音楽とアートと詩と……。 いつか見た懐かしい世界へ

忙しく過ぎる時間の中で貴方のそして私の
心のやすらぎとなりますように……。 空野くらし

歌人 寺山修司「チェホフ祭」1935年-1983年

2019年03月13日 | 詩人
歌人 寺山修司「チェホフ祭」1935年-1983年

寺山 修司(てらやま しゅうじ)さんは
日本の歌人で劇作家、作詞家でもありました。
演劇実験室「天井桟敷」を主宰。
早稲田大学では山田太一さんと同級。
中城ふみ子さんの影響で短歌を作り始め、
在学中から早稲田大学短歌会などで歌人として活動します。
「チェホフ祭」で第2回「短歌研究」新人賞を受賞すると
人生がワルイ方に一変します。
まずは混合性腎臓炎で入院。
さらに1955年(昭和30年)ネフローゼと診断されて長期入院となり、
翌年、早稲田大学には在学1年足らずで退学し生活保護を受ける身に。

以下は伝説の?作品「チェホフ祭」全49首(全50首とも言われていますが)
わかる範囲で全作掲載させて頂きます。


マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット

胸病みて小鳥のごとき恋を欲る理科学生とこの頃したし

草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を

わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ

吊されて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめて読みき

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん

雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌

一つかみほど苜蓿うつる水青年の胸は縦の拭くべし

俘虜の日の歩幅たもちし彼ならむ青麦踏むをしずかにはやく

すこしの血のにじみし壁のアジア地図もわれも揺らる汽車通るたび

チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび

父の遺産のなかに数えむ夕焼はさむざむとどの時よりも見ゆ

胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど

すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を超えて来し郵便夫

桃いれし籠に頬髭おしつけてチェホフの日の電車に揺らる

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ

やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく

蝶追いし上級生の寝室にしばらく立てり陽の匂いして

北へはしる鉄路に立てば胸いづるトロイカもすぐわれを捨てゆく

罐に飼うメダカに日ざしさしながら田舎教師の友は留守なり

すぐ軋む木のわがベッドあおむけに記憶を生かす鰯雲あり

ある日わが貶しめたりし天人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ

うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき

晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ

遠く来て毛皮をふんで目の前の青年よわが胸うちたからん

夾竹桃吹きて校舎に暗さあり饒舌の母のひそかににくむ

誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ

刑務所の消燈時間遠く見て一本の根をぬくき終るなり

製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ

ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに

ぬれやすき頬を火山の霧はしりあこがれ遂げず来し真夏の死

夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでもゆけどわが影を出ず

胸にひらく海の花火を見てかえりひとりの鍵を音たてて挿す

わが内の少年かえらざる夜を秋菜煮ており頬をよごして

サ・セ・パリも悲歌にかぞえむ酔いどれの少年と一つのマントのなかに

外套を着れば失うなかにあり豆煮る灯などに照らされて

冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや

墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり

口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに

地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり


何れにしても冒頭の「 マッチする つかのまの海に 霧ふかし 
身捨つるほどの 祖国はありや」は昭和生まれの私には響きます。

数々の天才的な仕事をこなし
歌人で劇作家、作詞家で脚本家に批評家と
並べればキリがありませんが、これほどの才能に恵まれながら
47才と数ヶ月で彗星のように天に召されて行った寺山修司さん。
人生ほど分からないものはないです。

処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、
それを観た谷川俊太郎さんの病院見舞いを受け、交際が始まります。
1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』(的場書房)を刊行。
1959年、谷川さんの勧めでラジオドラマを書き始め、
投稿した「中村一郎」がRKB毎日にて、民放会長賞を受賞します。
これもまた寺山さんが若い頃の有名な話ですが、
石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、
永六輔、黛敏郎、福田善之(敬称略)らと「若い日本の会」を結成し
60年安保に反対しました。

( 下の写真は,早稲田大学で短歌研究を始めた頃の自信無げな若き日の寺山修司さん )



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。