15日に、首相官邸前にて1万人を超える大飯原発再稼動に対する反対デモが行われていました。
自分自身、それを知ったのはついさっきでしたが、そんなニュースは16日も17日も目に入らなかったし、聞きもしなかった。
今しがた(18日の0時頃)甲野善紀さんのツイッターを読んでいて知ったのでした。
甲野さんのツイッターにて紹介されている動画を、ここでも紹介します。実際に行われていたという証拠で。
「2012/06/15大飯原発再稼働抗議行動に11000人!!!@首相官邸前」
「6.22緊急!大飯原発再稼動決定を撤回せよ!首相官邸前抗議」
原発の行く末について考えることは今となっては誰にとっても必要なことで、そのことに対して向き合っている人達がこれだけいるにもかかわらず、ごく小さな報道しかしない社会って一体何なんだろうって思います。
もう、いい加減マスコミも目覚めてくれないと。そして、自らの良心に則って報道の本来の姿を取り戻してください。
国民に伝える内容を検閲で取捨選択したり、デッチ上げを何かのプロパガンダ(世論操作)に利用するようなことは気が咎めませんか? 特に、そういう決定をしている上層の人達、恥ずかしくないですか?
どんな内容が正しいのか、それを調べて判断するのは国民であって、報道機関ではないはずです。
同様に、政府や警察や御用学者でもありません。
私たち国民、一人ひとりが判断能力を持っています。今や必要な情報はあらゆるソースを通じて得られます。
もう隠し事は要りません。嘘も要りません。根回しだとか口車を合わせて事を進めるような卑怯さも要りません。
真に報道すべき事実を霞ませるために、他のどうでもいいようなニュースや番組ばかりを流して覆い隠す、なんてのも要りません。
私たちが求めるものは真実と、情報公開の透明性です。
そうした基礎の上に成り立つ社会であってこそ、正直に議論し合えて、何が必要かそうでないかの総意を得たり、あるいは決めたりすることができるのではないですか?
もう時代は大きく変わろうとしています。今一度、初心に戻って、報道姿勢を見直して頂きたいと思います。
(これは余談ですが、チャンネル登録しているYoutubeの投稿動画で知ったことを紹介します。
「Ban Fracking Now protest」運動が、今アメリカで盛り上がっているようです。
関連動画:
「Culver City Fracking Protest — Interviews」(他、数本)
「Culver City Fracking Workshop Part 1」(1~3まである)
Frackingというのは、Hydraulic fracturingのことで、水圧破砕で掘削してシェールガスなどを採掘する方法の通称です。
これを今すぐBan(禁止)しろというprotest(抗議活動)ということですが、その理由の一つは、以下のサイトを読めば分かると思います。
「水圧破砕(fracking)による掘削作業が地震発生の原因のひとつとなっている?」
しかし、こうした運動をするにも、一人ひとりが事の意味であるとか、その重大性、主張に対する責任の自覚などを認識した上でないと正しい働きとはなり得ません。それは原発反対運動においても同じことが言えると思います。騒ぎを煽るだけの“お祭り人間”になってしまっては、かえって相手の敵意を買ったり、無用な混乱を招いてしまうことにもなりかねないからです。)
それから、政治家の皆さん。および、そうした権威者に追随して自分の意思を見失っている方々。
どうか本来の自分の役割を思い出してください。
元々、何をするために政治家を志したり、今の立場を選択したのですか? 何のために学んできたのですか?
個人的利益や所属組織の優越性を求めるためではなかったはずでしょう?
もし初心からしてそうだと言うのであれば、それもまた一つの生き方だったのでしょう。でも、今や時代錯誤です。
すぐに現在のポジションから立ち退いて、反省に基づいて新しい生き方を探したほうがいいと思います。
原発問題については、すでに反対と賛成の意見がこれだけ言われているのだから、政治家が真っ先にするべきことは、増税議論やTPP議論などではなく、“原発の国民投票”であるべきでしょう。でなければ、総理大臣の国民投票か。みんなウンザリしてますよ。
そして、最後に僕ら自身。
一人ひとりの性格、能力、抱える問題などは異なれど、全ての人には、その人なりの社会への貢献の仕方があるものです。
自分自身にできることは何か、そして自分にはできないことを誰かに任せる場合、その判断基準は何かなど、考慮しなくてはならないことが多々あります。
例えば政治家一人を選ぶにしても、その人を選ぶ自分なりの理由を見つける必要があると思います。
単に政党に対するイメージや無関心から来るおみくじ式な適当さ、または他の人が薦めていたから、ということではなく。
もちろん、場の雰囲気に流されて騒ぎに便乗するだけの“考えなし”でもなく。
根深いカビのような、利権に執着するだけの自己保全的な人間を選べば、必然的に社会は闇に覆われていくだけです。
あなたが「本当に住みたいと思う社会」を実現するために尽力してくれる人を探し出し、選ぶ。これが大切です。
そう言えば、日本時間の朝方にはギリシャの再選挙の投票結果が出るようです。
「ギリシャ再選挙、ユーロ残留かけ審判 朝にも大勢連立協議は不可避」。
その結果がどのようなものであれ、現状に対して人々が真剣に向き合わざるを得ない理由があったわけですから、それは非常に重い意義を持つことになります。
既に時代は大規模な経済的変動へと動き出しており、ユーロ圏であろうが日本であろうが関係なく、もはやその流れは止められないだろうとは思いますが、それでも「民意」を行使することの真の意味について世界に考えさせる一つの契機であり、また大きな転換点であることは間違いありません。
今年も、直に夏至を迎えることになり、1年の半分が終わろうとしています。
これからの夏場には、エネルギー供給に対する問題に皆で取り組んでいかなければならないし、政治経済の不安定さを反映して生活も落ち着くことができないかもしれませんが、私たち個人および、その集合である「民意」が求める社会像がハッキリしてさえいれば、軸が大きくブレることはないはずです。
再三書いていますが、それぞれの人や国が、どういう社会に生きたいか、というヴィジョンを明確に描くことが、とても大切です。
そしてそのイメージを浮かべるために必要な情報を自ら調べ上げること。望む生活、望む社会に対する関心を持ち続けること。
その上さらに重要なのは、これらを日々意識していることで、結果的にそのヴィジョンに沿った、もしくはそれに近い形で実現していくと信じることです。
例えば、戦争のない平和な世界というイメージでも良いのですが、少し漠然としていて具体的な未来像が見えてきません。
そもそも平和とは、どのような状態なのか。その定義を自分なりに考えたり、他の人と話し合ってみると良いでしょう。
戦争がないこと=平和という定義だと、確かに安心ではあるかもしれませんが、どことなくのっぺりした不透明さを感じます。入り口で立ち止まっていて、その先の状態が見えない感じがするからかもしれません。
もちろん人によって感じ方は違うでしょうし、意見や物の見方も定義の仕方も違うでしょうが、それはそれで尊重されるものです。ただ、それがどんなものであれ、よりクリアなものであるほうが実現しやすい・・・というか、曖昧な定義は曖昧な現実を生むわけですから、そんな状態を望まないのであれば、当然、抱くイメージやヴィジョンは明確でなければなりません。
ネットユーザーにとっては自分の好みの情報を得ることは難しいことではなく、やろうと思えば、きちんと自分の求める社会像を作りやすいでしょう。原発で作られた電気を使いたいのか、今のような政治構造のままでいいのか、といった大きなテーマだけでなく、自分自身に関連する分野とか、家族や友人に関係する事柄などについても、自分の立場や視点をクリアにしていく。
これによって自分が何を選び、どういった流れに乗っていくのかに自信を持つことができるようになるんじゃないかと思います。
僕自身は、どんなことに抵抗を感じ、逆に何を素直に受け容れることができるのか、まさに今、自問自答している状態であり、どんな未来を選択したいのか、その整理をしているような感じです。様々な情報を得ながら、自分はそれについてどう考えるかと問い、さらにそれを求めるか否か、したいかどうかを問う、ということを繰り返しています。端的に言えば、自分自身の在り方を決めていく作業です。
とはいえ、常に物事が変化するように、自分自身も変化し続けていますから(正確に言えば、自分が変化するから周りも変化するのでしょうけど)、同じ状態に留まるということはないわけですが、その時々での自分の生き方を定義付けていくことで、メリハリのある分かりやすい(混乱のない)状態に自分を置くことができるのではないかと思います。そして、そのほうが曖昧な状態にいる場合よりも修正が利きやすい。
変化し続ける中で自らを進化させていくには、たとえ「三歩進んで二歩下がる」になってもいいので、不必要に複雑さやハッキリしない中に自分を置かない、ということが大切なんだろうと思っています。
多分ジャーナリストではないのでしょう。
プロパガンダ担当であると。残念ですが。
私は関西に住んでいますので、大飯が稼動しても稼動しなかったという仮定で節電します。
それで問題ない生活を送ることが、原発反対への静かな抗議になると思っています。
しかし、もうそういう歴史には幕を下ろす時です。ネットを見れば――少なくともこの日本や海外の多くでは、個人が思いの丈を自由に開放しているように、一般メディアも、それぞれの視点と行動力で事実の追究を行って、その存在の輝きを示さなくてはならないと思います。
ところで、節電に関連してですが、今読んでいる「いのちの中にある地球」(デヴィッド・スズキ=著、辻信一=訳、NHK出版)の中で、著者はエコロジーやエコノミーにおける「エコ」の本来の意味を思い起こすことが大切だと主張されています。
少し長いですが、引用してみます。
「経済を意味するエコノミーには、エコロジーと同様、「エコ」という言葉がついています。その語源は、家や住みかを意味するギリシャ語「オイコス」です。つまり、住む場所についての学問であるエコロジーにたいして、エコノミーの元来の意味は、住む場所をどう管理・運営するかということです。エコロジーは、生命の存続や繁栄を支える自然の法則を発見すること。それよりも経済を優先するとすれば、自分達人間は自然の法則から自由であるといっているのと同じです。
けれども、実際には、人間は生物として、生物圏から与えられるものなしには生きていけない。それこそが現実です。人工的に創造されたにすぎない経済を最優先し、それを「現実的」だとするのは自殺行為です。おまけに、私たちがつくりだしてしまったグローバル経済なるものには、根本的に構造的な欠陥があります。そのため、たとえエコロジーがエコノミーの上位におかれるようになったとしても、経済の破壊的構造の根は残ってしまうでしょう。」(P.57-58)
原発が生まれた背景、そして、そこから生み出されるもの、そこから廃棄されるもの、それらの影響、処分方法など、あらゆる面を考慮しても、このまま存続させるわけにはいかない代物だと僕は思っています。
根本的には、引用文中にも書かれているように、負債と消費に基礎を置いているこの社会構造および経済システムを変えないことには、たとえ全ての原発を解体したとしても十分な解決とはなり得ません。権益に固執する支配者が残る限り、別の手段を用いては同じようなことをし続けるでしょうから。
ですから、人々は原発廃止の声を上げるだけでなく、その先のことについて、つまり、「私たちは今後どうあるべきか」についての確固とした未来ヴィジョンを持っていなくてはならないと思います。