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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

2015-03-31 | 徒然なるままに

私たちの目は起きている間じゅう常に涙が分泌されていて知らず知らずのうちに鼻の方へ流れている。
ところが泣いたときは一気に涙の量が増えるため、鼻の方へ流すだけでは追いつかなくなり目から涙があふれ出す、それが涙が流れる仕組みである。

余談であるが、日本人は涙を鼻の方へ送る管が細いため、泣いて涙が増量すると一気に目から溢れ出るが、西洋人はその管が太いため泣くと鼻水が増量する。西洋人の多くが泣くと鼻を押さえるのはそのためである。映画のシーンなどを注意してご覧いただくとわかる。

1日の涙の量は大人で0.5~1.0ml、1年間ためておくと缶ビール1本ぐらいの量になるという。
涙もろい私の場合は、ゆうにロング缶1本はあるだろう。

しかし、

もう簡単に泣くのはやめようと思う。

少年刑務所の待合室にこんな詩が掲げてあった。打ち合わせを終えて帰り際、急いでノートに書き写した。

「涙は神様がくれた魔法の水
だから泣きたい時に泣くのがいちばん
でも いつまでも泣いてちゃだめ
いちばん嬉しい時のために
いちばん悲しい時のために
涙はとっておかなくちゃ」

そうだ。
そう安安と泣くもんじゃない。
涙は一番大切な時のために…





昨日、今年度最後の授業を終えて
教室の窓からの風景(大阪市内)















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自分の番号

2015-03-29 | 徒然なるままに
多数が支配するこの世の中で、少数の意見、権利をどう守るか、これは民主主義の難所である。「数」で決めるのは最も民主主義的ではない気がする。

「数」だけでは解決出来ないからこそ「議論」が生まれる。投じられた一石が起こす波紋の広さ深さ、そこに様々な議論が生じるからこそ社会は磨かれ成熟していくのかもしれない。

実は私は多数決で物事を決めることがとても苦手だ。
賛成9人反対1人、こんな明確な結果が出ても1人の意見が気になって前に進めない。
昨年、網膜剥離の手術の前に「90%の確立で治ります」先生にこう言われた。治らないことがあるんだ…。
95と5、98と2、その時の私にはその数字に殆ど意味はなかった。

「数字」を並べて説明されるのが一番苦手だ。「数字」で説得されようとすると、「数字」で誤魔化されているような、「数字」でねじ伏せようとされているような、どうもすっきりしない私は厄介なアナログ人間である。

今年10月には12桁の「マイナンバー」が届くという。
それまでにはもう少し「数字」と仲良くできるようになっておかなければならないと思っている。
しかし12桁というと携帯電話番号よりあと1つ数字が増えるわけだ。そんなに長い自分の番号がまずちゃんと覚えられるかどうかだ…。

今朝、花壇や植木鉢に寄せ植えをしながら、花たちも議論し合うのかもしれないなぁ…なんてふと思った。全く違う種類の花たちがこれから同じ場所で暮らすのだ。必要な栄養分や水の量、陽射しの量も微妙に違う。彼らは逃げ出すことはできない。そこで協調し合い順応しなければ生きていけない。
大いに議論し合って仲良くやって欲しい。

「おい13番くん、もう少し右側に葉を伸ばしてくれないか!」




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でっかいモノサシ

2015-03-27 | 徒然なるままに

水中を浮遊する魚たちのあまりの美しさには全く息を飲んでしまう。かれらの身に施された色柄は、人間の想像を遥かに超えていて、一体どう表現したらよいのか言葉がまるで浮かばない。
あまりにも奇想天外なデザインに、神様の芸術的センス、ユーモアの凄さを改めて感じてしまう。

海の中の世界に憧れ「潜り」に夢中になった時期がある。しかし興味半分の水遊び程度では、想像を絶するほどの美しい世界を目にするのは難しいこともわかった。写真の魚たちは足繁く通った美ら海水族館の魚たちである。

私たちが日ごろ目にするものだけがこの世の世界ではない。空や海の中にはもちろんのこと、この地上にさえも知らないことがたくさんある。いや、知らないことの方が遥かに多い。

このでっかいモノサシでは、誰が誰より偉いとか偉くないとか、どこの会社がどこの大学がなんて、そんなちっぽけなことを計ることなど到底できやしない。体重計で米粒ひとつ一つの重さの違いを計ろうとしているようなものだ。

心の中にこのでっかいモノサシを持っている人は、決して人を非難することなどしない。

私は心の中のモノサシがちっさくなってきたら、海に山に…大自然の中に繰り出ていく。
でっかいモノサシを手に入れに。






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脳の忘れる力

2015-03-25 | 徒然なるままに
病院で目についたちびまるこちゃん。
「もの忘れ相談受付中」とあるが、一体どの程度になったら相談するべきなのか…最近、本当によくもの忘れをする。

少し前の話、買い物が終わって立体駐車場に戻ると、とめたはずの場所に私の白い車ではなく黒い車がとまっている。側まで行かなくてもそれは20メートルほど手前から見ても明らかで、私はすぐ館内に戻ってガードマンらしき男性を捕まえ「私の車がありません!盗まれたみたいです」と血相を変えて訴えた。そしてその男性を引っ張るようにして車を止めていた場所に案内した。
「……」
「どうされましたか?」
「すみません…ありました」
その日、私は主人の車に乗って買い物に来ていたのだった。
こうして書くと笑い話のようであるが、しばらく私はかなり落ち込んでいた。

友人同志で「もの忘れ」の話になると、最近は忘れ方の度合いを競うような変な風潮になってきた。「私なんかね…」と負けじと忘れた出来事を自慢したりする。
おかしな話だが、実はこれは一理あるのだ。

「必要なものは取って置き後は忘れる」これは脳の働きの中で一番大事な働きなのだ。辛く悲しいこともどんどん処理していく。これができる脳は健康である証拠なのだ。

私がある女性に出会った時、その女性は始めて会う私に涙ながらに失恋の話をした。それもそのはず、私と会う前日に5年間も付き合っていた男性に突然ふられたのだ。寝耳に水といったふられ様。
この世も終わり、自殺でもやらかしそうなその姿があまりにも痛々しくて、それとその女性のことをよく知らないこともあり、私はただただ話を聴いて頷くばかりだった。
あれから7年、彼女は別の男性と結婚し今では5才の女の子と3才の男の子お母さん、家族4人でとても幸せに暮らしている。

大失恋しても例え伴侶を亡くしても、大失敗しても、脳の「忘れる力」で、人はちゃんと立ち直れるようにできているのである。
不必要なこと、嫌なことをいつまでも引きずらずに忘れていくことができるというのは、脳が若々しく健康な証拠なのだ。

しかし、必要なことを忘れるのは…

そろそろ義父の点滴も終わり。
今日は白い車で来ていること、ちゃんと覚えている。




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土手のぺんぺん草

2015-03-25 | 
つくしが生えていないか土手を注意深く見上げながら歩いていたら、とつぜん青空に昔懐かしいシルエットが浮かび上がった。
ナズナである。いや私にはぺんぺん草という名前の方が馴染みが深い。子供の頃の遊び場だった堤防にも春になるとたくさんのぺんぺん草が風に揺れていた。

星野富弘さんの詩による「ばら きく なずな」という合唱曲に始めて出会ったのは次男が中2の時であった。

その頃の私は次男のことで精神的にかなり参っていた。その日も朝から大喧嘩して、学校に行かずに寝ている息子を家に残して私は合唱の指導に出かけたのだった。

「神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れる
ぺんぺん草の実を見ていたら
そんな日が
本当に来るような気がした」

切なく美しい旋律に乗ってこの「なずな」の部分の詩が流れたとき、我が息子があまりにも情けなくて、悲しくて、溢れ出る涙をおさえることができなかった。そして泣いていることに気づかれぬよう、下を向いて涙をぬぐいながら、震える声を抑えながら私は必死で指導を続けた。

今日は、冷たい風に吹かれて揺れている土手のぺんぺん草をじっと眺めながら、あんな時もあったなぁ…としばし足を止め思いに耽っていた。

「ぺんぺん草も生えない」という慣用句がある。それほど痩せてどうにもならない荒地であるという意味。
つまり、ぺんぺん草はどうにもならないような荒地にも育つ逆境に強い草なのである。
お目当てのつくしには今日もお目にかかれなかったが、土手のぺんぺん草に元気をもらった。



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雨後

2015-03-19 | 言の葉
昨日、川釣りが趣味の友人からアマゴをいただいた。
奈良県下北山村出身のアマゴ。20匹ほど釣れた中の選りすぐりの5匹だとか。釣り人の想いと自然に深く感謝し、塩焼きにして美味しくいただいた。

山の幸で季節を感じるように私はいつも友人からいただく川魚で季節を感じる。
3月になって一斉にアマゴ釣りが解禁、いよいよ春がやって来たのだ。
鮎をいただくと梅雨近し…ということになる^ ^

ところでアマゴの語源を「雨後」とする説がある。雨が降り出すとよく釣れる魚という意味である。
なるほど!昨夕から降り出した雨が今もまだ降り続いている。

降り出すと長いこの時期の雨に昔の人は「菜種梅雨」という名前をつけた。この「菜種梅雨」、実はこんな風にも呼ばれている。「催花雨(さいかう)」、いろいろな花を催す(咲かせる)という意味である。
この雨が上がると南の方から桜の花便りが届きそうだ。

「雨後」「菜種梅雨」「催花雨」いずれも、昔の人がどれほど自然と向き合って暮らしていたかを感じる名前である。




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見えない根たちの願い

2015-03-15 | 
「ねがい」 坂村真民
見えない
根たちの
ねがいがこもって
あのような
美しい花となるのだ



人は乗り越えた苦悩の数、大きさの分だけ輝きを与えられるのかも分からない。

人は、あたたかく見守ってくれている人、支えてくれている人、見えない人たちの想いの分だけ輝きが与えられるのかもしれない。

その人の奥深いところから放たれている輝きを私たちはその人の魅力として感じているのだ。顔かたち、肩書きなどから与えられる輝きは、ほんの飾りに過ぎない。

昨夜はそんなことをしみじみと思った夜だった。

宮沢りえの渾身の舞台に感謝。










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「門」 …少年刑務所にて

2015-03-13 | 徒然なるままに
「面会ですか?」
門でかけられたこの一言で心が震えあがったまま、昨日はとうとう丸一日を悶々と過ごした。

打ち合わせの前に少年刑務所の中を案内して下さった。
貴重品、持ち込み禁止の携帯電話などを小さな待合室のロッカーに入れた。コートを脱ごうとすると「中は寒いのでどうぞそのままで」と。

ロマネスク調の見事な建物は、明治41年(1908年)に山下啓次郎設計により建てられたもので今もそのままに使われている。まるで映画のセットの中に居るような気がしてくる。

厳重な鍵があけられ物々しい扉が開く。受刑者たちが生活する空間に足を踏み入れた途端空気が変わる。暖房がない寒さのせいだけではない。

放射線状に伸びた五本の廊下にぎっしり並ぶ独房の扉。厚さ10センチはあろうかという分厚い一枚板で作られている扉には、監視用の小さな窓と食事が支給される足元の小さな扉がある。独房には誰もいない時間帯なので中を開けて見せて下さった。

小さなキャリーバッグ1つ、むき出しのトイレ、まるで折り紙のようにきちんと畳んで積み上げられた薄い布団、小さな小さな部屋は恐ろしく整然と片付いている。
泣くところではないと懸命に抑えるのだが、切なさで胸が張り裂けそうで涙が抑えられない。
もし我が子だったら…「面会ですか?」と門でかけられた言葉が頭の中で何度もこだまする。

施設内を隅々まで丁寧に案内して下さった。私語、脇見、一切禁止。私の姿が視野に入っているだろうに、誰ひとり振り向かない。受刑者同志の会話が唯一許されている昼食後の僅かな時間に見た青年たちの笑顔が忘れられない。

これまでにも養護学校、孤児院、ホスピス、重度認知症介護施設などで何度も今回と同じような思いをしてきた。

しばらく遠のいていた場所に戻ってきた。

社会の片隅で息を殺し影を潜めている所がたくさんある。社会が門を閉ざして隠しているのか、我々が門を開けようとしないのか…そういう所こそ目をそらさずしっかり見るべきだと思う。

震災にしても同じだ。

一人ひとりがそこから何かを感じ取るべきだと思う。人から理屈っぽく教わるのではなく自分で門を開けて自分で感じ取るべきだ。

必ず自分の中で何かが動く。人生観が変わる。

来年度は約五百人の受刑者たちを前に歌い語る〈言葉小箱〉(ことのは こばこ)でスタートする。
原点にかえって心新たに歩んで行きたい。





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三人姉妹

2015-03-10 | 徒然なるままに
実は私には生まれてすぐに亡くなった姉がいる。ふと自分は長女気質ではないなぁと思うことがある。もし姉が生きていたなら私は三人姉妹の次女ということになる。そのせいかもしれない。

さて、演劇・舞台の大先輩である友人のお陰でチェーホフの「三人姉妹」最終日前夜のS席ど真ん中のチケットをゲットすることができた。

いろんな事があり過ぎた今年度の私の幕引き寸前に、やはり幕引き寸前の芝居、自分への最高のプレゼント。

チェーホフは「かもめ」「ワーニャおじさん」「三人姉妹」「桜の園」の4つの戯曲を書いている。

その昔「三人姉妹」というタイトルに惹かれて初めてこの戯曲を読んだ時は、何か裏切られたような…そんな印象しか残っていない。
この「三人姉妹」には特定の主人公もいなければドラマが大きく展開するわけでもない。大事件も誰かの大出世も大手柄も何も起こらない。

そんな戯曲がなぜ演劇史に残る名作として未だにこうして上演されるのだろうか。

劇中の一見平凡で退屈そうな人々の生き様には、現代の人間模様に通じる要素がたくさん秘められている、この年になって分かるような気がしてきた。

私たちの日常は、毎日毎日テレビドラマのようにドラマティックではない。殆どの日が特に大事件もなく平凡に過ぎて行く。しかしそれは表面的なことであり内面はそうではない。
人の心は宇宙のように計り知れず大きい。私たちはその極々一部を覗かせて生きているのだ。
見せていない部分、あるいは自分でさえも気づいていない部分はとてつもなく深く大きい。

長女のオーリガには余貴美子、次女マーシャには宮沢りえ、三女のイリーナには蒼井優が登板。そして次女マーシャの不倫の恋人役に堤真一。

いろいろ分かったようなことを偉そうに語ってみたが、正直に言うとそんなことはどうでもいい。
ナマ 堤 真一に逢えることが普通に嬉しい!




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殿方の心をつかみ過ぎた童謡「蝶々」

2015-03-06 | 音楽
「蝶々 蝶々 菜の葉にとまれ
菜の葉に飽いたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ遊べ 遊べよとまれ」

だれもが知っている「蝶々」の歌詞である。もしこの歌詞の中の「蝶々」が男で「花」が女を意味しているとしたらどうだろう。

実はこの歌、そのむかし浮気性の夫を持った妻が、あなたのお父さんはこんな人なのよ、と子どもに歌った歌であるという一説ががある。
「花」というのは「遊び女」酒席の興を取り持つ女性や売春をした女性のことを意味しているらしい。

この説が本当かどうかは定かではないが、ちょっと面白いので、昨日の卓話の最初にほんの「つかみ」のつもりで話させて貰った。
そのあと奈良にちなんで「平城山」など色々お話させていただいたのに、どうやらしょっぱなの「蝶々」の話があまりにも強烈で殿方たちの心を「つかみ」過ぎたようだ。

お開きの後『男は蝶、女は花』の話で持ちきり。反響が凄い。
「男は幾つになっても蝶でいたい、蝶になりたいと思っているんですよ、なあ◯◯さん、なあ◯◯さん」とやたら賛同を求め合う殿方たち(笑)

元々はスペイン民謡であるこの歌、歌詞にまつわるエピソードは依然謎である。

しかし、

「桜の花の 花から花へ…」

確かに現実を歌った歌詞には思えない。なぜならば桜の花に蝶々が止まっているところなど見たことがないような気がする。桜と蝶は何ともミスマッチ!

やはり「蝶々」には男と女の深~いお話が隠れているのか…。


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なぜか暗い「うれしいひなまつり」

2015-03-03 | 音楽
「あかりをつけましょ ぼんぼりに…」

この歌の題名を「ひなまつり」と勘違いしている人が結構おられるが正しくは「うれしいひなまつり」である。

しかし「うれしい」というわりにはなぜかメロディが暗い。

実はこの歌の詞を書いたサトウハチローは最初の夫人と離婚している。
実母と別れて暮らす子供達に、父親としてせめてもの心尽くしとして、優雅で絢爛とした立派な雛人形を贈った。これを眺めて喜ぶ子供達の様子を見て、サトウハチローはこの詞を書いたという。

「…お嫁にいらした姉さまによく似た官女の白い顔」

2番に出てくる「姉さま」、実はサトウハチローには18歳で亡くなった姉がいた。結婚も決まり、幸せになろうとしていた矢先、結核で帰らぬ人になってしまった。
官女の「白い顔」と病床の姉の青白い顔とが重なるというわけである。
この歌はサトウハチローの姉に対する鎮魂歌でもあったのだ。

離婚のため実母を失ってしまった子供達に贈ったお雛様、若くして亡くなった姉への鎮魂歌…このことを知ると、曲調がなんだか暗い感じなのも納得できるような気がする。

女の子とは縁のない我が家のひな祭りも、暗いとまではいかないが、何ということはない、いつもと変わらぬ日である。







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