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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

富良野GROUP『走る』 倉本聰×中村龍史 奇跡の舞台

2017-02-15 | 徒然なるままに
「人は何のために走るのか、何に向かって走るのか」
深く考えさせられました。
震え立つ感動、込み上げる躍動…
久しぶりに、清々しい、瑞々しい舞台に出会いました。

作・共同演出:倉本聰
演出:中村龍史
富良野GROUP特別公演 『走る』

数々の名作を生み出してきた倉本聰と身体表現を要とするパフォーマンスで世界に名を馳せた中村龍史、この奇跡のコラボレーション、並みの作品になるわけがないことはわかっていました。
しかし、その舞台は想像を遥かに超えるものでした。

大掛かりな道具も何もなく、ただひたすら演者が舞台を縦横無尽に駆け抜けぬける、まさかの演出でした。
駆け抜けるといってもたかだか舞台のあのスペースじゃないか…と思うのが我々凡人の考えること、あの小さな舞台が何十キロ、何百キロの広大な大地に見えるのです。一年中走っているという莫大な時間に感じるのです。
観客皆が、演出の魔法にかかっていきます。
自分は席にじっと座っているだけなのに、息が切れてくるような不思議な感覚に陥ります。

心臓の鼓動にも聞こえる力強い足音、あまりにも美しい走るフォーム。殆ど前に進んでいないはずなのに、風を切って前へ前へと駆け抜けているかのように見せる表現術、そんなことに圧倒されている間に、次第に、ランナーたちが自分の走る姿に自分の人生を映し出している「人間ドラマ」であることがわかってきます。
気がつけば、何度も涙が頰をつたいました。

倉本聰さんは、映画・ドラマ・演劇が届ける感動が、スポーツがもたらす大きな感動になぜ及ばないのかという葛藤を、長年感じておられたといいます。
両氏が命を懸けて作り上げられた『走る』、この舞台は、まさに「スポーツ」と「演劇」の融合、それぞれの感動を一つにすることに成功されたもの、そんな作品であることは、観れば誰もが気づくことだと思います。

帰り、マラソンのゴール直後のやり切った感に紅潮しているかのような感覚の中で、倉本聰さんと握手させて頂きました。
ふっくら柔らかい手に込められた力を感じた瞬間、生きている喜びが込み上げてきました。
原点に戻って生きていこうと思います。

人間は人間らしく、
自然は自然らしく、
今日という日に感謝して…。


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ベートーヴェン式コーヒーの淹れ方

2016-10-05 | 徒然なるままに
味覚の秋、毎朝飲んでいるコーヒーまで、何か急に味わい深く感じます。

10月はコーヒーの新年度。世界有数のコーヒー生産国であるブラジルが、コーヒー豆の収穫・出荷を行うのが主に9月で、市場にコーヒー豆が出回るのが10月ぐらいからになるからだそうです。
そして10月1日は「コーヒーの日」、この日が選ばれたのは、コーヒー新年度の始まりであることもですが、秋の深まりと共にコーヒーの需要が増えてくるということにも関係しているそうです。

せっかくコーヒーの新年度が始まったのですから、今朝、昨日買ってきたばかりのコーヒーを、ベートーヴェン式で淹れてみました。
ベートーヴェンは毎朝60個の豆を数え上げ、自慢のミルで挽いてコーヒーを淹れていたというコーヒー愛好家です。
59個でも61個でもダメ、きっちり60個なのです。

60個のコーヒー豆。慎重に数えました、2回も!豆はキリマンジャロです。


ウン十年前、友人が結婚祝いにくれた仕舞い込んでいた手動のミルを出してきて、丁寧に挽きました。


あれ、これだけ?
いつもの量の半分ぐらいしかないような気がします…


小さめのカップを選びましたが、一杯分のお湯を注ぐと、薄い!
ベートーヴェンは薄めのコーヒーが好きだったのでしょうか、それともデミタスカップのようなもっと小さなカップで飲んでいたのでしょうか…



いずれにしても、コーヒーの覚醒効果がベートーヴェンの音楽作りにどれほど影響を与えていたのか、気になるところです。
モーツァルトもコーヒーを愛した作曲家、バッハにいたっては一日に何十杯も飲んだと言います。
もしコーヒーがなければ、音楽の歴史は変わっていたかもわかりません。

さて、明日の朝はお湯の量をもう少し減らしてリベンジです。

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猫と暮らしてみれば

2016-08-21 | 徒然なるままに
猫がこんなに朝が早いとは知らなかった。
毎朝6時前になると所定の場所にきちんとお座りし、
『おはようございます。お腹が空きました。早くご飯にしてください!ミャ〜〜ン』
と透き通るような美しい声で鳴く。
どうやら体の中に正確な時計をお持ちのようだ。
以前のように深夜1時、2時に寝ていたのではとても体が持たない。なかなかキリがつかない仕事はさっさと諦めてとりあえず早く寝る。そして朝やることに。

日に日に行動範囲が広がってくる。隙間裏側…なぜそこに、というところが特にお好きなようだ。
ある日、頭に綿ぼこりを乗せて悠々と私の前を通過。
『見える所だけしか掃除していないだろ』
と言わんばかりである。
滅多に掃除しなかった家具の隙間、裏側、見えない所の掃除の日々である。

いたずらも日に日にエスカレートしてくる。
往復ハガキの、よりによって返信用のハガキがやられてしまった。歯型だらけで一部角がなくなっている。
仕方がないので電話でお返事をし、慌てて、机に積み上げていた本や手つかずの書類、小物なども整理し、引き出しや本棚に徹底的に片づけ切る。「ざまあみろ」と小声で言ってみる。

猫を家の中で飼うなど不衛生、人間の健康まで脅かされる…と長年思い込んでいたが、子猫を飼わざるをえなくなって2ヶ月、我が家は見えない所まで掃除が行き届き、モノが散乱することもなく、整然と片づいている。
その心地良い空間は、猫の行動範囲に合わせて上へ上へ、隅へ隅へと広がっている。
片付いた机でする早朝の仕事がこれほどはかどるとは思わなかった。

猫と暮らしてみれば、

我が家に規律正しいリズム、健全な生活が舞い込んできた。

亡くなった義父と入れ替わりにやってきたこの猫の使命に、今頃やっと気づいた飼い主である。

今日も「見張り番」の目は厳しい。














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本家の長男の嫁の独り言

2016-01-01 | 徒然なるままに
「本家の長男の嫁」今やカビの生えたような言葉ですが、私は結婚した時に有難くもこの肩書きをいただきました。

お正月となると、主人の姉達が家族で、更には、義父母の兄妹までが我が家に集まってきたので、我が家はうちの家族を入れて20人近くの人で溢れ返りました。

お節料理も多い時には三段重ねのお重を4セット作りました。もちろんそれだけで足りるわけは無く様々な迎春料理を作ります。

長い年月の間には、このお正月が嫌で逃げ出したいと思ったことがありました。
『今に見ていろ!私が台所の主導権を握った暁には、絶対こんな習慣やめてやる!』と心の片隅で思っていました。

今、私が台所の主導権を握っています。いつやめてもいい、やっとこの時代が訪れたのに、私は、やはり今年もたくさんのお節料理、迎春料理を作りました。いつしかこの習慣が体に染みついてしまっています。

顔ぶれを変えつつも、集まる人数は今もほぼ変動なし。また今年も笑顔あふれる穏やかなお正月です。

このお正月には帰省できない長男のお嫁さんから、年末に雑煮大根の画像が送られてきました。
「おかあさん、近所のスーパーで売ってました!残り2つだったんです。買えました~」
我が家で食べたお雑煮に入っていた細い雑煮大根を、横浜のスーパーで見つけてゲットできたことを嬉しそうに報告してきました。
お嫁さんは関東生まれの関東育ち、私たち関西人とは全く違うお雑煮を食べて育った人です。
何も同じでなくていいよ、と言うのですが、一生懸命、我が家のお雑煮、お節料理を作ってくれています。お節料理は買うもの、これが常識のようになりつつある時代の流れの中で。

親から何を受け継ぐか、家や財産、お墓や名前、私はそんなものどうでもいいと思っています。
習慣を受け継いでくれる、これほど嬉しいことはありません。

大切な日本の習慣をいつまでも残したいものです。
日本がいつまでも日本らしくあるために…。




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草引き

2015-11-30 | 徒然なるままに
蚊はいなくなるし、日焼けの心配もなくなるし、草引きが出来ない口実もとうとうなくなってしまった。

久しぶりに家でゆったり過ごした今日、寒くなるまでに草引きを済ませたら楽なんだろうなぁ…とカーテン越しにぼんやり庭を眺める。

ふと、先日、友人がプレゼントしてくれた本のことを思い出した。忙しくてまだ開けていなかった。
さっそく開いて見る。

《花の詩画集》 星野富弘
『花よりも小さく』

「雑草」
もともとここは
草はらでした
そこに人間が家を建てて
「雑草が生えて困る」
なんていっちゃって
おかしいねぇ


まったくだ。
おかしな話だ。

草が生えていやだの、蚊が多くていやだの、日に焼けていやだの、また雨降りか…だの…。

もともとここは虫や草の住処で、そこに恵みの日差しや雨が降り注いでいるのだ。

そこに勝手に人間が割り込んで来て、文句ばかり言っているのだから、考えてみたらおかしな話だ。

せめて、感謝して草を引かせてもらおう!
そう思って意を決して庭に出た。

庭が恐ろしいことに…
三つ葉の若葉で埋め尽くされている。
草と思っていた緑は全て三つ葉だった。

そうだった。
我が家には雑草より強い三つ葉がいたのだ。
それでも昨年まで雑草が生えていた場所があったが、そこもついに三つ葉に制覇されてしまっている。

もともとここは草はらで
そこに私たちが家を建てて

草は追いやられて
今は一面三つ葉…。

これもやはり人間の仕業なのか。















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おじいちゃんのカタツムリ号 …桃色の夕暮れに

2015-10-12 | 徒然なるままに
前方から薄桃色の帽子を被ったおばあちゃんが乗った車椅子が近づいてくる。

あのおばあちゃんが自分で?

いや、よく見れば後ろで誰かが押している。小さく二つ折れになったおじいちゃんの姿は、車椅子に座っているおばあちゃんの陰に隠れて見えない。

おばあちゃんの薄桃色の帽子が大きく右にズレてている。
もう少し近づいたら直してあげよう…

そう思って歩いて行くと、車椅子がピタッと止まった。私も思わず足を止めた。

そろそろと前に回って来たおじいちゃんは、おばあちゃんの前に屈むと、ズレている帽子を真っすぐに直し、その手でおばあちゃんの頬を優しく撫でた。
おばあちゃんはうっすら笑みを浮かべて「ありがとう」というような表情をした。

おじいちゃんがそろそろと後ろに回ったかと思うと、再び車椅子はゆっくり動き出した。カタツムリみたいな速さで。

私は涙に気づかれないように、思いっきり明るい笑顔で、

「こんにちは!お散歩ですか?」

と声をかけた。
「こんにちは」とおじいちゃんだけが笑顔で返事をしてくださった。

すれ違ってからもあの老夫婦の絵が頭から離れない。
恐らくお二人で暮らしておられるのだろう。もし私が同居人なら、あのおじいちゃんにおばあちゃんを乗せた車椅子は絶対に任せない。
お二人の家での暮らしぶりを想像した。
おじいちゃんがお料理をし、おばあちゃんに食べさせ、おばあちゃんを着替えさせ、オムツを替え…。

この7月から介護制度が変わった。
我が家の場合、特別養護老人ホームでお世話になっている義母にかかるひと月の費用が10万円から20万円に、負担額がいきなり2倍になった。
どうせ20万円もかかるのなら、基本的な生活の支援しかしてくれない特別養護老人ホームより、様々な娯楽で一日面倒を見てくださる施設に、そう思って先月施設を移した。

しかし、今、月の負担額が20万円ぐらいならまだ安い方で、入居どきにウン百万円支払い、更に月々の負担額30万円という施設がザラにある。

我々は介護制度を過信してはいけない。
他の家族の生活がある中で月々20万円の出費というのはかなりきつい。施設を利用したくとも利用できない家庭だってたくさんあるはずだ。

一言国に文句が言いたいところだが、日本が直面している現状を思うとぼやいてばかりもいられない。

私たちは、とにかく一日でも長く健康でいる努力をしなくてはならない。できるだけ病院や施設の世話にならないように、一人ひとりが心がけなくてはならない。

老後、家族に世話になる時代ではなくなったのかもしれない。
しかし、やはり「家族」「夫婦」の絆は大切だ。病をしてから、老いてからそれに気づいたのでは遅い。

おばあちゃんの帽子のような夕焼け。
桃色の夕暮れに…。









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紫色

2015-09-04 | 徒然なるままに
我が家の庭の桔梗咲き朝顔が満開である。
ある人は「それは栄養失調の朝顔だ」と言うが、全く夢のない話だ。

その昔、桔梗のことを朝顔と呼んだ時代がある。

朝顔が桔梗のことを指すかどうかには諸説あるが、我が家の庭の桔梗咲き朝顔(きっと…)を見ていると、朝顔と桔梗が結びつく。

桔梗色 紅桔梗 紺桔梗 桔梗納戸…

一口に桔梗色と言っても「桔梗」とつく和の色、伝統色はとてもたくさんある。古の人たちがどれほどこの色を愛したか、紫色の連綿と続く人気を物語っている。

采女祭での「うた語り」上演の衣装合わせに行った際のこと。
煌びやかな天平衣装にテンションが上がり、さてどれを着ようかあれこれ手に取ってみるのだが、その度に衣装担当の方が、

「あっ、その紫は貴族の中でも最も位の高い人が身につけるものですから…」
「それだとピアニストの方より位が低くなってしまいますよ」
「あぁ…それは平安時代の型です」

なんと…。

この時代の学びは正に驚きの連続である。しかし、色に対する認識の違いは驚きと共に腑に落ちるものがある。

昔の人が僅かな色の違いに敏感だったそのわけは、厳しい階級制度にも結びついているのだ。

それにしても我々が知っている色の名前があまりにも乏し過ぎる。
一体いくつ言えるだろうか、色の名前。

たとえば秋の実り葡萄。その色を種類ごとに言い分けることができるだろうか。

我が家の冷蔵庫の中の巨峰はさしずめ「葡萄紫」といったところだろうか。いや待てよ、葡萄鼠か、いやいや貴族鼠とも源氏鼠ともとれる。ん?小紫か…。

現代人に「紫色」は全く手に負えない。










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白髪染め

2015-08-31 | 徒然なるままに
「こめかみの白髪が目立って年寄り臭いから染めた方がいいんじゃないか」
「いいのよ、年寄りだから」

心にもない捨て台詞。
気がついたらヘアカラー売り場の前。

明日はよりによってヘアサロンは定休日。火曜日が待っていられなくて自分で染めることにした。

元来白髪にはなりにくい家系で、この年齢にして白髪が殆どないことがちょっとした自慢であった。生え際やこめかみに白髪が増えてきたことは自分ではわかってはいたが、目立って年寄り臭いとは何事か!

主人に言われて一目散にお店に来たものの、さてどんな色に染めたものか。
あれこれ手に取って迷っているとお店の方が「お客様なら明るめのブラウンが…そうこの明るめのマロンとか」

「秋ですもん、マロンですよね」
などと調子に乗って勧められるままに購入。帰って来て即染めにとりかかる。

『このまま20分放置ね…』

そこでハタと我に返る。

なぜ、私はこの夏おしゃれ染めもカットもしないで我慢してきたのか。
染め液を髪全体に施してからそのことを思い出したのだ。
この秋には長い黒髪が必要だったのだ。
そのためにこの夏の猛暑を長い髪で乗り越えたのだ。

慌てて5分で洗い流すも、髪はややマロン。まあ許せる範囲。

それにしても、長い艶やかな黒髪が美人の証しであった万葉の時代、もちろん今のような染め液があるわけでもなし、特に若白髪の女性などは悩ましいことだったろう。

しかし、考えてみれば、便利な染め液がなかった時代には便利な電灯もなかったわけだ。それはうまくできている。
寝乱れの髪に少々白髪が混じっていても見えることはなかったのだ。もちろんシミもシワも。
何しろ陽が沈んでしまえば、灯りと言えばロウソクかお月様だったのだから…。
しかも、当時まだ日本にはロウソクを作る技術は伝わっていなくて全て中国からの輸入品、寺院や貴族など限られた人だけが使える超高級品だったのだ。

こんな時代の話に毎日どっぷり浸かっていると、美化され過ぎた当時の暮らしぶりに疑問やツッコミたいことが山ほど出てくる。
ゴミや排泄物は…






















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仄暗い世界で …なら燈火会にて

2015-08-14 | 徒然なるままに
たそがれの空に迫りくる夜の闇、やがてやわらかい燈火の火影に古都奈良の風景が浮かび上がる。

燈火会最終日前夜の昨日、燈火が灯り出すころから、やがて古都が闇に沈むころまで奈良の町を歩いた。
美しい闇の世界に華やぐ古都を堪能させてもらった。

どうしてこれほどまでたくさんの人が闇に揺れる燈火の灯を求めて集まって来るのだろうか…。
帰り道にふと思った。

今、世の中が明る過ぎること。

街には24時間眠らないお店があちこちに点在。
街も家の中も明かりが溢れている。
こんなに明るくないといけないのだろうか?
もちろんそのお陰で我々も暮らしやすくなっているわけだが、少々明る過ぎやしないだろうか?
太陽が沈む意味がなくなってきているような気がする。

仄暗い世界が恋しくて集まってくる人たち。
やわらかい灯りは集まる人の心をやさしく照らし出す。

そして心が目を覚ます。

明かるかった時には見えなかったものが見えてくる。
見え過ぎて心惑わされていたものが見えなくなる。

人には、少し見えにくい、分かりにくいぐらいがちょうどいい時がある。
仄暗さに心安らぐ時がある。


興福寺の境内の前で燈火に身を屈める浴衣姿の若い女性に思わずシャッターを切った。
手を合わせ祈りを捧げているのかと思いきや、スマホで燈火の写真を撮っていたことが今よく見てわかった。
まあ、これも良し!


迫り来る闇の空に、ゆっくり浮かび上がる浮見堂。池には若い恋人同士を乗せた舟が行き交う。

















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御巣鷹山慰霊登山にかえて …原発再稼動の日に

2015-08-12 | 徒然なるままに
♪心の瞳できみを見つめれば、愛すること、それがどんな意味だかわかりかけてきた…

久しぶりに合唱団員と歌った。
『心の瞳』この曲は坂本九のシングル「懐かしきlove-song」のB面曲。
発売直後、坂本九は日本航空123便墜落事故で逝去。
「ねぇユッコ、今度の曲絶対ユッコが気に入るよ!すごくいい曲なんだ。これは僕たちの歌だよ」と妻に譜面やテープを見せていたという坂本九がとても気に入っていたというこの曲、それがまさかの彼の遺作となってしまった。

今日はあの事故からちょうど30年目。
あの日、テレビから飛び込んで来る恐ろしい映像を見ながら『私はもう二度と飛行機には乗らない』と思ったものだが、海の向こうならまだしも、地続きの所さえも飛行機で移動するこの頃である。

時の流れというものは良くも悪くも一生忘れるまいと思った強烈な記憶をも洗い流していく。

わずか数年であの強烈な記憶も時に洗い流されたというのか、昨日、原発が再稼動した。

原子力発電のメリットもデメリットもそれなりにわかっているつもりだ。
ここで賛成、反対を言うつもりはないが、再稼動するなら、せめて放射性廃棄物、核ゴミの安全で確実な処理方法が決まってからにして欲しい。

詰まって流れないトイレを使ってはいけないことぐらい、子供でもわかる。


御巣鷹山慰霊登山にかえて歌った「心の瞳」
休憩時間にはどこか懐かしいスイカ飴をなめながら、事故の日の記憶を辿った。






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結婚するということ

2015-08-10 | 徒然なるままに
日本人の平均初婚年齢が上がり続けている。
2013年の調べで男性30.9歳、女性29.3歳。年齢の上がり方もさることながら、男性と女性のその差がほぼ1歳に縮まっていることも興味深い。
女性の平均初婚年齢は年に0.2~0.3歳上がっているというから、30歳を越えるのもそう遠くはない。

かつて女性の結婚適齢期と言われた25歳ごろは、今では女性も仕事が充実しキャリアがアップしてくるいよいよこれからという時期である。
女性の社会進出、自立生活が可能になったことがこの数字に顕著に表れている。

さて昨日、友人がこの数字の伸びに拍車をかけた(笑)

花嫁40歳、平均から遅れること10年!
嬉しかったこと辛かったこと、経験も10年分なら、出逢った友、仲間、人との出会いも10年分。
新郎新婦の人との繋がり、仲間のあたたかさを感じる素晴らしい結婚式だった。

40歳だって50歳だって遅いなんてことは全くない。
我々が「遅い」と感じるのは、無意識のうちに「子どもを産む」という物差しを引っ張り出してきているからではないか。

『男が家庭を持ちたいってのは思いっきり阿保になれる場所がほしいからだ』
これは、川端康成の言葉。

結婚の目的はなにも子どもを作ることだけではない。
落ち込んだり、泣いたり、愚痴を言ったり、阿保なことを言ったり、ちょっとカッコ悪い自分をさらけ出すことができる場所を共につくっていくこと、結婚するということはそういうことではないか。

そんな場所をつくってほしい。
本当に、おめでとう!



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地方創生と女

2015-08-08 | 徒然なるままに
女の力は凄い!と改めて思った日。

車もすれ違うことができないような細い坂道を上った所にそのレストランはあった。古民家を改装したレストラン。

古民家といっても奈良町の町家や京都の町家とはわけが違う。
観光地でも駅前でも幹線道路沿いにあるわけでもない。
かといって日本の原風景を残す田舎というほどでもない。
この古家を買ってレストランを出すのにはかなり勇気がいったことだろう。

立地がよくない上に看板も出ていない。前を通っても気づかないような一見普通の民家。これで大丈夫なのか?

余計な心配だった。私たちが到着した時は8台ほど止められる駐車場はすでに満杯。
やっと入った古民家の中は…
女、女、女…女で満席。

古い部分を上手く活かした和モダンな内装はいかにも女性好み。


この光景に、先日の『地方創生』談を思い出した。
文化芸術を起爆剤に『地方創生』をという話に、無縁だと思っていた『地方創生』がグッと身近になり、実際様々な取り組みをされている方に混じって大いに話が盛り上がった。

そして私は自分の中で一つの結論を出した。

『地方創生』の鍵は女が握っているということ。

そこに女が集まること、そこから女が流出してしまわないこと、これが『地方創生』のキーポイントではないか。

女が価値を感じること
女が腰を上げること
女が財布の紐を緩めること
女が…

下手なバラマキ政策や一時凌ぎの公共事業より「女の心をつかむこと」に的をしぼって対策を練る方がよほど現実的な気がする。

女は「いい」と思ったら黙っていられない。頼まれなくても喋る。
(「よくない」と思ったときはもっと黙っていられない。さらに喋る)

侮るべからず、女の力!


レストランの前の道。


テーブル横の窓

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燈火

2015-08-05 | 徒然なるままに
今日から古都奈良は優しい炎に包まれる。闇の美しい奈良ならではの燈火の風景である。

蝋燭の年間売り上げが最も高いのは8月なのだそうだ。
今でこそ安価な蝋燭が出回っているが、その昔、日本ではまだ蝋燭が作られていなかったころ、中国から入ってくる蝋燭は大変貴重なもので、朝廷や寺院など限られた人たちだけの高級照明具であった。

「燈火の影にかがよふ うつせみの妹が笑まひし面影見ゆ」(万葉集)

〈大意〉蝋燭の火影に輝く微笑んだあの女(ひと)の姿が見える

「うつせみの」を「生きている」「生の」つまり「裸体の」と解釈する人もいるが(私もそのひとり) なかなか書くとなると勇気がいる。
それにしてもこんな艶っぽい歌、一体どんな高貴な殿方がどんな時に詠われたのだろう。

蝋燭の燈火のもつ1/fゆらぎ、燃える時に出る微量の水分から森林や滝に勝るマイナスイオンが広がることなどに注目され、最近よく蝋燭の癒し効果について耳にする。
難しい理屈は分からないが、蝋燭の燈火を見つめていると何か心が落ち着いてくるのは確かだ。

今宵から約10日間、奈良公園一帯に燈火が灯る「なら燈火会」
地元でありながら、観光客の方が多過ぎてこの二三年はすっかり足が遠のいていたが、東京の友人に誘われて(奈良の人間がおかしな話だが…)今年は闇一面に燈火の揺れる奈良公園に繰り出すことにした。

昨夜、燈火会の話をしていたらふと炎が恋しくなり、昨年の夏にいただいた美しい絵蝋燭に火を灯してみた。
「燈火会」独り前夜祭。

蝋燭の灯りで過ごす時間もなかなかいいものだ。






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熱中症になる

2015-08-02 | 徒然なるままに
一昨日、人生初、まさかの熱中症になる。しかも家の中で。

キッチンで夕飯の支度中、突然の頭痛とめまい、もしかして熱中症?まさか私が…とか思っている間にだんだん立っていられなくなってくる。
クーラーを入れているが、熱気充満のキッチンのガスコンロ付近は全く効いていない。

み、水、水だ!
冷蔵庫の中のお水と目についたドリンク剤を飲んで、ふらふらとソファまで行き倒れ込んだ。

眠ったのか気を失ったのか、家族が帰って来て目が覚めた。
水分を摂らないからだと散々叱られる。

私は食事の時以外ほとんど水分を摂らない。特に冷たい飲み物はあまり得意ではない。
そのくせ人一倍汗かきで、飲むとよけい汗をかくような気がして、よほど喉が渇かない限り余分な水分は摂らない。

これで今までの夏を何てことなくやり過ごしてきたので自分は熱中症なんかにはならないと信じていた。

食事の時に飲む緑茶、コーヒー、紅茶はカフェインに利尿作用があるため逆に脱水症状を起こしやすいらしい。ビールも同じく水分補給にはなっていない。また水だけガブ飲みしてもよくないらしい。

意識的に塩水、スポーツ飲料などをこまめに摂って、この猛烈な暑さを乗り切らねばならない…と深く反省した次第。

今回はたまたま冷蔵庫の側にいたことで大事には至らなかったが、ひとつ間違えれば死んでいたかもわからない。

決して他人事ではない。
油断すれば誰でも熱中症になることをもっと認識する必要がある。家の中でもだ。

一年で最も暑いとき、しかも体温と同じぐらいの異常な暑さ。

こまめに水分補給を!
食事の支度に取りかかる前にも!





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年輪

2015-07-06 | 徒然なるままに
今朝、ふとまな板の年輪が目に留まった。
お世話にならない日などない私の愛用のまな板であるが、年輪など気にしたことがなかった。

91、92、93、94、95…えーっ、95歳!
何とまな板は我が家一番の長老。

この辺りに一体何があったんだろう。1年に1ミリも成長していない。この年は4ミリも!

まな板が立派な樹木であった時の勇姿が目に浮かんだ。ひょっとしたらこのまな板、森の王者だった時代があるのかもわからない。

どれほど多くの嵐や干ばつを乗り越えて来たのだろう。どれほど多くの生命の誕生や死を見守って来たのだろう。

まな板は隣のオーブントースターやミキサーをいつもどんな思いで見ているのだろう。
下手な料理人に毎日トントン包丁で叩かれ傷つけられ、情けない日もあるだろう。

「生まれた所を一歩も動かず風雪に堪え、逃げもせず他を攻めず、静かに己を律して命をつなぐ植物を私は尊敬する。何百年も生きた古木の厳粛な姿には生物の王者の風格がある」

97歳で尚も現役で絵を描く堀文子さんの言葉が頭をよぎった。

私たちは、大きな大きな木のたった一つの年輪を生きているのかもわからない。

今日の教材には、草場一壽さんの『いのちのまつり』を選んだ。
無限の生命(いのち)に支えられて、今、光り輝いている生命の物語。


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