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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

アラン模様

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 学生のころ、雑誌の中の一枚のセーターに一目惚れしてしまったことがある。それは当時流行していたアイビー・ファッション誌の中に紹介されていた、俗にフィッシャーマンセーターと呼ばれていたものである。手の込んだアラン模様が編みこまれた生成りのセーターに、さりげなく巻いたタータンチェックのマフラーが実にお洒落で、それがまた、そのモデルの男性によく似合っていた。

 「クリスマスプレゼントはこれにしよう!」当時つき合っていた男性にこのセーターを、しかも自分の手で編んでプレゼントしようと決心したのだから、無謀極まりない話である。
 その頃、アイビー・ファッションの流行と重なるように、若い女性の間での手編みブームがピークを迎えていた。休み時間には、友人たちがこぞって編み物をしていた。そう言えば、電車の中でも編み物をする女性の姿をよく見かけたものだが、今はそんな姿もすっかり見かけなくなってしまった。

 店頭を彩る可愛い毛糸たちに誘われて、久しぶりに手芸店の中に入った。ここ何年か隅に追いやられる一方だった毛糸のコーナーが拡張され、壁一面を様々な毛糸が飾っている。また手編みのブームがやってきたのだろうか。
 心躍らせながらあれこれ物色していると、お洒落なツイード風の毛糸が目に飛び込んできた。全体が朽葉色で、ところどころに赤やクリーム色などが散っている。「この秋色の毛糸でアラン模様を編んだらどんなに素敵だろう」そう思うが早いか、私はその秋色の毛糸玉5個抱きしめてレジに立っていた。
 何の目的もなく衝動買いしたものだから、何を編むかがなかなか決まらない。秋色の毛糸と、愛用の生駒高山製の竹棒針を入れた籠を、ひとまず床に下ろした。そして書棚からアランニットの本を取り出した。
 
 ヨーロッパの西の果て、北大西洋に浮かぶアイルランド。首都ダブリンからさらに西へ200㎞、ゴールウェイ湾の沖合に点在する3つの島がアラン諸島である。最も大きなイニシュモア島でも全長14㎞、人口は3つの島合わせても1400人足らずという小さな島の連なりである。世界中の人に愛されるアラン編みのセーターは、この最果ての小さな島の漁師の日常着として誕生した。
 島は硬い岩盤に覆われていて、人々はその岩を砕き、海藻を混ぜて土を作った。そしてその大切な土が風で飛ばされないように、石垣を張り巡らせた。
 石垣が大地につくる模様も、積み上げた石が石垣につくる模様も、この島が見せる模様は、みなアラン模様の元になっている。一つひとつのアラン模様には、過酷な自然と共に生きてきた人々の祈り、海で働く家族への想い、美しい島の風景への賛美や感謝の念が編み込まれているのだ。
 岩の割れ目のわずかな土に、清楚な白い花を咲かせる野草の写真に目を奪われた。思い出すのはこの歌。
 庭の千草も、虫の音も
 枯れて淋しくなりにけり
 ああ白菊 ああ白菊
 ひとりおくれて 咲きにけり
日本でも愛されるこの歌は、アイルランド民謡『The Last Rose of Summer』を、里見義が日本語に訳し、明治17年に教科書に『庭の千草』として紹介したものである。原詩の「薔薇」を「白菊」に置き換えたところなどは、いかにも日本らしい。
 緩やかな三拍子に乗せて歌われる、哀愁を帯びた美しい旋律に、思わず、やがて自分にも訪れるだろう人生の終焉のことを想ってしまう。原詩の最後はこう締めくくられる。
「愛する人がいなくなったら、この荒涼たる世の中で、誰が一人で生きられようか」

 秋色の毛糸で編むものがようやく決まった。ネックウォーマー。編み込む模様は「ケーブル」と「ダイヤモンド」。「ケーブル」は漁師の使う命綱や農夫の収穫物を束ねる綱の象徴、「ダイヤモンド」は富や財宝、成功の象徴である。
 「セーターがネックウォーマーか。えらく小さくなったな」と言われるかもしれないが、想いは変わらない。
 人生のパートナーには、まだまだ元気で頑張ってもらわねば…。

(新聞掲載日 2016年11月11日)

 

 


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色なき風

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 古代中国の五行思想では、四季それぞれに色があった。春は青、夏は赤、秋は白、そして冬は黒だ。若葉が青々と伸び行く春の青、太陽の燃え盛る夏の赤、自然が闇の中に眠りつく冬の黒、では秋はなぜ白なのだろう。
 ここでいう白とは、色のない透き通ったもので「素」とも呼ばれる色のことである。それゆえ秋は「素秋」「白秋」とも呼ばれ、平安時代には、秋に吹く風は「色なきもの」「色なき風」として歌に詠まれるようになった。
 「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思いけるかな」(紀友則)
色なき風は、移ろう季節のわずかな変化をも見逃さない。刹那の美学には、なくてはならない風なのだ。
 ところで、私は白と透明の関係が未だに釈然としない。白い雲の垂れ込める山に入っても、目の前に白い雲は現れない。白い雪も手のひらに取れば、それは透明の小さな氷の粒である。透明なグラスが割れた時には白い粉が飛び散り、白く遮っていた擦りガラスは、濡れると透けて中を見せる。まあ、この不思議をあえてずっと楽しもうと思っている。 

 10月に入って急に冷え込んだ夜、ふと子どもの頃によく飲んだ葛湯のことを思い出した。あの優しい味とトロミが大好きで、風邪でもないのに、よく母にせがんで作ってもらった。
 湯呑に葛とお砂糖を入れ少量の水で溶き、熱湯を注ぎながら木匙でよく混ぜる。すると、白く濁っていた汁が見る見るうちに透き通ってくる。幼い私は、きっと手品を見るような目で見つめていたのだろう。
 私の葛好きは大人になっても相変わらずで、てっきり吉野葛のことが書いてあるものと思い込んで、中も見ないで買ったのが、谷崎潤一郎の小説『吉野葛』である。
 そこには、昭和の初めの頃の吉野の風景や、そこに生きる人々の素朴さや温かさが、歴史的伝承を織り交ぜながら、実に美しく描写されていた。読み進むほどに、まるで自分が
吉野川を下流から上流にかけて旅をしているような気分になってくる。学生だった私は、訪れたことのない吉野に憧れたものだ。
 
 『吉野葛』の執筆にあたり、谷崎潤一郎が逗留した葛屋が宇陀松山にあると知り、さっそく車を走らせた。
 「秋は来ぬうしろの山の葛の葉にうらさびしくもなりにけるかな」―谷崎がその店に残した歌である。文豪がここを訪れたのも、ちょうどこの季節だったのだろう。
 「谷崎さんは葛がお好きで、それからもずっとうちの葛をお送りしていたんですよ」
 時間が止まっているような店先で、葛屋の奥さんが物静かにお話を聞かせてくださった。昨年創業400年目を迎えたというこの老舗の木製のショーケースの中に、昔、実家の戸棚の中にあった葛と同じ袋を見つけた時は、思わず大きな声を上げてしまった。
 「吉野本葛」と書かれた白い紙袋の上に透明の袋、この包装は、ひょっとしたら白から透明に色を変える葛湯の様を表しているのだろうか。奥さんの手の中で手早く包まれていく葛の袋を見つめながら、そんなことを考えていた。
 
 大宇陀から水間トンネルを通り、白毫寺に抜ける峠越えの裏道を家路へと急いだ。黄金に染まる田、枯葉が吹き溜まる山裾、野一面を黄色に埋め尽くセイタカアワダチソウ、緑から紅のグラデーションを見せる紅葉、入日に輝く鈴なりの柿、夕暮れの透き通る空気が、深まりゆく秋の色彩を一層際立たせている。
 峠を吹き抜ける色なき風に、紫の穂を揺らしているのは、すすきである。

〽秋風の中に浮いている あれは赤い日ぐれ雲だよ
 秋風の中を飛んでいる あれはさみしい渡り鳥だよ
 秋風の中で揺れている あれは紫のすすきの穂だよ
 秋風の道で泣いている あれは昨日なつかしい女(ひと)と別れて
 胸傷む 若い人だよ

 車を走らせながら、思わず『秋風の歌』(西條八十 作詞/山田耕筰 作曲)を口ずさんでみたはいいが、日の落ちた秋の夕景のうら寂しさに、わけもなく胸が傷みだした。
 早く帰って、今夜は温かい葛湯を飲もう。

(新聞掲載日 2016年10月28日)
                             

 

 


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喫茶店

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「今日こそは!」深呼吸一つして、思い切ってドアを開ける。
 以前から気になっていた富雄駅前の路地にある喫茶店の扉を、ついに開けることができた。懐かしい昭和の風景にはやる気持ちを抑えて、カウンター席の椅子を引いた。椅子の背もたれの色褪せたゴブラン織り、角が擦れて木肌を見せるカウンターテーブル、コーヒ1杯だけのつもりが、そこに座ると無性にサンドイッチが食べたくなった。
 グラス、カップ、器具類、清潔な光沢を見せるカウンター周りのものから、ゆっくりと店内に目を移した。外からはカウンターで新聞を読む男性の姿だけしか見えなかったが、細長い店内の奥の方には5人の先客がある。
 レザー張りの椅子、木製のカップボード、アーチ形の窓、壁のクロス、照明器具、手入れの行き届いた店内の設えは、全て創業当時のままであるという。先代の想いが大切に受け継がれていることが窺える。

 昭和40年代をピークに小さな喫茶店は次々と姿を消し、代わりに世界規模で展開するコーヒーチェーン店などが街角を占拠している。それを喫茶店と呼ぶ人はもう殆どいないだろう。もしかしたら、喫茶店という言葉自身がもう死語なのかもわからない。
 開放的でカジュアルな店構えは、初めてでも、また一人でも入るのに勇気もいらず、私もよく利用する。しかし、昔よく通った喫茶店が、最近妙に懐かしくてならない。
 マスターのいる小さな喫茶店は、入口は狭く外から中の様子は殆ど見えない。開放的とは真逆、街角の風景、自然の風や緑からあえて切り離した閉鎖的な場所ではあるが、それ故の安堵感、落ち着きを感じたものである。

 先月、女ふたりで古い温泉町を訪れた。せっかくだからと喫茶店を探し歩いたが、みな灯はとうに消えて、まるで昭和の残骸のような哀しい姿を見せている。
 ようやく見つけた喫茶店は、レトロと言えば聞こえはよいが、店の中は覇気がなく、虫の息で生きていることが伝わって来る。
 帰り際、創業して45年になると言った女主人に、「頑張ってくださいね」と、昔喫茶店を経営していた旅の連れが声をかけた。

 その数日後、友人を誘って京都の喫茶店に入った。温故知新が息づく寺町通りは、学生時代を京都で過ごした私を、今も優しく迎えてくれる。

 この通りに軒を連ねること84年、アガサ・クリスティの小説の中を走り抜けたオリエント急行の食堂車を彷彿させる喫茶店は、当時の渋みが歳月と共に別の味わいを出し、今新たな賑わいを見せていた。
 一体何時間話し込んでいたのだろう。服に染みついたコーヒーの香りに、帰りの電車の中で思わず苦笑した。

 この人にはさぞかしコーヒーの香りが染みついていたことだろう。一日に数十杯も飲むほどの熱烈なコーヒー愛好家だったのはJ.S.バッハである。
 当時、ドイツでは女性はコーヒーを飲むべきではないという風潮があった。それに反発する女性の声を、詩人のピカンダーが代弁して『おしゃべりはやめてお静かに』という詩を書いた。これに曲をつけたのがバッハで、通称『コーヒー・カンタータ』(1732年頃)と呼ばれている。
 「コーヒーは千回のキスよりも素晴らしく、マスカットぶどう酒よりも甘いわ。ああコーヒーはやめられない」と言う娘に、厳格な父親が「コーヒーをやめないなら外出禁止だ」とコミカルなやりとりをする。当時のコーヒーのブレイクぶりを物語る面白い一曲である。

 「10月1日はコーヒーの日」店頭のポスターに誘われて、新豆を購入した。せっかくいい豆が手に入ったので、一度試してみたかったベートーヴェンのやり方で淹れてみることにした。
 きっちり60個の豆を数え上げ、手動のミルで挽いて、ゆっくりお湯を注ぐ。驚いた。ベートーヴェンのコーヒーは薄い!飲みやすい!
 「濃くて渋いコーヒーは大人の証」初めて喫茶店でコーヒーを飲んだその日から、ずっと背伸びしてきたかかとを、ついに下ろす日がやって来た。

(新聞掲載日 2016年10月14日)

 


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家路

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「秋は夕暮れ」と言い切ったのは清少納言である。「夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」『枕草子』の中で彼女がこう綴ったのは平安の時代のこと。千年という膨大な年月を経ても、日本の秋の風情、日本人の感性が変わらないことが嬉しい。

 それにしても、秋の夕暮れはなぜこれほどまでに人を感傷的にしてしまうのだろう。夕日を背に、手をつないで高瀬川の土手を駆けて帰った幼馴染たちの顔、叱られて家に入れてもらえなかった涙で滲んだ茜色の空、夕日に染まる台所の窓ガラスと母の後ろ姿、ふいに遠い昔の故郷の情景が浮かび、不覚にも涙したりなどする。

夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
おててつないでみな帰ろ
からすといっしょに帰りましょ
(『夕焼け小焼け』(作詞・中村雨紅/作曲・草川信)

 つるべ落としの秋の日暮れは早い。私たちは「日が暮れると、子取りがやってきて連れて行かれる」と聞かされて育った。私たちにとって夕焼けは、美しいとかそういうものではなく、「早く家に帰りなさい」という合図であったような気がする。
 今でも、夕焼けの空を見ると記憶が一気に故郷への家路についてしまうのは、そのせいかもしれない。

 愛唱歌『家路』は、ドヴォルザーク最後の交響曲『新世界より』の第二楽章の旋律から生まれたものである。イングリッシュホルンの演奏に導かれる素朴で安らぎに満ちた旋律は、聴く者をたちまち故郷の情景へと誘い込んでしまう。ドヴォルザークの弟子が、この旋律に歌詞をつけて発表した歌が『Goin’ Home(帰郷)』であったのも、わかる気がする。

『遠き山に日は落ちて』も同じ旋律、他にも多くの作詞家が、同じ旋律に歌詞をつけている。
 夕暮れを歌う多くの愛唱歌の歌詞の影響もあるのか、「夕暮れの空」と「家に帰ること」とは、セットで私たちの記憶に刷り込まれているのかもしれない。

 「ああ、生きているってなんてすてき、そして家に帰るってなんてすばらしいでしょう」
(『赤毛のアン』松本侑子訳 第29章「一生忘れられない思い出」より)

 アンは11歳のとき孤児院からアヴォンリー村のガスパート家に引き取られた。赤毛でやせっぽちで無作法な少女アンは、プリンスエドワード島の美しい大自然の中で、マシューとマリラ兄妹の深い愛情のもと、心やさしく聡明な女性に育っていく。
 不幸な生い立ちの中で、家庭というものを知らなかったアンにとって、自分を愛してくれる人の待つ家に帰ることは、どれほど幸せなことであったろう。シャーロットの街から、サフラン色の夕焼けの空遠くに、黒く横たわるアヴォンリーの丘の家に帰る途中、アンが放ったこの言葉は、私の永遠の宝物である。

 秋風に誘われて、思い立って斑鳩(いかるが)の里に出かけた。法隆寺から法輪寺、中宮寺をまわって法起寺に着いた時には、もう日も暮れかかっていた。空がうっすらと薔薇色に染まっている。これは思いがけない幸運であった。
 田んぼとコスモス畑の間の畦を、東に向かって一目散に走った。黄金色の田にも、一面のコスモスにもまだ少し時期が早い。おまけに、その日の鰯雲は、張り出す雨雲に半分崩されている。カメラマンたちには今一つ魅力に欠ける夕景なのだろう。その日、私は名景「法起寺の夕景」を独り占めした。
 日が落ちると三重塔がくっきりと浮かび上がった。薔薇色の夕焼け雲が刻々と表情を変える。この日見た中宮寺の観音様のやさしい微笑みに包み込まれているようで、薔薇色の空がすっかり闇に沈み込むまで、身動きすることができなかった。
 急きたてるような虫の音に我に返り、慌てて家路に着いた。

「今夜は鍋にしようか…」などと、家で待つ人の顔を思い浮かべながら。

(新聞掲載日 2016年10月14日)

 

 

 

 

 


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田毎の月

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 暗(くらがり)峠から奈良県側の斜面を駆け下りる谷川沿いに、美しい棚田が広がっている。季節の移ろいと共に表情を変える棚田の風景が見たくて、また懲りもせず〝酷道308〟を対向車が来ないことを祈りつつやってきた。
 岩に覆われた急峻の荒れ地を、一段また一段と石を積み上げながら切り拓いた石垣の水田。小さな水田が幾重にも折り重なる棚田が、昔の人の米づくりへの執念、そして、人間と自然との闘いの歴史を見せている。
 平地の少ない日本では、棚田の風景は、稲作が始まった時代からすでに見られたという。まさに日本の原風景であるこの景観は、その昔から多くの文人や画家たちに愛され、その作品に描かれてきた。

 月の美しい季節になると、歌川広重の『田毎の月』が思い出される。長野県の姨捨(おばすて)の棚田に、名月が映り込む様が描かれている浮世絵である。
 この絵の中では、棚田のすべての田に、同時に月が映りこんでいる。そんなことは科学的にあり得ない。しかしこの絵に科学など関係ない。
 「棚田に映る名月」そう聞くだけで、私たちは棚田の田一枚一枚に名月が映っている光景が想像する。しかも名月と言えば秋、田に水など張られているわけがないのに、そんなことはすっかり忘れて、私たちは心の中の田に、鏡のような水を張り巡らせる。
 それがあり得るか否かではなく、私たち日本人はそういう感性を持っているということ、それが日本人のもつ素晴らしい自然感であるということなのだ。
 実際、時間の経過とともに月は棚田の田を順に巡り、また見る者が田の畦を歩けば、月もそれぞれの田を巡る。小さな田が連なる日本の棚田のこと、月は残像を残しながら隣の田へと移動していく。広重はそんな風景を描きたかったのかもしれない。
 古来、神事と結び付くほど重要であった稲作と、日本人が最も愛でてきた名月を融合させた広重の『田毎の月』は、見事に日本人の心象風景を描き出している。

 月面の陰影に兎が手杵で餅をついている姿を想い、かぐや姫は満月の夜に月に帰って行ったと語る、昔の人の想像力にはかなわない。しかし、今自分が見上げる月が、千年の昔の人たちが愛でた月と同じ月なのかと想うと感慨深く、また遠い地で暮らす息子たちと、同じ月明かりの下にいるのかと想うと、それだけで安らかな気持ちになる。
 そして、あの月が、戦争をしている国、飢えや病で苦しむ国、世界中の国の上を、やわらかな光を落としながら巡っているのかと想うと、思わず手を合わせて月に祈りたくなる。

 ドヴォルザークのオペラ『ルサルカ』の中で、ルサルカは王子への想いを月に寄せてこう歌った。
 「深く空に浮かぶお月さま、あなたの光は遠くまで見渡し、あなたは広い世界をさまよい、人々の住まいを見守っています。お月さま、少しだけ立ち止まって教えてください。私の愛しい人はどこにいるの?銀色に輝くお月さま、その人に伝えてください。私の想いはいつもあなたを抱きしめている、たとえ束の間でもいいから、夢の中で私を思い出して欲しいと」―美しくも切ない名歌『月に寄せる歌』である。
 人間の王子に恋をした湖の精ルサルカは、魔女に頼んで人間にしてもらう。人間の姿をしている間は口がきけないこと、恋人が裏切った時には、その男とともに水底に沈むことがその条件だった。ルサルカの美しさに惹かれた王子は、ルサルカを城に連れて帰り結婚するが、王子は口がきけないルサルカに愛想をつかし、別の王女に心を移してしまう。

 ルサルカの悲しみは、愛する人の心が離れてしまったことを苦に池に身を投げた、奈良の時代の采女(うねめ)、春姫の悲しみと重なる。
 中秋の名月の夜、猿沢の池には秋の七草で飾られた花扇が投げ込まれ、この采女の慰霊の儀が行われる。古都の名月の夜を彩る王朝絵巻「采女祭」である。

 この日、池を巡る名月は、畔に集まった大勢の観衆一人ひとりの心に、美しく映えることだろう。

(新聞掲載日 2016年9月9日)

 

 

 


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遠花火

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 間近に見る大輪の花火の迫力もいいが、喧騒を遠く離れて見る遠花火の趣がまたいい。
 宇治に住んでいたころ、二階の部屋の電灯を消して、宇治川の花火を観ることが夏休みの楽しみであった。家々の屋根越しに花火がぱっと開くと、遅れてドーンという音がやってくる。低い位置に上がる花火が見えないせいもあり、花火と花火の間がとても長い。見えない花火の音だけを聴きながら、空高く打ちあがる次の花火を、今か今かと待ち焦がれたものだ。

 吉野川を下に静かに佇まいを見せる栄山寺に到着したのは朝の9時過ぎのこと。関西空港からの帰り、何気なく立ち寄ったお寺が、夢殿を彷彿させる国宝「八角円堂」を有する古刹であったことは運が良かった。この円堂は建立の時期が明確な上、1300年近く一度も焼けることもなく、当時の姿を今に伝える極めて貴重な奈良時代の建築だという。
 さらに、その日は偶然にも吉野川祭りの日であった。ここ五條は、日本の花火文化の礎を築いた花火師、鍵屋弥兵衛を生んだ地であり、毎年このお祭りには4000発の花火が打ち上げられる。花火とレーザー光線、音楽のコラボレーションによる迫力あるショーが展開されるという。今は、これぐらいしないと花火大会も人が集まらないのだろうが、どうも釈然としない。
 栄山寺橋から見る花火は迫力があると、お寺の方が勧めてくださったが、夕刻まではさすがに時間があり過ぎて、今回は失礼することにした。

 日本で初めて花火が上がったのは、戦場での火薬の出番がなくなった江戸時代の慶長18年(1612年)のこと。上がったと言っても筒から火花が噴き出しただけで、それを鑑賞したのは徳川家康だったそうだ。
 その後、花火は新し物好きの江戸っ子に受けて、江戸で大流行した。「花火禁止令」が出たというから、その流行のほどが窺える。
 当時の花火は今のような極彩色ではなく火の色一色で、形もただ打ち上がって落ちてくるだけの、いたって単純なものだった。丸い花火が夜空に咲いたのは、明治時代になってからのことである。
 今は凄まじい間隔で次々と打ち上げられるが、当時は花火と花火の間に女性をくどいたというのだから、相当の間隔だったのだろう。もっとも殿方にはその闇の時間の方が重要だったのかもしれない。

 静かなもの、ゆったり落ち着いたもの、薄暗いもの、遠いもの、そうしたものには、けたたましいもの、慌ただしいもの、煌々と明るいもの、間近なものには感じられない、そこはかとない美しさが宿っているように思う。
 ドアを閉める時の最後の1センチの指先、ふと季節を感じる草花一輪のしつらえ、早朝の門掃き…目立たない美しさ、一見弱そうだが芯のある美しさ、こうした控えめな美しさが、日本人のたおやかさではないだろうか。

 昔の人は、季節の移ろいに刻々と彩を変えていく、自然のわずかな変化にも心を向け、一年を七十二もの候に区切った。この七十二候によると、間もなく天地始粛(てんちはじめてさむし)、ようやく暑さが鎮まるころだという。
 確かに、クーラー緩め、灯りを落として感覚を研ぎ澄ませてみれば、早暁の冷気、茜色の空に輪郭を際立たせる山々、宵の空に澄む月、夜露をのせた草の陰から聞こえる金叩きの声…微かな秋を感じることができる。
 年を取ることよりも、年中快適な部屋で過ごすうちに、繊細な感覚や豊かな感性を失っていくことの方が悲しい気がする。

 押入れの奥から封の開いた花火セットの袋が出てきた。地味な花火はやんちゃ坊主たちには人気が無かったのだろう、中に藁の柄の線香花火の束が二つ残っていた。
 昨夜はゆく夏を惜しんで、夫婦ふたりで線香花火に興じた。目まぐるしく表情を変えながら儚く消えてゆく火花に、幼い頃の息子たちの顔が浮かんだり消えたり。

 夫は私の頬を伝った涙に気づいただろうか、薄暗い闇の中で…。

(新聞掲載日 2016年8月26日)


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小豆を煮る

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 無性に小豆を煮たくなることがある。茹でこぼしてアクを抜き、小豆の頭が出ないように差し水をしながら、惜しみなく時間をかけて、ぐつぐつと小豆を煮る。いよいよとなると小豆から目を離せない。火を止める絶妙のタイミングを小豆が知らせて来るからだ。音楽を止めて、読んでいた本を閉じて、目の前の小豆と真っすぐ向き合う。

 携帯電話も通じない南の島で、さくらさんは春の間だけかき氷を売っている。ガラス鉢に煮た小豆を入れ、その上に氷をかき、蜜をかけただけのシンプルなかき氷である。売っているといっても、お金を取るわけではない。かき氷のお礼は畑の野菜であったり、時に折り紙であったり。
 ある日、かき氷の小豆を煮ながら、さくらさんは都会からやって来た心疲れた人にぽつりと言う。「大切なのは焦らないこと。焦らなければ、そのうちきっと…」と。
 映画『めがね』(監督/萩上直子2007年)の中の一場面である。鍋の中の小豆を見つめるさくらさんの眼差し、火を止める瞬間の仕草、大袈裟に見える演技は決して笑いを狙っているわけではない。一心に小豆を煮るこの場面こそがこの映画の心臓部である、と私は観る度に思う。

 小豆は『古事記』や『日本書紀』にその名が登場することから、8世紀ごろには既に栽培されていたと推測されている。
 古来、赤は太陽・火・血など生命を象徴する色で、魔除けの力があり、赤い小豆を食べることで邪気を払い、身を守ってくれると信じられていた。小豆は日本人の心に通じる特別な食材なのだ。

 映画『あん』(監督/河瀨直美2015年)の小豆を煮る場面は、これまた圧巻。この場面を作り上げるのに一体どれほどの手間と時間が注がれたのだろう。繊細な季節の移ろいを捉えるかのように、徳江が小豆を煮るその調理過程の一つひとつを美しく描き出している。
 「がんばりなさいよ」と徳江は小豆に話しかける。この世にあるものはすべて言葉を持っているのだという。徳江は小豆と対話しながら「あん」を作る。
 その「あん」の美味しさに、徳江が手伝うどら焼き屋は繁盛し出すが、ドラマは急転。徳江が過去にハンセン病を患ったことが知れ、客足がばったりと途絶えてしまう。
 ハンセン病、俗に言うライ病は、日常生活で感染することはない。しかも、とっくに特効薬が開発され不治の病ではなくなっている。いつまでも歪んだ物差しを手放せないでいる情けない人間に向かって、監督は小豆にぐつぐつと語らせた、人間の生きる意味を。

 奈良国立博物館の忍性生誕800年記念特別展を訪れた。忍性はその生涯を病人・貧者の救済に捧げた奈良生まれの名僧である。ライ病で足腰の立たなくなった奈良坂の患者たちを、毎日、奈良の市まで背負って送り迎えしたという。
 一般公開を前に、会場には僧侶たちの読経が響き渡っていた。慈悲に溢れた優しいお顔立ちの忍性菩薩像の前で心鎮かに手を合わせると、その読経の声が、小豆の煮えるあのぐつぐつという声に聞こえて来る。
 忍性は87歳で鎌倉の極楽寺で没した後、その遺言で遺骨は三分され、極楽寺、大和郡山の額安寺、そして忍性が生涯の手本とした民衆救済の大先達、行基ゆかりのお寺、生駒の竹林寺に埋葬された。

 生駒山東麓の丘陵地、車一台がやっと通れる住宅の立て込む坂道の上に竹林寺はあった。車を降り、緑深い参道を歩き、階段を上がると竹林寺が見えてきた。
 行基と忍性、二人の高僧の墓石に手を合わせ、引き返そうとしたその時、頭上で大気を引き裂くような甲高い声がした。ひぐらしだ。その声が吸い込まれて行った空を見上げると、夕闇がすぐそこまで迫ってきている。うら寂しい参道を一気に駆け下りた。

 紫陽花の鎌倉を極楽寺へと歩いたあの日からちょうど2か月、季節はもう秋に移り変わろうとしている。
 私が立ち止まろうと走ろうとお構いなしだ。今日は終わり、季節は過ぎる。変わることのない真っすぐな宇宙の物差しで…。

(新聞掲載日 2016年8月12日)

 

 


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装 幀

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 突然の雨に飛び込んだ所は、昔よく通った書店だった。久しぶりにこの書店の敷居をまたいだというのに、その目的が雨宿りとは、何ともばつが悪い。
 雨のしずくを拭いながら本棚を眺めている自分の姿が、ふいにある物語の中のひとりの少年と重なった。
 土砂降りの雨の朝、少年バスティアンは本屋に飛び込んだ。そこで少年は一冊の本と出会った。
 「表紙はあかがね色の絹で、動かすとほのかに光った。…表紙をもう一度よく眺めていると、二匹の蛇が描かれているのに気がついた。一匹は明るく、一匹は暗く描かれ、それぞれ相手の尾を咬んで、楕円につながっている。そしてその円の中に、一風変わった飾り文字で題名が記されていた〈はてしなき物語〉」(岩波書店『はてしない物語』)
 そして少年は想像の翼を広げ、この物語の中に旅に出る。

 家に帰って、映画『ネバーエンディングストーリー』の原作になったことでも知られるこの物語、ミヒャエル・エンデ作『はてしない物語』の本を本棚から取り出した。
 頑丈な函から、あかがね色の光沢のある布でできた、物語の中で少年が手にしたものと同じ装幀の分厚い本が出てきた時のあの感動、しおりを挟み挟み何日もかかって読み終えた時のあの征服感が甦った。

 昨今の電子書籍の流行に「書物の死」などと落胆するのはどうだろうか。確かに電子書籍は携帯するのにも手軽で便利である。ゴミも増えない。
 しかし、人間が長い歴史の中で作り上げてきた書物が、そんなものに簡単に乗っ取られるとは思えない。むしろ無機質な電子書籍の出現により、編集、デザインなど、製本や装幀に関わった人たちの豊かな経験、磨き抜かれた感性や技が反映された、書物の価値が上がったのではないだろうか。

 先月、ルリユール職人である門川智子さんとお話する機会がった。ルリユール(reliure)とはフランス語で、劣化した書物の綴じ直しや、仮綴じ本の装幀を施す技術のことで、ヨーロッパでは古い歴史を持つ製本工芸である。仮綴じ本を一旦ばらし、麻糸でかがり直し、革や布を表紙に張り、金箔押しやモザイク柄などの意匠を施していく。60もある製本工程を全て手作業で行うという。
 子牛、ヤギ、ヘビなどの様々な革を使ってモザイク模様を施したルリユールの作品は、もの静かな門川さんに代わって、彼女の書物への情熱を伝えている。

 大切な書物を百年先までも美しい姿で残す。ただ読むだけではなく、そこに在ることで、その本が醸し出す空気感、雰囲気まで大切にするという文化。それは古くなった本は処分すればいいというのとは対極にある文化である。
 フランスでは400年以上の歴史を持つルリユール、最盛期にはパリの街にその工房が軒を連ねていたという。
 フランスの音楽家グノーが、オペラ『ファウスト』や『ロミオとジュリエット』の創作のために手にした「ゲーテ」も「シェイクスピア」も、恐らく意匠を凝らした重厚な革の表紙に包まれていたのだろう。

 奈良町の古書店で懐かしい本を見つけた。子どもの頃、実家の本棚を占拠していた世界文学全集、その第1巻『シェイクスピア』である。相変わらず読む意欲が一気に萎えてしまう極小の活字がぎっしりと並んでいたが、ルリユールと出会った直後だからか、読む気もないのに、その装幀に惹かれて購入してしまった。

 1960年代に入って次々と出版された百科事典や全集などの大ヒットは、読むことより、むしろ立派な本を所有して飾る、当時の人々のそんな願望を満たしたことに支えられていたのではないだろうか。

今、あえてデジタル化による利便性に背を向け、芸術作品、インテリアとしての側面を強調した一冊、電子書籍リーダーの奥深くにではなく、本棚に飾り毎日眺めていたくなるような装幀にこだわった一冊を作ることが、書物の生き残りの鍵を握っているかもしれない。

 夏休みには、処分しようと思っていた本たちの飾り方を考えてみよう。

(新聞掲載日 2016年7月22日)

 


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星の林

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 今年も美山(南丹市)に天の星が舞い降りる季節がやってきた。この地に生まれ、この地をこよなく愛した友が天に召されて10年の月日が過ぎた。毎年この季節、私は友に逢いに美山を訪れる。ここにはもう友はいないが、野の花のように素朴で温かいふる里を、美しい日本の原風景を、友は私に遺してくれた。
 雪解けの水の音に里が包まれるころ、野ではやわらかな日差しに花がほころぶ。早苗が雨に青々と背丈を伸ばし始めると、美山川の清流では鮎が銀鱗を光らせ、里を彩る紫陽花は七色に輝き出す。そして天空は、水際の林や草むらに無数の星を落とす。闇にあえかなる光を放つ、蛍たちが舞う星の林である。

 友が元気だった頃からずっとこの地を訪れているが、かけがえのない友を失ったことを除いて、大切なものを失った悲しみをこの地で味わったことがない。この風景は、友と知り合った40年前と少しも変わらない。いや、変わらないのではない、変えていないのだ。この地を愛する人たちが、この自然と心豊かな日本の暮らしを、大切に守っているのだ。

 「天の海に雲の波たち月の船 星の林にこぎかくる見ゆる」-『万葉集』7巻‐1068

 1300年余り昔の飛鳥の空を見上げ、ため息が出るほどロマンティックなこの歌を詠んだのは、万葉の歌人、柿本人麻呂である。
 漢詩の中に見られた「月の船」「星の林」といった大陸から伝わったばかりの表現をいち早く取り入れ、見事に使いこなしてみせる歌聖の妙技に、思わずうなってしまう。
 満月から7日ほど経つと月は弓のような形となり、夜空を渡り終えるころには弦の方を上にして沈んでゆく。夕刻の南の空をゆっくり漕ぎ進むこの上弦の月を、古代の人は、織姫を乗せて、星の林の中を彦星の待つ西の空へと漕ぎ進む「月の船」に見立てた。

 街燈一つなかった時代、歌聖が見上げた飛鳥の星の林には、さぞかし星々が賑やかに煌めいていたことだろう。『平均律クラヴィア曲集』第1巻の3番に、この煌めく星の林を感じるのは私だけだろうか。
 この曲はヨハン・セバスチャン・バッハが1720年、当時9歳だった長男のために作曲したもので、「プレリュード」は歓喜に踊るいのちの光に、「フーガ」は無邪気に遊ぶ子どものような、躍動する光に満ち溢れている。♯が7つ、つまり全ての音に♯がつく嬰ハ長調で表現することで、バッハがこの曲に仕掛けた湧き上がるような生命力を感じずにはおられない。
 モーツァルトもベートーヴェンもショパンもシューマンもリストもブラームスも、かの大作曲家たちも、最初はみなピアノの学習者だった。彼らはバッハが作ったこの曲集でピアノを練習し、作曲法を研究した。つまり、この曲集は、後続の音楽家たちの教科書でありお手本であったわけだ。
 ハンス・フォン・ビューローが「ピアニストの旧約聖書」と、シューマンが「ピアニストの日々の糧」と賞賛したこの『平均律クラヴィア曲集』は、音楽の原風景と言ってよいのではないだろうか。

 星の林に雨粒が落ちはじめ、川の瀬音を後にした。この日のために友人が手配してくれた宿は、美山の茅葺職人の手により建てられたもので、屋根には本来の茅葺屋根より少量の茅が簡易に葺かれている。存続の難しい茅葺の伝統を残し、少しでも茅の良さを後世に伝えたいという職人の強い想いが滲み出ている。
 この地の景観に溶け込み、見事な地産地消の巡りを生み出しているこの茅の宿の夜の食卓には、地元の食材を使った、地元の料理職人による心尽くしの季節の料理が並んだ。
 鉄道も大きな道路も持たないこの不便な山村が、国境を越えて人々に愛されるそのわけを、まず日本人である私たちが知らなければならない。

 「夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」(『枕草子』)

この夜、闇にあえかなる光を灯す蛍のごとき宿に、亡き友を偲んで仲間が集った。

(新聞掲載日 2016年7月8日)

 


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短夜

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 日脚(ひあし)がずいぶん長くなった。秋の夜長に対し、夏の短夜(みじかよ)という言葉がある。
 夏至は一年で最も夜が短いというが、一体どれほど短いのか、実際に計算してみることにした。奈良県の場合、今年の夏至の夜の長さは9時間31分、冬至では14時間20分。夏至は冬至と比べると4時間49分も夜が短い。こうして数字を見ると、夜型人間は、夏はどうも損をする感がある。

 先日、興福寺「中金堂」再建工事現場の見学会に参加させていただいた。奈良公園の入り口がその境内にあたる興福寺は、奈良を訪れる多くの人が、最初に足を踏み入れる寺院である。
 春日山麓に奈良の詩を奏でる五重塔、天平の姿を残す東金堂、鎌倉の美をのぞかせるのは北円堂、南円堂。この寺院最古の建物である三重塔、仏像ブームを巻き起こした阿修羅像を所蔵する国宝館、采女(うねめ)の悲恋を伝える衣掛け柳の枝を水面に映す猿沢池。そして2018年には、寺院の中核であるお堂「中金堂」が、創建当時の姿をそのままに、いよいよこの地に蘇る。
 「中金堂」は710年に創建されて以来、6回の焼失・再建を繰り返してきた。しかし1717年の7回目の火災の後に仮堂が再建されてからは、長い間そのままになっていた。その仮堂も老朽化のため、2000年には解体撤去され、創建1300年目の年となる2010年には、復元への第一歩、立柱式が執り行われた。
 300年ぶりの落慶を目前に控えた見学会は、実に見応え聴き応えあるものであった。

 この巨大な木造建築を支えるのは直径80cmの母屋柱36本と直径60cmのひさし柱30本。直径80cmの柱を作るためには直径150cm以上の大木が必要となる。アフリカのカメルーンから運びこまれた直径が大人の背丈ほどもあるケヤキの大木が、貯木場に積み上げられた。伐採前は50m以上もあるこれらの木は、切り倒すと4km離れた場所でも地響きがしたという。

 現場で聴いたお話や資料の中には、建材の量や費用、寸法、年月のことなど、数字がぎっしり詰まっていた。その数字が、漠然としたイメージを、次々と鮮明でリアルなものに塗り替えていく。
 巨大建築の寸法をミリ単位で説明されるのには驚いた。大陸からもたらされた工(たくみ)の伝統を今に引き継ぎ、創建当時の建物を忠実に復元するための、計算し尽くされ再建工事である。
 約10万枚の瓦が寸分の狂いもなく、優美な曲線を描きながら天空に跳ね上がるように葺き上げられた屋根、目前で見る圧巻の天平の美に足がすくんだ。

 奈良県立図書美術館での北井勲さんの「自然×人=美」展では、ご本人直々の解説付きで、古民家再生の折の茅葺屋根が完成するまでの各行程の写真を見せていただいた。その屋根は「中金堂」とは逆カーブを描いている。伝統の技に支えられた丸みを帯びたふくよかな屋根は、室生深野の自然、日本の原風景と見事な調和を見せている。
 どのようにして造られたものが、この先また何百年も生き永らえることを許されるのか。その法則を垣間見た気がした。

 音楽も実は厳密な計算の上に構築されている。作曲家の感性が、拍子、音符・休符の長さ、音の高低など、膨大な数の数字の枠にはめ込まれて表現されている。
 交響曲第5番『運命』の冒頭のあの有名なモチーフは、少しずつ形を変えながら、第一楽章だけでも300回以上も登場する。ソナタ形式という様式の中で、何百個もの同じモチーフを、決められた数字の枠に寸分狂うことなくはめ込み組み立てられている。『運命』は、正にベートーヴェンが建設した大伽藍である。

 午後から降り出した雨が夕方になってようやく上がった。分厚い雲の切れ目から差し込んだ仄かな日差しに、一瞬庭が華やいだ。木々の中に見えた無数の小さな灯りは、よく見れば、ほんのり黄色みを帯びた梅の実だった。梅雨明かりの庭がようよう闇に包まれたのは、19時半を過ぎてからのことである。

今夜は早く寝よう。明日は早起きして梅の実の収穫だ。

(新聞掲載日 2016年6月24日掲載)

 


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紫 草

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 一面を黄金色に染める麦畑の所々で、早苗田が白い雲を泳がせる5月、万葉の風吹き渡る麦秋の近江・蒲生野(がもうの)の里を訪れた。
 飛鳥から近江に都を遷した翌年の5月5日、天智天皇は、王族、廷臣、女官総出でここ蒲生野の里に遊狩(みかり)にやってきた。男たちは野に鹿を追い、女たちは紫草(むらさき)などの薬草を摘んで一日を楽しんだ。その中には、天智天皇の妃である額田王、そして天智天皇の弟で額田王の元夫である大海人皇子もいた。

「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王『万葉集』巻1-20)

「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」(大海人皇子『万葉集』巻1-21)

「そんなに手を振ったら人が見ていますよ」と気が気ではない額田王に「人妻になってしまったお前だから、よけいに恋しいのだよ」と大胆な大海人皇子。万葉集の中でもひときわ艶めく相聞歌である。しかし、宴会の席で戯れに詠まれた歌であろう、というのが大方の解釈である。が、真意のほどは当のご両人にしかわからない。
 それにしても、時の最高権力者である夫を前にして、元夫との微妙な関係をこれほど瑞々しくさらりと歌い上げてしまう額田王、その大人の女っぷりには舌を巻いてしまう。

 5月にはまだ花をつけていなかった蒲生野の紫草も、今頃は愛らしい花を咲かせていることだろう。紫草は真白いその花の下に、染料や生薬の元となる豊かな紫色の根を持ち、古代より珍重されていた。
 紫色が、ただ美しいだけではない特別な存在に仕立て上げられたその裏には、この色が権力の象徴であったという歴史が存在する。
 聖徳太子が制定した「冠位十二階」の最上位は深紫(こいむらさき)であり、それは紫式部の文学の根底を流れ、清少納言は「すべて、なにもなにも、紫なるものは、めでたくこそあれ。花も、糸も、紙も」と綴った。そしてそれは徳川時代の江戸紫へと引き継がれてゆく。

 紫色を重んじたのは日本ばかりではない。古代中国やローマの時代には、皇帝以外の者は身に纏うことが許されない禁色であった。かのクレオパトラにいたっては、紫色を愛するあまり、軍船の帆まで貝紫で染め尽くし、外国船を圧倒したという。女たちにとっても、紫という色は古来より憧れの色であった。

 類まれなる才能、美貌、そして妖艶な魅力を持ち合わせた二人の女性、額田王とクレオパトラ。彼女たちに思いを馳せると、なぜかこの曲が頭に思い浮かぶ。『亡き女王のパヴァーヌ』―フランスの作曲家ラヴェルがルーブル美術館を訪れた際、ベラスケスの描くマルガリータ王女の絵からインスピレーションを得て作曲したと言われる曲である。
 思わせぶりな標題と、導入部の恍惚とした旋律は、聴く者をたちまちノスタルジックな世界へと惹き込んでしまう。ぼんやりとした曖昧な和声に、浮遊するように流れていく旋律の奥からは、ほのかな薫物(たきもの)の香が漂い、女たちの衣擦れの音が聞こえてくるようである。
 当のラヴェルはあまりお気に入りではなかったらしいが、この曲は出版するや否や大人気となり、ラヴェルはたちまち人気作曲家の仲間入りをすることになる。特に女性への人気は絶大で、その傾向は100年経った今も変わらないと言うから、この曲はどこか紫めいているのかもしれない。

 大和にも古の狩猟地がある。『日本書紀』によると、611年5月5日、推古天皇が大勢の官を率いて菟田野(うたの)で薬草狩りをされたという。男の狩りの目的は強壮剤とされた鹿茸(ろくじょう)という若い鹿の角、女たちは菖蒲や蓬(よもぎ)など、独特の香りをもつ薬草摘みを楽しんだ。
 このころから5月5日は「薬日」とされ、薬狩りは宮中の年中行事の一つになった。当時の5月5日は今の暦の6月10日ごろのこと。雨の中で、紫陽花が日ごとその紫を色濃くするころである。

この時期、雨女必携の傘もまた紫である。

(新聞掲載日 2016年6月10日)


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あんぱん

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 現存する貴重な「擬洋風建築」の一つ、宝山寺(生駒市)「獅子閣」の春の公開最終日に駆け込んだ。玄関を入ると、差し込む陽光を赤、青、緑に色を変えて映し出している白い壁が目に飛び込んでくる。まだ電灯のなかった時代、色とりどりのこの光に、人はどんな夢を見たのだろう。ステンドグラスを模倣した色ガラスをはめ込んだ扉、優雅な木製螺旋階段、精緻な彫刻で飾られた木柱、宮大工らの渾身の洋室と、伝統の技光る和室とが融合する和洋折衷の建物である。
 横浜で洋式建築の技を学んできた宝山寺の宮大工・吉村松太郎が、宝山寺出入りの宮大工や近隣の大工らと共に生駒山中腹にこの洋風客殿を完成したのは、明治17年のことである。

 開国と共に横浜にお目見えした洋館が、たちまち洋風建築ブームを巻き起こした。西洋的な機能を持つ施設が全国的に求められるようになると、その建設は地方の宮大工らの手に委ねられた。
 木造建築の伝統に育まれた大工らにとって、石に由来する洋式建築は全く未知の世界である。何しろ情報不足で、建築様式はおろか、その用途すらわからない。
 仕方がないので彼らは、洋式建築を日本の伝統的な建築技術の側面から解釈し、見よう見まねで建設に携わった。こうして、大工らの創意工夫による、和と洋の入り混じった一風変わった「擬洋風建築」が次々と地方に生まれていった。
 時間の経過と共に情報が増えてくると、洋式建築も全国的に定型化し、明治20年ごろを境に「擬洋風建築」は終焉に向かう。

 鎖国という250年間続いた闇に、突如白昼の日が差したような夜明けがやってきたわけだ。とにかく早急に欧米の文化に追い付かねばならなかった。
 そこで新政府は、国づくりを掛けて、岩倉使節団を欧米に派遣した。一行にとって毎日が驚きの連続であったろうが、とりわけ初めて体験した西洋の音楽会には度肝を抜かれたことだろう。

 数年前、ある番組で「岩倉使節団が聴いたコンサート」という面白い特集があった。一行はボストンの5万人を収容する会場で、作曲者ヨハン・シュトラウス自らが指揮する、ワルツ『酒・歌・女』を聴いたという。見たこともない楽器がずらりと並ぶ楽団、ハイカラな西洋人たちが奏でる華やかな音楽、一行の唖然とした顔が目に浮かぶようだ。
 横浜を出航した時はちょんまげ頭だった岩倉は、1年と10か月後の帰港の際には、散切り頭になっていた。新政府は「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」というあの有名なフレーズを新聞に載せたりなどして、欧米化の象徴であった散切り頭を国民に推奨した。しかし、世界の端で起こった事が、瞬く間に全世界に流れるという今のようにはいかない。散切り頭が全国民に浸透するのには約20年かかったという。
 この頃、幕末に開業した、西洋人のための西洋料理店で働いた日本の料理人たちが、次々と自分の店を持つようになった。しかし、当時、西洋料理の食材を揃えるのは困難で、代用品を使ったり、日本人向きにアレンジするなどの工夫を迫られた。こうした料理人の創意工夫の中で、今も人気の洋食が次々と誕生していった。
 パン食を受け入れるには、日本人が慣れ親しんできた「あんこ」を中に入れてみた。あんぱんの誕生である。生みの親である木村安兵衛は、奈良の吉野山から取り寄せた桜の花びらの塩漬けを入れたあんぱんを明治天皇に献上したという。なんと西洋の文化に、日本の文化、そして日本の国花までを埋め込んでしまったのだ。
 情報もモノも揃わない不便さの中で、先人たちが知恵を絞り生み出した和洋折衷の文化。それが今の我々の生活の軸となっているのには驚く。

 世はスピード時代、情報もモノもいとも簡単に手に入る。東海道線が全通したときには約20時間かかった道のりが、今では約2時間、そして1時間を切る日もそう遠くないという。これでは知恵を絞る暇もなければ、おちおち居眠りもしていられない。

生きにくい世の中になったものだ。

(新聞掲載日 2016年5月27日)

 

 


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鎮守の森

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 小道に一歩足を踏み入れると、明るい南国の風景が一転した。集落を網の目のように巡る小道の両側には、まっすぐに伸びたフクギが隙間なく並んでいる。
 その森の中では、照りつけていた陽射しは柔らかな木洩れ日に、海からの強い風は心地よいそよ風となり、ほてった肌をやさしく冷やしてくれる。
 フクギの並木の合間から、民家や人々の暮らしが垣間見える。ここは時間が止まっているのだろうか、自分がまるで未来からやって来た人間のように思えてくる。
 沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島先端付近の備瀬は、約250戸ある集落全体がフクギに覆われている。樹齢は高いもので約300年、琉球王朝時代に植えられたものだという。
 幹が真っすぐに伸び、葉が密生するフクギは、亜熱帯地方の防風林に適し、また肉厚な葉は燃えにくいため、防火の効果もあるという。
 先人たちは、風害に悩まされてきた海辺の集落を守ろうと、家々を、そして集落全体を、フクギの苗木で囲み込んだ。フクギは何十年もかかって大きくなる成長の遅い木である。苗木を植えた人たちは、フクギの恩恵を受けることはできなかったに違いない。先人たちは、自分たちのためにではなく、子孫やこの地の未来のために、祈る気持ちでフクギの苗を植えたのだろう。
 集落のあちこちに拝所(うがんじゅ)を設けたのも、フクギを伐採させないための知恵だったのではないだろうか。「ここの木を切ると罰が当たるぞ」拝所からは、先人たちの声が聞こえてくるようだ。
 何百年もの間、大切に受け継がれてきたこの森は、今も精気に満ち、強烈な台風に見舞われるこの地をしっかり守り続けている。先人たちの祈りの森であるこのフクギの森は、まさに備瀬の鎮守の森だ。

 春日大社を抱く森はまた少し趣が違う。太古の昔、神々は春日の森に降臨され樹木と一体化された。森や樹木は神そのものとして崇められ、森に入り狩猟や木を伐採すること、また落葉樹に植え替えることなども固く禁じられてきた。この森が緑濃い照葉樹の原生林、精気に満ちた太古の森として奇跡的に生き残った所以である。
 春日の森のほんの片隅に、生い茂る馬酔木(アセビ)が緑の洞窟さながらの小道をつくっている。「ささやきの小径」、正式には「下禰宜(しもねぎ)の道」と呼ばれる道である。この地に暮らした志賀直哉もこの道を愛し、よく散策したという。
 いつもは馬酔木の陰に身を潜めている藤も、この日は美しい紫の花を垂れ、その昔この地を支配した者たちの栄華を静かに伝えていた。
 辺りを流れる凛とした冷気は神々の吐息に、葉のざわめきや、枝のきしむ音は神々のささやきに、ケラケラと流れる小川の音は神々の笑い声に聞こえてくる。
 奈良市街に隣接するこの壮大な太古の森は、この地の鎮守の神々の森であることを、この道を辿るたびに思う。

 備瀬から帰ってすぐ、近所の氏神さんを訪ねた。今まであまり意識しなかったが、社殿の後方に森があり、奥にはその森に入るための階段が設けられていた。お正月には人が溢れる境内も、寂しく静まり返っていた。森に入ると、散乱する落ち葉や小枝に一層の寂寞感が募り、長くは居られない。
 元来、鎮守の森とはその地域を守る神が降りて来る森のことを言い、人々は間伐したり弱った木を伐ったりなどして、その森を大切に守り育ててきた。森から出た材や薪は社殿の材として、また神社のお祭りなどに無駄なく使われた。そして、鎮守の森には、日が暮れるまで子どもたちの元気な声が響き渡っていた。
 
村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓  
(『村祭り』文部省唱歌)

 「鎮守の森」と聞いてこの歌を思い出す人も減ってしまったことだろう。この唱歌が明治45年に発表されてから百年余り。
 この国の「鎮守の森」はどう変わっていくのだろう。

(新聞掲載日 2016年5月20日)


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お茶のある風景

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 山間の斜面に精緻な模様を幾重にも織りなす茶畑、スクリーンが映し出した懐かしい風景に目が釘付けになった。奈良市東部山間の田原を舞台とする映画『殯(もがり)の森』(河瀨直美監督)を観たときのことである。

 私が宇治小学校に転校したのは小学五年生の時である。新しい学校の教室の窓から見える美しい茶畑が、不安でいっぱいの転校生を優しく迎えてくれた。そして、茶畑の横を通る通学路も、友の家までの茶畑を辿る坂道も、大好きな道になった。
 あの頃は、町の中でもあちこちに茶畑が見られたが、久しぶりに訪れた宇治には、住宅が密集して茶畑は殆ど姿を消してしまっていた。

 近年、日常の飲料事情が著しく変化している。コンビニの冷蔵庫にぎっしり並ぶペットボトル飲料にはまったく面食らってしまう。お茶だけでも一体どれほど種類があることか。こんな状況を汲んでか「お茶の需要が伸びている」と安易に言う人がいるが、本当にそうなのだろうか。

 「ペットボトルのお茶は、お茶ではなく加工飲料です。お茶の木を飲んで初めてお茶を飲んだと言うのです」と、平等院参道のお茶屋の十六代目当主は語気を強められた。
 スーパーで大量のペットボトルのお茶を買い込んでいる人を見かけることがあるが、その家庭の子どもは、お茶はペットボトルから注ぐもので、あれがお茶の味だと思い込んで育つのだろうか。
 大人になってから見聞きしたものは恐ろしいほどに頭の中を素通りして行くが、逆に幼いころに見聞きしたもの、食べた物の味などは、驚くほど記憶に刻まれている。感覚は間違いなく子どもの頃の方が敏感で鋭い。
 お茶には「おもてなしの心」という、長い歴史の中で育まれてきた日本の文化の源がある。今、子どもたちにこそ、急須から注ぐ本物のお茶の味、お茶のある暮らしを伝えなければ、そう遠くない将来に、お茶の文化、日本の文化が消えてしまいそうで空恐ろしい。

 今でも実家を訪れると、母の「まあお茶でも」で始まり「追い出し茶」なるもので締めくくられる。恥ずかしながら、私は難しいお茶の儀礼は一度も習ったことはないが、母からお茶のある和やかな暮らしを教わった。
 そんな母が長年大切にしている急須がある。上質のお茶をぬる目のお湯で淹れて味わう、宇治茶の文化が染みついた、朝日焼の「宝瓶(ほうひん)」と呼ばれる持ち手のない急須である。水きりの良い注ぎ口は、一滴も漏らすことなく、また最後の一滴まで余すことなくお茶を注ぎ出す。いつの日か母から受け継ぎたい憧れの急須である。

 朝日焼の窯元は、平等院の対岸、宇治川の畔に続く風情ある歴史の道に、今もひっそりと佇んでいた。暖簾をくぐると、真っ先に母のものと同じ急須が目に飛び込んできた。まるで長い年月を輪廻する命のようである。無駄のない、それでいて温もりのある洗練された姿は、山間の茶畑の、あの美しい姿にどこか似ている。

 宇治を訪れる一週間ほど前のこと、吉野の帰りに田原に立ち寄った。訪れた庵で、店主の奥様に、無農薬有機栽培の大和煎茶を淹れていただいた。一煎目、二煎目、三煎目と淹れてくださるお茶を、時間を忘れて心静かに味わううちに、さぼっていた五感が徐々に蘇ってくる。茶葉本来の爽やかな香りと、甘さと渋みの絶妙なバランスが脳にまで沁み渡る。
 心を亡くすとは字のごとし。「忙しい」が口癖となった心貧しい日常を改めよと言わんばかりに、「お茶のある風景」によく出くわすこの頃である。

 間もなく八十八夜である。このころから降霜もなくなり安定した気候となることから、茶摘みや苗代のもみ撒きなど、農作業の目安の日として昔から大切にされてきた日だ。

 〽夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る 
  あれに見えるは茶摘みぢゃないか 茜だすきに菅の笠 

宇治の茶摘み歌が元になっているというこの童謡も、お茶の文化と共にいつまでも歌い継がれることを願って…

(新聞掲載日 2016年4月22日)


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公園にて

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 淋しい公園が桃色に華やいだ束の間の季節も過ぎ去ろうとしている。誰もいない桜の公園で、

〽春の宵 さくらが咲くと 花ばかりさくら横ちょう…

などと、口ずさんでみる。

『夏の思い出』『小さい秋みつけた』『雪の降る町を』、それぞれの季節に愛唱歌を遺した中田喜直が春の歌を書かなかったのは、父・中田章に敬意を表してのことと聞いたことがある。「父の『早春賦』を越える春の歌はないですから」と中田喜直は言うが、この『さくら横ちょう』(加藤周一 詩)こそ、彼が遺した素晴らしい春の歌だと私は思っている。

 奈良と言えば雅な古都をイメージされる方も多いだろうが、実は奈良は大阪の巨大なベッドタウンでもある。人口に占める県外就業率は奈良県が全国第一位、その流出先は80%が大阪であるというから、もはや「大阪の郊外」と言った方がよいかもしれない。

 ここ学園前界隈も然り。「緑豊かな閑静な住宅地」というのがウリというだけあり、どの住宅地にも、緑豊かな公園が設けられている。しかしその多くでは、元気に走り回る子どもたちの姿も、お年寄りや親子連れなどの微笑ましい光景も、殆ど見かけなくなってしまった。
 「緑豊かで閑静過ぎる公園」は、今では住宅地の死角となり、昼間でも入るのにためらってしまう。

  先月、東京の和田倉噴水公園を、その公園を設計された岡崎恭子さんと一緒に散策させていただいた。今上天皇のご成婚を記念して昭和36年に完成した公園を、皇太子殿下のご成婚を機に再整備し、平成7年に完成した公園で、丸の内の高層ビル街に心地よい水の音を轟かせている。
 暖かな春の日、上着を抱えて缶コーヒーを飲むサラリーマン、本を広げるOL、子どもを遊ばせるお母さん、観光客というより、むしろ近隣の人たちが羽を休めに来ているといった感じである。
 源流の池には、深山の滝をイメージした水のカーテン、水が噴き出すと完全な球体となるユニークなモニュメント噴水、霧が池の上につくる七色の虹、源流の水を大池に運ぶ小川の微かな漣、大池に流れ込んだ水が勢いよく空に吹き上げる水の柱、生き生きとした水の仕掛けに、ここが大都会の喧騒の中の公園であることを忘れてしまう。
 まるで自然の水辺に身を寄せているかのようなこの公園は、周囲の摩天楼で働き暮らす人たちのオアシスになっている。
 最初「公園を設計する」という言葉が正直ピンとこなかった。しかし、この公園を歩いてその言葉の意味がわかった。

 近所に、中世のヨーロッパを彷彿させる噴水のある贅沢なロケーションの公園がある。しかし、タイミングが悪いのか、私はその池に生き生きとした水を見たことがない。裸婦たちの足元の水は一体いつのものだろうか。浮いた枯れ葉や水の濁りが、うまい具合に汚れた底を隠している。もしこの池に清らかな水が溢れていたら…たくさんの人が池の周りに集う活気ある光景を思い浮かべながら、いつも通り過ぎている。

 子どもが減っている上に、子どもを巻き込む物騒な事件が後を絶たない。公園を取り巻く環境も昔とは明らかに変化している。適当に緑をあしらい、遊具やベンチを置いて、体裁を繕っただけの公園では、もはや公園の役目は果たせない。環境の変化に合わせて公園も善く設計してつくらなければならない時が来ているように思う。

 もちろん、どこもが和田倉噴水公園のようにはいかない。しかし、まずは街の小さな公園が元気になれば、地域が元気になり、ひいては日本が元気になるのではないだろうか。公園での人々の触れ合いが、幼児虐待や高齢者の孤独死を減らしてくれるかもしれない。行き慣れた公園が災害時の避難場所であれば心強いだろう。
 生気を失った住宅街の公園は、まるで地域のコミュニケーションの現状を物語っているようである。

〽ああ いつも花の女王 ほほえんだ夢のふるさと
  春の宵 さくらが咲くと 花ばかり さくら横ちょう…
  きょうも独り占めの桜の公園にて。

(新聞掲載日 2016年4月8日)


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