の祭りであり、神事でもあるが、宗教への関心の薄れなどから、大相撲のように「神事や祭礼としての祭りである」ことが忘れられたり、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかなイベントについて「祭」と呼ばれることもある。
 規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。

 ▼建築祭礼

 1981年(昭和56年)に番匠保存会が設立され、現在も京都、奈良において番匠(位の高い大工)による秘儀、建築祭礼の秘伝の伝承、継承は続いており、現在でも春日大社、興福寺などの造営では、番匠棟上槌打という建築祭礼、建築儀式が行われている。
 朝廷や幾内を中心とする社寺に属した技術者が陰陽道の知識を深く保持し、特に法隆寺や四天王寺などに属した大工は、流派を形成し、その技術と知識は秘伝として口伝にて継承していたと建築史学者内藤昌が文献に記載している。
 陰陽道として、神道、仏道、道教と深く関わっており、建築儀礼、及び祭祀において、建物やその住まい手の繁栄を祈願する儀式、祭祀がおこなわれてきた。

 《季語》

 季語としての祭(まつり)は、夏の季語(三夏の季語)である。
 分類は行事/人事。
 季語「祭」の初出は、野々口立圃によって寛永13年(1636年)に刊行された俳諧論書『はなひ草』(「花火草」「嚔草」とも記す)においてであった。
 すなわち、江戸時代初期の、史上初めて印刷公刊された俳諧の式目・作法の書に記載された。
 季語・季題の世界で、単に「祭」といえば、江戸・京都・大坂などといった都市部の神社で執り行われる夏祭を指す。
 古来、夏は疫病が発生しやすく、それをもたらす元凶と信じられていた怨霊を鎮めたり祓ったりすることは人々の切実な願いであり、
 その思いを籠めて行うのが夏祭であった。
 災禍を遠ざけてくれる神様が降臨するのは夜と考えられていたため、祭はたいてい宵宮から始められる。
 このような習俗を背景として、夏は祭の季節、夏の祭は夜行われるもの、そしてまた「祭」といえば第一に夏祭を指すようになった。
 俳諧・俳句の世界でもそれに伴い、「祭」は「夏祭」を意味する季語となり、一方で、春の祭は「春祭」、秋の祭は「秋祭」と、季節名を冠することで季語として用いられるようになった。
 なお、現代の夏祭には悪疫退散を祈念するところの全く見られない単なる“夏の催事(サマーイベント)”も数多く見られるが、そういったものに季語「祭」および「夏祭」を当てたとしても、間違いとまでは言えない。あるいはまた、依って立つ文化が日本古来の祭と全く異なる日本国外の祭を対象として季語「祭」を用いることも、これを認めないという考え方は、少なくとも一般的でない。

 ▼「祭」を親季語とする子季語

 ・夏祭(なつまつり)
 ・神輿(みこし)
 ・渡御(とぎょ。意:祭礼の際の、神輿のお出まし。神輿が進むこと)
 ・山車(だし)
 ・祭太鼓(まつりたいこ)
 ・祭笛(まつりぶえ)
 ・宵宮(よいみや、よみや。歴史的仮名遣:よひみや、よみや。意:本祭の前夜に行う祭)
 ・宵祭(よいまつり。歴史的仮名遣:よひまつり。意:宵宮と同義)
 ・陰祭(かげまつり。意:本祭が隔年で行われる場合の、例祭の無い年に行われる簡略な祭)
 ・本祭(ほんまつり。意:宵祭・陰祭に対して、本式に行う祭。例祭のこと)
 ・樽神輿(たるみこし。意:神酒の空き樽を神輿に仕立てたもの)
 ・祭囃子(まつりばやし)
 ・祭提燈(まつりじょうちん)
 ・祭衣(まつりごろも。意:祭りの装束)
 ・祭舟(まつりぶね。意:祭りで使う舟)。

 ※関連季語として春祭(はるまつり)と秋祭(あきまつり)が考えられるものの、歳時記には関連季語として記載されていない。
 なお、冬祭(ふゆまつり)は季語になっていない。

 関連項目 ー 縁日(フェスティバル等) ー

 縁日(えんにち)とは、神仏の降誕、降臨、示現、誓願などの縁(ゆかり)のある日、すなわち有縁(うえん)の日のことである。

 《概要》

 ▼縁日

 縁日には祭祀や供養が行われ、この日に参詣すると普段以上の御利益があると信じられた。
 特に、年の最初(または月の最初)の縁日を初(はつ)○○(初天神、初観音、初不動など。干支を縁日とする場合は初午、初巳など)と称し、年の最後の縁日を納め(おさめ)の○○または終い(しまい)○○と称される。
 近代以降では祭りが催され、露店などが多く出る。
 明治期には縁日欄が新聞に掲載された。

 ▼フェスティバル

 フェスティバル(festival, fest(s))・フェスタ(festa, Festa)、フェスト(fest, Fest)、フェス(fes)は、英語などで(宗教的な)祭礼・祭典・祝祭や祝祭日のこと。
 転じて、世俗的な催事のこと。

 ▼カーニバル

 《意味》

 謝肉祭のこと。
 仮装したパレードが行なわれたりする、カトリックなど西方教会の文化圏で四旬節の前に見られる通俗的な祝祭。

 仮装したパレードや菓子や花を投げる行事などが行われてきたことから、現代では宗教的な背景のない単なる祝祭をもカーニバルと称することが多い。

 《語源》

 カーニバルの語源は、俗ラテン語 carnem(肉を)levare(取り除く)に由来する。
 元々は四旬節が始まる灰の水曜日の前夜に開かれた、肉に別れを告げる宴のことを指した。
 ドイツ語のファストナハトなどもここに由来し、「断食の前夜」の意で、四旬節の断食(大斎)の前に行われる祭りであることを意味する。
 別の説には、謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りに由来し、キリスト教の中に入って、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったという。
 カーニバルの語源は、この農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説もあるが、断食の前という意味の方が古いという研究者もいる。

 《日本としての種類と目的》

 ・新年祭
  新しい年を迎えて、この1年間の家庭の無事(家内安全)や会社の事業繁栄、安全を祈る。
 ・祈年祭
  春の耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈るお祭り。
 ・収穫祭
  作物の無事の収穫を祝うため農村で行われる祭祀行事。
 ・大漁祭
  大漁と海の安全を祈願したお祭り。
 ・厄祓い
  その年に当たっては、神様の御加護により災厄から身を護るため、神社に参詣をして災厄を祓う厄祓い、やくばらいの儀(厄除け)がおこなわれる。
 ・祈願祭
  事故やお祭り、また工事などの安全を祈願すること。
 ・地鎮祭
  土木工事や建築などで工事を始める前に行う、その土地の守護神(鎮守神)を祀り、土地を利用させてもらうことの許しを得る。
 ・慰霊祭
  亡くなった人の心に寄り添い、その功績や徳を偲び、御魂を慰めるために行う儀式のこと。
 ・謝肉祭
 ・産業祭
  社業の繁栄・操業の安全を祈願する。
 ・体育祭
 ・文化祭

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

  「祭のあと」作詞 岡本おさみ

 祭りのあとの淋しさが
 いやでもやってくるのなら
 祭りのあとの淋しさは
 たとえば女でまぎらわし

 もう帰ろう、もう帰ってしまおう
 寝静まった街を抜けて

 人を怨むも恥しく
 人をほめるも恥しく
 なんのために憎むのか
 なんの怨みで憎むのか

 もう眠ろう、もう眠ってしまおう
 臥待月の出るまでは

 日々を慰安が吹き荒れて
 帰ってゆける場所がない
 日々を慰安が吹きぬけて
 死んでしまうに早すぎる

 もう笑おう、もう笑ってしまおう
 昨日の夢は冗談だったんだよと

 祭りのあとの淋しさは
 死んだ女にくれてやろ
 祭りのあとの淋しさは
 死んだ男にくれてやろ

 もう怨むまい、もう怨むのはよそう
 今宵の酒に酔いしれて

 もう怨むまい、もう裏むねはよそう
 今宵の酒に酔いしれて

 〔情報元 : Uta-net〕