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言の葉辞典 『粧』 ③

2023-09-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『粧』 ③

 《近代》

 ▼明治の近代化と化粧

 明治時代になると、政府は近代化を推進するなかで化粧を含む風俗の西洋化を推し進めた。
 その理由は、来日した外国人の目に日本で独自に発展した化粧文化は非文明的に映っていたからである。
 イギリス外交官のラザフォード・オールコックは「日本の女性は、あらゆる女性の中でも人工的な醜さの点で抜きんでている」と記している。
 明治政府は、まず男性を対象に伝統的な化粧を止めさせた。
 慶応4年(1868年)に、公家の男性にお歯黒と置き眉をしなくてよいという主旨の布告を発した。
 しかしこの布告には従わないものが多かったようで、明治3年(1870年)にはこれから元服する華族に対してお歯黒と置き眉の禁止令を発布した。
 1873年には、宮内省が皇太后や皇后が黛や鉄漿を止めたと発表し、これを受けた華族の女性も伝統的な化粧を止めたと言われている。
 以上のように、化粧の西洋化は外国人と出会う機会が多く、洋服を着る機会がある上流階級を中心に始められた。
 いっぽうで明治4年(1871年)ごろには、民間の女性にも伝統的な化粧を止めさせようという声が福澤諭吉を始めとしてあがったが、政令の発布などには至らなかった。
 特に地方ではお歯黒の風習が根強く、1893年(明治26年)に和歌山市で行われた調査では既婚女性のおよそ70%がお歯黒をしていた。こうした需要に答えるように、大阪益田第一堂の「ぬれからす」を始めとして、水に溶かすだけで黒く染まるインスタントお歯黒が開発され昭和初期まで発売されていた。
 また眉ぞりも地方で根強く続けられた。『化粧かゞみ』(1907年・明治40年)には、都市の下層女性や地方ではお歯黒や眉ぞりが多数であると記されている。
 なお、ベストセラーとなった江戸時代の教養書『都風俗化粧伝』は、大正時代まで発刊され続けている。

 伝統的な化粧を止めた女性であっても眉墨を用いる眉化粧は続いた。
 明治30年代に入って鉛筆を使った眉描きが行われるようになり、若い女性の間では太眉が流行した。
 この頃、日本初の美人コンテストで優勝した末弘ヒロ子や美人絵葉書のモデルとなった芸者には、ぽっちゃりとした顔だちに太眉で、ぱっちりとした二重まぶたが多く、近代的な美意識への変化を窺うことができる。
 近代化粧の普及を促進したのが活字メディアである。
 特に1900年代から出版されはじめた女性誌では、さまざまな美容関連の記事が掲載された。
 当時の化粧は、依然として建前として他者の目を意識した身だしなみであったが、女性誌の記事からは化粧を楽しむ女性が多いことがうかがえる。
 明治初期から次々と創刊された日刊新聞にも多くの化粧品広告が掲載された。
 『日本広告発達史』によると、明治末には化粧品広告の出稿量は売薬につぐ2位になっていた。
 またポスターなどの広告でモデルとなったのは、江戸時代から続く歌舞伎役者に加えて人気芸妓が加わった。

 ▼近代化粧品の普及

 化粧の西洋化に伴い、西洋医学や薬学を基に開発された西洋化粧品の国産化も始まった。
 スキンケア用品として化粧水やクリームが発売されたほか、コレラや天然痘が流行すると石鹸が広く普及し、大正時代までに洗顔料として定着した。
 『平尾賛平商店五十年史』によれば、明治時代の4大化粧品メーカーは美園白粉の伊藤胡蝶園・獅子印ライオン歯磨の小林富次郎商店(現・ライオン)・クリームレートの平尾賛平商店・洗粉のクラブの中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)であった。
 また資生堂薬局(現・資生堂)や長瀬商店(現・花王)の創業もこの頃である。
 近代化粧品が普及するなかでも根強く使用された伝統化粧品が紅と鉛白粉である。
 とくに鉛白粉の有毒性は一般に認知されていなかったため、1878年(明治11年)に無鉛白粉が発売されても普及しなかった。
 一般庶民が鉛の有毒性を認知するのは、1887年(明治20年)の歌舞伎役者成駒屋四代目中村福助の鉛中毒事件である。
 この事件をきっかけとして1900年には化粧品や飲食物などに鉛を利用することが禁止されたが、白粉だけは例外扱いとされ継続利用された。
 その理由は無鉛白粉の生産量が需要を満たせなかった為だとされており、完全な鉛白粉の禁止は1935年(昭和10年)を待つことになった。
 また1907年(明治40年)ごろから地肌の色に近い「肉色白粉」が普及し始めた。きっかけになったのは欧米興行を行った女優川上貞奴が色付き白粉を用いる欧風化粧を雑誌などで紹介した事だとされており、洋服を着る上流階級の女性や電灯の下で働く芸者に好まれた。
 なお頬紅を付けるようになるのも明治末からである。

 また、芝山兼太郎や遠藤波津子が「美顔術(現在のフェイシャルエステ)」を始めたのは明治末とされている。
 当時の施術は「皮膚の清潔・血行促進・筋肉の活動」などを目的とし、温タオルで温めた顔にクリームを塗り吸引カップで汚れを吸い取り、そのあと石鹸で洗顔してふき取った後でクリームをつけてマッサージをするというものであった。
 美顔術を行う理容室は庶民には高額であったが、政財界の夫人・令嬢、役者・芸妓などに利用されていたようで、1909年(明治42年)の『東京朝日新聞』は理容室の繁盛ぶりを記している。

 ▼大正から昭和初期

 日本経済が大戦景気により発展すると、購買力を持つ中間層が増えていった。
 これに合わせて化粧品の生産力も向上し、手ごろな価格の化粧品が販売されるようになった。
 とくに職業婦人と呼ばれる女性が社会進出したことで化粧する機会が増え、庶民にも洋風化粧が普及するようになった。
 『化粧品工業一二〇年の歩み』によると、1909年(明治42年)からの5年間で、化粧品の生産額は38%増と急成長した。
 各化粧品メーカーは研究所を設立し、過酸化水素・ホルモン・ビタミンなど薬効的成分を含んだ独自性のある商品を開発するようになった。
 肌質別や乳液タイプの化粧水や、日焼け防止・美白効果・毛穴引き締め効果・アンチエイジング効果を謳う商品が販売されるようになったのもこの頃からである。
 また働く女性の増加や、利便性の高い近代社会になったことで、スピード性を重視した化粧品も求められるようになったことも特徴である。
 いっぽうで白粉の「肉食」は「肌色」と言い換えられるようになり、その他さまざまな色の白粉が売り出されるようになった。
 これは政府が近代化の一環として健康な体作りを推進し、スポーツが流行したことで「健康美」という基準が加わったためだと考えられている。
 日本人女性が断髪・洋装をするようになったのは大正時代からである。特に関東大震災からの復興により近代都市に生まれ変わった東京では、モダンガールが登場してファッションリーダーになった。
 その中には、細眉、濃くつけた頬紅と口紅、アイシャドウといったポイントメイクに重点を置く欧米モダンな化粧を好む女性が現れ、保守的な人々から批判もあった。
 そのいっぽうで頬紅は健康的に見えるとされて広く流行し、大正前期には有名国内ブランドが軒並み商品を発表した。
 口紅もリップスティック状のものが登場したほか、付け方も和洋で変えるようになった。
 眉は線のように細く剃り、眉墨をつかって眉尻側をこめかみ近くまで細く伸ばす「引眉毛」が流行した。
 対してあまり普及しなかったのがアイシャドウである。
 美容家の間でも使う事に戸惑いがあったようで、早見君子は「日本人にはあまり効果がない」と評している。
 このようなポイントメイクを重視する化粧の普及により、それらの組み合わせによる自由度の高い化粧が可能になった。
 これにより他者の目を気にした横並び的な化粧から、「個人美」に代表される個性を重視する化粧へと変化していった。

 このような化粧に影響力があったのが、ハリウッド女優などが出演する映画、化粧品会社が主催する美容家の講習会、『主婦之友』などの女性誌である。とくにハリウッド映画の美容アドバイザーであったマックス・ファクター(英語版)が生み出した流行は日本まで及んでいた。
 さらに大正末期から始まったラジオ放送で美容講習が行われ、マスメディアを媒体として都市部での流行がすぐに全国に広まるようになった。

 ▼戦時下

 1937年(昭和12年)に日中戦争がはじまると戦時色が強まり、翌1938年には化粧品には物品税が課せられた。最初は10%であった税率は、戦争末期には120%まで上昇した。
 最初は自粛という形で始まった化粧の制限も、1940年(昭和15年)には『七・七禁令』の施行により定価5円以上の香水の販売が禁止されるようになった。
 1941年(昭和16年)には大政翼賛会が設けた新女性美創定研究会が戦時に相応しい「翼賛型美人」を発表した。
 その十則には「自然美」「日焼けを自慢」などの表現がみられる。ただし化粧自体が禁止された訳ではなく、実情は「個性的な美」から「身だしなみ化粧」への回帰であった。例えば戦時下にあってもクリームや乳液が主力となって化粧品の売上は下がらなかった。
 むしろ目に見えて変わったのは化粧品広告であった。1940年(昭和15年)に『化粧品営業取締法』が制定され広告規制が行われるようになると、女優をつかった広告や「おしゃれ」「ぜいたく」を連想される表現が排除され、1944年(昭和19年)までには殆どのメーカーは広告を出すことを止めた。
 また業界への原材料の配給が年々縮小されたなかで各メーカーは代用品で賄い化粧品生産を続けていたが、そうした努力も1944年(昭和19年)にはついに限界に至り、原材料不足により生産数量は1942年(昭和17年)比で約60%と一気に落ち込んだ。
 そうしたなかで、防虫軟膏や凍傷用クリームを製造したポーラ、航空機用曇り止めクリームを製造したハリウッド化粧品など、軍需関連品の製造を行った企業も多い。

 《現代》

 ▼戦後復興期

 戦時中に抑圧されていた女性は、戦後の混乱期で生活が苦しい中にあってもおしゃれを求めた。
 そうしたなかでひときわ目をひく口紅は、他の化粧ができなくてもそれだけでおしゃれをしたような気分になれる化粧品として好まれ、昭和20年代に流行した。
 しかし真っ赤な口紅をしたのが当時流行の先端でもあったパンパンと呼ばれた娼婦であったため、保守的な人々からは非難の対象にもなった。
 もうひとつ同時期に流行したのが「光る化粧」である。
 これは下地に植物油を付けた上から粉白粉をはたく化粧方で、進駐軍の女性将校の影響と考えられる。
 この流行を受けて各メーカーは油性ファンデーションを販売し、急速に普及していった。
 また白粉の色もピンク系が流行するが、これは1951年(昭和26年)に公開されたカラー映画『カルメン故郷に帰る』で撮影技術に起因して肌の色がピンク色に見えた影響だと考えられている。
 いっぽうで化粧品業界は、輸入資材や技術者の不足に加えて金詰り不況に伴う乱売による混乱により再編されていった。
 1954年(昭和29年)には、卸・問屋経由で販売していた戦前の業界大手のレートが廃業し、同年に中山太陽堂も負債を抱えて再建となった。
 いっぽうで、軍需産業から化粧品業界へ転換・新規参入や外資系日本法人が相次いだ。
 現在の業界大手であるコーセー(小林合名会社)が1946年(昭和21年)に創業し、外資系マックスファクターは1949年(昭和24年)に総代理店を開設し、鐘淵紡績も一度手放した化粧品部門を買い戻して1961年(昭和36年)にカネボウ化粧品を立ち上げた。
 また1953年(昭和28年)に『独占禁止法』が改正され、化粧品は再販指定商品となった。
 これにより販売店登録制度を導入するメーカーが相次ぎ、資生堂やカネボウのように強力な販売組織を作り上げた会社が業績を伸ばした。
 なお、1947年(昭和22年)に『医学部外品等取締規則』が制定され、化粧品は法的に明確化されて規制が開始された。

 ▼高度経済成長期

 昭和30年代になると、雑誌のカラーグラビアが増え、テレビもカラー化した。
 また岩戸景気により「消費は美徳」が流行語となり、女性は異なる色の口紅を何本も持つようになっていった。
 こうした背景からメーカーは「カラー時代」をキーワードとして販売戦略を展開し、業界の売上は前年度比で毎年2桁成長を続けた。
 なかでも1959年(昭和24年)にマックスファクターはアパレル各社と組んだマーケティングを展開し、雑誌でファッションと化粧を連動させた特集を組むなどして「ローマン・ピンク」キャンペーンを行った。
 このようなキャンペーンは各大手化粧品に取り入れられて恒例化し、次々と新しい流行色を生み出していくようになった。
 いっぽうでは、メーカーの資本力を必要とする販売方法に乗り切れない中小企業は淘汰され、また化粧品の流行の作り手は美容家から大手化粧品メーカーへと変化していった。
 この時期に口紅に続いて注目されはじめたのがアイメイクである。
 昭和30年代初めからオードリー・ヘプバーンの影響で、角度のある眉や目じりを上げた太めのアイラインが流行し始める。
 1957年(昭和32年)には『バナナ・ボート』をヒットさせた浜村美智子の褐色の肌にグリーンのアイシャドウ・黒のアイライン・濃いマスカラで目元を強調するメイクは「カリプソメイク」と呼ばれて注目を浴びた。
 カリプソメイクのような野性的な化粧は流行しなかったものの、その影響で1960年ごろからはメーカー各社がアイシャドウの新商品を次々と発表し、ブルーやグリーンなど鮮やかな色のアイシャドウが昼間に付ける化粧として紹介されるようになった。
 アイメイクは1967年(昭和42年)のツイッギー来日によって大ブームを迎え、1968年のアイメイク商品の出荷額は前年比で63%増、1969年には128%増、1970年には53%増と驚異的な成長を続けて、日常の化粧として定着していった。

 またこの頃、最新の化粧品や美容技術は常に欧米を手本としていたため、美しさの理想形も「外人顔」が基準になっていった。
 入江美樹・丘ひろみ・山本リンダなどのハーフモデルが活躍し始めるのも昭和30年代後半からである。
 こうした背景から日本人顔を立体的に修正する「立体化粧」が注目されるようになり、茶系・グレーなどのアイシャドウや頬紅を使ったり、ファンデーションの2色使いなどのテクニックが紹介されるようになった。
 いっぽうで1960年代からレジャーやバカンスといった言葉が流行し、海や山で余暇を過ごす人々が増えていった。
 そして1966年(昭和41年)に資生堂が展開した前田美波里をモデルにしたサマーキャンペーンをきっかけとして、「日焼けをした健康美」が日本でも定着した。
 これに伴ってベースメークも主流だったピンク系に加えて濃いオークル系が加わった。
 ただし白肌へのあこがれも健在で、夏には肌を焼いたとしても秋以降にはしっかりとケアするのが定番となり、フェイスパックなど美白スキンケア商品が次々と発表された。
 また昭和40年代には、シェービングフォームやアフターシェービングローションなどのスキンケア用品を中心に、男性用化粧品をそろえるメーカーが現れた。
 1970年(昭和45年)にチャールズ・ブロンソンを起用した宣伝がブームとなった丹頂(現・マンダム)もその一つである。

 ▼昭和後期

 昭和50年代には、公害や環境汚染が社会問題となり、化粧品でも女子顔面黒皮症などの肌トラブルが問題となった。
 こうした社会背景からナチュラル志向が流行し、天然素材にこだわるスキンケア商品や、防腐剤不使用の自然派化粧品が発売された。
 化粧でも外人顔を意識した「立体化粧」から、日本人らしさを意識した「ナチュラルメイク」へと転換していった。
 頬紅やノーズシャドウは濃くつけなくなり、昭和40年代に流行したつけまつげも廃れる。
 ファンデーションは「素肌っぽい」がキーワードになり、各メーカーはパウダーファンデーションやリキッドファンデーションといった新しい商品を開発した。
 昭和の終わりには頬紅の出荷額が減り1996年(平成8年)ごろまで減少が続いた。
 また、物が溢れる社会が到来したことで、多様化・個性化が重視されるようになり、メイクやファッションが細分化されていった。こうした希求に応えたのが『JJ』や『an・an』といった昭和40年代から創刊が続いた女性誌である[109]。たとえば『an・an』は太眉メークを個性的DCブランドファッションに負けないモードメイクとして紹介した。
 太眉は「知的」「中性的」「媚びない」などの言葉で語られ、昭和40年まで細かった眉は、昭和50年代には自然な太さになり、昭和50年代後半にはより太く強調するようになった。
 また『JJ』の紹介により、昭和50年代に入って日焼けメイクにパール入りの明るいアイシャドウとパールピンクの口紅を組みあわせた「サーファーメイク」が流行した。
 また年齢別ケア商品や敏感肌用の商品も充実するようになった。

 いっぽうで昭和50年代になると肌の研究が進み、UVカット効果のある商品が開発されるようになる。
 昭和60年代にはオゾンホールの問題が明らかになり、各メーカーはSPF値(紫外線防御指数)を競うようになった。
 これと共に化粧も美白志向へと回帰した。
 また個人向け宅配サービスの充実を受けて、業界ではファンケル、DHC、オルビスなどの通信販売を行うメーカーが参入してきた。

 関連項目 ー カモフラージュメイク ー

 カモフラージュメイク(Cosmetic_camouflage)

 顔のアザや手術痕などキズを自然に隠すメイクの方法。
 兵士が戦場で目立たないようカモフラージュするために、顔・首筋・耳や腕といった露出する肌に施す化粧の方法を指すこともある。

 《概要》

 痣(アザ)や傷、その他の皮膚の状態を化粧で覆い隠すだけではなく、心理的にケアする目的のメイクアップである。
 化粧方法の特別な名称は付いていなかったが、昭和の時代からメイク技術の一つとして存在し、化粧品メーカーから様々な化粧品が発売されてきた。

 《歴史》

 歴史は1928年米国のリディア・オリリーによって皮膚変色をカバーして見えなくする化粧品が開発されたことから始まる。
 日本では1955年、広島のいわゆる「原爆乙女」たちがニューヨーク市のマウントサイナイ病院においてケロイド痕治療を受けたが、その際に5番街のカバーマーク相談室を紹介された。
 ここでカモフラージュメイクの施術をうけ、オリリー婦人からプレゼントされたカバーマーク化粧品を持って帰国した。
 一方、社会事業家、沢田美喜がニューヨークに滞在中に、顔にアザのある女性、リディア・オリリーが開発した化粧品「カバーマーク」を知り、自身が関わる皮膚の黒い子供たちのために必要とピアス化粧品の阪本社長に紹介し、日本への輸入を依頼した。
 1960年(昭和35年3月)日本医学皮膚科学会で、米国カバーマーク社のアーティスト、クラフト夫人がデモンストレーションを行い広く知られるようになった。
 この年ピアス化粧品の出資でジャパンオリリーが設立されて日本でのカバーマーク化粧品安定供給が可能となった。
 化粧指導員の多くが、顔にアザなどの疾患のある女性だった。
 各地で、カバーマークの使い方をデモンストレーションして普及させていった。 カバーマークの他に、資生堂からも医療用化粧品は販売されている。

 ▼欧米のカモフラージュメイク

 欧米ではコスメティックカモフラージュ、カモフラージュメイクアップ、またはカモフラージュセラピーと呼ばれる。
 英国赤十字ではスキンカモフラージュ(Skin camouflage)とよばれ、消えない傷跡、刺青、酒皶、あざ、皮膚変退色、その他皮膚疾患の患者に対するソーシャルケア(Social Care)の一環として年5日間の研修を受けたボランティアによる化粧の指導が行われている。

     〔ウィキペディアより引用〕




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