記憶力の減退をつくづく恨めしく思う。
まだ記憶力があった頃に、何故それを有効に使わなかったのかと。
今更悔やんでも仕方のないことなのだが。
活字を追っても理解も記憶もすんなりと行かない。
方法はあるのだろうが。たとえば、
1.音読する
昔、高校1年に入学したての頃、学校帰りの近くの市立図書館で
英語の音読をしたら前の席で勉強していたお兄さんに注意された。
マナーが出来ていなかった。今もなっていないが。
ただ、音読より黙読へ、という教育方針で、小学校の高学年に
なると成長の観点から、そのように指導される。そういう指導法が
妥当なのかはわからない。
江戸時代の寺子屋では、論語を音読させて意味不問のまま、とにかく
記憶させる事を重視した教育と記憶している。記憶時点では意味は
わからないだろうが長じて意味と結合したときにその内容を豁然と
理解し有効に働くのではなかろうか。
2.記述する
手を使うというのは記憶を確かにする良い方法だと思う。
キーボードを叩いても記憶にはあまり寄与するとは思えない。
ただ悪筆(文章が下手以前に手書き文字が汚い。後で読み返して
自分ですら判読できないのに、ほとほと呆れてしまう。)なので
どれほど記憶されているかはわからない。少なくとも活字を追う
だけよりはいいのでは、と思う。
3.繰り返す
読書百遍意味自ずから通ずる、という。時間と忍耐があれば、
これも有効であろう。この繰り返し読むという行為は、なかなか
理解が進まない、記憶できないという状況においては有効な
方法だと思う。速読して即理解に達するにこしたことはないが、
それもままならない年齢では、時間をかけて飽きず弛まず繰り返す
ことが肝要であろう。
以上3点の方法がいいように思う。音読はちょっと難しいが。だが、
本当に記憶に重点を置くなら音読は避けられない。記憶したいのなら
一度は音読しそれを録音し通勤時間帯にでも聞き、そして、聞きながら
手書きで書いてみるのが良さそうに思う。
なんだかんだと書いたが、あと2日に迫ってしまった。
まだ記憶力があった頃に、何故それを有効に使わなかったのかと。
今更悔やんでも仕方のないことなのだが。
活字を追っても理解も記憶もすんなりと行かない。
方法はあるのだろうが。たとえば、
1.音読する
昔、高校1年に入学したての頃、学校帰りの近くの市立図書館で
英語の音読をしたら前の席で勉強していたお兄さんに注意された。
マナーが出来ていなかった。今もなっていないが。
ただ、音読より黙読へ、という教育方針で、小学校の高学年に
なると成長の観点から、そのように指導される。そういう指導法が
妥当なのかはわからない。
江戸時代の寺子屋では、論語を音読させて意味不問のまま、とにかく
記憶させる事を重視した教育と記憶している。記憶時点では意味は
わからないだろうが長じて意味と結合したときにその内容を豁然と
理解し有効に働くのではなかろうか。
2.記述する
手を使うというのは記憶を確かにする良い方法だと思う。
キーボードを叩いても記憶にはあまり寄与するとは思えない。
ただ悪筆(文章が下手以前に手書き文字が汚い。後で読み返して
自分ですら判読できないのに、ほとほと呆れてしまう。)なので
どれほど記憶されているかはわからない。少なくとも活字を追う
だけよりはいいのでは、と思う。
3.繰り返す
読書百遍意味自ずから通ずる、という。時間と忍耐があれば、
これも有効であろう。この繰り返し読むという行為は、なかなか
理解が進まない、記憶できないという状況においては有効な
方法だと思う。速読して即理解に達するにこしたことはないが、
それもままならない年齢では、時間をかけて飽きず弛まず繰り返す
ことが肝要であろう。
以上3点の方法がいいように思う。音読はちょっと難しいが。だが、
本当に記憶に重点を置くなら音読は避けられない。記憶したいのなら
一度は音読しそれを録音し通勤時間帯にでも聞き、そして、聞きながら
手書きで書いてみるのが良さそうに思う。
なんだかんだと書いたが、あと2日に迫ってしまった。
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